書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

京都大学教授松沢哲郎の文化功労賞は取下げるべきである。

2013年10月28日 16時09分01秒 | 意識論関連
○京都大学教授松沢哲郎の文化功労賞は取下げるべきである。

 松沢は「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという非科学的予測を立てておいて、実際には立証不能だと知ると今度は「想像力が人間性を作るのかも知れない。」などと、その場限りにのらりくらりと言い逃れや取り繕いを繰り返すペテン師である。

 そもそも松沢が動物的行動習性から人間としての社会性を立証しようとしたのは、従来の生物学では動物本能的な社会形成習性というものを短絡的に人間としての社会性と混同していたことを事後正当化するための取り繕いに過ぎず。論理的には立証不能な大嘘に過ぎない。

 大衆マスコミは論理的に検証することよりも、現在の進化生物学界内部での多数決を根拠と見なし、あたかも論理的な裏が取れていると勝手に錯覚して垂れ流し、「素晴らしい。」などと形容していたことを事後正当化するために、論理的反証の全てを黙殺隠蔽するつもりである。

 そもそも動物本能的な習性の全ては、個人の意識的論理検証性を介さない無意識な行動バイアスの「結果」であって、そこに人間としての「目的」行動選択が介在する余地など論理的に存在し得ず。人間性というものは個人の主体的で自律的な社会的責任判断なくして成立するものではなく、意識的な「目的」行動選択によってのみ生ずるものである。

 先天的な行動バイアスに過ぎない本能習性だけで人間性を論証するなどということは構造原理的に不可能なお伽話であり、大衆マスコミの大脳辺縁系を満足安心させるだけの大衆迎合に過ぎないことを、ヒトの多くは全く認識していない。

 ソマティックマーカー仮説などという先天的な行動バイアスを立証したところで、現実のヒトが常に人間性を伴った正しい行動しか採らないことの論証には全くならず。如何なる本能習性を陳列枚挙してもヒトという種の生物の危険性の論理的反証は構造原理的に不可能なのである。

 チンパンジーの代わりにシエラレオネの少年ゲリラや振り込め詐欺師を鋼鉄とポリカーボネートのケージに押し込め、彼らが一体どういった行動を採れば残虐性や嘘の反証になると言えるのであろうか。「こういった行動を採りさえすれば、論理的に反証することが出来、しかもそれに対する反証の全てが不可能であることの証明。」も存在しないにも関わらず、本能習性によって人間としての社会性を論証することは構造原理的に不可能であり。論理的に不可能な立証を「出来るかもしれない。」などと言い張った松沢は科学者として無能であり、大衆迎合的ペテン師に過ぎない。

 こうした論理的証明というのを一切無視し、進化生物学界内部の多数決だけで評価されていても、科学的には全く価値を持たない。

 従来の進化生物学では、生物本能的なSocialism(社会性)というものを、短絡的に人間性を伴った社会性であると無為に錯覚していた頭の悪さを隠蔽するために、あれこれと松沢のような言い逃れや取り繕い、こじつけを繰り返すことで隠蔽黙殺するつもりである。

 生物学に限らず、哲学などの人文科学系においても、意識的「目的」と本能習性の「結果」の区別は誰も論じたことはなく。全くもって文科系大衆に迎合した非科学的観念が科学として分類評価されているのが現状である。

 松沢は本能的行動習性からは人間としての社会性を論証出来ないことがわかると、今度は「想像力があるから人間なのかも知れない。」などと、その場限りの言い逃れをしている。単なる想像力というのは観念的妄想も含めたものであり、振り込め詐欺師が被害者を騙す時にも用いるものであって、単に想像力がありさえすれば人間性が構築されるなどという短絡的でバカみたいな話は語るに足らない。

 振り込め詐欺師に引っ掛かっている被害者達は、振り込め詐欺師の電話の内容だけで勝手に「想像力」を働かせ。イジメを傍観する多数の生徒は「イジメを止めたりしたら、今度は自分が標的にされる。」ことを「想像」して傍観放置するのであり。「想像力」だけで人間性を論証することなど最初から不可能であることは明白である。

 東電原発安全担当者は、「原発の津波に対する危険性を上司に提言すれば、会社の損失になり会社を辞めさせられるかも知れない。」と想像力を働かせたからこそ傍観したのである。

 単に想像力だけならチンパンジーでもカラスにでも存在するものであり、自律的な論理検証性を追求するという人間としての意識なくして人間性など立証不可能なのである。

 人間としての社会性など、人間性を伴う行動判断選択といったものの全てには、個人の自律的な社会的責任判断能力が必要不可欠なものであり。生物本能的な社会形成習性などの先天的無意識な行動バイアスのほとんど全ては、個人の自律を蔑ろにし、集団洗脳的に社会安全性を脅かす「悪魔の囁き。」に他ならない。

 ミルグラムによる通称「アイヒマン実験」の結果というのは、こうした本能的行動バイアスが促す危険性を論証したものであり。同時にミルグラムは「Cyberneticsの観点から。」と称して現状の進化生物学的な誤った「解釈」をもしてしまっているのである。

 特定の本能習性というものの断片的有益性を論証しても、その本能習性が常に有益であることの証明にはならない。こんなことは純粋な好奇心を持った論理的思考の出来る科学者であれば、わざわざ言わなくても自律的に自己論理検証をするものであるが。大衆や多数からの評価報酬を目的とした不純な研究者にとっては、自分の研究を事後正当化することを優先するために、科学的論理検証性を簡単に喪失するのである。

 学力が高くて、たまたま研究職に就いただけの研究者というのは、個人の主体的意志、意欲、興味といった純粋な動機では研究に邁進することは出来ず、松沢のような業績の捏造を平気で行うようになるのである。

 また、進化生物学界全体が権威に服従することで権力や地位を目的とした権力迎合者の集団に過ぎず、京都大学教授という肩書に脅えて、科学的な批判精神を全く欠いており。現在の進化生物学は科学としての社会的役割を全く果たしていないのである。

 本能習性というものの断片的有用性をどんなに枚挙しても、それは特定環境下における環境依存的「結果」以上の論証にしかならず。意識的目的行動選択としての人間性の論証には全くならない。

 あらゆる「計画的」犯罪の動機は、常に本能欲望に意識を奪われた狭窄な行動バイアスの結果であり。社会の中における個人の存在意義を無視した、その場限りの安心満足の追求である。どんなに詐欺を成功させても、自分が存在するに価する社会の在り方を無視しているからこその詐欺なのであり、これは人間としての目的行動を論理的に検証追求していないからこその「結果」である。




 既得権益を手放したくない権力者が体制維持に執着するのは必然的結果である。それは北朝鮮や中国共産党を見れば明らかであり、現在の進化生物学や哲学、人文科学系学界においても同様である。

 論理的に理解不可能な観念を、「論理的な難解さ。」と勘違いすべきではない。論理的に理解出来ないことに対して、「わかった。」ような錯覚をしているのは、単なる観念的「解釈」に過ぎず、科学としての価値を一切持ち得ない。

 現在の進化生物学の文法のように、「生存のために能力を獲得した。」などという非科学的観念は科学とは言えない。「偶発的に特定能力を獲得した結果、生存に適した。」だけのことを、あたかも個体が意図的、合目的的に選択した能力であるかのように言い張るのは、オカルトかお伽話の仕事であって、科学的論証ではない。

 遺伝などの先天的要素は個体には選択不可能な「結果」に過ぎず、どんなに「結果」が生存や種の保存などに適していることを陳列枚挙しても、それが意識的「目的」行動選択であることの論証にはならない。

 どうせ文化功労賞など、進化生物学界内部の多数決で決定したに違いない。所詮は「文化」功労賞であるから、科学的根拠など要らないのであろう。映画俳優など、純粋に文化に寄与した評価とは異なり、単なる人気取りや大衆迎合だけで科学的な評価などされるべきではない。その「分別」というもの、「了見」がないから松沢が文化功労賞になるのである。

 ◇

 「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などというオカルトお伽話でも垂れ流しておけば、大衆マスコミは安心満足して「文化」に功労したことになるのであろう。

 こうした非科学的観念が優先される習性が、ヒトにはある。

 安心で満足すれば、科学的根拠など必要なくなる。原発の危険性放置も含め、あらゆる「人災」の全ては、こうした気分的な安心満足によって、自律的な社会性責任判断の喪失が存在するのである。そうでなければ「人災」とは言わないからである。

 民族や国籍では人格や人間性を分けることは出来ない。これは遺伝子工学からの結論であり、民族国籍よりも、それを根拠に差別迫害を行う個人の人格の異常性を論ずるべきである。

 ヘイト(差別)デモなどというのは、学校におけるイジメの常態化によって、差別迫害を行うことを行動学習した結果ではないだろうか。もはや彼らは差別迫害という行動に対して中毒症状に陥っているとしか思えない。差別発言を怒鳴り散らして興奮状態に陥っていなければ不安で仕方ないのであろう。

 体罰や虐待などに見られる「連鎖」も、ある種の中毒であり。行動学習的に脳に刷り込まれた行動であるからこそ事後正当化の言い逃れや取り繕いをしてみたり、止めることが出来ないのである。

 多数他者からの評価を優先し、自発的で純粋な研究が出来ないヒトというのも。「他者からの評価」中毒であると言える。これを土居健朗は「甘え」と形容したのである。

 幼い子供であれば、他者からの評価を求めていても「純粋」であると形容されても構わないが。大人が業績を捏造することを「純粋」と形容することは出来ない。

 ヒトの子供が生物的に育つためには「甘え」は必要であり、むしろ「甘え」が足りないことは「思い残し」症候群などの精神疾患の原因ともなり得る。重要なのは大人になる過程において、個人の主体的判断というものに徐々に責任を負わせてゆくことであって、こうした順序を間違えて命令規範に従わせるだけの育て方をするから自律的な社会的責任判断をしないバカが増えるのである。

 大衆観念的には、戸塚ヨットスクールや坂上忍のようなスパルタ的教育をしておけば、短絡的に幼い子供はコントロール出来るであろう。それはシエラレオネの少年ゲリラの「従順さ」と同じものであり、子供個人の主体性を育み、自律的な社会的責任判断を行えるような人格を育てるものではなく、教育方針として極めて社会的に無責任である。

 子役が世間的に成功するかどうかは、「その世間」における偶発的な結果論に過ぎず。芦田愛菜とか鈴木福がスパルタ教育を受けたから人気が出たわけでもなく、井上真央がスパルタ教育で人気を維持しているわけでもない。

 坂上忍は単に自分が受けた教育方針を、中毒的に「連鎖」しているに過ぎない。潔癖症などの精神疾患者の教育方針など、何の役にも立たないことくらいは、わざわざ語るにも足らない。



Ende;
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