書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

対策。

2012年07月10日 17時33分47秒 | 意識論関連


○対策。

 原発にせよイジメにせよ、重大な被害が出ないと誰も対策をしない傾向がある。

 重大な事象が発生する前から多数の事象が発生しているはずであり、これを見落としたり、些細なことであるとして無視しているから事象が重症化するのである。

 ヒトには先天的に多数派同調バイアスや正常性バイアスという無意識的行動バイアスが存在し、これによって論理的危険性認識を阻害することが少なくない。

 っつか、構造的に認識可能な危険性認識を阻害するのはこれしか存在しない。

 文系者であれば本能と理性をバランス問題にすりかえることで思考を停止し安心満足することが出来るであろうが。バランス問題というのは個人的な程度問題に過ぎず、全く論理的根拠を持たない実証不能の観念に過ぎないのである。

 文系哲学者達はドストエフスキーを読んで、気分的に共感すること、感動することによって、あたかも精神的な救済を得られることが社会的に意味があると思い込むらしいが。どんなに感情気分本能を満足させても社会的意味の論証には全くならないのである。感情気分本能を満足させるだけなら単なる無意識的行動バイアスに過ぎない。

 イジメによる自殺にせよ、原発の暴走にせよ、こうした重大事象の発生の陰には必ず多数の予兆というものが存在する。重大事象の予兆というものを、それと認識せずに観念的基準によって「些細なことである。」と勝手に見積もり無視するのは無意識が促す正常性バイアスによって重大事象への進展の可能性を無視する性質があるからだ。

 些細であるかどうかというバランス問題にすりかえれば、個人的な程度問題にすりかえられてしまうのである。事象が重症化した後になって「問題だと思わなかった。」と下らない言い逃れするのは簡単である、それは無能者の取り繕いに過ぎない。

 物事の優先度というものを、ヒトの多くは気分的安心によって選択しがちである。実際に原発が暴走したり毒ガステロが実行されるまで、多くの関係者達は気分的に安心することによって危険性を無視してきたのである。

 東電社員もテロ実行犯も認知症と診断されることはないであろう。それなら認知症よりも無意識な組織的暴走の方が社会的危険優先度が高いのは明らかである。「認知症になるぞ。」という強迫観念を利用した脳トレ類による世間的人気取りばかりに血道を上げる脳科学者やマスコミというのは、明らかに社会的問題意識を不具にする悪質なペテンである。


 事象の重症化の過程において、組織を構成する個人の問題意識の欠落が組織全体の無意識的な「体質。」というものを生み出すのである。

 イジメというものも教室の「空気。」などという雰囲気に多数の生徒が無意識的に迎合してしまう本能的な社会形成習性による行動バイアスが促す「結果。」である。

 東電の無責任体質というものも、企業組織を構成する個人の問題意識の欠落が無意識に作り出して「しまう。」ものであり。組織的暴走というものは特定の誰かによって作り出すことが出来るようなものではない。

 オウム教団による一連のテロにおいても、教祖自身には具体的目的はなく、教祖自身は単に権威性を維持することや信者達からの盲目的信頼を得ることによる気分的満足を追究しているだけであって。何ら具体的目的など存在しなかったのである。

 また、幹部達も「人類の救済。」などというキャッチーな謳い文句につられ、結局は自分達の気分的満足を満たすことしか求めていなかったからこそ、誰も教団の組織的暴走を抑えることをしなかったのである。

 問題意識がなければ問題は解決しない。当たり前の話であるが多くのヒト達には問題意識が欠落していることすら認識したがらない。

 ヒトの多くは物事の優先度を気分的基準で選択しがちである。個人的好き嫌いの範疇なら構わないが、社会的危険性に関わる判断を個人的気分で行えば、本能的な社会形成習性によって集団組織に迎合し暴走に無意識に加担することに陥るのである。

