書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

権力欲。

2011年07月05日 12時29分25秒 | 意識論関連
 権力欲に取り憑かれ、高慢な態度を取る者というのは。当人が「上。」と見なした権力者への服従性を、「下。」と見なした者に対しても要求するからである。

 つまり、当人的には偉そうにしたいのではなく。自分が「上。」と見なした誰かに対する従順性、忠誠忠実さとしての卑屈さを、「下。」と見なした者に対しても要求しないといられなくなっているのである。

 自分が「上。」と見なした誰かに対して発揮した卑屈さというものを、自分が「下。」と見なした者が自分に発揮してもらえないと、自分の卑屈さを正当化できなくなってしまうが故に「下。」と見なした者に対して卑屈さ、従順さ、忠誠忠実さを要求しなければいられない、「やってられない。」からなのである。

 この「やってられない。」とは、当人の勝手な気分である。そもそも「上。」とか「下。」というものの「見なし。」自体が、当人の勝手な価値観、好き嫌いに由来するものであって、相手の人格性を推し量って合理的につけた順位ではない。

 大臣の類が、自分を絶対権力者と勘違いしてしまう原因というのは。元々当人が絶対権力者というものが存在すると勘違いしており、それに対する卑屈な従順さを事後正当化しないといられなくなってしまうからである。

 こうした行動というのは、シツケを間違えた小型犬が飼い主の手を噛むのと行動習性的には同じ構造に由来するものであり。本能的に「下。」と見なした相手を服従させていないと不安で仕方がないという、無意識な情動行動の結果である。

 ヒトというのは、行動習性として従順で扱い易い者を信頼してしまう傾向がある。しかし、単なる従順さ、卑屈さに由来する「扱い易さ。」というものが、信頼に適することの合理的根拠にはならないのである。

 自分を絶対であると信じ込む者というのは、特定の他人を絶対であると信じ込んでいるからこそ信じ込むことができるのであって。従順で卑屈な者というのは自己自身の合理的思考が伴わないからこそ従順でいられるのである。

 生物学者の多くが、本質的意識の重要性を認識したがらないのは。学会こそが絶対であると勝手に盲信しているからである。学術的な真理を追求するよりも、学会への忠実さを発揮しておいた方が気分的に「安心。」だからであり。こうした「気分。」に基づいた理性的判断として、従来の「結果と目的の区別をつけない比喩。」にしがみつくのである。

 もちろん、この「理性。」的という行動選択は、気分という感情に基づく「理性。」であり。何ら論理的合理性を伴う科学的な根拠に基づくものではない。

 生物学者のほとんど全員は、生物学を絶対であると信じ込んでいるのであり。この時点で生物学界は科学でも何でもなくなってしまっているのである。

 外見上権力欲に取り憑かれた者というのは、論理的話が一切通用しない。なぜなら欲望という感情が優先してしまうからである。

 外見上感情的ではないように「見えた。」としても、その「見えた。」というのは「見えた。」と言っている者の感覚的観念によるものであり。論理的な根拠には一切なっていない。

 気分を優先すれば論理的思考は後回しになる。理性よりも本能が優先するのである。だからこそ振り込め詐欺などというものが成立するのである。これは「天下り。」などにおいても同様であり、天下り役人というものを受け入れる企業の体質自体が本能的な保身に基づいて受け入れているからこぞ天下りというビジネスモデルが成立してしまうのである。

 食肉偽装も同じである。ましてや暴力団や暴走族といった方向性のない集団などは、その内部の誰にも合理性というものが一切働いていないのである。

 本質的意識というもの、本質的合理性の重要性というものが認識できないのであれば。ヒトが引き起こす多くの問題は放置されることになる。それは解決可能な問題であっても解決しようとしないという無為無作為を促すものである。

 「ヒト。」=「人間性を伴うもの。」という、身勝手な観念というものは。自分というものが人間性を伴った、人間として正しい存在であるという身勝手な思い込みに由来する。

 自己というものが、基本的には動物的な「ヒト。」という種でしかなく。何も考えずに行動していればサルとほとんど違いのない存在でしかないことを認識した上で、本質的自己存在の根拠としての本質的自発性に基づく自律によって、初めて「人間。」としての存在を確保することが可能となるのである。

 本質的自己とは自己自身で確保するものである。それができなければ、子供と同様、「誰か。」に服従し続けなければ、社会性を確保することはできない。

 「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという、論理的根拠を伴わない大衆観念の原因というのは、こうした自律の欠落、本質的意識の欠落に由来する気分的な安心感を求める本能によるものである。

 服従するに価するかどうかの判断というものは、全ての人に課された義務である。社会の崩壊というのは、服従するに価するかどうかを誰も自律的に判断しないからこそ招くのである。

 市民の自律こそが民主主義の本当の在り方であり。それが嫌なら北朝鮮なりキューバなりに亡命すれば良いのである。民主主義の理想が失われるのは、市民の一人一人の本質的意識に基づく自律が欠落しているからなのである。
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