○怪異
「騙される方も悪い。」一般的にはこれを「酷いこと。」と認識しているようであるが、論理的には間違いではない。あくまで観念的に残酷なこと、大脳辺縁系にとって「嫌な話。」ではあろう。
騙されるような愚かさが正義であるとは言えない。アイヒマン実験において権威に服従してしまうことを正義であるとは言えないからだ。
騙す方に何らかの「意図。」がある場合には「騙された。」ことになるのだが、誰にも意図が存在しないままに封建的社会構造や権威性、「コミュニケーション能力。」によって多数派同調バイアスに無意識に流されている場合、命令を行っている方も多数派同調によって観念的に命令が決定している場合。この集団においては誰も騙していないにも関わらず「暴走。」を招くことにつながる。これが最も恐ろしい状態なのである。
怪異というとお伽話を想起しがちであるが、現実に起きたホロコーストについては多くのヒトは怪異であるとすら認識せず、特定の指導者だけの異常性であると勝手に決め付け、本質的な原因究明も、当然それに伴う対策も一切行われない。
むしろ本当の怪異とは、こうした大衆の無為無策な観念であり。怪物/化け物というのは多数のヒトの無意識的な本能習性に従うだけの機械手続き性によって作り出されるものなのである。
怪物/化け物というと、文系の観念上においては社会の破壊を目的として用意周到に計画を実行するものであると考えがちであるが。実際の怪物/化け物に相当する人物というのは社会の破壊を目的とはしておらず、用意周到でもなければ深い思慮が伴うものでもない。
怪物/化け物の正体というのは、実際には多数大衆の大脳辺縁系を酔わせ、撹乱することで自分自身までもが自分の観念に酔うことによって社会を暴走へと無意識に導いてしまう存在なのである。
文系の観念上における天才的破壊者というのは、あくまで文系の観念におけるお伽話であり。現実の怪物/化け物の実態を捉えたものではない。文系観念上における天才的破壊者というのは、あくまで文系観念上における気分的高揚を煽るための想像上の産物であり、現実の怪物/化け物の実態を調査研究した結果ではない。
600万のユダヤ人を殺害する異常性というものは、特定の誰か、ナチス政権中枢の最高責任者であるヒトラーだけが異常であると「思って。」おくことで思考を停止してしまう習性が、ヒトにはある。だが、現実には破滅に至るまで暴走しただけであって、何ら思慮も計画も存在しなかったのである。これはオウム真理教の教祖自身も「弟子に従っただけ。」と論じていることからも立証されている。
怪物/化け物というのは、一人の異常者によって用意周到に計画的実行によって作り出されたものではなく。むしろ異常者を異常者であると認識せずに無為無策に服従し続ける多数の錯覚性によって結果的に「作り出されてしまう。」ものなのである。
ナチス政権というものの存在を、多数の大衆観念/文系観念上においては時代だの社会「空気。」といった環境の所為であると錯覚し、個人の自律の重要性であるとは全く考えないように無視する。文学的満足感からは社会安全性は確立できないばかりか、むしろ遠避けるものであることを認識すべきである。
本当の怪異とは、ヒトという種の生物の中に存在するのである。決してお伽話の中だけの話ではない。
end;
○マイケル:サンデル
サンデルはアメリカ人の異常性をネタにして興味を持たせているだけであって、消防隊が消火活動を行わないなどという選択肢は最初から有り得ないのである。アメリカでは機械手続き的「お役所仕事。」を民間が代行しているだけである。
サンデルというのは自分が提起したネタについてだけ議論させ、それ以外の人間の根源的異常性については全く議論しておらず。これは根本的な問題から意識を逸らし、提起した問題だけに議論をさせることによってあたかも「考えた。」ような錯覚に陥れているだけに過ぎない。
文系のバカが良く言う、「考えさせられた。」という錯覚である。実際には何も考えてはおらず、何の問題解決にも結び付くことはない。
サンデルというのは聴衆の興味を引くようなセンセーショナルな話をネタにして、聴衆に何かを考えさせたような錯覚に陥れることによって、バカな聴衆の多くを自分自身が何かを考えたような気分にさせているだけのペテンに過ぎない。
文系の観念的気分を満足させるのが上手いだけなのであって、聴衆に考えたような錯覚に陥れる「環境。」を作り出すのが上手いだけであって、現実には環境依存的な気分的満足以上の何も提供してはいない。従ってサンデルの講義をどんなにたくさん受けても自律的に物事を考えるようには構造的にならない。
サンデルが誘導している議論自体の「手法。」自体を客観視することが、多くのヒトにはできないことによって、多くのヒトはあたかも自分自身で考えたような錯覚に陥いり、サンデルの促す議論には全く有益性がないことには誰も気付かなのである。サンデルの講義特有の意識誘導による思考の限定性には誰も気付かない。限定された思考からは何ら有益な具体性のある「考え。」に到達することは原理的に不可能なのである。
アメリカ人の異常性を枚挙するだけなら「松嶋×町山未公開映画を見るテレビ。」と同じである。そりゃ面白いのであろうが、個人の自律的判断に関わる意識変革を促すようなものではない。
自分の国の異常な国民性を自慢しているだけのパラノイアであると言っても過言ではない。
サンデル自身は議論や疑問をふっかけているだけで、自分自身の考えを全く提示しておらず。これは構造的にサンデルだけが特別に議論の中心的役割を担っているかのように誘導しているだけであり、サンデル自身に具体性のある考えがあるわけでも、またサンデルが提起した議論以外が全くなされない構造的な思考の限定性からは、多くの聴衆は逃れることができない。
野球解説者の古田さんが言ってたけど、サンデルの提起する議論は荒唐無稽なのである。原発の場合責任者というのが存在するのであって、これを戦争と同等であると言う猪瀬副知事の論理は間違いである。戦争の場合は「他国の政治。」という介入不能な要素が存在するが、原発の場合は単なる技術者の無責任性によるものであり。現場の状況が戦争時下と類似していても、論理的には「事故。」であることに変わりはない。
「市場原理が必ずしも幸福をもたらすわけではない。」程度の帰結であれば、こんなものはマトモな人なら普通の話、当然の帰結に過ぎない。これにもっともらしい音楽を付け加えて、あたかも尊大な結論であるかのように演出してもサンデルの価値には全くならない。
どんなにバカ学生から「人気。」を得ているとしても、バカ学生達は自分の頭が良くなったような錯覚に陥って満足し、それによって同時に思考を停止していることには誰も気付かないのである。ヒトという種の生物の脳というのは気分的に満足すると何も考えなくなるように出来ているのである。
サンデルは個人的主観と客観的論理を区別しない。議論において個人が主観を述べていても、それが客観性を持った論理的思考ではないことを全く指摘することはない。こうしたサンデルの大衆迎合性こそが、動物習性的な「コミュニケーション能力。」であり、「話を丸める。」ということなのである。
サンデルは講義において、本当にややこしい話に対しては深く追及したりはしない。面倒臭くなると「大変面白い意見ですね。」などと観念的に形容するだけで、全く論理的追及や検証といったものを行わせないし、行わない。サンデルが行っているのは議論がスムースに進行するように意識誘導しているだけであって、これは田原総一郎の身勝手な「仕切り進行。」と全く同じものである。
田原の場合、田原自身が述べるように結論など最初から求めるつもりはなく。あくまで制限時間内にそれぞれの意見を引き出すことを目的としているものであるが。サンデルの場合は議論の最後に「有意義な議論が出来ました。」などと言い張る。
実際には何ら問題に対しての原因究明も、対策にも言及していないにも関わらず、サンデルの個人主観的な感想として「有意義。」であると身勝手に決め付けているだけであることを、多くのヒトは「ハーバード大学の人気教授。」という権威性によって意識から外してしまうのである。
これに言及することはサンデルは行わないであろう。なぜなら従来の議論進行を妨げられ議論が混乱することによってバカ学生の気分を損ね、人気を失うことを避けたいからである。
サンデルの講義というのはバカ学生達の気分を高揚させることはできても、何ら具体性のある論理的に「有意義。」な帰結に到達することは原理的にできない。
サンデルの講義というのはセンセーショナルな「ネタ。」を素に、サンデルが規定した限定の内部においてのみ考えを述べさせるだけのものであり。あくまで「サンデルの講義。」という「環境。」においての「結果。」的思考しか導き出さない。従ってサンデルの講義をどんなに受けても、自発的に問題自体の発見や、問題に対する原因究明も対策も自発的に「考え。」るようにはならない。
その場限りの気分的満足によって、むしろ思考停止を促されるだけである。
大抵バカ学生の多くは、「やらないよりはマシ。」といった論理的根拠のない観念を振り回し、自分の意識がサンデルによって誘導されていた頭の悪さを意識から外し、自分の無思考性を事後正当化しようと試みる。
ヒトの多くは自分が既に行った行動や判断といったものの全てを、自分自身の意識的な判断によるものであると錯覚するため。事後正当化のための論理的根拠のない屁理屈を陳列して「取り繕い。」や「言い逃れ。」にばかり意識を奪われる。これこそが「無意識。」的な条件反射行動であり本能的強迫観念による行動であることを自律的には認識することができないのである。
どんなに強く「思って。」も、それは「考え。」ではないのである。この区別ができないことには「思考。」は成立しえない。
論理的「考え。」「理性。」それだけであれば思考は促されることはないが。何が「思い。」で何が「考え。」であるのかを論理的に分別できないことには「思考。」にはならず、単なる固定観念の奴隷に過ぎない。「思考。」が成立しなければ新しい「考え。」は構造原理的に出て来ないのである。そこに残るのは単なる「思い込み。」でしかない。
end;
○脳血流や脳活性を短絡的に「脳に良い。」とするのは間違いである。
これは何度も述べたはずであるが、マスコミは全く認識していないようである。
そもそもほとんど全く効果のなかった脳トレ類における効果の論拠としたのが脳血流である。
「左右バランス良く活性させることが脳に良い。」とするのも論理的には根拠がない。利き手と逆の手を用いるという普段と異なる「慣れていないこと。」を行えば脳血流の増加は必ず起こる。利き手と逆の手を用いる「学習。」をしたところで、論理的思考や論理検証性、自律的社会責任選択を行うことの論理的根拠は全く存在しない。
自発的に興味を持たないトレーニングをしたところで、脳は無用な機能を無意識「学習。」するだけであって、何ら意識的/論理的思考が働くことにはならない。
要するに脳トレ類の話を鵜呑みにしていること自体が論理的思考が全く働いていないからであり、これが最もバカへの近道なのである。
「これさえやっときゃ頭が良くなる。」的な話を垂れ流すマスコミも無責任である。たとえそれが視聴率に反映するとしてもである。
end;
○本能的目的とは本質的な意識的目的ではない。
本能的な目的というのは、予め本能的に組み込まれた快楽や安心を追及するだけの無意識的な目的であり、これは本質的には目的ではない。
たとえ本能的な目的行動の結果が生存や種の保存に適しているとしても、それは生存や種の保存に適しなかった個体の淘汰の結果として適した種への自然選択の結果であって。本能的目的の結果である生存や種の保存というのは本能的目的とは無関係で構わない。個体の本能的な目的とは予め組み込まれた快楽や安心の追及だけであり、決して生存だの種の保存といった個体の本能的目的を超越した超自然科学的目的を立証することは不可能である。
生存や種の保存に適する本能行動をどんなにたくさん抽出してきても、本能行動の全てが常に生存や種の保存に適することの論証にはならないし。また生存や種の保存を目的とした目的意識の存在も実証不能である。
こうした簡単なことであっても説明しないと理解しないというのは、最初から自発的探究心自体が欠如しているからである。
生物/脳科学者達の脳には、一種の正常性バイアスや多数派同調バイアスが働いているので、科学的に異常な観念であっても誰も疑うことをしなくなっているのである。東大の佐倉統が多数依存するのもこのためである。
そもそも、本能的目的というものが本質的には意識的に選択された目的ではないなどという簡単な話も自分で判断できない時点で、彼らが充分に「高学力なバカ。」であることの証明でもある。教えられたことなら何でも答えることが可能であっても、教えられていないことは全く思慮が働かないバカを税金で雇う必要性はない。糞の役にも立たないからである。
end;
○色の識別能力。
言語によって色の識別に違いが生ずるというのは無理がある。むしろ生活環境によって色の識別に違いが生じた結果として言語に違いが生じていると考えるべきであろう。
縦縞の中で育ったネコが横縞を認識できないのと同様、生活環境によって認識できる色の差も違いが生ずるのではないか。その結果として言語上色の分類が異なるのも必然となる。
先に言語上における色の差があって、その結果として実際の色の識別に影響するというのは順序に無理がある。
end;
○オセロ中島
高齢女性がマインドコントロールにかかり易いらしい。
女性の殺人事件の例も40代がピークである。
女性の場合大脳辺縁系の活動は40代がピークであり、この世代が感情による自己制御を喪失しやすい傾向が見られる。
ヒトというのは既に信じ込んだ観念を事後正当化しないといられなくなる性質がある。自分の感情的価値観を否定されると拒絶反応を示し、あらゆる非論理的取り繕いによって正当化しようとするのである。
振り込め詐欺もマインドコントロールの一種である。養老孟司なんぞ信じているからバカげた観念が蔓延するのである。
end;
○phenotypic accommodation
特定環境や条件の下において発現獲得する能力であっても、そもそもが遺伝的に発現可能性の上における結果であって。それが特定環境や条件以外において発現しないからといっても遺伝的に発現不可能な能力を獲得しているわけではない。
ヤギは通常4本足で生まれてくる場合がほとんどであるが、足が4本あれば特に二本足で歩行する必要性がないから二本足歩行の能力を発現する必要性がないから発現しないのであって。ヤギが二足歩行能力を獲得したからといって特別遺伝的能力を超越しているわけでもなければ、遺伝要素を超越して進化しているわけでもない。
そもそも遺伝要素の全ては結果であって、ヤギが必ずしも4本足で歩くためだけに何らかの方向性や意図といったものが介在して進化しているわけではなく自然淘汰の「結果。」に過ぎない。脳の可塑性も、骨格の可塑性も、筋肉の発達に関しても環境や状況における「結果。」以上の何物でもないのである。
4本足で歩行する機能が発達しているとしても、それは4本足歩行が特定環境に適応した結果であって。そこに意図目的意識による選択が介在しているわけではない。
「生存戦略。」と称して、あたかも個体の本能を超越した目的意識が存在するかのような観念自体が間違いであることを、多くの生物学者達は認識したがらない。それは、そもそも論理整合性に対する問題意識自体が存在しないからである。
問題意識自体が存在しないということは、科学的検証性自体が全く働いていない証拠である。「生存戦略。」云々を自律的に検証できなかった研究者というのは科学者としてポンコツであることは明白である。こんなバカを税金で温存しておくからバカなオカルト体制が維持されてしまうのである。学力だけで判定するような基準自体がそもそも間違いであり、自律的に何も気付かないようなバカであれば早々に廃棄処分すべきなのである。
end;
○タイトルを入力してください(必須)
後天的形質変化が可能であること自体、先天的な後天的形質変化の可能性ありきの話であって。先天的遺伝要因以上に後天的な能力を獲得できるわけではない。
チンパンジーの瞬間記憶も、ヤギの二足歩行も、速読暗記術であろうと先天的な潜在能力の発現に過ぎない。これらの能力において、あくまで環境依存的要因によって引き出されている限りにおいて、そこには自発的目的意識による行動選択が働いているとは言えない。それらは常に環境依存的な「結果。」であって、「目的。」ではないからである。
チンパンジーが瞬間記憶能力を身につけるのはエサに対する機械条件反射としての学習の先鋭化の結果であり。ヤギの二足歩行も生活上での利便性の結果であり。速読暗記に関しては他人からの評価という具体性のない抽象的価値観に依る結果に過ぎない。
人間としての自律的社会的責任判断においても、それはヒトの潜在的能力の一つではあるが。その必要性自体を認識可能かどうかは個人の意識によるものである。
振り込め詐欺師集団やシエラレオネの少年ゲリラが発揮する生物本能的社会形成習性であっても、これもまたヒトという種の生物が持つ潜在的能力の一つである。搾取や暴力が横行する環境に適応したからといって、それがヒトという種の生物の優位性や知能であるなどとは言えないのである。
現在の生物学会内部においては、生存に適するあらゆる屁理屈は業績として扱われるであろうが。これは生物学会という閉じた封建的社会内部だけに通用するオカルト観念に過ぎない。だから彼らは誰一人として自律的には論理検証を行わずに学会内部の多数決を無条件に受け入れるだけなのである。「大勢を占めていない。」だの「○○であると言われている。」という話の全ては、言っている奴の自律的論理検証性の欠如の証明にしかならない。
「命は尊い。」と称して、社会的責任を放棄しておいた方が個体の生存価に適する場面においてまで生物的生存価を絶対的正義とするのは異常である。人間としての社会性に基づく価値観において生物的生存は意味を持たない。文学的快楽など意味がないのである。
本質的尊厳に言及するのであれば生物的な生存とは無関係である。文系の観念というのは常に断片的でその場限りの気分的快楽しか追及していない。彼らにとって論理整合性には価値がないのである。
論理整合性がないということは、言っていることに責任を持たないということであり、無責任だからである。マスコミの無責任さというのは文系の観念による身勝手でその場限りの決め付けが原因である。彼らにとって理論的原因究明も具体性対策にも興味はなく、その場限りに大衆迎合することだけが目的であるからだ。
end;
○扁桃核
扁桃核には相手の表情に条件反射的好き嫌いが先天的に組み込まれているという。
しかし、だからといって好き嫌いの全てが先天的に組み込まれていることの論証にはならない。単に相手の表情に対する反射的印象が無意識的に組み込まれていることだけを断片的に抽出してきても、何ら無意識性自体の正当性の論証になるわけでも何でもない。
好き嫌いは所詮動物的な本能的行動選択しか作り出さない。
生物学は一体何を論証したつもりになっているのか、さっぱり意味がわからない。
先天的に何かが組み込まれているからといって、先天的機能が人間の行動として正しいことの論証になっているわけでも何でもない。
先天的であれ後天的であれ、無意識的な条件反射行動の全ては本質的な意識的選択によるものではない。
「好き嫌い。」という感情論で行動が決定するのは動物的には普通で正しい行動であると言えるかも知れないが。人間としては目先の感情論で行動が決定して良いというわけにはいかない。
600万人のユダヤ人を死体に変換したのも、地下鉄に毒ガスを撒いたのも、原発を暴走させたのも。これらもまた協調行動「チームワーク。」や気分的共感性、共鳴による「コミュニケーション能力。」であり、また、その時代社会における社会的成功によるである。
バカな大衆凡民を丸め込むだけなら、社会的成功を「エサ。」に意識を誘導し、特定の時代や社会における価値観だけに意識を狭窄化させることも簡単であろう。それによって時代や社会に左右されない普遍的価値観といったものを無視させることは非常に簡単なことなのである。
簡単な話に簡単に引っ掛かるからバカなのである。
「社会を変える。」だけなら詐欺でも事故でも社会は変わる。変わりさえすれば何でも良いという短絡的なものではなく、「どのように変えるべきであるか。」を選択できないことには本質的意識は介在していない。
どのような社会であるべきか、自分が生きるに価する社会の姿とはどのようなものであるかを選択するのが「意思。」であり、意識的選択である。
そこに主観的「気分。」を持ち込んでしまえば論理的追求は全くできなくなる。話にも何にもならない。
本質的意識というものは感情本能には左右されない本質的合理性によって選択されるものであり。本能習性をどんなにたくさん抽出枚挙してきても本質的意識、「人間としての選択。」について言及することはできない。
本能習性には悪いものも良いものも混在しており、常に「人間としての行動選択。」になることの保障がないからである。
本質的な「人間としての行動選択。」とは、個人的主観的本能感情に左右されない本質的な合理性追求によって促されるものであり。冷静で客観的で論理的な判断選択が不可欠である。
現在の生物学における、個体の本能習性を超越した超自然科学的目的意識の存在を正当化するような非科学的観念を振り回す限り、常にヒトの本能的行動習性の結果の全ては正当化されることになる。それはすなはち個人の主体的自律判断というものには意味を持たない動物習性万能論にしか至らないのである。
それなら犯罪も事故も誰の責任でもないということである。そんなバカげた話が正当化されて良い訳がない。
一人のヒトが自律的に社会的責任選択を行うかどうかについて、その原因を個人の自律的行動選択に求めない限り。全ては環境依存的な結果論にしか至ることはない。
ヒトという種の生物は、本能や感情といった無意識によって行動を左右されがちである。だからといって個人の自律的な判断が不可能である論証にもならないし、また個人の自律的判断が不要であることの論証も成立しえない。
「概ね。」ヒトが無意識的に行動選択していることを抽出枚挙陳列しても、無意識的行動の全てが人間として正しい行動選択になることの論証になどならない。
無意識的な行動「結果。」をどんなにたくさん抽出枚挙してきても、こそからは無意識的傾向「習性。」以外の何も立証されることはなく。習性という無意識的な「流れ。」に抗う意識的行動選択を行動習性的に抽出枚挙することは原理的に不可能である。
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本質的意識、本質的合理性追求、本質的自己自律選択というものは平均的ヒトの行動習性の枚挙によって立証されるようなものでは最初からない。現在の生物学では「本能的行動の結果=目的。」というオカルト的観念に基づいた立証方法が科学的立証方法であると刷り込まれ、バカになっているのである。
end;
○自己満足
「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い行動習性の多数抽出に。多くの論理的思考のできない多数大衆に気分的安心を与えるという大衆迎合、人気取りを。論理的検証性のない生物学/マスコミは行っているのである。
こうした大衆人気取り、大衆迎合というのは科学的価値が全くない単なる気分的自己満足にしかならない。
都合の良い行動習性の多数抽出というのは実際には「ヒトが人間たりうる所以。」とは無関係であるからだ。
どんなに都合の良い行動習性を多数陳列したところで、「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。
「ヒトの全ては無条件で人間。」であることにしておけば、多数の大衆にとっては気分的に満足するのであろう。それによって何も考えなくて済むと勝手に思い込むことができ、思考を停止することによる気分的満足、安心を得られるからである。
こうした気分的満足を与えることは科学や哲学の役割ではない。
現在の生物学/人文科学は科学としての社会的役割、社会的要請、社会的責任を全く果たしていないばかりか。「人間とは何か。」についての論理科学的検証を不具にし、宗教的盲目撹乱による社会的負担、負荷にまでなっているのである。
マスコミはこうした生物学の無責任性を、大衆迎合、人気取り、金儲けのために助長こそすれ。全く批判するつもりはない。無論多くの大衆も、その無責任性を認識することはできない。
これは完全に目的のない洗脳状態であり。最も危険な状態であることを認識すべきである。目的がない状態で気分的満足ばかりを追求していれば暴走以外に至る結末はない。
暴走状態にある集団内部の気分は、とても安心であり。全く「恐く。」など感じない。だからこそ暴走を誰も止めることができないのである。暴走状態に恐怖を感じるのは集団の外の者だけであり、暴走している当人達は全く恐くなどないのである。
とは言っても、本論はむやみに恐怖心を抱けと論じているわけではない。論理整合性のない話に気分的満足をすることで論理検証性を喪失することの危険性を論じているのである。
「ヒトの行動習性=人間としての社会性。」という、大衆観念にとって都合の良い話で気分的満足していては科学としての価値。普遍性の論証にはならないことを認識することが肝要なのである。
どんなに大衆観念的な満足をしても、振り込め詐欺が減るわけでもないし。通り魔が発生しなくなる論証にもならない。気分の問題では物理的、実質的には何の効果も存在しないのである。むしろ、論理的検証性を失うことによって、何も自律的に「考え。」なくなる危険性が増大するのである。
「考え。」が成立しなければ危険性は回避できない。安全性というのは気分的「思い。」によって担保されるような安易で短絡的なものではないからである。
マスコミが気分的安心と論理的安全性をむやみにセット販売したがるのは、気分的安心を提供しておけば大衆迎合による人気取りができるからである。
気分的安心というのは主観である。論理的安全性の有無に関わらず、気分的安心を得られるかどうかは個人差があり、安全性とは無関係な気分の問題に過ぎない。問題なのは論理的安全性を追求せずに気分的に安心してしまう精神的怠惰である。
気分的安心というものは、振り込め詐欺に騙される心理的「隙。」を与え。あらゆる問題解決に対する意識、「問題意識。」を奪う。
「ヒトとは、概ね人間性を伴い。概ね安全な存在であり。概ね社会的責任を担保する傾向がある。」と思い込んでいれば、大衆観念的には安心なのであろう。だから現在の生物学の観念に誰も論理的検証も反論もしないのであろう。
「概ね。」という傾向性さえ立証されておけば、全てが正しい方向に向かうと。大衆観念的に「思う。」のであろう。
だが、現実にはそう簡単で短絡的なものではない。それは原発の暴走によって嫌という程経験しているはずである。「ヒトは概ね社会安全性を担保する傾向がある。」ことをどんなにたくさんのサンプリングから「立証。」しても、「ヒトの行うことの全てが常に論理的安全性が保障されている。」ことの論証にはならないのである。
概ねヒトは詐欺師にならないとか、概ねヒトは通り魔にはならないとか。概ねヒトは原発を暴走させない。といった「概ね。」論では社会の安全性を高めるための論理的追求、論理的確立には寄与しないのである。
概ねヒトは絶滅しない傾向性を挙げても、絶滅への傾向性の反証にはならないのである。
概ねヒトが他者にも物を分け合う傾向性を陳列しても、社会公平性が築かれるわけでも何でもないのである。
「概ね。」という習性、傾向性の枚挙というのは、現実には社会的に全く糞の役にも立たない気分的満足しか提供することはないのである。
そして気分的満足を与えない大衆観念にとって都合の悪い、アイヒマン実験のような立証は「稀。」であるとして大衆の意識から外され、無視され、その重要性を蔑ろにされるのである。
そうして多くの「ヒト。」はバカのシーケンスに浸って満足するのである。
このことをここ一年程Weblog上で論じて来たが。ほとんど理解周知されないのは、世間の大多数のマスコミや学術的権威がよっぽどバカであるからとしか考えられない。まあ、養老孟司や松沢哲郎が一流国立大学の教授を勤め。室山哲也がNHKの解説委員を安穏と続けられているのであるから当然でもあろう。NHKでは室山以外にも現在の生物学のパラダイムに無批判なバカ解説委員が他にも大勢いるようである。
「一匹見つけたら、一万匹はいると思え。」
マスコミというのは大衆からの人気取りによる、社会的報酬利益という本能的目的以外に意識は働かない。学力が高いだけのバカというのは。顕在化した通り魔やテロリスト以外にも山ほどいると考えるべきである。むしろ「ほとんど全員。」だと考えた方が良い。
そうでなければ論理的根拠の欠落した従来の生物学のパラダイムがこれほど科学的理論として温存されるはずがないのである。
従来の生物学の観念。個体の意図を超越した、超自然的な目的意識の存在立証を温存しておけば。ヒトという種の生物がなぜ封建的社会に陥るのかも説明されえない。それはすなはち役所の縦割り意識が無意識であるということも。子供のイジメがなぜ発生するのかも、その構造や原因の究明、対策といったものが全くされないということである。
子供が組織的に協調行動によってイジメを行うことであっても、それは生物学によって何らかの生体にとって必要とされる断片的「意味。」がこじつけられ観念的に正当化されてしまうからである。この点においてはスタンレー:ミルグラムも同様の間違いを冒している。それが「サイバネティクスの観点。」という「結果。」論である。
そして、「ヒトはなぜイジメを行うのか。」についての探求は放棄され。「わからない。」の一言で済まされてしまうのである。環境条件において発生したりしなかったりする「再現性の悪い。」事柄というのは、傾向性によって「立証。」することができないからである。生物学者の脳というのは、傾向性によって何かを立証するという形式以外には意識が働かないように、脳がバカになっているのである。
生物学者達にとって、真理は探求されない方が地位を脅かされないので安泰である。都合の良いことに大衆の多くは観念的な生物種としての正当化だけで気分的に満足し、何も論理的反論や追求をすることはない。
ましてや本能的に権威に服従し、盲目的に信頼することで安心して何も考えない習性というものがあるなら。それはむしろ積極的に利用して権威性を維持するための手段にしておいた方が「得。」であると考えるであろう。
それなら本論が隠蔽の対象にしかならないのは必然というものである。
end;
