幼なじみの友人Mは
「昼間の電話に出てろくなこと無いから。いいのいいの。」と
共感を示してくれる。
そうだ。
家の電話を取ると、墓のセールスや、骨董品の買取や、畳替えや、
家のリフォーム、塗装、互助会、選挙・・・
ろくな電話が無い。
こういう電話に対しては、
相手を人と思わず、とっとと切ることが肝要である。
うっかり会話してしまうと、全く無駄な時間を過ごすばかりか、
ひどく不愉快な気分ばかりが残ること間違い無しである。
だから、相手の言葉に受け答えせずに、電話を切ることが一番だ。
だが、人間に対してそういう態度を取ることは、
自分がちょっと傷つく。
悪いことをしたな、という気分になる。
まあそれがセールスする側の付け込みどころなのだから、
気にすることは無い。
それでも、自分としての辻褄を付けたほうが、気持ち良く切り上げられる。
感じ良い声で、
「結構でーす。はーい、すみませーん。失礼しまーす。ガチャ。」
とやる。
私はこのようにしている。
ある時、行きつけの店で長っ尻していたところ、
どうやらセールスの電話が来たらしく、
店主が私とそっくりの対応をしているのを見た。
ひとがやっているのを見ると、自分がどういうことをしているのか、
実にまったく客観的に見ることができる。
傍から見ていてもそれは、特に気分の悪いものでもなかった。
電話をかける仕事をしている人にとっては、どうなんだろう。
※
家の電話が鳴る。
昼間に鳴る。
時に短く、時に長く、コール音が鳴る。
毎日のように鳴る。
こんなに毎日かかってくるのは、ちょっと珍しい。
と思ったところで、気付いた。
父の命日が近いから、知人がかけてきているのではないだろうか。
※
それでも私は出ない。
父の命日を気にしてくれる人は、父の知人である。
私の友人ではない。
父の命日を悼む気持ちは、その人のものである。
私は亡父と関係が良くなかった。
「父」という言葉を使うことすら、イヤなんだが、
他の表現で書くのも面倒なので「父」と書いている。
※
親との関係の良くない人は、友人にも多い。
傍から見ていて、それが子どもだけのせいであることは、まず無い。
素晴らしい完全無欠の親に対して、子どもが理由も無く反抗している、
なんてことは、無い。
ある人は自分の母親のことを「私の母の人」とか「私の母だった人」などと呼んでいた。
その人はある時、母親に「あんたなんか産まなきゃ良かった」と言われたのだそうだ。
無理も無い。
産んでおいてその仕打ちは、キツい。
産まれてきて良かった、
生きていて良かった、
日々楽しい、
自分を大切に思ってくれる人がいる、
などといった思いを育むためには、底に
「親が私を産んで幸せを感じた」という思いが有ったほうが
すんなりいきそうな気がする。
思いと言うよりは、体感とでも言ったほうが良いかな。
意識にのぼらない実感のようなもの。
※
親との関係について、親の知人に対して詳細に説明することなんて、
これまたそんな機会は、まず無い。
親の知人は親との関係の良い人である。
親の知人は私の友人ではない。
私に寄り添うために電話してくるわけではない。
私は父の命日など、忘れて暮らしていて、そのままでいたい。
なのに、この時期、毎日電話が鳴って否が応でも思い出さされる。
電話線ひっこ抜いておこうかね。
「昼間の電話に出てろくなこと無いから。いいのいいの。」と
共感を示してくれる。
そうだ。
家の電話を取ると、墓のセールスや、骨董品の買取や、畳替えや、
家のリフォーム、塗装、互助会、選挙・・・
ろくな電話が無い。
こういう電話に対しては、
相手を人と思わず、とっとと切ることが肝要である。
うっかり会話してしまうと、全く無駄な時間を過ごすばかりか、
ひどく不愉快な気分ばかりが残ること間違い無しである。
だから、相手の言葉に受け答えせずに、電話を切ることが一番だ。
だが、人間に対してそういう態度を取ることは、
自分がちょっと傷つく。
悪いことをしたな、という気分になる。
まあそれがセールスする側の付け込みどころなのだから、
気にすることは無い。
それでも、自分としての辻褄を付けたほうが、気持ち良く切り上げられる。
感じ良い声で、
「結構でーす。はーい、すみませーん。失礼しまーす。ガチャ。」
とやる。
私はこのようにしている。
ある時、行きつけの店で長っ尻していたところ、
どうやらセールスの電話が来たらしく、
店主が私とそっくりの対応をしているのを見た。
ひとがやっているのを見ると、自分がどういうことをしているのか、
実にまったく客観的に見ることができる。
傍から見ていてもそれは、特に気分の悪いものでもなかった。
電話をかける仕事をしている人にとっては、どうなんだろう。
※
家の電話が鳴る。
昼間に鳴る。
時に短く、時に長く、コール音が鳴る。
毎日のように鳴る。
こんなに毎日かかってくるのは、ちょっと珍しい。
と思ったところで、気付いた。
父の命日が近いから、知人がかけてきているのではないだろうか。
※
それでも私は出ない。
父の命日を気にしてくれる人は、父の知人である。
私の友人ではない。
父の命日を悼む気持ちは、その人のものである。
私は亡父と関係が良くなかった。
「父」という言葉を使うことすら、イヤなんだが、
他の表現で書くのも面倒なので「父」と書いている。
※
親との関係の良くない人は、友人にも多い。
傍から見ていて、それが子どもだけのせいであることは、まず無い。
素晴らしい完全無欠の親に対して、子どもが理由も無く反抗している、
なんてことは、無い。
ある人は自分の母親のことを「私の母の人」とか「私の母だった人」などと呼んでいた。
その人はある時、母親に「あんたなんか産まなきゃ良かった」と言われたのだそうだ。
無理も無い。
産んでおいてその仕打ちは、キツい。
産まれてきて良かった、
生きていて良かった、
日々楽しい、
自分を大切に思ってくれる人がいる、
などといった思いを育むためには、底に
「親が私を産んで幸せを感じた」という思いが有ったほうが
すんなりいきそうな気がする。
思いと言うよりは、体感とでも言ったほうが良いかな。
意識にのぼらない実感のようなもの。
※
親との関係について、親の知人に対して詳細に説明することなんて、
これまたそんな機会は、まず無い。
親の知人は親との関係の良い人である。
親の知人は私の友人ではない。
私に寄り添うために電話してくるわけではない。
私は父の命日など、忘れて暮らしていて、そのままでいたい。
なのに、この時期、毎日電話が鳴って否が応でも思い出さされる。
電話線ひっこ抜いておこうかね。
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