書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

組織的暴走。

2012年07月10日 17時32分56秒 | 意識論関連

2012.7.9 1:43
○組織的暴走。

 文系大衆観念的にはヒトラーやポルポトのような特定独裁者さえいなければ虐殺は起こらないと「思う。」ようだが、これは大きな間違いである。

 虐殺などの組織的協調暴走というものは、むしろ特定独裁者に対して疑問を持たなくなる圧倒的多数の服従性や、その多数の行動への迎合性によって生ずる無意識の結果であって、偶発的に特定個人が独裁者として無意識に祭り上げられただけである。

 特定独裁者だけが悪いことにしておくことによって、多数の文系大衆観念者達は自分達の免罪符にすりかえようと無意識にしているだけであって。こうした自分達の愚かさを認識せずに無視しているからこそ組織的協調暴走行動というものは原因を認識することが出来ず、結果的に対策も立てられないからこそ再発防止対策も全く出来ないのである。

 文系大衆観念的なヒトの多くは「自分達だけは常に正常で安全である。」と思い込む性質があり、故に自分達の行動の全てを全く疑わないために、意識の9割以上を占める無意識的行動習性の結果であっても「意味。」があるという事後正当化によって気分感情的に安心満足してしまうために、無意識な本能習性に原因があることを認識したがらないのである。


 こうした文系大衆観念というものは、物事の正誤を論理的検証を行わずに、既に無意識的に刷り込み学習された固定観念に基づいた気分感情的な安心満足によってのみ判断するために、ヒトの多くは実証不能の観念を振り回すことの原因を認識することが出来ないのである。

 生物学者や哲学者の多くは物事を論理検証出来ない文系観念に囚われているために、無意識的な行動の「結果。」と、意識的に選択された「目的。」の区別を観念的に拒絶するのである。

 生物学者や哲学者達は、自分達の論理検証性の欠落を世間的に認知されることによって、自分達のバカさが露顕することを拒絶し、組織的に体制維持のために極めて感情的に本論を拒絶するのである。

 彼らにとっては論理的事実認識の拡大よりも、保身のための体制維持が優先されるのである。

 組織体制の腐敗というものは、その内部に本質的合理性を追究する論理検証性が欠落しているために発生するのであり。論理整合性もないカントの純粋理性批判を論拠に、カントの権威性を用いて合理性追究の正当性を否定し続けるのはペテンに過ぎない。


 文系大衆観念上において論じられる合理性追究とは、習性本能や利己的欲望が主体の合理的判断に過ぎず。合理性自体を主体とした理性的判断のことを論じていない。

 習性本能や利己的欲望による行動選択が主体であれば、これはあくまで本能主体の断片的合理性に過ぎず、合理性自体は追究していない。

 論理的には合理性追究ではない話を合理性追究であると錯覚し、合理性追究を批判し続けるというのは、単なるバカに過ぎない。



 組織集団の暴走というものは、その組織を統率する特定独裁者の暴走を、多数が支持することによって引き起こされるものであり。支持する多数なしに組織的暴走は生ずることはない。頭のおかしいオッサンが「ユダヤ人を絶滅させるのだー。」といくら一人で喚いても、服従する多数なしに組織的実行は有り得ない。

 イジメなどの小さな暴走においても、やはり特定の独裁的役割を持った統率者が存在し。本能的に組織化された封建的社会を形成する習性の結果として、観念的な好き嫌いを基準に差別排除というものが行われる事になる。

 組織的暴走というものは、社会の破壊や排除差別を目的としているわけではなく。本能気分的な安心感を維持するための集団組織の体制維持の結果として、無意識に破壊や差別排除に陥るのである。


 独裁的役割として統率を行う者の無意識的な本能的選択としては、組織的暴力などの力を用いた合理性の伴わない観念的強制力が優先される。ヒステリックでキレやすい自制心の欠落した危険な者の命令に無為無策に服従迎合する無意識性こそがイジメなどの差別排除を作り出すのである。

 ヒトは初期的には動物であるから、行動選択は感情気分が優先されがちである。従って本能習性によって無意識に促される統率的な協調行動というものは意識的目的を必要とはせず、あくまで気分感情的な安心満足を求めた「結果。」であり、意識的に選択された「目的。」というものは存在しないため、方向性のない排除差別などの暴走を引き起こすことに陥るのである。

 組織的暴走である差別排除や破壊行動というものは、あくまで無意識な本能によって促される社会形成習性の「結果。」であり。結果の原因である本能自体の自律的抑制なくして原理的に暴走を抑制することは不可能である。

 差別排除というものが発生した場合、そこに持続可能性や安全性が存在するのかどうかを集団の個々に考えさせることが重要である。考えもなしに漫然と無意識に本能習性に流されているから差別排除に対する対策が進まないのである。

 ところが、大人自体が自発的に何も考えずに、漫然と無意識に本能習性のままに流されて長い人生を生きてきた場合。虐待の連鎖的に思考停止を子供にも強制する場合が少なくない。養老孟司が論じた「私は30年間安月給で働いてきた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃやってられない。」などという、観念的な事後正当化の取り繕いを強弁する性質がヒトにはある。合理性のない実証不能の観念であるが故に、ヒステリックに強弁しなければならないのである。

 ヒステリックに強弁する相手に対し、ヒトの多くは無意識的に観念し、批判拒否する意欲を喪失して迎合することによって気分感情的な満足をしてしまう傾向がある。これこそが集団洗脳的な「実証不能の観念。」の原因である。

 原因がはっきりしていれば対策自体は理論的にはシンプルである。気分感情に流されずに常に合理的検証に基づいた理性的判断を下せば良いだけであるが、ヒトの多くは自己の感情気分に逆らうことが困難である。

 しかし、幼少期から自分の感情を抑制することに慣れ、本質的な合理性を追究する自発的思考による「意思。」を持っていれば、自律的に社会的責任判断を行う可能性は高めることが可能である。

 これは常に絶対に可能である論証がないから、やらなくても良いというレベルの話ではない。可能性を可能な限り高めることは社会的責務であって、ニーチェ的に「出来そうにないことを、自分に要求するな。」といった短絡的精神救済によって気分的に満足し意識から外すことは傲慢な無責任に他ならない。

 ナチズムの暴走というものはニーチェのゾロアスター教によって促されたことは明白である。思考停止を促すことによる気分的満足/精神的救済というものは実証不能の観念を強化することはあっても、論理的検証を促すことは原理的にない。





Ende;
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