○稀なこと
「稀なこと=些細なこと。」という方程式は身勝手な大衆観念である。
重大事故は稀にしか発生しないから些細だとでもいうのであろうか。こんな論理矛盾こそが社会安全性の最大の敵であることを、多くの大衆は自律的には認識できない。
「概ね起こらないこと。」には気分的な危機意識、観念的恐怖心が働かない「習性。」というのがヒトという種の生物にはある。こうした無意識的な「習性。」に流されるだけだから人間としての社会性を喪失することになるのである。
特定の他人にだけ自律的に社会的責任判断を要求しておきながら、自分自身は自律的には社会的責任判断を無視し、放棄し、蔑ろにしているというのは身勝手以外の何物でもないことを、多くのヒトは意識からはずして気分的に満足する。
気分的満足によって、自己の思考が停止していることには誰も自律的には気付くことができない頭の悪さを改善しない限り。何が間違いであるかを「誰か。」がいちいち、その都度説明しなければならない。こうした状態を「バカ。」と形容する以外に私は形容の仕方を知らないし、知りたいとも思わない。
ヒトの多くは、イスラム教典の戒律のように、行動のいちいちを「誰か。」に予め決めておいてもらい。それを盲目的に「信頼。」しておくことで気分的満足を得ることによって盲目性を作り出すことが可能となる。サウジアラビアの入国審査において、何らかの神を持たない者の入国を拒否するのは。「神をも恐れぬ者は、何をしでかすかわからない。」という観念的恐怖心によるものである。そもそも「神がいなければ何をしても許される。」という観念自体、「許して。」もらうという他者に依存した自律の欠落を意味するものであり。中東由来の一神教特有の強迫観念に過ぎない。
戒律や法律というのは、あくまでそれらの規則の基となった「主旨。」こそに意味があり。主旨を逸脱した盲目的、かつ機械条件反射的服従迎合に意味があるのではない。
イスラム教に限らず。宗教の持つ危険性というのは、戒律に対する忠誠忠実性によって促される気分的満足や、「美しい。」という主観、感覚、観念によって自律的論理思考が停止してしまう盲目性にある。こうした盲目性というのは宗教に限らず法令遵守に対する異常な盲目性の基にもなるものであり、個人の自律的判断を不具にする盲目性の大きな要因である。気分感覚的満足こそが論理的思考を阻害するのである。
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傾向性の陳列は犯罪や事故の抑止には何の影響も与えない。「ヒトとは、人間性を持つものである。」という勝手な決め付けは、あくまで「概ね。」の傾向性を述べているだけであって。傾向性をどんなに陳列してもヒトという種の生物が常に人間性を発揮することの論証にはならない。
ヒトというのは、本質的な意識が働かなければ人間としての行動選択ができないのである。それは傾向性の陳列による一面的「立証。」とは無関係である。
生物学者達は自分達の固定観念を保守することにばかり意識を奪われているが。それによって本質的な人間としての意識というものがどのように失われるのかについての研究が全くなされないという社会的損失を無視した傲慢な態度であることすら、彼らには自律的には認識できないのである。
自分達の間違いを自律的に自浄することができないことを、多くの生物学者達は社会的負担/損失であるということすら認識したがらない。
もはや何度も論じたが、チンパンジーの行動習性をどんなに陳列しても、人間としての社会性の立証になどならない。それを「些細なこと。」「つまらないこと。」だと勝手に「思う。」のであろう。松沢哲郎は生物種としてヒトでありさえすれば、あらゆるヒトは人間としての社会性を持っているなどと勝手な観念に基づいた屁理屈を陳列している。これは科学ではない。
原理的に不可能な立証方法論をでっちあげておいて、それが大衆観念的にウケた、話題になったからといって。それが科学的に意味を持つわけではない。
松沢は単なるチンパンジーマニアに過ぎないのである。過去に何をしたかが重要なのではない、今現在においてポンコツであるなら、それは早々にお払い箱にすべきなのである。ましてや税金を使うのであればなをのことである。
マスコミ大衆や生物学系研究者達は、傾向性さえ立証すれば全ての問題が解決するかのような不毛な観念を本気にしているようだが。傾向性とは「概ね、そうした傾向がある。」ことしか立証していないのである。
ヒトの多くが概ね詐欺をしないこと立証して、それで詐欺師を更正させることに影響があるであろうか。
ヒトの多くが暴力的ではないことを立証したからといって、それで戦争が減らせるであろうか。
ヒトの多くが他人にも金や食料を分け与える傾向性を立証して、それが社会の公平性を担保するであろうか。
これらの傾向性の立証というのは、単に「ヒトという種の生物は、概ね人間性を持っている。」というだけの「概ね。」論に過ぎず。稀に生じうる重大事象について全く糞の役にも立たない勝手な自己満足に過ぎないのである。
