自分が所属する集団組織の利益を優先することは、結局は組織内部での利己的保身であり、利己的利益追求なのである。
これこそが、自律的な社会的責任判断選択を放棄することになる。
「長いものには、巻かれろ。」的な集団迎合性というのは、その方が目先の利益になるし、生物としての先天的本能習性としても気分的に安心満足感が得られる。
しかし、こうした習性行動こそが原発事故を招いた根本原因であることは、国会原発事故調査委員会において畑村洋太郎が結論づけている。
原発事故にくらべれば、食肉偽装や粉飾決算、雑誌の懸賞詐欺なんぞ小さな出来事ではあろうが。大きな事象が起きる背景には、こうした小さな事象が無数に存在しているのであり(ハイリッヒの法則)。事象の大きさだけで物事を判断しているから、大きな事象にまで発展するのである。
ヒトという種の生物に組み込まれている、先天的な本能としての社会形成習性というものが、社会全体の安全性や利益を無視して自分達が所属する集団組織の利益ばかりを追求することになる原因なのである。
故に、生物学的な「社会性」によって人間性を立証するなどというのは、構造原理的に無理であり。むしろ生物学的「社会形成習性」こそが、社会を危険に陥れる原因なのである。
特定の環境下でしか発揮されない利他的行動などを、どんなに大量に陳列枚挙しても。ヒトという種の生物の先天的人間性の証明にはならない。
カール:ライムンド:ポパーの言う「白いスワン」の例えにあるように、進化生物学者達が大衆迎合にとって都合の良い「先天的本能習性によって人間性を立証する。」などという非科学的観念にとって都合の良い結果だけを抽出枚挙してくるというのは、科学者としてあまりに無責任な話であり。オカルトお花畑としか言いようがない。
むしろ、ヒトという種の生物が持つ社会形成習性というものは、自分が所属する集団組織の利益ばかりを追求することで、自律的な社会的責任判断選択という、人間性の根幹を喪失させる最大の要因となっているのであり。この事実を隠蔽黙殺するというのは、人類社会に対する反逆とも言える犯罪的行為なのである。
「ヒトという種の生物は、先天的に人間性が組み込まれている。」かのような話をしておけば、科学論理的理解の乏しい大衆やマスコミを気分的に安心満足させ、「松沢哲郎に文化功労賞」などというトンデモない大嘘がまかり通ることも可能なのである。
ヒトという種の生物が、先天的本能習性のままに行動することによって。人間性の根幹である「自律的な社会的責任判断選択」を喪失するという、先天的欠陥が存在するのであり。これを無視して「先天的本能習性によって人間性を立証する」(若しくは「立証出来るかも知れない」などという無責任な仮説)などというのは、科学論理的論理整合性を著しく欠いた支離滅裂な大嘘なのである。
子供達だけで集団生活をさせていると、先天的な本能習性のままにイジメや差別を行うようになる。これは取り立てて実証実験などしなくても、現実の事例としてウンザリするほど現象として発生しているものである。
なにせ先天的な本能習性という、無意識条件反射行動であるが故に、それは暴走して殺人にまで発展する。
特定環境下でしか殺人などの残虐行為にまで発展しないからといって、これを無視するというのは。「原発事故や航空機事故の被害者が人類全体からすれば少ないから無視しても構わない。」と述べているのと同じことである。
たとえごく僅かであったとしても、先天的本能習性によって非人間性が発揮される以上、生物学的な本能習性によって人間性を立証することなど原理的に不可能性を証明するものなのである。
ナチズムやポルポト、ISILなどの歴史上無数の大量殺人というのも。先天的本能習性という無意識性の暴走によってもたらされたものであり。死者数が違えども、構造メカニズム的には何ら違いなどない。
にも関わらず、「ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているはずだ。」などと言い張るのは、もはや脳の論理思考が崩壊しているとしか言いようがない。
生物学者達の多くは、京都大学学長だの文化功労賞受賞者だの東京大学名誉教授といった肩書権威に迎合し、自分が所属する集団組織にとって都合の悪い話を無視しているが。これこそが人間性の根幹である「自律」の喪失に他ならない。
その原因もまた、先天的本能習性に因るものである。
生物学者でさえあれば動物的な本能習性に流され、論理科学的検証を放棄しても許されるわけではない。
◇
内部告発者のその後 Yahoo!ニュース
社会全体にとっての不利益な事を告発した者が、社会的排除の対象になっていれば社会安全性も持続可能性も崩壊するのは必然的結果である。
役所の前で太鼓叩いて大騒ぎしておけば社会安全性が高まると思ったら大間違いである。
先ずは自分が所属する集団組織の異常性から正してゆくという、個人の「自律」なくしてあらゆる「人災」を減らすことなど構造原理的に不可能なのである。
それは地道で面倒臭いことではあり、目先の損失になることもあるだろう。
しかし、内部告発者が多数を占めれば、排除の対象は逆転する。
「組織の利益を優先し、自律的な社会的責任を放棄する。」という、ヒトの先天的本能習性(無意識)に無為に流されているからこそ、内部告発者が社会的排除の対象になってしまうのである。
