○毎度の生物学批判。
ヒトという生物種自体に人間としての価値や意味が存在する訳でもなく、単なる生物学上における生存優位性を並べたてても人間性の論証には全く結び付かない。
あらゆる「人災」を繰り返す習性性質というものが「ヒト」には存在し、その合理的原因究明や対策を放棄して特定個人に責任をなすりつけて安心満足する「悪者探し」をしてしまう行動バイアスというものが「ヒト」という種の生物にはある。
また、こうした先天的行動バイアスという条件反射的無意識行動を認識したがらない習性もあるため、一向に「人災」というものの根源的で合理性ある原因究明は進まないのである。
「ヒト」という種の生物自体に人間性が宿っているわけではなく、大脳容積とも短絡的相関があるわけでもない。振り込め詐欺師や天下り役人、或は通り魔無差別殺人犯の大脳容積が特に小さいといったことは全くなく、「ヒト」という生物種自体に人間としての価値を見出だそうとするのは科学的でも何でもなく、単なる生物学者達の勝手な妄想に過ぎない。
「チンパンジーの子育てを見ていると、共感する。」ことに一体何の科学的価値が存在するであろうか。チンパンジーというのはあくまで狂暴な野生生物であって、ヒヒやヒトを襲い喰い殺すこともあり、何ら生物種自体に「人間性」など存在しないのである。それは「ヒト」でも同じことである。
ヒトという種の生物は、そもそもがサルと共通の祖先を持っているため、本能的に同じ条件反射的思考停止バイアスを持ち合わせており、気分的な「共感」という主観によって客観的視点を喪失する傾向がある。これを意識的に認識せずに主観的な感想を並べ立てても、科学的検証には全くならないのである。
ヒトという種の生物がたまたま文明を発達させているからといって、それが短絡的に生物としての優位性の論証になると思ったら大間違いである。制御不能な技術を暴走させている限り、その技術を扱うだけの知能は事実上存在してはいないのである。
文明規模や科学技術の発達だけを取り上げて「知能」だと思い込むのは、合理的根拠を持たない文科系特有の大衆的な妄想に過ぎず。地球環境との調和による持続可能性や技術の安全性を確立出来ない限り、これは本質的には知能もすったくれもあったものではないのである。
環境との調和なくして、単なる個体の生存価だけを断片的に抽出枚挙しても、生物種としてのヒトの優位性や存在価値の論証には全くならない。
単なる技術的高度さという程度問題だけを論じても、持続可能性や安全性が確保出来ずに個人や組織の利益欲望を優先してしまうという本能的シーケンスによる無意識性、欲望の大きさに依存した意識の低さを放置したままである以上、如何なる科学的技術もマッドサイエンスに過ぎないのである。
文科系大衆観念的には、ヒトという生物種そのものに存在価値や意義が存在するものであると思い込みたい習性があり。そのため、自律的論理的思考の成立していない生物学者の多くは断片的なご都合主義的立証を抽出枚挙することで大衆やマスコミのご機嫌取りにばかり邁進するのである。これは洗脳状態であり、意識撹乱状態なのである。これを多くのヒトは認識することが出来ない。
「種」そのものに人間性や本質的社会性が宿るのではなく、個人の意識の高さや自律的論理検証判断という本質的意識、本質的知能思考によって、初めて人間性「人格」というものが成立するのであり。これは断片的な行動習性バイアスの抽出枚挙によって立証されるようなものでは構造原理的にない。
「ヒトとは概ね平和的で安全な生物である。」ことをどんなにたくさん抽出してきても、ナチズムによる虐殺やシエラレオネの少年ゲリラの残虐性、東電による危険性放置の原因究明にも反証にも、当然再発防止対策にも構造原理的につながらないのである。
にも関わらず生物学者達はヒトの行動習性の結果論だけから人間性を立証しようとし続ける。これはもはや科学というものへの反逆であり、当然社会に対する科学としての本質的要請の放棄でもあるのだ。
大衆の多くは科学的検証の全ては気分的に快楽を与え、常にヒトという生物種そのものの存在価値を立証するものであると勝手に妄想錯覚したがるが、こうした思考停止バイアスこそが科学的論理検証性を失わせる最も大きな原因なのである。
ヒトという種の生物は、神などの何らかの意思や意識的選択によって作り出されたものではなく。あくまで自然の中で偶発的に生存に適した「結果」以上の何も存在しないのである。従って本能的に組み込まれた行動バイアスや感情、気分といったものの全ては本質的には個人の主体的選択を介さない「結果」以上の何物でもないのである。
