ヒトは ヒトという種の生物は 主観的に気分を良くしてくれる相手を「頭が良い」とか「人間性に優れている」などと形容したがるが
これが先ず大間違いなのである
主観的気分というのは脳の構造的バイアスに過ぎない
養老だの西部だのは その場限りに相手と話を丸めて仲良しこよしになっているだけであって 深い考えが伴っているわけでも何でもない
にも関わらず ヒトの多くは主観的気分が良くなりさえすれば安心満足し あたかも客観的安全性か何かだと勝手に勘違い妄想錯覚を生じて思考が停止する
これはマイケル:サンデルの洗脳手法も同じである
主観的感覚と 論理的客観性の区別 分別がきちんと自律的に出来ていれば 「個人的に好きな相手だけども 言っている内容は正しいわけではない」という論理検証も出来るようになるのだが
ヒトの多くは主観的感覚が促す「好き嫌い」を意識の本質的主体であると錯覚しているため 自律的論理検証性という人間としての意識の本質を簡単に喪失することに陥るのである
強力な「思い込み」というのは 主観的好き嫌いや反射的拒絶反応によって客観性を失うことにより生ずる
自己の脳に既に刷り込み「学習」された価値観というのは 本質的には自己選択不可能なものであり そもそも先天的本能習性すらも自己選択不可能なものである
意識の9割は無意識だと言われているが その無意識が何なのかを識別認識出来ていれば 本質的意識とは何か 本質的自己とは何か 本質的人間性とは何かも区別が出来るようになる
人間性の本質とは何か
それは 自律的に社会的な責任判断を選択出来るかどうかにある
決して人気や世間的成功といった既存の大衆が作り出した価値観の多数決で人間性が論証されるわけではない
ヒトという種の生物は先天的に社会を形成する習性を持っているため どうしても特定の誰かの言っている事だけを盲目的に信奉しようとする習性がある
「この世のどこかに 全てを知り尽くした万能の神みたいな素晴らしい人物が存在していて そいつの言うことに従ってさえおけば自動的に自分も幸福になれる」ものだと そう信じておけば気分的に安心なのである
そもそも「安心」とは 脳内物質が促す快楽であり 先天的に決定している行動バイアスを作り出す構造という「結果」に過ぎない
何も自律的に考えないバカにとっては 自己という存在は先天的に誰かによって保証されている優秀な存在か何かだと勝手に妄想しておいた方が 気分的に安心で楽なために 「先天的な習性によって 人間としての社会性が立証出来るかも知れない」などという理論的に不可能なお伽話を鵜呑みにすることで 更に満足感を得て思考停止のまどろみへと陥るのである
思考は停止していた方が 脳は楽なのである
現状の文系哲学者達というのは 「いかにして思考を停止させて満足するか」に邁進しているばかりで 何が間違っているかなど一切「考え」ることなく ニーチェだのハイデガーだのプラトンの言っている内容で その場限りに満足感を得ること以上の何もしない
残念なことに 本人達は必死になって「考え」ているつもりらしいのだが 実質的には主観的満足で思考を停止させることしかしておらず 客観的論理検証は誰もしていない
「悟り」という言葉がある
「真理を知った」ことを意味するはずなのだが
大抵の場合「考えたって どうせわからん」だのという虚無主義で満足してみたり
その場限りに満足安心したことを「悟った」と簡単に勘違いして満足して 内容が本当に論理的に正しいのかどうか 真理に辿りついているのかどうかなど ほとんど誰も考えてなどいない
キェルケゴールは 真理探求の過程途中で短絡安易な「悟り」によって思考停止し 真理探求を放棄してしまうことを断罪した
客観性に基づいた論理的真理に辿りつく前に 無意識が促す思考バイアスによって主観的満足を得ることを「悟り」だと勝手に勘違いしているため
ヒトはバカが治らない
気分的満足を「悟り」だと勘違いすることは 非常に簡単である
ヒトの脳は物事を深く考えることが嫌いで 思考停止に陥りさえすれば満足する先天的欠陥が存在するからである
先天的な社会形成習性というのは 特定の個体を指導者ボスとみなして盲目的に信頼信奉することで 封建的統率による協調性を発揮し これが生存にとって有利だったために 結果的に先天的習性として遺されたものである
この先天的習性としての「社会性」とは ヒトに限ったものでもなければ 人間性とも関係がない
