自意識というと一般的には「他人からの見た目」のことを指すんだけど
まず これが大きな間違いなのよね
他人からの見た目が意識の本質だって言うんなら 他人からの見た目を気にすることで自律的な社会的責任を負うことになるのかって話なのよ
東電社内において 社内の上司や同僚からの見た目を気にして空気を読んでいたからこそ 津波に対する脆弱性に対して誰も何も言わなくなったんじゃないの?
その「空気」を作っているのは社内の大多数を占める社員達の意識(無意識性)でしょうが
他人からの見た目を気にしているからこそ 自律的な社会的責任判断力も喪失することになる
それが人間としての本質的な意識なわけないじゃん
「他人からの見た目」っていうのは 同調圧力に迎合したいという行動バイアスでしかなくて 「他人からの見た目」を短絡的に「意識の本質だ」と思い込んでいる奴っていうのは 気分感情こそが意識の本質だと勘違いしているポンコツの発想でしかない
どんなに多数他人や 多数他人によって認証された権威や権力者の意見であろうとも それに迎合したり同調したりするからこそ「個人の自律」が失われる最大の原因となる
人間としての本質的意識というのは 自律的な論理判断力であって 決して先天的な迎合同調バイアスなどではない
もう こんな極めて基本的な理屈をいちいち説明しなきゃならないこと自体がバカバカしいんだけどね
社会安全性っていうのは 論理根拠に基づかなきゃ困るものであって 論理的根拠もなしに勝手に誰かの決めつけで処理されたら安全性なんて何の保証もなくなるのよ
冤罪事件だってそうでしょ 科学捜査による証拠を隠蔽して勝手に犯人を仕立て上げられたら真犯人は逃げられるは 何の関係もない人が被害を被るは ちっとも安全性につながらないじゃんか
飛行機が飛ぶのだって原発の運転だって論理的安全性の保証がなきゃ危なくてしょうがないでしょうが
それとも何ですか 他人の顔色うかがっておけば自動的に飛行機や原発の安全性が保証されるんですか?
だったら何で「他人からの見た目」が自分の意識の本質になっちゃうんですか?
まさか「だって、皆(多数)がそう言うからだ。」なんて言い出すなら あんた何も(論理的に)考えてなんかいないじゃないか
何で自律的に「考え」ないのかって言えば それこそ多数派同調性が原因でしょうが
航空機や原発の運転においては自律的な社会的責任を求めるのに どうして自分のことになった途端に自律よりも「他人からの見た目」が意識の主体になっちゃうのよ
詐欺に騙されるのも 合理的根拠をすっ飛ばして気分感情が促すバイアスを優先しちゃうからこそ 論理検証も一切せずに相手の言いなりに金を渡しちゃうことになる
何も考えてない状態を何て言うんでしょうね
「バカ」ってそういうことなんじゃないの?
