科学や哲学の目的は 真理を追求することです
「真理を追求」なんつうと 何やら面倒臭さそうな雰囲気が漂っちゃいますけど
平たく言えば「本当のところ どうなのよ」って話なんですね
本当のことがわかると 対策が立てられるので 安全性が高まる
だから科学というのは社会的に有用なんですね
みんなにとって役に立つ
ところがどっこい 本当のことっていうのは論理的に追求しなきゃならないもんですから どうしても気分的に納得いかない場合というのも出てくる
「原発事故で罰を受けた奴がいないじゃないか」っていう話になってくる
「罰を受けること」が「責任取った」ことになっちゃっているんですけど 罰って責任取ったことになるんですかね?
電力会社の経営者を刑務所に何年かぶち込んでおいたら原発事故って起きなくなるんですかね?
気分的には誰か悪者を特定して罰を与えれば満足感が得られるので 刑罰というものが「解決」であるという制度になっちゃってますけど
それって本当は解決にはなってないんですね
本当は解決になっていない制度が多額の税金かけて温存されている
それは なぜかと言えば 気分的納得感が理論を阻害しているからなんですね
◇
科学や哲学の目的は 真理の追求であり「本当のところどうなのよ」っていう純粋な疑問に基づく論理的解答を知ることにあります
ですから 科学を志す者というのは 学位学歴とかノーベル賞を目的にしてはいけないんですね
他人と比べて自分の方が「上」だと思いたいのであれば そういうのは競技スポーツとか将棋ゲームの成績に求めれば良い
科学や哲学というのは 内容が論理的に正しいかどうかに価値があるんであって 正しいことを言っている奴が偉いわけでも何でもない
むしろ 論理的に正しいことを言っていることが科学的には「正常」で「普通」なのであって 論理的に間違っていることを言っているのはそもそも科学でも哲学でもない
しかし ヒトという種の生物の習性として どうしても他人よりも優位に立ちたいという行動バイアスがあるため 順位序列や肩書権威ばかりを追求してしまう
順位序列や肩書権威というのは その構造上多数決で決定するしかありません
ですから ノーベル賞委員会の委員がバカしかいなければ どんなに論理的に正しいことを言っていても評価されることはありません
そういうものです
「オラ たくさん勉強してノーベル賞をとるだ。」とか言っている子供がいますけど そういうことではないんですね
ノーベル賞を欲しがる動機というのは 世間的評価が根底にあります それは多数他人と比べての優位性追求が目的であって 純粋な真理追求が後回しになってしまうことになる
誰かから評価されるかどうかといった いわば不純な動機によって 純粋な疑問である「本当のところ どうなのよ」という検証の意欲が後回し2の次になってしまうことになる
ガリレオ:ガリレイは 地動説を唱えた際に火炙りの処刑を宣告されました それでもガリレオは「地球は回っている」と言ったそうです
世間的には罰を与えられるような事態に陥っても「本当のところ 地球は回っているんだ」と言ってこその科学や哲学なんですね
それは 多数他人の評価に依らない自律的な判断が必要不可欠になる
評価承認が目的になっていると 権威や多数派が「正しい」と言っていることには迎合しなきゃならなくなる
「黒いものであっても、白い」と言わなければ「生きて」いけないと 伊集院静は言いましたが 論理的に間違った多数派の意見に同調迎合したら永遠の命が得られるわけではありません
原発の津波に対する脆弱性を放置しなければ 東電社内では生きていけないからと言って同調迎合したからこそ あの大惨事は起きたわけです
一応 もう一回言っておきますけど 原発事故は「人災」であることが畑村洋太郎によってハッキリ特定されていますから 今更「あれは天災だから仕方ない」何ていう話は要らないですからね
国会原発事故調査委員会報告書を読んだこともない奴が倫理や哲学を語る資格なんかありませんから
「生存」というのは結果です
どんなに感情的に強く「死にたくない」と思ったとしても 願ったとしても 呪ったとしても 永遠の命を欲しがったとしても
その感情や欲求自体が既に自己の選択可能性の範囲外にある
ちょっと難解な言い回しになりました
「死にたくない」という感情は 先天的に決まっているものであって これは個人が主体的に選択したものではないんですね
脳内物質ドーパミンは その常習性によってヒトや動物の行動を整理します
AIなんかに応用されている機械学習によって行動バイアスを作り出すメカニズム構造のようなものです
ドーパミンは別名安心物質とも言われ 安心と不安を区別するための動物的行動バイアスの最も根幹的なメカニズムです
ヒトは産まれてからずっと「生きて」いるので 「生きて」いることが安心になり これは同時に「生きて」いない状態である死を嫌う感情も作り出します