むしろ蜂や蟻などの昆虫のように そのほとんどが機械的条件反射行動しか採らない生物の方が より高度に役割分担を促す「真社会性」を発揮するのである
昆虫の脳などというのは顕微鏡下でしか見えない程小さなものだそうだが そんな脳でも可能な先天的な社会形成習性に人間性が伴っているなどと錯覚出来るのは むしろ「何も考えていない」からであろう
習性という行動バイアスには 「自律」がない
習性というのは あくまで環境依存的な「結果」であって 環境に左右されている以上 「自律的に社会的責任判断を行う」こととは無関係であり むしろ先天的習性が促す無意識な行動バイアスは自律的判断を喪失させる方向にしか働くことはない
それは 社会形成習性においても同じであり統率的な封建組織に自動的(自然)に陥るのも そこに人間性など存在しないことの証明である
ヤクザ暴力団テロリスト振り込め詐欺集団の身内内部で どんなに利他的行動を観察したところで それは社会全体の安全性とは無関係な「目先の習性」「目先の行動バイアス」「目先の脳内快楽」以上に意味はない
それは たとえ親子であっても同じである オキシトシンは自分の子供は大事にしようとする行動バイアスは作り出すが 他人の子供は排除虐待する習性も促すものであり 実際過酷な環境で子育てをするペンギンでは集団で子育てをするにも関わらず 他人の子供を殺すことも珍しくはない
イヌでもネコでも同様である
先天的な習性というのは あくまで「自然環境下で死ななかった」という「結果」以上の意味は存在しないのである
そこに人間性が存在すると「思う」のは 単なる大衆妄想観念以外の何物でもない
そもそも社会形成習性というのは ヒトに進化する以前からあるものであり ヒトという種に特有のものでもなければ ましてや人間性が伴う保証など一切ないのである
ヒトという種の生物には 先天的に人間性が組み込まれているわけではない
が しかし 後天的には人間性が必要であることを認識する能力はある
その点においては進化の奇跡と言っても構わないだろう
だが 人間性というものが先天的なものではない以上 後天的に認知認識する本質的意識 自律的論理検証性が不可欠である
自律的な社会的責任判断を行うためには 先ずは自己が社会の中で存在し続ける尊厳を持つ必要性がある
自己尊厳がなければ社会がどうなろうと「知ったことではない」
無責任な行動を採る奴というのは 自己の存在を維持しようとする尊厳を持たないからであり 目先の快楽という先天的行動バイアス習性に流されるだけで本質的意識としての自律がないからである
自律とは自発の中にあり 他にはない
フロイトが言うような超自我的強迫観念というものは自律ではなく他律であって 多数からの同調圧力に流されるだけで人間性が発揮される程 ヒトという種の生物は都合良く出来てなどいない
自律のために必要なものは 自発であるが これは個人の主観的好き嫌いに依存するものであって 昆虫が好きなのか 爬虫類が好きなのか ボランティアが好きなのか 量子力学が好きなのか 粘菌が好きなのかは「実際にある程度やってみないとわからない」ものであり 一概に決められるものではない
ところがヒトというのは先天的に多数に同調したり迎合しておくことの方が気分的に安心であるため どうしても他人の評価に流される傾向があり 本質的な自発性に基づいた純粋な行為を知ることすら難しい
だが 「難しいから出来ない」というのはおかしな話である
難関大学への受験には熱狂するが 自律的な社会的責任判断力をつけさせることは「難しい」と称して放棄しようとするのは 既存の価値観に基づいた世間的成功という利己性が優先し 社会安全性という人間としての目的を後回しにしているからである
これは完全に優先順位が狂っている
どんなに哲学界で多数人気を得ようとも その内容が「実証不能の叡智」に基づいていたのでは論外である
「寝言」としか言いようがない
養老だの西部だのといったオカルト右翼ジジイが 多くの「哲学者」から惜しまれようとも その多くの「哲学者」が実際には何ら論理的に検証したこともないデクノボウでは 「デクノボウから人気を得ていた」だけの話である
具体的に何の応用性もない実証不能の観念を振り回し 何も論理的に検証したこともないデクノボウから人気を得ていれば 論理科学的真理の探求が放棄されるのは必然的結果である