「君ならどうする」的なしょうもない漫画を読んで 気分的に「悩ましい」気持ちになったことを「自分で何かを考えた」かのような錯覚に陥って 「自分は頭が良くなった」とか思っていることの方がむしろバカなんだけど
こういった「悩ましい話」を聞かされて「自分は頭が良くなった」かのような錯覚を促す話ってのは 現在哲学として分類されている著作の大半を占めている
亀山郁夫が脂汗たらしながら必死になってドスト:エフスキーの感想を述べたところで 具体的に何かの役に立つ話なんか一切出てこないでしょ
原発の安全性においてドスト:エフスキーなんか糞の役にも立たないのよ
ハイデガー読んでた奴が交番襲撃したりするのも同じこと
中野信子が「不倫はなくならない」なんて言い出すのも 室山哲也が「人類は絶対に絶滅します」なんて言い出すのも 身勝手な決め付けでしかない
ニーチェの言う「出来そうにないことは、やらない方が良い」なんて話は 「出来そうにないことはやりたくない」から誰かに「やらない方が良い」と言われたことでやらないことを正当化出来ると勘違いしているバカの発想でしかない
こうした 他人の勝手な決め付けを鵜呑みにしておけば 自律的な論理的判断をしなくて済むので 気分的に楽なだけの精神的な逃避であり これこそが人間性を欠いた傲慢さの原因にもなる
「だって、ニーチェ様が言ったから」とか「中野信子様が言ったから」とか「NHK解説委員様が言ったから」なんてのは 論理的証明にも何にもならないでしょうが
生物学権威の大多数が「生存戦略」概念をゴリ押ししているからといって それが科学的/論理的に正しいことの証明には一切ならないのと一緒 遺伝的進化の基となる突然変異に戦略もへったくれもないだろうが
科学的裏づけというのは 単なる権威者のゴリ押しや多数決で決定するものではなく あくまで論理的に正しいかどうかで判断されるべきものであって 論理的に正しいかどうかの自律的判断なくして科学的証明なんぞ成立しない
大衆マスコミの誰も自律的に論理判断しないのであれば 誰の自律的判断に対してもとやかく言う権利はないだろうよ
「あの人はこう言ってた、この人はこう言っている。でも、誰の言っているのが正しいのかは、さっぱりわかんな~い。」って それただのバカだろ
京大卒業しようが 東大卒業しようが こういうバカはいくらでもいるし むしろ京大や東大の権威性そのものの失墜であるはずなのだが バカというのは大学のブランドを宗教のように絶対的なものだと信奉して疑問を一切持たない
有名大学からオウム真理教幹部テロリストを出した原因については何も言及されたことはないし 誰も責任取ってないのよ
731部隊で京都大学の教授達が中国人捕虜を使った人体実験を行ったことも その原因究明や再発防止も責任の所在も一切明らかになっていない
科学って本来100%ではないはずなのに まるで宗教の如く絶対的な権威として扱われてしまっているから 理論が一切通らなくなる
理論の通らない時点で 科学じゃないからな
「権威になんて勝てるわけがない」という話も時折出てくるが
勝ち負け論自体が多数大衆による判定でしかなく 何ら社会安全性の保証とは無関係な観念に過ぎない
多数大衆の判定なんてのは 誰も責任負わない無責任な観念であって バカの多数決でバカげた結果に陥っても誰も責任取らないぞ
科学的真理の探求というのは 勝ち負けだの世間的成功といった多数派の判定を目的としたものではなく あくまで安全性にとって有効だからこそ追求するべきものなのである
個人的に成功するかどうかを目的にしていること自体が 本質的な主体的を欠いた賎しい利己性に過ぎない
西武グループや東芝の社員も「幹部の言うことは絶対だと思っていた。」と称して粉飾決算を行っていたことからも「勝てるわけがない。」という話も単なる身勝手な決め付けや思い込みの類でしかなく 論理的には何の根拠も持たない虚ろな幻に過ぎない
権威性が作り出す観念的幻影を盲目的に信じているからこそ あらゆる集団組織的「人災」の暴走は歯止めが効かなくなるのである
世間的成功などというのも 所詮は多数他人が作り出した幻に過ぎない たとえどんなに富や名声や権力を手に入れようとも 自己の本質的充足を得ることなど出来ないことは 歴史上のあらゆる独裁者達を見ても明らかである
誰も満たされることのない幻影を 大多数の大衆は追い求めているから 肝心の社会安全性が損なわれてしまうのである
本当に重要なものが何なのかは 自分や近しい人が「人災」被害に遭わなければ認識出来ないというのは 想像力が著しく欠如している
「大多数のアカの他人にどう思われるのか」をいくら気に病んでも 社会安全性が向上するわけではない
それがどうして「自意識」だと 自己の意識の本質だと言えるのか
これは「悩む」ようなことではなく 答えは最初から決まっている
「悩んだ」時点で既に自律的論理検証をしていない証拠なのである
何も自律的に「考え」ていない時点で 社会的には糞の役にも立たないデクノボウということになる
大多数のデクノボウに迎合同調していた方が さぞかし気分的には安心であろう
ヒトという種の生物は そういう先天的欠陥を持っているものなのである
Ende;
まず これが大きな間違いなのよね
他人からの見た目が意識の本質だって言うんなら 他人からの見た目を気にすることで自律的な社会的責任を負うことになるのかって話なのよ
東電社内において 社内の上司や同僚からの見た目を気にして空気を読んでいたからこそ 津波に対する脆弱性に対して誰も何も言わなくなったんじゃないの?
その「空気」を作っているのは社内の大多数を占める社員達の意識(無意識性)でしょうが
他人からの見た目を気にしているからこそ 自律的な社会的責任判断力も喪失することになる
それが人間としての本質的な意識なわけないじゃん
「他人からの見た目」っていうのは 同調圧力に迎合したいという行動バイアスでしかなくて 「他人からの見た目」を短絡的に「意識の本質だ」と思い込んでいる奴っていうのは 気分感情こそが意識の本質だと勘違いしているポンコツの発想でしかない
どんなに多数他人や 多数他人によって認証された権威や権力者の意見であろうとも それに迎合したり同調したりするからこそ「個人の自律」が失われる最大の原因となる
人間としての本質的意識というのは 自律的な論理判断力であって 決して先天的な迎合同調バイアスなどではない
もう こんな極めて基本的な理屈をいちいち説明しなきゃならないこと自体がバカバカしいんだけどね
社会安全性っていうのは 論理根拠に基づかなきゃ困るものであって 論理的根拠もなしに勝手に誰かの決めつけで処理されたら安全性なんて何の保証もなくなるのよ
冤罪事件だってそうでしょ 科学捜査による証拠を隠蔽して勝手に犯人を仕立て上げられたら真犯人は逃げられるは 何の関係もない人が被害を被るは ちっとも安全性につながらないじゃんか
飛行機が飛ぶのだって原発の運転だって論理的安全性の保証がなきゃ危なくてしょうがないでしょうが
それとも何ですか 他人の顔色うかがっておけば自動的に飛行機や原発の安全性が保証されるんですか?
だったら何で「他人からの見た目」が自分の意識の本質になっちゃうんですか?
まさか「だって、皆(多数)がそう言うからだ。」なんて言い出すなら あんた何も(論理的に)考えてなんかいないじゃないか
何で自律的に「考え」ないのかって言えば それこそ多数派同調性が原因でしょうが
航空機や原発の運転においては自律的な社会的責任を求めるのに どうして自分のことになった途端に自律よりも「他人からの見た目」が意識の主体になっちゃうのよ
詐欺に騙されるのも 合理的根拠をすっ飛ばして気分感情が促すバイアスを優先しちゃうからこそ 論理検証も一切せずに相手の言いなりに金を渡しちゃうことになる
何も考えてない状態を何て言うんでしょうね
「バカ」ってそういうことなんじゃないの?
「君ならどうする」的なしょうもない漫画を読んで 気分的に「悩ましい」気持ちになったことを「自分で何かを考えた」かのような錯覚に陥って 「自分は頭が良くなった」とか思っていることの方がむしろバカなんだけど
こういった「悩ましい話」を聞かされて「自分は頭が良くなった」かのような錯覚を促す話ってのは 現在哲学として分類されている著作の大半を占めている
亀山郁夫が脂汗たらしながら必死になってドスト:エフスキーの感想を述べたところで 具体的に何かの役に立つ話なんか一切出てこないでしょ
原発の安全性においてドスト:エフスキーなんか糞の役にも立たないのよ
ハイデガー読んでた奴が交番襲撃したりするのも同じこと
中野信子が「不倫はなくならない」なんて言い出すのも 室山哲也が「人類は絶対に絶滅します」なんて言い出すのも 身勝手な決め付けでしかない
ニーチェの言う「出来そうにないことは、やらない方が良い」なんて話は 「出来そうにないことはやりたくない」から誰かに「やらない方が良い」と言われたことでやらないことを正当化出来ると勘違いしているバカの発想でしかない
こうした 他人の勝手な決め付けを鵜呑みにしておけば 自律的な論理的判断をしなくて済むので 気分的に楽なだけの精神的な逃避であり これこそが人間性を欠いた傲慢さの原因にもなる
「だって、ニーチェ様が言ったから」とか「中野信子様が言ったから」とか「NHK解説委員様が言ったから」なんてのは 論理的証明にも何にもならないでしょうが
