3月26日には、
ちょっと言葉遊び的になるけれど、
もっともなこと と ごもっともなこと と もっともらしいこと と
が入り混じって巷間にあふれている、と思う。
いろんな人がいて、いろんな立場から自由に発言できることは良いのだけど。
と、書いたし、一昨日も
いろんな人が、いろんな立場から、いろんな意見を、いろんな態度で示している。
とか、
昨日は昨日で、政府や法律に守ってもらうことはあんまり期待しないで
自分たちでなんとかしなきゃ、
ってなことを書いたのですが。
米
ウチは朝日新聞なのだが、数日前の新聞を遅れて読んでいたら。
"耕論"という、いろんな人のご意見のページに、
作家(?)の岩崎夏海さんのインタビューが載っていた。
ベストセラーの
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
の著者なのね。ああ、聞いたことあるな、っと。
私の言いたかったことと重なることを、
作家はずっと上手に表現しているようだし、論も発展しているようなので、
長くなるけれど、写してみる。
米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米
米国の著名な経営学者、P.F.ドラッカーは、こんな意味の言葉を
残しています。
「何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者は、真摯さを
欠いている」
ここ数年の政治の混迷は、この言葉が端的に表していると思います。
おしなべて日本の政治家は、真面目に任に当たっていると思います。
しかし真面目さと、ドラッカーの言う真摯さとは別のものです。
様々な問題に様々な人が様々な意見を言います。しかし、そこには
正しい声と間違った声が交じっています。政治家は、正しいか間違って
いるかで判断するより、大きな声を聴いています。何が正しいかを考え
ないこと、つまり信念のなさは、すなわち真摯さの欠如です。
では、政治の混迷は、政治家の問題なのでしょうか。やはりドラッカー
の言葉を引いてみます。
「重要なのは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを
見つけることである」
私は、政治家をうんぬんすること自体、問いが間違っていると思い
ます。ドラッカーは1950年以降、政府の政策で有効に働いたものは
一つもないと言明し、政府の役割は限定的になると述べます。政治家も
官僚も役割以上のことをやろうとして失敗したのです。
正しい問いは、有権者が自身に向けるべきです。自己の利益を
政治家に求めていませんか。自ら解決すべき問題を政治に丸投げして
いませんか。政治の混迷は、雑音交じりの有権者の声に、政治家が
生真面目に答えようとした結果とみることもできるでしょう。
限定的となった政府に代わる有権者の役割とは何でしょうか。
ドラッカーは「社会セクター」だと説きます。市民自ら、何が正しいか
を考え、課題解決のためにつくる組織です。知日家だった彼は、江戸
時代の日本で寺子屋など市民による教育システム、つまり社会セクター
が機能し、正解有数の識字率を誇っていたことに驚嘆し、称賛します。
未曾有の大惨事となった東日本大震災は、日本社会に再び社会セクター
の息吹をよみがえらせる機会となるかもしれません。
被災地では、住民がボランティアと助け合って救援や復興に当って
います。課題解決に、ルールづくりに、地域社会の人々が時に政治の
力を借りて、チームとなって取り組んでいるでしょう。まさにこれが
市民自らローカルな要請に応える組織、社会セクターです。政治は
機能の一つとして包含されています。
さらに今後は、将来の地域社会を展望する人たちが必要です。復興後も
社会セクターを機能させ、市民社会のリーダーとなる人たちです。
ボランティアは各地へ帰っていく。しかし一時的な慈善活動にとどめず
に、地元で新たな社会セクターの推進力となることを期待します。
ドラッカーが名著『マネジメント』の着想を得たのは、第2次世界
大戦下でした。総力戦に向けて人を生かし、効率的に組織を機能させる
ための理論です。今、被災地は総力戦で復興に当たっています。そこで
蓄積される社会セクターを機能させるノウハウこそ、平時にも生きる
「マネジメント」になると考えます。
ちょっと言葉遊び的になるけれど、
もっともなこと と ごもっともなこと と もっともらしいこと と
が入り混じって巷間にあふれている、と思う。
いろんな人がいて、いろんな立場から自由に発言できることは良いのだけど。
と、書いたし、一昨日も
いろんな人が、いろんな立場から、いろんな意見を、いろんな態度で示している。
とか、
昨日は昨日で、政府や法律に守ってもらうことはあんまり期待しないで
自分たちでなんとかしなきゃ、
ってなことを書いたのですが。
米
ウチは朝日新聞なのだが、数日前の新聞を遅れて読んでいたら。
"耕論"という、いろんな人のご意見のページに、
作家(?)の岩崎夏海さんのインタビューが載っていた。
ベストセラーの
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
の著者なのね。ああ、聞いたことあるな、っと。
私の言いたかったことと重なることを、
作家はずっと上手に表現しているようだし、論も発展しているようなので、
長くなるけれど、写してみる。
米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米米
米国の著名な経営学者、P.F.ドラッカーは、こんな意味の言葉を
残しています。
「何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者は、真摯さを
欠いている」
ここ数年の政治の混迷は、この言葉が端的に表していると思います。
おしなべて日本の政治家は、真面目に任に当たっていると思います。
しかし真面目さと、ドラッカーの言う真摯さとは別のものです。
様々な問題に様々な人が様々な意見を言います。しかし、そこには
正しい声と間違った声が交じっています。政治家は、正しいか間違って
いるかで判断するより、大きな声を聴いています。何が正しいかを考え
ないこと、つまり信念のなさは、すなわち真摯さの欠如です。
では、政治の混迷は、政治家の問題なのでしょうか。やはりドラッカー
の言葉を引いてみます。
「重要なのは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを
見つけることである」
私は、政治家をうんぬんすること自体、問いが間違っていると思い
ます。ドラッカーは1950年以降、政府の政策で有効に働いたものは
一つもないと言明し、政府の役割は限定的になると述べます。政治家も
官僚も役割以上のことをやろうとして失敗したのです。
正しい問いは、有権者が自身に向けるべきです。自己の利益を
政治家に求めていませんか。自ら解決すべき問題を政治に丸投げして
いませんか。政治の混迷は、雑音交じりの有権者の声に、政治家が
生真面目に答えようとした結果とみることもできるでしょう。
限定的となった政府に代わる有権者の役割とは何でしょうか。
ドラッカーは「社会セクター」だと説きます。市民自ら、何が正しいか
を考え、課題解決のためにつくる組織です。知日家だった彼は、江戸
時代の日本で寺子屋など市民による教育システム、つまり社会セクター
が機能し、正解有数の識字率を誇っていたことに驚嘆し、称賛します。
未曾有の大惨事となった東日本大震災は、日本社会に再び社会セクター
の息吹をよみがえらせる機会となるかもしれません。
被災地では、住民がボランティアと助け合って救援や復興に当って
います。課題解決に、ルールづくりに、地域社会の人々が時に政治の
力を借りて、チームとなって取り組んでいるでしょう。まさにこれが
市民自らローカルな要請に応える組織、社会セクターです。政治は
機能の一つとして包含されています。
さらに今後は、将来の地域社会を展望する人たちが必要です。復興後も
社会セクターを機能させ、市民社会のリーダーとなる人たちです。
ボランティアは各地へ帰っていく。しかし一時的な慈善活動にとどめず
に、地元で新たな社会セクターの推進力となることを期待します。
ドラッカーが名著『マネジメント』の着想を得たのは、第2次世界
大戦下でした。総力戦に向けて人を生かし、効率的に組織を機能させる
ための理論です。今、被災地は総力戦で復興に当たっています。そこで
蓄積される社会セクターを機能させるノウハウこそ、平時にも生きる
「マネジメント」になると考えます。
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