犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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観察と思考と情緒

2016年02月03日 | からだ
ひとは、自分の目・耳を通して外界を受け取る。

自分の目を通り自分の耳を通った物事は、自分の脳みそに入る。
自分の脳みそは物事に関して自分なりに考えてみたり、自分なりの思いを抱いたりする。

物事に関する推測や感想が、残る。
この推測や感想は、外界にあった物事そのものではなく、
自分が生み出したものであって、自分の世界のものである。

この区別が非常に大事だ。
だが、区別できていないことが意外と多い。

「それって、どういう意味?」という疑問を持つ。そこから
「それって、こういうこと?」と一つの解釈をしてみる。
「それとも、ああいうこと?」と別の解釈もしてみるならいい。が、
「それってこういうことでしょ。」と決めてしまうと危険だ。
外界の事実とは異なる、自分の解釈が新たな自分の世界の事実として作り上げられてしまう。

噂話などが、こういう仕組みでできる。
「もしかして、こうなんじゃないの?」「あーそうかも、ありそう」
「あるある!」「そういうことだ」
推測の一つだったものが、事実としてひとり歩きする。

そういうことが、個人の脳みその中でも、起きる。
一人噂おばさん。

「あのひとは○○って言ってたけど、あれはどういう意味かしら?」から
「こういうこと?」「ああいう意味?」を経て
「あのひとったら、◎◎って言ってたのよ」というところへ発展してしまう。
実際はあのひとが言ったのは「○○」なのに、
自分の脳みそではもう、「◎◎」だったことになっている。
事実を捻じ曲げたのは自分の脳みそなのだが、それに気付いていないことがある。

こういうことが増えると、まずい。

そこで、外界の事実と、自分の世界の区別をしっかり持つための訓練法がある。

目にうつる物を、言葉にする。
単純な事実のみを、言葉にするのだ。

例えば、
「水仙の花が庭に咲いている」
これだけを、声に出して言う。
これ以上のことは、言わない。

これ以上のことは、自分の脳みその中の作用であって、
事実そのものではない。
「こんなに寒い中で」
「とってもきれい」
「寒さに耐え忍んで」
「可憐だ」
これは、もう自分の気持ちを込めてしまっている。
”水仙の気持ちになって”いるつもりかもしれないが、実は逆で、
水仙に、自分の気持ちを投影しているだけだ。
自分が庭の隅の地面にはいつくばって夜を過ごして朝を迎えて霜の中でも花を咲かせたとしたら、
そりゃ「寒さに耐え忍んでひたむきに可憐に美しく」咲いていたことになるだろう。
けれど、水仙にとってみたら、この寒い時期に咲くのは、あたりまえのことなのだ。

水仙などの物に自分をかこつけている分には害は無いかもしれないが、
他人にも自分を投影すると、人間関係は厄介なことになる。

詩情を育てることは大事だ。
しかし、それとは別に、事実は事実として受け止めることも必要だ。
観察と思考と情緒の区別をしておかなければならない。

まず、事実をそのまま受け取ること。
そこからはじめる。

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