書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

妄想力。

2013年10月30日 14時43分54秒 | 意識論関連
○教祖の想像力。

 松沢哲郎が提唱するシンボルと記憶のトレードオフ説というものも、単にチンパンジーとヒトとの差異を論証しただけであって、ヒトという種の生物が常に人間として振る舞うことの論証には全くならない。

 ヒトという種の生物でありさえすれば、常に必ず人間としての行動選択を採るという短絡的なものではなく、チンパンジーとヒトとの差異をどんなに論証してもヒトという種の生物の短絡的人間性の立証にはならない。チンパンジーとヒトの差異をどんなにたくさん抽出枚挙しても、それはヒトという種の生物の特異性を論じているだけであって、ヒトが人間として振る舞うための人間性を証明したことには全くならない。

 ヒトでありさえすれば必ず100年後の未来を憂うわけでもなく、地球の裏側の出来事に配慮が働くわけではない。自民党の石破茂は公然と「地球の裏側の人間が何を考えているかなど、絶対にわからない。」と言い張ったくらいである。

 チンパンジーとヒトの差異さえ陳列しておけば、「人間とは何か。」が論証可能であると思うのは、ヒトという種の生物を短絡的に人間性の証明であると見なす観念に基づく進化生物学者達や大衆マスコミの妄想であって。松沢は自身の研究を短絡的に業績(文化功労賞など)として評価されんがために、ヒトの研究もロクにせずに業績を捏造しているだけである。

 シンボル機能が人間性の論証にならないことは既に何度も述べたが、単なるシンボル機能や言語能力であればテロリストでも詐欺師でも持つものであって、シンボル機能が人間性の論証には全くならない。

 想像力の大きさだけを論じても、利己的欲望を優先した行動を選択していれば人間性を伴うことはなく。ヒトが人間として振る舞うためには欲望本能に左右されない論理検証性が不可欠である。

 カルト宗教の教祖が、どんなに大きな想像力を発揮しても無差別テロにしか至らないのと同様、単なる想像力の大きさだけでは人間性の論証には全くならないばかりか、むしろ想像力というのは無差別殺人における根源的原因に他ならない。

 いつ発生するかもわからない過酷事故の社会的負担よりも、組織にとって有利な選択をすることで保身を優先していたからこそ東電社員達は原発の危険性を放置したのであり。「原発の危険性を提唱すれば会社にいづらくなるかも知れない。」という想像力を働かせることによって原発の危険性は放置されたのである。

 イジメを放置傍観する子供達は、「イジメを止めたりすれば、自分が標的にされるかも知れない。」と想像力を働らかせ、「どうせ卒業しちまえば関係ない。」と予測するからこそ放置傍観するのである。

 体罰を繰り返す教師達は、自分の評価成績を妄想し、社会的責任を放棄するからこそ体罰を正当化するのである。

 ストーカーが一人の相手だけが人生の全てだと妄想するのも、ヒトの本能的習性としての想像力の暴走によるものである。

 どんなに大きく壮大な妄想を強力にしても、自律的な論理検証性が伴わない限り、人間性を伴う判断選択にはつながらない。

 想像はヒトの習性である。振り込め詐欺師に騙される被害者も、電話の内容だけから勝手に妄想するからこそ被害に遭うのであり。テロリスト達は暴力によって自分達の理想に則った世界を構築しようとする。

 進化生物学者達がヒトという種の生物の本能習性だけで人間としての社会性を立証するという妄想のために非科学的観念を開陳し、本論を黙殺隠蔽するのと同じである。当人達に組織腐敗の意識はないかも知れないが、それはテロリスト達と同じで自分達が絶対に正しいと妄想しているであって、妄想を妄想であると認識する自己論理検証性がないから組織腐敗なのである。

 想像力というヒトという種の生物学的習性を論じても、短絡的に人間としての論証にはならない。

 進化生物学者達は無意識でしかない本能習性という「結果」論だけで、人間としての社会性を論証したがるが。本能習性に基づく気分感情に左右されずに自律的に論理検証するという本質的な「目的」意識なくして人間性を論ずることは構造原理的に不可能である。

 松沢哲郎も含め、現在の進化生物学全体に自律的な論理検証性が欠如しており、もはや科学としての社会的役割は一切果たしていないばかりか、弁証法的議論を撹乱することで自分達の組織体制を維持することしかしていない。これは合法的犯罪である。

 松沢哲郎はオカルト進化生物学の教祖に他ならず、こんな犯罪者に文化功労賞なんぞ与えるべきではない。

 組織体制腐敗というヒトの習性としての「文化」までも正当化していれば、あらゆる「人災」に論理的対策がされないのは当たり前である。

 芸術やスポーツなどの文化と科学業績を混同すべきではない。芸術やスポーツは多数決でも構わないが、科学的理論は多数決で決定されるべき性質のものではないからだ。

 ◇

 「人間とは何か。」を論証するためには、チンパンジーとヒトとの差異といった先天的習性論からでは構造原理的に不可能であり。ヒトという種の生物における人間性を論証するためには、ヒトを研究しないことには不毛極まりない。

 「チンパンジーと違うから人間だ。」などという話は、大衆マスコミの妄想に過ぎず、「ヒトという種の生物でありさえすれば人間である。」という大衆観念的妄想に基づいたオカルトである。

 ヒトは先天的には人間ではない。構造原理的に自己選択を介さない先天的本能習性という「結果」をどんなに陳列しても、それらは常に無意識な行動思考バイアスに過ぎず、個人の主体的意志に基づく自律的論理検証性を持った意識的目的行動選択にはならないからだ。

 そもそも「生物の目的は生存」などと信じて疑わなかった時点で、現在の進化生物学には論理検証性が大きく欠如している。こうした「結果」と「目的」の論理的区別も満足に出来ないようなポンコツ研究者の論証を鵜呑みにしている大衆マスコミの頭の悪さもまた犯罪的である。

 優生学のようなオカルト観念に対して、従来の進化生物学は根源的な否定を一切しておらず、これは怠慢と言う他ない。優生学も含めて、単なる無意識な行動バイアスの「結果」をどんなに陳列枚挙しても、それは意識的(論理検証的)な「目的」行動選択の論証には一切ならない。従って、どんなに先天的に生存に適した能力を獲得していても、それが短絡的に人間としての目的行動選択の論証には全くならないのである。

 ヒトという種の生物の本能習性を利用すれば、論理検証性のない文科系大衆の脳を安心満足させることで現状世間的には成功し、文化功労賞を採ることも可能であろう。それがどんなに「生存」に適しているとしても、人間としての「目的」の論証にはなり得ない。多数のバカを騙して世間的に成功するというのは、現状世間における「結果」に過ぎず、人間性を伴った「目的」行動選択の論証には全くならない。

 こうした論理的に根源的な構造原理も理解せずに、現在の進化生物学者達は自身の研究を無理から業績として捏造せんがために、「結果」と「目的」の論理的区別を黙殺隠蔽するつもりである。

 NHK教育テレビ「サイエンスZero」の竹内薫も、生物学的結果論を目的とすり替えた論証を鵜呑みにしているポンコツである。どんなに大量の知識を「知って」いても、何が論理的に正しいのかも判断出来ないようなバカでは科学者としては不適切である。

 知識の「量」だけで「質」を伴わないのは、自律的な論理検証性がない証拠である。だから科学者としてポンコツなのである。そりゃ糞の役にも立たないのは当然の結果である。


Ende;
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 京都大学教授松沢哲郎の文化... | トップ | スパルタ。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

意識論関連」カテゴリの最新記事