「目的」とは、個人の主体性に基づき、意識的な論理整合性を持った統合的行動選択によって選択されたものを指すのであって、統合的合理性を持たないその場限りの感情気分による環境依存的条件反射による行動バイアスというものは「目的」でも何でもないのである。
大衆観念上では、気分感情に基づいた行動バイアスこそが個人の個性や人格であると「思いたがる。」傾向があるが。それは単に「思いたい」という気分感情に基づいた思考バイアスによる身勝手極まりない実証不能の観念に他ならない。
頭の悪い生物学者が主張する「潜在知」などという観念も、自分の行動バイアスの全ては自分自身で意識的に選択しているものであるという身勝手な錯覚に基づく「思い込み」(バカ)に過ぎない。潜在している思考のバイアスというのは意識を介しておらず、刷り込み学習や洗脳的固定観念の「結果」以上の価値や意味は存在しないのである。
養老孟司が論じた「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた、ヒトとはそういうものである。」といった「ヒト性悪説」と。大衆迎合的な生物学による「ヒトとは概ね安全で平和的な傾向がある。」などという断片的論証「ヒト性善説」の二極論しか存在していない。これらはどちらもヒトという生物種の結果的傾向習性以上の何も論じてはおらず、何ら合理的結論を導き出さない不毛な議論である。こんな不毛な議論に執着しているからこそ、人類はいつまでも本質的人間性を獲得することができないのである。
人間性や「人格」というものは、個人が主体的に統合的論理検証判断をすることによって、初めて形成されるものであって、傾向性や習性といった無意識的「結果」の抽出枚挙によって立証されるものでは構造原理的にない。にも関わらずヒトという種の生物の動物行動習性から人間性を立証しようとする生物学者達は、もはや科学者としての存在価値はなく、合法的に公金を浪費する身勝手なオカルト宗教団体に過ぎない。
Ende;
ヒトという生物種自体に人間としての価値や意味が存在する訳でもなく、単なる生物学上における生存優位性を並べたてても人間性の論証には全く結び付かない。
あらゆる「人災」を繰り返す習性性質というものが「ヒト」には存在し、その合理的原因究明や対策を放棄して特定個人に責任をなすりつけて安心満足する「悪者探し」をしてしまう行動バイアスというものが「ヒト」という種の生物にはある。
また、こうした先天的行動バイアスという条件反射的無意識行動を認識したがらない習性もあるため、一向に「人災」というものの根源的で合理性ある原因究明は進まないのである。
「ヒト」という種の生物自体に人間性が宿っているわけではなく、大脳容積とも短絡的相関があるわけでもない。振り込め詐欺師や天下り役人、或は通り魔無差別殺人犯の大脳容積が特に小さいといったことは全くなく、「ヒト」という生物種自体に人間としての価値を見出だそうとするのは科学的でも何でもなく、単なる生物学者達の勝手な妄想に過ぎない。
「チンパンジーの子育てを見ていると、共感する。」ことに一体何の科学的価値が存在するであろうか。チンパンジーというのはあくまで狂暴な野生生物であって、ヒヒやヒトを襲い喰い殺すこともあり、何ら生物種自体に「人間性」など存在しないのである。それは「ヒト」でも同じことである。
ヒトという種の生物は、そもそもがサルと共通の祖先を持っているため、本能的に同じ条件反射的思考停止バイアスを持ち合わせており、気分的な「共感」という主観によって客観的視点を喪失する傾向がある。これを意識的に認識せずに主観的な感想を並べ立てても、科学的検証には全くならないのである。
ヒトという種の生物がたまたま文明を発達させているからといって、それが短絡的に生物としての優位性の論証になると思ったら大間違いである。制御不能な技術を暴走させている限り、その技術を扱うだけの知能は事実上存在してはいないのである。
文明規模や科学技術の発達だけを取り上げて「知能」だと思い込むのは、合理的根拠を持たない文科系特有の大衆的な妄想に過ぎず。地球環境との調和による持続可能性や技術の安全性を確立出来ない限り、これは本質的には知能もすったくれもあったものではないのである。
環境との調和なくして、単なる個体の生存価だけを断片的に抽出枚挙しても、生物種としてのヒトの優位性や存在価値の論証には全くならない。
単なる技術的高度さという程度問題だけを論じても、持続可能性や安全性が確保出来ずに個人や組織の利益欲望を優先してしまうという本能的シーケンスによる無意識性、欲望の大きさに依存した意識の低さを放置したままである以上、如何なる科学的技術もマッドサイエンスに過ぎないのである。
文科系大衆観念的には、ヒトという生物種そのものに存在価値や意義が存在するものであると思い込みたい習性があり。そのため、自律的論理的思考の成立していない生物学者の多くは断片的なご都合主義的立証を抽出枚挙することで大衆やマスコミのご機嫌取りにばかり邁進するのである。これは洗脳状態であり、意識撹乱状態なのである。これを多くのヒトは認識することが出来ない。
「種」そのものに人間性や本質的社会性が宿るのではなく、個人の意識の高さや自律的論理検証判断という本質的意識、本質的知能思考によって、初めて人間性「人格」というものが成立するのであり。これは断片的な行動習性バイアスの抽出枚挙によって立証されるようなものでは構造原理的にない。
「ヒトとは概ね平和的で安全な生物である。」ことをどんなにたくさん抽出してきても、ナチズムによる虐殺やシエラレオネの少年ゲリラの残虐性、東電による危険性放置の原因究明にも反証にも、当然再発防止対策にも構造原理的につながらないのである。
にも関わらず生物学者達はヒトの行動習性の結果論だけから人間性を立証しようとし続ける。これはもはや科学というものへの反逆であり、当然社会に対する科学としての本質的要請の放棄でもあるのだ。
大衆の多くは科学的検証の全ては気分的に快楽を与え、常にヒトという生物種そのものの存在価値を立証するものであると勝手に妄想錯覚したがるが、こうした思考停止バイアスこそが科学的論理検証性を失わせる最も大きな原因なのである。
ヒトという種の生物は、神などの何らかの意思や意識的選択によって作り出されたものではなく。あくまで自然の中で偶発的に生存に適した「結果」以上の何も存在しないのである。従って本能的に組み込まれた行動バイアスや感情、気分といったものの全ては本質的には個人の主体的選択を介さない「結果」以上の何物でもないのである。
「目的」とは、個人の主体性に基づき、意識的な論理整合性を持った統合的行動選択によって選択されたものを指すのであって、統合的合理性を持たないその場限りの感情気分による環境依存的条件反射による行動バイアスというものは「目的」でも何でもないのである。
大衆観念上では、気分感情に基づいた行動バイアスこそが個人の個性や人格であると「思いたがる。」傾向があるが。それは単に「思いたい」という気分感情に基づいた思考バイアスによる身勝手極まりない実証不能の観念に他ならない。
頭の悪い生物学者が主張する「潜在知」などという観念も、自分の行動バイアスの全ては自分自身で意識的に選択しているものであるという身勝手な錯覚に基づく「思い込み」(バカ)に過ぎない。潜在している思考のバイアスというのは意識を介しておらず、刷り込み学習や洗脳的固定観念の「結果」以上の価値や意味は存在しないのである。
養老孟司が論じた「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた、ヒトとはそういうものである。」といった「ヒト性悪説」と。大衆迎合的な生物学による「ヒトとは概ね安全で平和的な傾向がある。」などという断片的論証「ヒト性善説」の二極論しか存在していない。これらはどちらもヒトという生物種の結果的傾向習性以上の何も論じてはおらず、何ら合理的結論を導き出さない不毛な議論である。こんな不毛な議論に執着しているからこそ、人類はいつまでも本質的人間性を獲得することができないのである。
人間性や「人格」というものは、個人が主体的に統合的論理検証判断をすることによって、初めて形成されるものであって、傾向性や習性といった無意識的「結果」の抽出枚挙によって立証されるものでは構造原理的にない。にも関わらずヒトという種の生物の動物行動習性から人間性を立証しようとする生物学者達は、もはや科学者としての存在価値はなく、合法的に公金を浪費する身勝手なオカルト宗教団体に過ぎない。
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