人間としての意識の本質が何なのかと言えば、それは先天的本能習性という無意識に流されることなく、人類社会全体の安全性や持続可能性に基づいた自律的な社会的責任判断選択可能性を指すのである。
Ende;
これこそが、自律的な社会的責任判断選択を放棄することになる。
「長いものには、巻かれろ。」的な集団迎合性というのは、その方が目先の利益になるし、生物としての先天的本能習性としても気分的に安心満足感が得られる。
しかし、こうした
原発事故にくらべれば、食肉偽装や粉飾決算、雑誌の懸賞詐欺なんぞ小さな出来事ではあろうが。大きな事象が起きる背景には、こうした小さな事象が無数に存在しているのであり(ハイリッヒの法則)。事象の大きさだけで物事を判断しているから、大きな事象にまで発展するのである。
ヒトという種の生物に組み込まれている、先天的な本能としての社会形成習性というものが、社会全体の安全性や利益を無視して自分達が所属する集団組織の利益ばかりを追求することになる原因なのである。
故に、生物学的な「社会性」によって人間性を立証するなどというのは、構造原理的に無理であり。むしろ生物学的「社会形成習性」こそが、社会を危険に陥れる原因なのである。
特定の環境下でしか発揮されない利他的行動などを、どんなに大量に陳列枚挙しても。ヒトという種の生物の先天的人間性の証明にはならない。
カール:ライムンド:ポパーの言う「白いスワン」の例えにあるように、進化生物学者達が大衆迎合にとって都合の良い「先天的本能習性によって人間性を立証する。」などという非科学的観念にとって都合の良い結果だけを抽出枚挙してくるというのは、科学者としてあまりに無責任な話であり。オカルトお花畑としか言いようがない。
むしろ、ヒトという種の生物が持つ社会形成習性というものは、自分が所属する集団組織の利益ばかりを追求することで、自律的な社会的責任判断選択という、人間性の根幹を喪失させる最大の要因となっているのであり。この事実を隠蔽黙殺するというのは、人類社会に対する反逆とも言える犯罪的行為なのである。
「ヒトという種の生物は、先天的に人間性が組み込まれている。」かのような話をしておけば、科学論理的理解の乏しい大衆やマスコミを気分的に安心満足させ、「松沢哲郎に文化功労賞」などというトンデモない大嘘がまかり通ることも可能なのである。
ヒトという種の生物が、先天的本能習性のままに行動することによって。人間性の根幹である「自律的な社会的責任判断選択」を喪失するという、先天的欠陥が存在するのであり。これを無視して「先天的本能習性によって人間性を立証する」(若しくは「立証出来るかも知れない」などという無責任な仮説)などというのは、科学論理的論理整合性を著しく欠いた支離滅裂な大嘘なのである。
子供達だけで集団生活をさせていると、先天的な本能習性のままにイジメや差別を行うようになる。これは取り立てて実証実験などしなくても、現実の事例としてウンザリするほど現象として発生しているものである。
なにせ先天的な本能習性という、無意識条件反射行動であるが故に、それは暴走して殺人にまで発展する。
特定環境下でしか殺人などの残虐行為にまで発展しないからといって、これを無視するというのは。「原発事故や航空機事故の被害者が人類全体からすれば少ないから無視しても構わない。」と述べているのと同じことである。
たとえごく僅かであったとしても、先天的本能習性によって非人間性が発揮される以上、生物学的な本能習性によって人間性を立証することなど原理的に不可能性を証明するものなのである。
ナチズムやポルポト、ISILなどの歴史上無数の大量殺人というのも。先天的本能習性という無意識性の暴走によってもたらされたものであり。死者数が違えども、構造メカニズム的には何ら違いなどない。
にも関わらず、「ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているはずだ。」などと言い張るのは、もはや脳の論理思考が崩壊しているとしか言いようがない。
生物学者達の多くは、京都大学学長だの文化功労賞受賞者だの東京大学名誉教授といった肩書権威に迎合し、自分が所属する集団組織にとって都合の悪い話を無視しているが。これこそが人間性の根幹である「自律」の喪失に他ならない。
その原因もまた、先天的本能習性に因るものである。
生物学者でさえあれば動物的な本能習性に流され、論理科学的検証を放棄しても許されるわけではない。
◇
内部告発者のその後 Yahoo!ニュース
社会全体にとっての不利益な事を告発した者が、社会的排除の対象になっていれば社会安全性も持続可能性も崩壊するのは必然的結果である。
役所の前で太鼓叩いて大騒ぎしておけば社会安全性が高まると思ったら大間違いである。
先ずは自分が所属する集団組織の異常性から正してゆくという、個人の「自律」なくしてあらゆる「人災」を減らすことなど構造原理的に不可能なのである。
それは地道で面倒臭いことではあり、目先の損失になることもあるだろう。
しかし、内部告発者が多数を占めれば、排除の対象は逆転する。
「組織の利益を優先し、自律的な社会的責任を放棄する。」という、ヒトの先天的本能習性(無意識)に無為に流されているからこそ、内部告発者が社会的排除の対象になってしまうのである。
人間としての意識の本質が何なのかと言えば、それは先天的本能習性という無意識に流されることなく、人類社会全体の安全性や持続可能性に基づいた自律的な社会的責任判断選択可能性を指すのである。
Ende;