そこに人間としての「目的」など 出てくるわけがない
Ende;
これが先ず大間違いなのである
主観的気分というのは脳の構造的バイアスに過ぎない
養老だの西部だのは その場限りに相手と話を丸めて仲良しこよしになっているだけであって 深い考えが伴っているわけでも何でもない
にも関わらず ヒトの多くは主観的気分が良くなりさえすれば安心満足し あたかも客観的安全性か何かだと勝手に勘違い妄想錯覚を生じて思考が停止する
これはマイケル:サンデルの洗脳手法も同じである
主観的感覚と 論理的客観性の区別 分別がきちんと自律的に出来ていれば 「個人的に好きな相手だけども 言っている内容は正しいわけではない」という論理検証も出来るようになるのだが
ヒトの多くは主観的感覚が促す「好き嫌い」を意識の本質的主体であると錯覚しているため 自律的論理検証性という人間としての意識の本質を簡単に喪失することに陥るのである
強力な「思い込み」というのは 主観的好き嫌いや反射的拒絶反応によって客観性を失うことにより生ずる
自己の脳に既に刷り込み「学習」された価値観というのは 本質的には自己選択不可能なものであり そもそも先天的本能習性すらも自己選択不可能なものである
意識の9割は無意識だと言われているが その無意識が何なのかを識別認識出来ていれば 本質的意識とは何か 本質的自己とは何か 本質的人間性とは何かも区別が出来るようになる
人間性の本質とは何か
それは 自律的に社会的な責任判断を選択出来るかどうかにある
決して人気や世間的成功といった既存の大衆が作り出した価値観の多数決で人間性が論証されるわけではない
ヒトという種の生物は先天的に社会を形成する習性を持っているため どうしても特定の誰かの言っている事だけを盲目的に信奉しようとする習性がある
「この世のどこかに 全てを知り尽くした万能の神みたいな素晴らしい人物が存在していて そいつの言うことに従ってさえおけば自動的に自分も幸福になれる」ものだと そう信じておけば気分的に安心なのである
そもそも「安心」とは 脳内物質が促す快楽であり 先天的に決定している行動バイアスを作り出す構造という「結果」に過ぎない
何も自律的に考えないバカにとっては 自己という存在は先天的に誰かによって保証されている優秀な存在か何かだと勝手に妄想しておいた方が 気分的に安心で楽なために 「先天的な習性によって 人間としての社会性が立証出来るかも知れない」などという理論的に不可能なお伽話を鵜呑みにすることで 更に満足感を得て思考停止のまどろみへと陥るのである
思考は停止していた方が 脳は楽なのである
現状の文系哲学者達というのは 「いかにして思考を停止させて満足するか」に邁進しているばかりで 何が間違っているかなど一切「考え」ることなく ニーチェだのハイデガーだのプラトンの言っている内容で その場限りに満足感を得ること以上の何もしない
残念なことに 本人達は必死になって「考え」ているつもりらしいのだが 実質的には主観的満足で思考を停止させることしかしておらず 客観的論理検証は誰もしていない
「悟り」という言葉がある
「真理を知った」ことを意味するはずなのだが
大抵の場合「考えたって どうせわからん」だのという虚無主義で満足してみたり
その場限りに満足安心したことを「悟った」と簡単に勘違いして満足して 内容が本当に論理的に正しいのかどうか 真理に辿りついているのかどうかなど ほとんど誰も考えてなどいない
キェルケゴールは 真理探求の過程途中で短絡安易な「悟り」によって思考停止し 真理探求を放棄してしまうことを断罪した
客観性に基づいた論理的真理に辿りつく前に 無意識が促す思考バイアスによって主観的満足を得ることを「悟り」だと勝手に勘違いしているため
ヒトはバカが治らない
気分的満足を「悟り」だと勘違いすることは 非常に簡単である
ヒトの脳は物事を深く考えることが嫌いで 思考停止に陥りさえすれば満足する先天的欠陥が存在するからである
先天的な社会形成習性というのは 特定の個体を指導者ボスとみなして盲目的に信頼信奉することで 封建的統率による協調性を発揮し これが生存にとって有利だったために 結果的に先天的習性として遺されたものである
この先天的習性としての「社会性」とは ヒトに限ったものでもなければ 人間性とも関係がない