そのため 「生きて」いる状態を維持しようとする行動が 何よりも優先されるように先天的に出来上がっているため ヒトも含めて動物の多くは反射的に生存を優先する習性があります
東京電力に勤めていれば 原発周辺住民の生活よりも 自分が社内での地位や権益を維持することの方を優先してしまうのも これが原因です
生存を絶対的価値としてしまえば あらゆる利己的行動は正当化されてしまいます
目の前の自分を評価する多数に迎合しておいた方が個体の生存にとっては有利であれば 自律的な社会的責任は後回しになってしまいます
先天的に生物の脳というのは自律的な社会的責任を後回しにする構造になっているわけです
自分の脳の構造というのは先天的に決定しているものであって 自分ではどうすることも出来ない 自分では選択することが出来ない 選択不可能
自分の脳の構造を自分で選択出来ないのであれば 全ての脳機能は自分ではどうにもならず 全ては先天的に運命論的に決定していることになるのかと言えば
違うんですね
選択不可能なのは 無意識な行動バイアスだけであって ヒトの場合はこれに抗うことの出来る自制心というものを発揮することが出来る
これがヒトと他の動物との大きな違いで 無意識な行動バイアスに流されないように自律的に目的意識に基づいて行動選択が出来る
選択可能性がある
その選択可能性の基となるのが 人間としての本質的な意識であり 自律的な論理検証性なわけです
目的が何かを選択することも 目的に合った行動選択をするためにも 論理検証がなければ話にならない
なんつっても無意識な行動バイアスには目的がなく単なる結果でしかありませんから 自律的に目的意識を持って初めて意識だと言えるわけです
あらゆる無意識な行動バイアスに惑わされずに 客観的に目的に合った行動選択が可能になるわけです
可能なんですけど それはあらゆる無意識な行動バイアスである感情気分の全てを後回しにしなければならないので 簡単ではない
東大学長が「全てを疑え」と述べたことがありました
ノーベル賞受賞者の本庶佑(ほんじょ たすく)も「教科書を疑え」と述べました
「疑え」とは言っても 観念的猜疑心で「何も信じられない」などと全面的に拒絶することを意味するわけではなくて
「本当のところ どうなのよ」という純粋な疑問を忘れない検証性が大事だと言っているのです
教えられたことを 何も検証せずに鵜呑みにしてしまうことは 科学や哲学から逸脱する最も簡単なオカルトへの近道なのです
何だかお腹が忙しくなっちゃったので 今日はこれでおしまいにします
Ende;
「真理を追求」なんつうと 何やら面倒臭さそうな雰囲気が漂っちゃいますけど
平たく言えば「本当のところ どうなのよ」って話なんですね
本当のことがわかると 対策が立てられるので 安全性が高まる
だから科学というのは社会的に有用なんですね
みんなにとって役に立つ
ところがどっこい 本当のことっていうのは論理的に追求しなきゃならないもんですから どうしても気分的に納得いかない場合というのも出てくる
「原発事故で罰を受けた奴がいないじゃないか」っていう話になってくる
「罰を受けること」が「責任取った」ことになっちゃっているんですけど 罰って責任取ったことになるんですかね?
電力会社の経営者を刑務所に何年かぶち込んでおいたら原発事故って起きなくなるんですかね?
気分的には誰か悪者を特定して罰を与えれば満足感が得られるので 刑罰というものが「解決」であるという制度になっちゃってますけど
それって本当は解決にはなってないんですね
本当は解決になっていない制度が多額の税金かけて温存されている
それは なぜかと言えば 気分的納得感が理論を阻害しているからなんですね
◇
科学や哲学の目的は 真理の追求であり「本当のところどうなのよ」っていう純粋な疑問に基づく論理的解答を知ることにあります
ですから 科学を志す者というのは 学位学歴とかノーベル賞を目的にしてはいけないんですね
他人と比べて自分の方が「上」だと思いたいのであれば そういうのは競技スポーツとか将棋ゲームの成績に求めれば良い
科学や哲学というのは 内容が論理的に正しいかどうかに価値があるんであって 正しいことを言っている奴が偉いわけでも何でもない
むしろ 論理的に正しいことを言っていることが科学的には「正常」で「普通」なのであって 論理的に間違っていることを言っているのはそもそも科学でも哲学でもない
しかし ヒトという種の生物の習性として どうしても他人よりも優位に立ちたいという行動バイアスがあるため 順位序列や肩書権威ばかりを追求してしまう
順位序列や肩書権威というのは その構造上多数決で決定するしかありません
ですから ノーベル賞委員会の委員がバカしかいなければ どんなに論理的に正しいことを言っていても評価されることはありません
そういうものです
「オラ たくさん勉強してノーベル賞をとるだ。」とか言っている子供がいますけど そういうことではないんですね
ノーベル賞を欲しがる動機というのは 世間的評価が根底にあります それは多数他人と比べての優位性追求が目的であって 純粋な真理追求が後回しになってしまうことになる
誰かから評価されるかどうかといった いわば不純な動機によって 純粋な疑問である「本当のところ どうなのよ」という検証の意欲が後回し2の次になってしまうことになる
ガリレオ:ガリレイは 地動説を唱えた際に火炙りの処刑を宣告されました それでもガリレオは「地球は回っている」と言ったそうです
世間的には罰を与えられるような事態に陥っても「本当のところ 地球は回っているんだ」と言ってこその科学や哲学なんですね
それは 多数他人の評価に依らない自律的な判断が必要不可欠になる
評価承認が目的になっていると 権威や多数派が「正しい」と言っていることには迎合しなきゃならなくなる
「黒いものであっても、白い」と言わなければ「生きて」いけないと 伊集院静は言いましたが 論理的に間違った多数派の意見に同調迎合したら永遠の命が得られるわけではありません
原発の津波に対する脆弱性を放置しなければ 東電社内では生きていけないからと言って同調迎合したからこそ あの大惨事は起きたわけです
一応 もう一回言っておきますけど 原発事故は「人災」であることが畑村洋太郎によってハッキリ特定されていますから 今更「あれは天災だから仕方ない」何ていう話は要らないですからね
国会原発事故調査委員会報告書を読んだこともない奴が倫理や哲学を語る資格なんかありませんから
「生存」というのは結果です
どんなに感情的に強く「死にたくない」と思ったとしても 願ったとしても 呪ったとしても 永遠の命を欲しがったとしても
その感情や欲求自体が既に自己の選択可能性の範囲外にある
ちょっと難解な言い回しになりました
「死にたくない」という感情は 先天的に決まっているものであって これは個人が主体的に選択したものではないんですね
脳内物質ドーパミンは その常習性によってヒトや動物の行動を整理します
AIなんかに応用されている機械学習によって行動バイアスを作り出すメカニズム構造のようなものです
ドーパミンは別名安心物質とも言われ 安心と不安を区別するための動物的行動バイアスの最も根幹的なメカニズムです
ヒトは産まれてからずっと「生きて」いるので 「生きて」いることが安心になり これは同時に「生きて」いない状態である死を嫌う感情も作り出します
そのため 「生きて」いる状態を維持しようとする行動が 何よりも優先されるように先天的に出来上がっているため ヒトも含めて動物の多くは反射的に生存を優先する習性があります
東京電力に勤めていれば 原発周辺住民の生活よりも 自分が社内での地位や権益を維持することの方を優先してしまうのも これが原因です
生存を絶対的価値としてしまえば あらゆる利己的行動は正当化されてしまいます
目の前の自分を評価する多数に迎合しておいた方が個体の生存にとっては有利であれば 自律的な社会的責任は後回しになってしまいます
先天的に生物の脳というのは自律的な社会的責任を後回しにする構造になっているわけです
自分の脳の構造というのは先天的に決定しているものであって 自分ではどうすることも出来ない 自分では選択することが出来ない 選択不可能
自分の脳の構造を自分で選択出来ないのであれば 全ての脳機能は自分ではどうにもならず 全ては先天的に運命論的に決定していることになるのかと言えば
違うんですね
選択不可能なのは 無意識な行動バイアスだけであって ヒトの場合はこれに抗うことの出来る自制心というものを発揮することが出来る
これがヒトと他の動物との大きな違いで 無意識な行動バイアスに流されないように自律的に目的意識に基づいて行動選択が出来る
選択可能性がある
その選択可能性の基となるのが 人間としての本質的な意識であり 自律的な論理検証性なわけです
目的が何かを選択することも 目的に合った行動選択をするためにも 論理検証がなければ話にならない
なんつっても無意識な行動バイアスには目的がなく単なる結果でしかありませんから 自律的に目的意識を持って初めて意識だと言えるわけです
あらゆる無意識な行動バイアスに惑わされずに 客観的に目的に合った行動選択が可能になるわけです
可能なんですけど それはあらゆる無意識な行動バイアスである感情気分の全てを後回しにしなければならないので 簡単ではない
東大学長が「全てを疑え」と述べたことがありました
ノーベル賞受賞者の本庶佑(ほんじょ たすく)も「教科書を疑え」と述べました
「疑え」とは言っても 観念的猜疑心で「何も信じられない」などと全面的に拒絶することを意味するわけではなくて
「本当のところ どうなのよ」という純粋な疑問を忘れない検証性が大事だと言っているのです
教えられたことを 何も検証せずに鵜呑みにしてしまうことは 科学や哲学から逸脱する最も簡単なオカルトへの近道なのです
何だかお腹が忙しくなっちゃったので 今日はこれでおしまいにします
Ende;