🌸三韓征伐を再現せよ(神裔たちの日清・日露戦争)3
⛳悲運の皇族、北白川宮能久親王
☆北白川宮能久親王は、若くして各地を転々とした
(最後は外征先の台湾で病没した、悲運の皇族である)
☆能久親王は、伏見宮邦家親王の第九子として京都に生まれた
*公現法号を得て法親王となり、江戸の東叡山寛永寺に入った
*公現法号を得て法親王となり、江戸の東叡山寛永寺に入った
*輪王寺宮門跡を継承し、東叡山と日光山の住職を兼ねた
*徳川将軍家にとり重要な寺院の住職は、法親王の指定席だった
☆輪王寺宮公現法親王には思わぬ運命が待ち受けていた
*徳川将軍家にとり重要な寺院の住職は、法親王の指定席だった
☆輪王寺宮公現法親王には思わぬ運命が待ち受けていた
*戊辰戦争が勃発すると、幕府方に担がれて東北地方を転々とする
*北白川宮は、戊申戦争後は親王の身分を停止された
*京都の伏見宮邸で謹慎の日々を送る
☆公現は、 赦免されて伏見宮家に復帰
☆公現は、 赦免されて伏見宮家に復帰
*翌年、還俗して能久王となり、陸軍大学校に留学するためドイツに旅立
*留学中、弟の北白川宮智成親王死去にともなって同宮家を継承
*現地の貴族の娘と恋仲になり、婚約して明治天皇を激怒させた
☆能久王は、軍人として陸軍内で順調に出世した
*近衛師団長として新領土になった台湾の平定におもむいた
*現地でマラリアを発症し台南で陣没した
☆明治天皇の考えで、皇族男子
☆明治天皇の考えで、皇族男子
*陸海軍いずれかの軍人になることが求められていた
*陣没にまでいたったのは、この能久親王がはじめてだった
⛳能久親王はヤマトタケルと比較された
☆『古事記』のヤマトタケル神話
*ヤマトタケルは、景行天皇の皇子として生まれた
*神功皇后の夫仲哀天皇は、ヤマトタケル息子である
☆ヤマトタケルは、東国の奥地に進み
*荒ぶる神々や服属しない民をことごとく平定した
*そこで、ようやくミヤズヒメと結婚した
*その後、伊吹山の神を討ち取ることに失敗して発病してしまう
*その後、伊吹山の神を討ち取ることに失敗して発病してしまう
*大和ヘ戻ろうとするも、途上で絶命
*死没地には陵がつくられたが
*ヤマトタケルは大きな白い千鳥となって、西へと飛んでいき
*河内国の志幾にとどまったので陵がつくられたが
*白い千鳥はさらに空高く飛び立っていった
⛳日本初の銅像はヤマトタケル
☆『日本書紀』のヤマトタケルは、忠臣として描かれる
*国威発揚になるのは『日本書記』の記述
☆『日本書紀』のヤマトタケルは、忠臣として描かれる
*国威発揚になるのは『日本書記』の記述
☆ヤマトタケルは、明治初頭神武天皇より知られた存在だった
*各地にゆかりのある神社や地名が残っている
☆日本最初の銅像もまた、このヤマトタケル
*顔はふくよかで、袴がスカートのように広がっている
*剣はもっているものの、女性のようで、あまり武人のようにみえない
☆ヤマトタケル像建立の理由も諸説ある
*熊襲征伐と西南戦争の賊軍征伐を重ねたとも言われるが?
(敬称略)
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⛳出典、『「戦前」の正体』
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台湾の神社(北白川宮能久親王を祀る)
北白川宮能久親王
悲運の北白川宮能久親王・ヤマトタケル
(ネットより画像引用)
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