○現場の判断。
東電幹部の誰に状況を聞いても「わかりません。」の一点張りの状況下において、「それじゃ、専門家にお任せします。」などと言うのが首相の責任を果たしていると言えるのか。
結果的には政府が介在によって混乱を招いたのは事実であるが、それは「結果」である。
予め制度法律といったシステムがなかったことにより、政府の介在による現場の混乱という「結果」を招いたからといって、菅元首相の現場の判断自体が間違いであったことの論証にはならない。
そもそも首相が恐くて自律的に正しい判断が出来なくなるような、東電の権威依存性、服従迎合性こそが根本的問題であって。そもそも誰にも自律的に正しい判断が出来ないバカさこそが最も根源的な問題なのである。
「制度法律システムがなかったから、自律的に正しい判断が出来なかった。」などという、ふざけた話を鵜呑みにするわけにはいかない。
それじゃただのバカじゃねぇか。
自律的責任判断を誰もしないからこそ「人災」だったのである。自律的責任判断を最も重要視しないというのであれば、もはやあらゆる犯罪は社会環境という制度法律の問題にすりかえられてしまう。
制度法律システムというのは、対処療法的パッチであって、根源的問題解決にはつながらない。制度法律システムに依存せず、個人が誰も自律的に社会的責任判断を下さないことこそが最も根源的問題なのである。
制度法律の整備ももちろん大切ではあるが、制度法律というものはあくまで二次的補佐的な対策であって、根本的には個人が自律的に社会的責任判断を下すことが大前提であることに異論などなかろう。あるとすれば自律的には責任を一切取りたくない無責任な者の言い逃れだけであろう。
予め予防対策的想定を活かすには、封建的トップダウンによる統率統制ではなく、「現場の気付き。」や「外部からの指摘。」も活かせるよう組織を透明化しておくことも大切であり。封建的閉鎖性こそが隠蔽体質を助長する要因の一つである。
「専門家にお任せ。」しておいた結果が電源喪失水素爆発という結果を導いたにも関わらず、それでも無為無策に「専門家にお任せしておけ。」というのは現場においては判断放棄でしかなかろう。
万が一の際にも「専門家にお任せ。」出来るような体制を整えておくことは必要であり、そうした体制が全く準備されておらず、破綻状況に陥るまで放置した無責任性こそが根本的問題なのである。
本店幹部が誰も状況把握を出来ておらず、「わかりません。」の一点張り状況における管元首相の現場の判断を、後から糾弾して満足するのは間違いである。「わかりません。」の一点張り状況を作り出した東電体制こそが間違っていた「結果」として、結果的に不適切な対応に「陥った」のであって。現場の判断を一切放棄しろというのであれば警官に拳銃を所持させる根拠はなくなる。
車で轍き殺そうとしてくる相手に対して、無抵抗に殺され取り逃がすことが正しいわけがなかろう。
管元首相が事故当時どういう状況だったのかは詳しく知らないけど、他に最適な行動選択が存在していて、具体的に「こうするべきだった。」って言えない限りは、感情的バッシングを共有して満足する方が無責任。
記録が全く残っていないというのも問題だけれど、ハイテク日本において小型ビデオもオーディオ記録装置も予め準備しておけば良かった。何にも記録証拠が残っていなければ今後の対策に活かすこともできない。
政府事故調査委員会も保安院による「再臨界の可能性を明確に否定しなかった。」ことも要因だとしている。集団で個人をバッシングして満足するのはイジメを行うバカガキの心理と同じであり、こうした無意識的満足の追究ばかりに意識を奪われているから、あらゆる人災が減らないのである。
自分達がイジメを平気でやらかしておいて、「何でイジメがなくならないんだろう。」などと言うのは、バカとしか言いようがない。
ヒトの多くは自分の過ちは少なく見積もる傾向があり、逆に他人の過ちを異常に過大視したがるのである。それは自己自身への論理検証性がないからだ。
多くのヒトは個人の悪口を多数で共有しておけば満足であろうが、その満足こそが論理検証性の欠落を招いていることにまで意識が回らない。
解雇された東電幹部達は、この就職難の時代にも関わらず全員再就職したそうじゃないですか。再就職を受け入れた企業との癒着や利害関係があるとしか考えられない、こっちの方を追究すべきでしょうが。マスコミは何やってんですか、スポンサーの顔色うかがっているなら、結局「組織の利益を優先し、社会の安全性を無視。」した東電幹部達と一緒でしょうが。
金と権利ばかりを優先し、動物的な馴れ合いでしか物事を運べない日本企業全体の腐敗した体質を変えるためにも、企業を構成している個人の主体的自律的選択というものが重要なのである。それは制度法律システムでは逃げ道を作り出すだけでどうにもならない。
誰にも人間性のない、自律的に社会的責任判断を行わない組織において、どんなに制度法律を整備しても無駄である。天下りを誰も止めることが出来ないのも、これが理由。
危険学者は個々の現象に対するその場限りの対策に終始するのではなく、ヒトという種の生物が引き起こす人災共通の原因にまで踏み込む必要性がある。「想定外」も「検証範囲」も許すべきではない、そんな言い訳こそが責任放棄の言い逃れを作り出すからである。
理論的厳密検証を放置して、気分的な満足で思考停止しているから、人災が全然減らない。人災ってのはバカが引き起こすもののことを指すんですよ、わかってんですかね。
自分達のバカさを無視しておいて、他人にだけ賢さを求めるのは奴隷根性っつうんじゃないっすかね。
Ende;