 現状の世間という組織集団の空気や体質に迎合し、現状体制を盲目的に信頼しているのであれば、これは洗脳状態と同じであり、組織的暴走や無為無策な怠慢を誰も止めることは出来ない。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」と合理的根拠もなく観念的に自分には何の問題も存在しないものであると思い込む性質がある。自分の行動に問題がある可能性を認識することが気分的に嫌であるために意識の上から外し満足したいという本能的で反射的な思考停止シーケンスが脳にはある。

 本能的に論理検証思考を停止する習性傾向性があるからといって、思考停止する以外に一切の選択不可能が存在するかのように言い張ることは許されない。それは単なる社会的無責任であるからだ。


 教育機関においてイジメに対する具体的対策が一向に進まないのは、組織を構成する個人が組織の体制維持や責任逃れにばかり意識を奪われているからであり。隠蔽体質というのは個人の問題意識よりも責任逃れが優先していることの顕れである。



 イジメの場合は大人が関与することによって子供達集団によって無意識に作り出される差別意識というものの社会的害を考えさせ、認識させることが可能であり。こうした社会的害というものを個人が自発的に考えるようになることによって無意識的な組織腐敗や暴走への抑制力を育み、大人になって企業団体に所属した場合にも組織的暴走の抑制も可能になるのである。

 イジメというものは単なる自殺だけの問題ではなく、ヒトの自律的責任意識の崩壊も促す重大事象の根源にもなりうるのである。

 イジメられないようにするには周囲に迎合することで個人的には回避可能なものである。差別排除という本能的な行動習性に抗うことなく、事後正当化として「イジメられる方も悪い。」などと言い逃れすることによって自分だけは正常であると言い張ることも簡単であろう。

 実際にはイジメというものは、イジメられる対象自体は誰でも良く、教室内部で特定の個人を攻撃差別排除するという集団の協調性/本能的社会形成習性の暴走の結果に過ぎない。

 特定個人を攻撃することによって、集団の結束力を信頼出来るような錯覚に陥って満足しているだけなのである。それ故シエラレオネの少年ゲリラ達の残虐行為のエスカレートを招いたのである。暴走を抑制し、自発的に無意味な差別排除を論理的に認識させることをしなければ、ヒトの子供というものの残虐性はいくらでも暴走するものなのである。


 先日司法裁判で「イジメがあったとは認められない。」という判決が下ったが。司法というものは悪者探しをして賠償だの刑罰の妥当性を決定するだけの機関であって、イジメの科学的検証による根本的原因究明や再発防止策の確立には全く結びつくことは構造原理的にない。民事裁判というものは全てを金額に換算することだけが目的であるために、論理的検証も再発防止にも一切ならないのである。

 むしろ危険学のような工学的原因究明においては、司法裁判というものは「悪者探し。」にしかならない障害扱いなのである。そもそも刑罰が再犯低減に全くならないことは永く言われてきたものなのである。

 重大事象の根源的原因究明や再発防止策の確立のためには独立した検証研究組織が必要であり、司法裁判よりも優先されるためにも内閣直轄でなければならない。

 原因究明や再発防止というものは司法ではないので、法手続き的にも問題はないはずである。そもそも法手続き上の問題を優先して実社会の問題を蔑ろにするというのは役人特有の責任逃れに過ぎない。

 法手続き自体は「目的。」ではない。法律に従わせることによって司法や警察というものは気分的安心満足を求めているだけであり、何ら実質的な問題解決には結び付かない観念だけが司法の存在の根拠になっているのである。

 「やられたら、やりかえす。」というのは子供の論理である。司法における刑法とは子供じみた報復主義を根源とした合理性のない観念によって維持されているだけなのである。

 法治統制というものは、あくまで立法機関が制定した法律に基づいた決定しか出来ないものであり、立法機関に判断責任を丸投げした機械手続きしか行わないものなのである。

 これは一種の統制された暴走であり、故に実質的な問題解決能力が全く機能しないのである。

 軍隊の文民統制と同様、司法もまた立法機関による統制によってのみ暴走を抑制されているだけなのである。

 民主主義制度を採用している日本においては、民衆がバカなら何も問題解決には至らない。共産主義なら論外であろう。


Ende;
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