電動アシスト自転車というのはある。でもブレーキはアシストしていない。
自動車の場合ブレーキアシストというのはあるらしいんだけど、電動アシスト自転車の場合はブレーキアシストというのはない。回生発電機能のある電動アシスト自転車の場合は、一応25km/h以下ならブレーキアシストみたいにはなる。
自転車の場合、あんまり強力なブレーキをかけると危険なのかも知れないが、充分な電力源があるなら、アンチロックブレーキとセットでブレーキアシストをしてもいいのではないだろうか。
オートバイの場合、ステアリングダンパーというのがあるが、これも自転車にはないな。あるのかな、あったとしても一般向けのものではなさそうだな。
自転車ネタだと、対向車に対する前照灯の防眩。いわゆる「ロービームライト。」というのもない。市街地ではあまり問題にはならないのだが、荒川河川敷とか夜中暗闇になる所では電動アシスト自転車が向かいから来ると、眩しくて何にも見えなくなってしまって恐いことがある。自動車のロービームライトというのは、壁とかに投影するとわかるのだけど、水平から上には光がほとんど行かないようにできている。それを自転車も採用して欲しい。
オランダとかでは自転車は右左折停止を手信号で合図することが義務付けられているらしいのだが。走行中に片手手放し運転になるので方向指示器やブレーキランプを法制化すればいいのではないか。どのみち前照灯は必要なんだから、そうした保安機器を義務化してもよいのではないか。法制化すれば動作信頼性も保障されることになるし、新規マーケットも開拓されるはずなので、悪い影響は少ないと思う。
前照灯で思い出したんだけど、自転車の電装系というのは故障保障の対象外なんだそうである。だから発電器が不良品で、買ってすぐにライトが点かなくなっても保障はしなくても良いらしい。メーカーによっては自主的に保障してくれるところもあるらしいのだが、法律的にはしなくても構わないので、買ったお店に持って行っても直してくれない。
そんな法律で無灯火がなくなるわけがないのだが、誰かが手抜きをしているとしか思えない。法手続きというものは極めて機械的なものなので、あらゆる問題に対してその都度条文を決めておかないと対処というものができない。
まるでコンピュータプログラミングみたいである。コンピュータとか役人というのはバカなので、懇切丁寧に、噛んで含めるように詳細に教え込まないと何もできないのである。それこそ一文字間違えただけで簡単に暴走したりフリーズしたりするので厄介である。
法律というものの不自由さというのは、こうした役人のバカさに由来するものなのである。役人の全員がバカだとは言わないが、一般企業のような淘汰を経ていない分、バカでも保存される率は高いため、バカが多い傾向はある。
市民の為になることをしてもしなくても、評価収入には影響しないので、責任を負わないように、事なかれ的な無為無策でいた方が保身になるからである。
途中から意識論関連の話になっちゃったけど、忘れないうちに書いておくことにする。
役人特有の「縦割り行政。」というものも、結局は生物学的な社会形成習性としての服従本能によって、年功序列的な体制維持体質によって生ずるものなのである。上司の顔色だけ窺っておけば気分的に安心なので、それ以外の人間の意見は聞く耳を持たない。上という縦からの意見には忠誠忠実であるが、それ以外の横のつながりには気分的な充足が得られないので、イヌの社会形成と一緒で他のグループとは縄張り争いをするのである。
自律的に卑怯ではない行動を選択しなければ、それは人間として出来損ないなのであるが、そうした自律的判断というものを一切行えない、或は社会環境だの制度の問題であるかのごとく話を逸らすのが典型的なバカの論理である。養老孟司が良く言う「世間が悪い。社会制度が悪い。」という話は、全て公益倫理的な自律判断の欠落に由来するバカ特有の言い逃れであり、その構造は「通り魔の論理。」と同じものなのである。
自動車の場合ブレーキアシストというのはあるらしいんだけど、電動アシスト自転車の場合はブレーキアシストというのはない。回生発電機能のある電動アシスト自転車の場合は、一応25km/h以下ならブレーキアシストみたいにはなる。
自転車の場合、あんまり強力なブレーキをかけると危険なのかも知れないが、充分な電力源があるなら、アンチロックブレーキとセットでブレーキアシストをしてもいいのではないだろうか。
オートバイの場合、ステアリングダンパーというのがあるが、これも自転車にはないな。あるのかな、あったとしても一般向けのものではなさそうだな。
自転車ネタだと、対向車に対する前照灯の防眩。いわゆる「ロービームライト。」というのもない。市街地ではあまり問題にはならないのだが、荒川河川敷とか夜中暗闇になる所では電動アシスト自転車が向かいから来ると、眩しくて何にも見えなくなってしまって恐いことがある。自動車のロービームライトというのは、壁とかに投影するとわかるのだけど、水平から上には光がほとんど行かないようにできている。それを自転車も採用して欲しい。
オランダとかでは自転車は右左折停止を手信号で合図することが義務付けられているらしいのだが。走行中に片手手放し運転になるので方向指示器やブレーキランプを法制化すればいいのではないか。どのみち前照灯は必要なんだから、そうした保安機器を義務化してもよいのではないか。法制化すれば動作信頼性も保障されることになるし、新規マーケットも開拓されるはずなので、悪い影響は少ないと思う。
前照灯で思い出したんだけど、自転車の電装系というのは故障保障の対象外なんだそうである。だから発電器が不良品で、買ってすぐにライトが点かなくなっても保障はしなくても良いらしい。メーカーによっては自主的に保障してくれるところもあるらしいのだが、法律的にはしなくても構わないので、買ったお店に持って行っても直してくれない。
そんな法律で無灯火がなくなるわけがないのだが、誰かが手抜きをしているとしか思えない。法手続きというものは極めて機械的なものなので、あらゆる問題に対してその都度条文を決めておかないと対処というものができない。
まるでコンピュータプログラミングみたいである。コンピュータとか役人というのはバカなので、懇切丁寧に、噛んで含めるように詳細に教え込まないと何もできないのである。それこそ一文字間違えただけで簡単に暴走したりフリーズしたりするので厄介である。
法律というものの不自由さというのは、こうした役人のバカさに由来するものなのである。役人の全員がバカだとは言わないが、一般企業のような淘汰を経ていない分、バカでも保存される率は高いため、バカが多い傾向はある。
市民の為になることをしてもしなくても、評価収入には影響しないので、責任を負わないように、事なかれ的な無為無策でいた方が保身になるからである。
途中から意識論関連の話になっちゃったけど、忘れないうちに書いておくことにする。
役人特有の「縦割り行政。」というものも、結局は生物学的な社会形成習性としての服従本能によって、年功序列的な体制維持体質によって生ずるものなのである。上司の顔色だけ窺っておけば気分的に安心なので、それ以外の人間の意見は聞く耳を持たない。上という縦からの意見には忠誠忠実であるが、それ以外の横のつながりには気分的な充足が得られないので、イヌの社会形成と一緒で他のグループとは縄張り争いをするのである。
自律的に卑怯ではない行動を選択しなければ、それは人間として出来損ないなのであるが、そうした自律的判断というものを一切行えない、或は社会環境だの制度の問題であるかのごとく話を逸らすのが典型的なバカの論理である。養老孟司が良く言う「世間が悪い。社会制度が悪い。」という話は、全て公益倫理的な自律判断の欠落に由来するバカ特有の言い逃れであり、その構造は「通り魔の論理。」と同じものなのである。