「ヒトの多くは、概ね人間性を持っている。」傾向性を提示しておけば、バカな大衆凡人達は気分的に満足して、「素晴らしい。」だの「美しい。」だのといった主観的形容という満足や安心のまどろみに浸って思考を停止する。これは大脳辺縁系を満足させることによって大脳新皮質を麻痺させているバカの論理である。
ヒトは気分が優先するようにできている。大脳辺縁系の感情が優先するような「仕組み。」が脳にはあるからだ。ヒトというのは初期的には動物である。従ってヒトは人間としての行動を常にできるようにはできていない。
それを「概ね。」可能であることを陳列しても、常にできない以上習性や傾向性自体に意味があるわけではない。
こうした話を、多くのヒトは「嫌なこと。」であると称して、条件反射的に無視し、意識から外し、思考を停止させて満足する。これこそが「ヒト。」という種の生物に先天的に組み込まれた「バカのシーケンス。」である。
多くのヒトは嫌な話を聞くと、その嫌な気分だけを行動学習してしまい。拒絶反応だけをシーケンシャルに記憶する。認知症の患者に見られる機械条件反射的な拒絶反応というのは、大脳辺縁系の気分だけが行動を「学習。」してしまうことによるものであり。これは認知症の症状の有無に関わらず、ヒト全般に見られる「習性。」「仕組み。」である。
「仕組み。」というシーケンスに無為無策に流されるだけであれば、そこに自由意思など存在しない。それをただのバカと言うのである。
習性だの傾向性がどうあろうとも、自律的に自分の行動を選択することによってのみ。ヒトは人間足りうるのである。
そこに多数他人の意見だの、社会的成功といった既存の価値観は意味を成さない。世の中の間違いを人類が修正できないのは、間違いを間違いと認識できないからである。決して社会制度といった環境依存的な原因によって世の中の間違いが修正されないということではない。ましてや制度上は民主主義である日本においては、なをのことである。
マイノリティとオカルトの区別がつかないのは、そこに論理的検証が介在しないからである。多数意見でありさえすれば多くの学者やマスコミは安心して「信頼。」することが可能であろう。その「信頼。」に論理的検証性が伴わないから盲目性なのである。
オカルト生物学を鵜呑みにしていることの無責任性を、マスコミは認識しなくてはならない。それがマスコミの社会的責任であり、本質的な要請であるからだ。
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○感覚
文科系学者が言い出す、本能感覚的「快楽。」というものを、あたかも論理的思考を超越した優れた知性であるかのように形容するのは。本能的気分、本能的感覚が促す快楽の程度や強度が促す錯覚に過ぎない。
感覚は「知能。」ではない。知能とは感覚器官からの入力強度に依存せずに、論理的分析によって促される「考え。」である。
錯覚というものは感覚が促すものである。錯覚を錯覚と認識するのが知能である。感覚を優先していれば知能は働かない。
合理性というものを無視すれば、残るのは感覚だけであり。錯覚が促す気分的満足のまどろみだけである。
文科系の者は合理性という言葉に異常な拒絶反応をするが、これは感覚が促す錯覚しか優先させない。感覚を優先させておけば気分的には「安心。」であろう、その「安心。」こそが論理的思考を阻害することの危険性は、感覚的には優先されないのが「ヒト。」という種の生物の習性である。
これがヒトのバカたる所以であることは、マスコミは扱うことを拒絶するのである。
ゲリラのように暴力的である場合、生存価に適するかどうかは環境次第である。暴力的な者同士による協調行動が生存に適しても何ら不思議ではない。どのような個体が生存に適したかを結果だけから決定することは原理的に不可能である。
強姦されることに快楽を感じる個体の遺伝子が遺った「結果。」として、強姦されることに快楽を感じる習性があるとしても。それは個体の意識的目的とは無関係である。
虐待を連鎖する習性も「結果。」である。結果的習性に抗い、無意識的条件反射である連鎖を止めるのが「目的。」意識である。
「結果。」をどんなに枚挙しても、それが「目的。」意識を励起することにはならない。「結果。」に何を「感じて。」もである。
アイヒマン実験の結果であっても、多くのヒトは自分自身の意識の問題であるとは「思わ。」ないのである。
認識によって行動や思考を変えるのは論理的分析であり、「考え。」である。決して「思い。」や「感じ。」ではない。
従って、本質的意識とは「思い。」や「感じ。」ではない。「思い。」や「感じ。」は固定観念や本能的拒絶反応しか生み出すことはなく、不毛である。
アイヒマン実験においても、著者の分析では生物学的論証として意味のこじつけがなされている。「サイバネティクスの観点から。」と称して、断片的な有効性を枚挙しても無意識本能的服従習性が常に正しい結果しか導かないことの論証にはならないのである。
アイヒマン実験の著者であるミルグラムでさえ、その分析段階では生物学的なこじつけをしてしまう程、ヒトとは短絡的なものなのである。
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