むしろ蜂や蟻などの昆虫のように そのほとんどが機械的条件反射行動しか採らない生物の方が より高度に役割分担を促す「真社会性」を発揮するのである
昆虫の脳などというのは顕微鏡下でしか見えない程小さなものだそうだが そんな脳でも可能な先天的な社会形成習性に人間性が伴っているなどと錯覚出来るのは むしろ「何も考えていない」からであろう
習性という行動バイアスには 「自律」がない
習性というのは あくまで環境依存的な「結果」であって 環境に左右されている以上 「自律的に社会的責任判断を行う」こととは無関係であり むしろ先天的習性が促す無意識な行動バイアスは自律的判断を喪失させる方向にしか働くことはない
それは 社会形成習性においても同じであり統率的な封建組織に自動的(自然)に陥るのも そこに人間性など存在しないことの証明である
ヤクザ暴力団テロリスト振り込め詐欺集団の身内内部で どんなに利他的行動を観察したところで それは社会全体の安全性とは無関係な「目先の習性」「目先の行動バイアス」「目先の脳内快楽」以上に意味はない
それは たとえ親子であっても同じである オキシトシンは自分の子供は大事にしようとする行動バイアスは作り出すが 他人の子供は排除虐待する習性も促すものであり 実際過酷な環境で子育てをするペンギンでは集団で子育てをするにも関わらず 他人の子供を殺すことも珍しくはない
イヌでもネコでも同様である
先天的な習性というのは あくまで「自然環境下で死ななかった」という「結果」以上の意味は存在しないのである
そこに人間性が存在すると「思う」のは 単なる大衆妄想観念以外の何物でもない
そもそも社会形成習性というのは ヒトに進化する以前からあるものであり ヒトという種に特有のものでもなければ ましてや人間性が伴う保証など一切ないのである
ヒトという種の生物には 先天的に人間性が組み込まれているわけではない
が しかし 後天的には人間性が必要であることを認識する能力はある
その点においては進化の奇跡と言っても構わないだろう
だが 人間性というものが先天的なものではない以上 後天的に認知認識する本質的意識 自律的論理検証性が不可欠である
自律的な社会的責任判断を行うためには 先ずは自己が社会の中で存在し続ける尊厳を持つ必要性がある
自己尊厳がなければ社会がどうなろうと「知ったことではない」
無責任な行動を採る奴というのは 自己の存在を維持しようとする尊厳を持たないからであり 目先の快楽という先天的行動バイアス習性に流されるだけで本質的意識としての自律がないからである
自律とは自発の中にあり 他にはない
フロイトが言うような超自我的強迫観念というものは自律ではなく他律であって 多数からの同調圧力に流されるだけで人間性が発揮される程 ヒトという種の生物は都合良く出来てなどいない
自律のために必要なものは 自発であるが これは個人の主観的好き嫌いに依存するものであって 昆虫が好きなのか 爬虫類が好きなのか ボランティアが好きなのか 量子力学が好きなのか 粘菌が好きなのかは「実際にある程度やってみないとわからない」ものであり 一概に決められるものではない
ところがヒトというのは先天的に多数に同調したり迎合しておくことの方が気分的に安心であるため どうしても他人の評価に流される傾向があり 本質的な自発性に基づいた純粋な行為を知ることすら難しい
だが 「難しいから出来ない」というのはおかしな話である
難関大学への受験には熱狂するが 自律的な社会的責任判断力をつけさせることは「難しい」と称して放棄しようとするのは 既存の価値観に基づいた世間的成功という利己性が優先し 社会安全性という人間としての目的を後回しにしているからである
これは完全に優先順位が狂っている
どんなに哲学界で多数人気を得ようとも その内容が「実証不能の叡智」に基づいていたのでは論外である
「寝言」としか言いようがない
養老だの西部だのといったオカルト右翼ジジイが 多くの「哲学者」から惜しまれようとも その多くの「哲学者」が実際には何ら論理的に検証したこともないデクノボウでは 「デクノボウから人気を得ていた」だけの話である
具体的に何の応用性もない実証不能の観念を振り回し 何も論理的に検証したこともないデクノボウから人気を得ていれば 論理科学的真理の探求が放棄されるのは必然的結果である
そこに人間としての「目的」など 出てくるわけがない
Ende;