生物学権威の大多数が「生存戦略」概念をゴリ押ししているからといって それが科学的/論理的に正しいことの証明には一切ならないのと一緒 遺伝的進化の基となる突然変異に戦略もへったくれもないだろうが
科学的裏づけというのは 単なる権威者のゴリ押しや多数決で決定するものではなく あくまで論理的に正しいかどうかで判断されるべきものであって 論理的に正しいかどうかの自律的判断なくして科学的証明なんぞ成立しない
大衆マスコミの誰も自律的に論理判断しないのであれば 誰の自律的判断に対してもとやかく言う権利はないだろうよ
「あの人はこう言ってた、この人はこう言っている。でも、誰の言っているのが正しいのかは、さっぱりわかんな~い。」って それただのバカだろ
京大卒業しようが 東大卒業しようが こういうバカはいくらでもいるし むしろ京大や東大の権威性そのものの失墜であるはずなのだが バカというのは大学のブランドを宗教のように絶対的なものだと信奉して疑問を一切持たない
有名大学からオウム真理教幹部テロリストを出した原因については何も言及されたことはないし 誰も責任取ってないのよ
731部隊で京都大学の教授達が中国人捕虜を使った人体実験を行ったことも その原因究明や再発防止も責任の所在も一切明らかになっていない
科学って本来100%ではないはずなのに まるで宗教の如く絶対的な権威として扱われてしまっているから 理論が一切通らなくなる
理論の通らない時点で 科学じゃないからな
「権威になんて勝てるわけがない」という話も時折出てくるが
勝ち負け論自体が多数大衆による判定でしかなく 何ら社会安全性の保証とは無関係な観念に過ぎない
多数大衆の判定なんてのは 誰も責任負わない無責任な観念であって バカの多数決でバカげた結果に陥っても誰も責任取らないぞ
科学的真理の探求というのは 勝ち負けだの世間的成功といった多数派の判定を目的としたものではなく あくまで安全性にとって有効だからこそ追求するべきものなのである
個人的に成功するかどうかを目的にしていること自体が 本質的な主体的を欠いた賎しい利己性に過ぎない
西武グループや東芝の社員も「幹部の言うことは絶対だと思っていた。」と称して粉飾決算を行っていたことからも「勝てるわけがない。」という話も単なる身勝手な決め付けや思い込みの類でしかなく 論理的には何の根拠も持たない虚ろな幻に過ぎない
権威性が作り出す観念的幻影を盲目的に信じているからこそ あらゆる集団組織的「人災」の暴走は歯止めが効かなくなるのである
世間的成功などというのも 所詮は多数他人が作り出した幻に過ぎない たとえどんなに富や名声や権力を手に入れようとも 自己の本質的充足を得ることなど出来ないことは 歴史上のあらゆる独裁者達を見ても明らかである
誰も満たされることのない幻影を 大多数の大衆は追い求めているから 肝心の社会安全性が損なわれてしまうのである
本当に重要なものが何なのかは 自分や近しい人が「人災」被害に遭わなければ認識出来ないというのは 想像力が著しく欠如している
「大多数のアカの他人にどう思われるのか」をいくら気に病んでも 社会安全性が向上するわけではない
それがどうして「自意識」だと 自己の意識の本質だと言えるのか
これは「悩む」ようなことではなく 答えは最初から決まっている
「悩んだ」時点で既に自律的論理検証をしていない証拠なのである
何も自律的に「考え」ていない時点で 社会的には糞の役にも立たないデクノボウということになる
大多数のデクノボウに迎合同調していた方が さぞかし気分的には安心であろう
ヒトという種の生物は そういう先天的欠陥を持っているものなのである
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