昨日と今日、1泊2日の予定で瀬戸内海に浮かぶ島、大崎下島、下蒲刈島方面に行きました。山仲間の有志たちとの観光旅行です。
瀬戸内に浮かぶこれらの島は、私たちの町よりは暖かくて、一足早く春の訪れを感じるつもりでしたが、、、、、、、
昨日は寒かった、寒かった!!! おそらく珍しいことでしょうが、雪も舞いました。時に激しく、、、、、。そして、それ以上に風が強くて、遊び心が一気に冷やされ、しぼんでしまいました。
そのこととは関係ないのですが、何としたことかカメラを忘れて行ったため、8日に行った御手洗の写真はありません。仲間のカメラを借りてシャッターを切ったので、その写真を私のパソコンに取り込んだら、あらためて御手洗の紹介をするつもりです。
下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、そしてその隣の岡村島までは、橋でつながれたので車で行くことが出来ます。私たちの団地から御手洗まで、ラッシュアワーをさければ2時間かからない日帰り圏ですが、今回は御手洗に一泊する超のんびりプランでした。
今朝の朝食は8時から。そのような遅い時間に朝食を頼むことはほとんどありません。しかし、今日の予定地である下蒲刈島の松涛園は9時からの開園ですから、それに合わせてのんびり出発したわけです。
松涛園に行ったことは「アタリ」でした。この写真の左端、復元された「蒲刈島御番所」では梅見茶会が行われており、私たちは最初の客として参加させていただきました。ラッキー、、、、、。
この茶会で使われている主茶碗は文化財級と言うのでしょうか、ン千万円もするものなので、茶室に入る前に腕時計や指輪などは取り外すよう支持されました。万が一にも傷をつけてはいけないと言う配慮なのです。
私たちが最初の客と言っても、突然の飛び入りで「正客」がつとまるわけがないので、そのような高価な茶道具などは間近に見るだけでしたが、、、、それにしてもラッキーでした。
着物美人がいっぱいの茶室には場違いな、ラフな服装の私たちでしたが、茶室の外の、咲き始めた梅とともにお茶を楽しませていただきました。その上ラッキーなことに、このお茶会は無料でした。本当に良いところにめぐり合わせたものです。
右から二番目の建物、旧有川邸は「御馳走一番館」と言い、朝鮮通信使資料館になっています。
鎖国をひいていた江戸時代、12回にわたって来日した朝鮮通信使が、日本では大変な歓迎を受けていたことを見せる展示がされています。館内は写真撮影禁止なので、カメラを持っていたとしても私の写真で紹介することは出来ませんが、ここに展示されている「三汁十五菜」の展示は圧巻です。
また、通信使の行列を紙人形で示している展示を見ると、近郷近在から集まった多くの人たちが通りを埋め、その最前列では弁当(と言うのかなぁ)を広げて行列を迎えているところが見えます。
鎖国時代の当時、外国人を見ることはなかったので、外国人を見ること自体が珍しかったのでしょうが、通信使の意味はそれだけではありません。一行の隊長とも言える「正史」は、江戸幕府や朝廷との交流と言う政治的な意味もあったのでしょうが、通信使全体で見ると書画の専門の人など多方面の人が多く含まれた「文化使節団」の性格が強く、それら「大陸文化」に触れたいと多くの人が集まってきたのです。
タカ長には専門的なことは何も書けませんが、要は、関係する藩は、この通信使が二年続いたら藩財政が倒れるのではないかとうわされるほどの大金を使って通信使を歓迎し、その通信使が持ってくる大陸文化に触れるために多くの日本人が彼らを訪ね、言葉の壁を越えながら交流していたと言う事実に注目したいと言うことです。
日本と韓国の間には、ご存知のような「不幸な時代」がありますが、時間的にはその不幸な時代よりはるかに多くの、幸福な時代があったことも心にとめておかないといけないと思うのです。
幸福な時代があるからと言って、不幸な時代のことが帳消しにされることではありませんが、最近は不幸な時代のことばかりが語られているようで、、、、、そのことは両国の人にとって良いことだとは思えないのです。
ここを訪れるのは初めてではないのですが、、、、、、訪れるたびにそのようなことを愚考しているタカ長です。
瀬戸内に浮かぶこれらの島は、私たちの町よりは暖かくて、一足早く春の訪れを感じるつもりでしたが、、、、、、、
昨日は寒かった、寒かった!!! おそらく珍しいことでしょうが、雪も舞いました。時に激しく、、、、、。そして、それ以上に風が強くて、遊び心が一気に冷やされ、しぼんでしまいました。
そのこととは関係ないのですが、何としたことかカメラを忘れて行ったため、8日に行った御手洗の写真はありません。仲間のカメラを借りてシャッターを切ったので、その写真を私のパソコンに取り込んだら、あらためて御手洗の紹介をするつもりです。
下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、そしてその隣の岡村島までは、橋でつながれたので車で行くことが出来ます。私たちの団地から御手洗まで、ラッシュアワーをさければ2時間かからない日帰り圏ですが、今回は御手洗に一泊する超のんびりプランでした。
今朝の朝食は8時から。そのような遅い時間に朝食を頼むことはほとんどありません。しかし、今日の予定地である下蒲刈島の松涛園は9時からの開園ですから、それに合わせてのんびり出発したわけです。
松涛園に行ったことは「アタリ」でした。この写真の左端、復元された「蒲刈島御番所」では梅見茶会が行われており、私たちは最初の客として参加させていただきました。ラッキー、、、、、。
この茶会で使われている主茶碗は文化財級と言うのでしょうか、ン千万円もするものなので、茶室に入る前に腕時計や指輪などは取り外すよう支持されました。万が一にも傷をつけてはいけないと言う配慮なのです。
私たちが最初の客と言っても、突然の飛び入りで「正客」がつとまるわけがないので、そのような高価な茶道具などは間近に見るだけでしたが、、、、それにしてもラッキーでした。
着物美人がいっぱいの茶室には場違いな、ラフな服装の私たちでしたが、茶室の外の、咲き始めた梅とともにお茶を楽しませていただきました。その上ラッキーなことに、このお茶会は無料でした。本当に良いところにめぐり合わせたものです。
右から二番目の建物、旧有川邸は「御馳走一番館」と言い、朝鮮通信使資料館になっています。
鎖国をひいていた江戸時代、12回にわたって来日した朝鮮通信使が、日本では大変な歓迎を受けていたことを見せる展示がされています。館内は写真撮影禁止なので、カメラを持っていたとしても私の写真で紹介することは出来ませんが、ここに展示されている「三汁十五菜」の展示は圧巻です。
また、通信使の行列を紙人形で示している展示を見ると、近郷近在から集まった多くの人たちが通りを埋め、その最前列では弁当(と言うのかなぁ)を広げて行列を迎えているところが見えます。
鎖国時代の当時、外国人を見ることはなかったので、外国人を見ること自体が珍しかったのでしょうが、通信使の意味はそれだけではありません。一行の隊長とも言える「正史」は、江戸幕府や朝廷との交流と言う政治的な意味もあったのでしょうが、通信使全体で見ると書画の専門の人など多方面の人が多く含まれた「文化使節団」の性格が強く、それら「大陸文化」に触れたいと多くの人が集まってきたのです。
タカ長には専門的なことは何も書けませんが、要は、関係する藩は、この通信使が二年続いたら藩財政が倒れるのではないかとうわされるほどの大金を使って通信使を歓迎し、その通信使が持ってくる大陸文化に触れるために多くの日本人が彼らを訪ね、言葉の壁を越えながら交流していたと言う事実に注目したいと言うことです。
日本と韓国の間には、ご存知のような「不幸な時代」がありますが、時間的にはその不幸な時代よりはるかに多くの、幸福な時代があったことも心にとめておかないといけないと思うのです。
幸福な時代があるからと言って、不幸な時代のことが帳消しにされることではありませんが、最近は不幸な時代のことばかりが語られているようで、、、、、そのことは両国の人にとって良いことだとは思えないのです。
ここを訪れるのは初めてではないのですが、、、、、、訪れるたびにそのようなことを愚考しているタカ長です。