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悲運の北白川宮能久親王・ヤマトタケル

2023年08月19日 | 政治
🌸三韓征伐を再現せよ(神裔たちの日清・日露戦争)3

悲運の皇族、北白川宮能久親王
 ☆北白川宮能久親王は、若くして各地を転々とした
 (最後は外征先の台湾で病没した、悲運の皇族である)
 ☆能久親王は、伏見宮邦家親王の第九子として京都に生まれた
 *公現法号を得て法親王となり、江戸の東叡山寛永寺に入った
 *輪王寺宮門跡を継承し、東叡山と日光山の住職を兼ねた
 *徳川将軍家にとり重要な寺院の住職は、法親王の指定席だった
 ☆輪王寺宮公現法親王には思わぬ運命が待ち受けていた
 *戊辰戦争が勃発すると、幕府方に担がれて東北地方を転々とする
 *北白川宮は、戊申戦争後は親王の身分を停止された
 *京都の伏見宮邸で謹慎の日々を送る
 ☆公現は、 赦免されて伏見宮家に復帰
 *翌年、還俗して能久王となり、陸軍大学校に留学するためドイツに旅立
 *留学中、弟の北白川宮智成親王死去にともなって同宮家を継承
 *現地の貴族の娘と恋仲になり、婚約して明治天皇を激怒させた
 ☆能久王は、軍人として陸軍内で順調に出世した
 *近衛師団長として新領土になった台湾の平定におもむいた
 *現地でマラリアを発症し台南で陣没した
 ☆明治天皇の考えで、皇族男子
 *陸海軍いずれかの軍人になることが求められていた
 *陣没にまでいたったのは、この能久親王がはじめてだった

能久親王はヤマトタケルと比較された
 ☆『古事記』のヤマトタケル神話
 *ヤマトタケルは、景行天皇の皇子として生まれた
 *神功皇后の夫仲哀天皇は、ヤマトタケル息子である
 ☆ヤマトタケルは、東国の奥地に進み
 *荒ぶる神々や服属しない民をことごとく平定した
 *そこで、ようやくミヤズヒメと結婚した
 *その後、伊吹山の神を討ち取ることに失敗して発病してしまう
 *大和ヘ戻ろうとするも、途上で絶命
 *死没地には陵がつくられたが
 *ヤマトタケルは大きな白い千鳥となって、西へと飛んでいき
 *河内国の志幾にとどまったので陵がつくられたが
 *白い千鳥はさらに空高く飛び立っていった

日本初の銅像はヤマトタケル
 ☆『日本書紀』のヤマトタケルは、忠臣として描かれる
 *国威発揚になるのは『日本書記』の記述
 ☆ヤマトタケルは、明治初頭神武天皇より知られた存在だった
 *各地にゆかりのある神社や地名が残っている
 ☆日本最初の銅像もまた、このヤマトタケル
 *顔はふくよかで、袴がスカートのように広がっている
 *剣はもっているものの、女性のようで、あまり武人のようにみえない
 ☆ヤマトタケル像建立の理由も諸説ある
 *熊襲征伐と西南戦争の賊軍征伐を重ねたとも言われるが?
                   (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『「戦前」の正体』

            台湾の神社(北白川宮能久親王を祀る)
                      北白川宮能久親王




悲運の北白川宮能久親王・ヤマトタケル
(ネットより画像引用)

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