犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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出んわよ

2022年07月03日 | 日々
幼なじみの友人Mは
「昼間の電話に出てろくなこと無いから。いいのいいの。」と
共感を示してくれる。

そうだ。
家の電話を取ると、墓のセールスや、骨董品の買取や、畳替えや、
家のリフォーム、塗装、互助会、選挙・・・
ろくな電話が無い。

こういう電話に対しては、
相手を人と思わず、とっとと切ることが肝要である。
うっかり会話してしまうと、全く無駄な時間を過ごすばかりか、
ひどく不愉快な気分ばかりが残ること間違い無しである。

だから、相手の言葉に受け答えせずに、電話を切ることが一番だ。
だが、人間に対してそういう態度を取ることは、
自分がちょっと傷つく。
悪いことをしたな、という気分になる。
まあそれがセールスする側の付け込みどころなのだから、
気にすることは無い。

それでも、自分としての辻褄を付けたほうが、気持ち良く切り上げられる。
感じ良い声で、
「結構でーす。はーい、すみませーん。失礼しまーす。ガチャ。」
とやる。
私はこのようにしている。

ある時、行きつけの店で長っ尻していたところ、
どうやらセールスの電話が来たらしく、
店主が私とそっくりの対応をしているのを見た。
ひとがやっているのを見ると、自分がどういうことをしているのか、
実にまったく客観的に見ることができる。
傍から見ていてもそれは、特に気分の悪いものでもなかった。

電話をかける仕事をしている人にとっては、どうなんだろう。



家の電話が鳴る。
昼間に鳴る。
時に短く、時に長く、コール音が鳴る。

毎日のように鳴る。
こんなに毎日かかってくるのは、ちょっと珍しい。

と思ったところで、気付いた。
父の命日が近いから、知人がかけてきているのではないだろうか。



それでも私は出ない。

父の命日を気にしてくれる人は、父の知人である。
私の友人ではない。
父の命日を悼む気持ちは、その人のものである。

私は亡父と関係が良くなかった。
「父」という言葉を使うことすら、イヤなんだが、
他の表現で書くのも面倒なので「父」と書いている。



親との関係の良くない人は、友人にも多い。
傍から見ていて、それが子どもだけのせいであることは、まず無い。
素晴らしい完全無欠の親に対して、子どもが理由も無く反抗している、
なんてことは、無い。

ある人は自分の母親のことを「私の母の人」とか「私の母だった人」などと呼んでいた。
その人はある時、母親に「あんたなんか産まなきゃ良かった」と言われたのだそうだ。
無理も無い。
産んでおいてその仕打ちは、キツい。

産まれてきて良かった、
生きていて良かった、
日々楽しい、
自分を大切に思ってくれる人がいる、
などといった思いを育むためには、底に
「親が私を産んで幸せを感じた」という思いが有ったほうが
すんなりいきそうな気がする。
思いと言うよりは、体感とでも言ったほうが良いかな。
意識にのぼらない実感のようなもの。



親との関係について、親の知人に対して詳細に説明することなんて、
これまたそんな機会は、まず無い。
親の知人は親との関係の良い人である。
親の知人は私の友人ではない。
私に寄り添うために電話してくるわけではない。

私は父の命日など、忘れて暮らしていて、そのままでいたい。
なのに、この時期、毎日電話が鳴って否が応でも思い出さされる。

電話線ひっこ抜いておこうかね。
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