なんでもかんでも火力の強い焼却炉でバンバン燃やしちゃえ、
という当今の傾向がある中、
私の住む調布市は、ゴミの分別をしっかりする。
「燃やせるごみ」と「容器包装プラスチック」は分ける。
仔犬の頃、人が留守にしている間に、ごみを散らかしてかじって遊ぶ、
ということが流行った。
かまってくれる人がいないし、何かを咬むのは気持ちいいし、
プラは特に音がして面白いし、後で見つけたらなんか人間も興奮して楽しんでる様子だし、
といったところが仔犬の気持ちだろうか。
ごみを散らかされても、どうでもいいことの振りをして、
落ち着いてただ片付ける。
帰宅して、床中に散らばったごみくずを見るのはひどくショックだが、
そこで感情をあらわにしてはいけないようだ。
なにした!なんて大声でもあげようもんなら、仔犬たちは
「ね!ね!すごいでしょ!楽しかったんだよ!」と喜んで
飛び付いてくるだけだ。
知らん振りしていれば、そのうち面白くなくなって、やめる。
おとなになってゆく。
※
やんちゃな雌犬カバサが去年7月に世を去って、
一匹のこされたおとなしい雄犬ジーロは、
さびしそうかと言えばそうでもなく、
今まで緊張し続けていたのが解けて、リラックスしきって
最高の席を陣取っている。
が、退屈は退屈なようだ。
毎朝目が覚めればひとしきりドタンバタンと相撲を取った。
ひとしきりというのは、もちろんカバサの気分次第だ。
カバサが飽きれば、ジーロがまだ興奮していても、終了。
ひとりきりになる、ということは今までには無かったことだ。
常に奴がそばにいた。
退屈する暇は無かった。
カバサは人目が無いと、食卓や調理台の上の食べ物をかっさらう。
そんな時、ジーロはちょっと離れた所でオロオロしている。
「そんなことしちゃだめだよこわいよ叱られる」
カバサを叱っても、ジーロは向こうのほうでビクビクする。
※
それが、一匹になって、人間二人ともが外出したら、
つまらなくてしょうがない。
人目が無い時に、子どもの頃よくやった遊びをするようになった。
ごみをかじる。
※
「ジーロはおばかさんね。悪い子ね。」
と、母は言う。
ジーロは特に理解の悪い犬ではない。
荒らされたくないのなら、ごみが犬の口の届かぬように置けば良い。
提案するが、母は受け入れない。
悪い子ではない。ただの犬だ。
ひとりぽっちの時間を、仔犬の頃のように楽しく遊びたいだけだ。
悪いのは、自分にとって都合が悪いという意味に過ぎない。
子ではなく犬である。
犬と言わず「子」と言うことで、自分の陣地に取り込んでしまっているのだが、
子もそもそも他者であることは忘れている。
実際に子である私も同じように、母自身の価値基準で評価されていることがにじみ出る。
※
犬には犬の理由がある。
犬の視点を受け入れてやらないと、犬を理解することはできない。
しかし、犬の習性を知り、犬の欲求を認め、
犬の立場を理解すれば、うまく人間社会の中で犬が生きるようにできるのだ。
それは社会が飼い主に求めることでもある。
人間同士も同じことだと思う。
他者は他者その人の尺度で見ればそれで充分であり、
自分の価値観にあてはめて見ると、相手が悪い者に見えたり馬鹿者に見えたりする。
しかし、相手の価値観を理解すれば、うまく関係していく道がひらけてくる。
という当今の傾向がある中、
私の住む調布市は、ゴミの分別をしっかりする。
「燃やせるごみ」と「容器包装プラスチック」は分ける。
仔犬の頃、人が留守にしている間に、ごみを散らかしてかじって遊ぶ、
ということが流行った。
かまってくれる人がいないし、何かを咬むのは気持ちいいし、
プラは特に音がして面白いし、後で見つけたらなんか人間も興奮して楽しんでる様子だし、
といったところが仔犬の気持ちだろうか。
ごみを散らかされても、どうでもいいことの振りをして、
落ち着いてただ片付ける。
帰宅して、床中に散らばったごみくずを見るのはひどくショックだが、
そこで感情をあらわにしてはいけないようだ。
なにした!なんて大声でもあげようもんなら、仔犬たちは
「ね!ね!すごいでしょ!楽しかったんだよ!」と喜んで
飛び付いてくるだけだ。
知らん振りしていれば、そのうち面白くなくなって、やめる。
おとなになってゆく。
※
やんちゃな雌犬カバサが去年7月に世を去って、
一匹のこされたおとなしい雄犬ジーロは、
さびしそうかと言えばそうでもなく、
今まで緊張し続けていたのが解けて、リラックスしきって
最高の席を陣取っている。
が、退屈は退屈なようだ。
毎朝目が覚めればひとしきりドタンバタンと相撲を取った。
ひとしきりというのは、もちろんカバサの気分次第だ。
カバサが飽きれば、ジーロがまだ興奮していても、終了。
ひとりきりになる、ということは今までには無かったことだ。
常に奴がそばにいた。
退屈する暇は無かった。
カバサは人目が無いと、食卓や調理台の上の食べ物をかっさらう。
そんな時、ジーロはちょっと離れた所でオロオロしている。
「そんなことしちゃだめだよこわいよ叱られる」
カバサを叱っても、ジーロは向こうのほうでビクビクする。
※
それが、一匹になって、人間二人ともが外出したら、
つまらなくてしょうがない。
人目が無い時に、子どもの頃よくやった遊びをするようになった。
ごみをかじる。
※
「ジーロはおばかさんね。悪い子ね。」
と、母は言う。
ジーロは特に理解の悪い犬ではない。
荒らされたくないのなら、ごみが犬の口の届かぬように置けば良い。
提案するが、母は受け入れない。
悪い子ではない。ただの犬だ。
ひとりぽっちの時間を、仔犬の頃のように楽しく遊びたいだけだ。
悪いのは、自分にとって都合が悪いという意味に過ぎない。
子ではなく犬である。
犬と言わず「子」と言うことで、自分の陣地に取り込んでしまっているのだが、
子もそもそも他者であることは忘れている。
実際に子である私も同じように、母自身の価値基準で評価されていることがにじみ出る。
※
犬には犬の理由がある。
犬の視点を受け入れてやらないと、犬を理解することはできない。
しかし、犬の習性を知り、犬の欲求を認め、
犬の立場を理解すれば、うまく人間社会の中で犬が生きるようにできるのだ。
それは社会が飼い主に求めることでもある。
人間同士も同じことだと思う。
他者は他者その人の尺度で見ればそれで充分であり、
自分の価値観にあてはめて見ると、相手が悪い者に見えたり馬鹿者に見えたりする。
しかし、相手の価値観を理解すれば、うまく関係していく道がひらけてくる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます