🌸仏教において宗派とは(1)
⛳僧侶が官僚の時代の宗派は「学派」に近かった
☆仏教が日本に伝えられた飛鳥時代
*聖徳太子があらわれ、法隆寺などが創建されていく
⛳僧侶が官僚の時代の宗派は「学派」に近かった
☆仏教が日本に伝えられた飛鳥時代
*聖徳太子があらわれ、法隆寺などが創建されていく
*宗派に相当するような集団は登場しなかった
☆奈良時代「南都六宗」と呼ばれる宗派の形成した
☆奈良時代「南都六宗」と呼ばれる宗派の形成した
*教団組織とは言えず、異なる教えを学ぶ「学派」であった
*南都六宗で、代表的な宗派が法相宗と三論宗
☆宗派の本格的な形成は平安時代に入ってから
*天台宗と真言宗が独立を果たしのが契機になった
☆背景には「年分度者」の制度がある
*日本では、仏教が国家主導で広まり「国家仏教」の性格をもった
*日本では、仏教が国家主導で広まり「国家仏教」の性格をもった
*正式な僧侶になるためには国家の許可を必要とした
*年分度者は国家の官僚に近かった
*天台宗と真言宗は宗派としての独立性を高めていく
*天台宗と真言宗は宗派としての独立性を高めていく
☆天台宗、真言宗でも南都六宗学派の性格が残されていた
*奈良の東大寺などは「六宗兼学」の寺とされていた
*平安時代天台、真言を加えた「八宗兼学」の寺と呼ばれた
*奈良の東大寺などは「六宗兼学」の寺とされていた
*平安時代天台、真言を加えた「八宗兼学」の寺と呼ばれた
(大阪の四天王寺もやはり八宗兼学の寺)
⛳鎌倉新仏教から多くの宗派が生まれた
☆鎌倉時代に「鎌倉新仏教」の宗教改革の動きが生まれた
*鎌倉新仏教の先鞭をつけたのは浄土宗を開いた法然である
*法然は「専修念仏」の教えを説いた
*法然自身は、戒律を遵守することにつとめ
*法然自身は、戒律を遵守することにつとめ
*病気平癒の授戒を行うなど
*念仏以外の教えも完全に否定していない
☆法然を、徹底的に批判した日蓮
*『法華経』への信仰以外を否定した
*弟子たちのあいだには宗派意識が生み出されていった
☆曹洞宗や臨済宗といった禅宗の「不立文字」
☆曹洞宗や臨済宗といった禅宗の「不立文字」
*教えを文字にして表現し戒める傾向が強く
*他の宗派を批判したり、攻撃することはなかった
☆南都六宗や天台、真言の旧仏教の宗派で
*出家得度し出世を遂げていくには
*貴族階級の出身であることが必要であった
*武家や下級貴族出身の出家者が禅宗に集中することになった
*その為、中世以降、禅宗も宗派としての独立性を強めていく
⛳本末制度が宗派の意識を強めた
☆宗派がより明確な形をとるのは江戸時代になってから
⛳本末制度が宗派の意識を強めた
☆宗派がより明確な形をとるのは江戸時代になってから
*江戸幕府は、各宗派や寺院に対して「寺院法度」を公布
*寺社奉行を設けて、仏教寺院をその支配下におく政策をとる
☆家は特定の菩提寺の檀家になることを強制された
*寺院は、檀家の結婚や死亡を管理する
☆家は特定の菩提寺の檀家になることを強制された
*寺院は、檀家の結婚や死亡を管理する
*行政組織の末端としての役割を果たす、本末制度が導人された
*個々の寺院は、本山と主従関係を結ぶことを強いられた
*本山と末寺からなる教団組織が明確化された
(敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』
『年分度者』『八宗兼学』『鎌倉新仏教』『本末制度』
(ネットより画像引用)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます