○「安全文化を作り上げることが大切。」:柳田邦夫
安全文化というものは、運営する側の本質的自発性がなければ築かれるものではなく、単なる金儲けという動物本能的動機の原発では原理的に築かれることはない。新幹線における安全文化というのは当人達の自発的な意欲によって保守されるからこそのものであり。金儲け以外に原発運営の動機など存在するわけがない。
「なぜ、ヒトがこうした考えをするのか。」その傾向性も追究する必要がある。本来なら社会心理学の領域であるが、現実には大衆迎合「空気を読む。」ことばかりに意識を奪われ、全く言及すらしないではないか。心理学者の香山リカなどは「他に仕事がなかった。」などと述べており、本質的な自発性も問題意識も全くない。
当人に自発的問題意識がない心理学者達が、他人の問題意識について検証することなど原理的に不可能である。本質的自発性がないのが当然だと思っている者同士が共通の観念を共有して気分的に満足するだけであるからだ。
世の中無能なデクノボウが多過ぎる。だからこそ原発の暴走を許したのである、柳田邦夫は「専門家が必ず厳格な検証をしてくれるものだ。」と勘違いしている。これもまた一種の「神話」に過ぎない。生物学、哲学、社会心理学、脳科学などにおける論理検証性の低さを抜本的に改善しないことには厳格な検証など一切されることはない。
本質的な自発性のない、問題意識のない研究者を排除するなどの構造改革が必要不可欠である。
「一面的視点からだけ見ていることは非常に危険。」:畑村洋太郎
工学の視点からだけ見ていることも危険。社会心理学や脳科学、あらゆる英知を集結して検証すべきであるが、現実には問題意識も論理検証性もないバカ研究者が多過ぎる。
「空気を読む」相手のご機嫌を取っているから、結果的に自律的な社会的責任判断を放棄するのである。実質的効果が存在しないことが科学的に立証された脳トレ類の権益に執着しているような脳科学者では、何も真実は解明されるわけがない。
イジメを放置する教育者達も、「他に仕事がなかった。」程度の動機しかないという、本質的自発性の欠落の結果である。
ムラ的体質であっても、体質自体を作り出しているのは組織を構成する個人の無意識性である。意識がない原因というのは、当人の意欲自体の希薄性の結果である。
当人に自発的な「かくあるべき。」という理想がなければ、組織に迎合して手抜きをすることにしか意識が働かないのは必然であるからだ。意欲がなければ厳密に追究するわけもなく、動物的な行動選択の結果しか導き出されることはない。
あらゆるヒトの意識の欠落は、本質的自発性の欠落の結果である。
畑村洋太郎にとって、自発的意欲がない研究者というのは考えられないであろうが。現実には世間からの評価報酬に迎合しているだけのウケ狙いしかしない者というのは非常に多い。
意欲のない研究者を組織から排除する抜本的改革なくして、真実は闇に葬られるだけである。
「日本人は規則は守るがマナーはない。」と言われる。
規則というのは他律強制的強迫観念への迎合であるが、マナーとは当人の自発的行動選択である。
つまり、日本人には自発的自律がないのである。養老孟司がやたらと社会制度だの法律に依存したがるのも、それを多数で共有して安心満足して思考停止している大衆にも、誰にも自律というものがないのである。
そりゃ原発が暴走すんのも、イジメで子供が自殺すんのも必然じゃないのかね。
自律のない大衆に対して、自律を促せば嫌われるのも必然であろう。むしろ自律的な判断を放棄させ、大衆観念に寄り添ったウケ狙いをしておいた方が人気も得られるだろうし、世間的にも成功出来るであろう。
だから自律的に人間性を持つことは日本においては報われないため、他律的強制性を多数で共有して満足したがるのである。
脳科学者も生物学者も哲学者も、世間大衆への迎合ウケ狙いにばかり執着していて、何ら「本質的人間性とは何か。」についての考えすら表明しないのである。議論が全く進まないのも当然である。
ヒトという種の生物が、なぜ自律的に社会的責任判断を行わなくなるのか、それは多数大衆に迎合して、本能的安心や快楽ばかりが優先され、論理検証性が失われるからである。
ヒトは脅迫されると気分的に嫌なので、当たり障りのないよう、ことなかれ主義に徹しようとする本能的行動習性傾向がある。その結果、ヒステリックに感情を表す相手に対して迎合し、結果的に統率的協調性を無意識に発揮してしまうことに陥る。
一旦統率的協調性を発揮し始めた集団や組織には、多数という気分的安心、集団心理を発揮し、誰も自律的に反論批判することをしなくなってしまうのである。
ナチズムにせよ、オウム教団にせよ、東電、オリンパス、大王製紙、挙げたらキリがないが集団組織内部の個人が自律的に社会的責任判断をしなくなるのは、こうした生物本能的な社会形成習性が促す無意識行動の「結果。」なのである。
一見集団組織とは無関係に見える通り魔などの単独犯罪においても、「バスジャックをやらかしたら、凄い。」などという、集団内部の偏見に対して自律的批判精神が全く存在しないために、本能習性に基づいた大衆観念的な「勝ち負け」基準を鵜呑みにし、「大量に殺せば英雄。」だと勝手に思い込んだ「結果。」に過ぎず。
結局は集団組織への迎合の「結果」なのである。
「結果」とは無意識に本能習性に流された「結果。」であって、本能習性の「結果。」に対して後から事後正当化のこじつけを行う生物学者のほとんど全員は、自律的な論理検証性が欠落しているのである。
こうした生物学における非科学的観念の蔓延を許しておいて、ヒトという種の生物についての科学的検証など一切されるわけもなく、断片的立証から「人間らしさ。」などというあやふやな基準に基づいた科学的には全く意味を成さない論証しか行われない。
大衆観念というものは、動物本能的行動習性の「結果」しか促さず、利己的本能の正当化を平気で行うため。結果的に社会安全性や持続可能性といった、統合的合理判断が一切されなくなってしまうのである。
断片的論証を並べているだけなら論理整合性は無用であり、その場限りに取り繕っておけば「勝った。」ような錯覚に陥り、多数で同じ観念を共有しておけば「安心満足」でもある。考えの浅い者の多数決を枚挙しても、決して深い考えには到達することは出来ない。
脳科学を含む生物学界は、既に集団的な洗脳状態に陥っており、自律的には科学的論理検証性が働かなくなっているのである。「ヒトにどのような本能があるのか。」を枚挙しても、それは「結果」以外何も論証したことにはならず、何ら意識的目的や自発的論理検証性の価値には言及されることがない。
生物学や脳科学はアイヒマン実験や監獄実験といった、「人間らしさ。」のない実証を無視し、なかったことにし、大衆ウケ狙いに都合の良い話ばかりを取り上げようとする。これは原発関係者達における危機意識の低さを作り出した「正常性バイアス」などによる観念的楽観視傾向によるものであり、極めて悪質なのである。
生物学者達が自分達の危機意識を認識していない限り、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の危険性も放置されるのである。
「ヒトという種の生物が持つ危険性。」に言及することは、大衆からの人気、ウケ狙いにはならない。それは原発が暴走する以前の東電の体質と全く同質のものであり、「気分的に嫌な話を無視する、意識から外す。」といった子供じみた思考の結果である。
「嫌な話を無視する、意識から外す。」ことで人間関係を円滑にすることが出来ると論じたのは養老孟司である。こんなキチガイを東大では名誉教授扱いしているのであり、東大自体にも責任がある。
こうした責任を誰も負いたくないために、本論は隠蔽無視され続けているのである。
Ende;