この本を読んでいます。
昭和33年3月に創刊された山の文芸誌「アルプ」を愛読された人は多いと思いますが、タカ長もその一人です。創刊号からではなかったようですが、早い時期から毎月購入し、愛読していました。
この「アルプ」はタカ長にとって大切な本で、自分の山歩きに大きな影響を与えている、と感じています。
この文庫本を読みながら、手元に置いていた終刊号を出してみました。そのなかに川崎精雄氏の一文がありました。
昭和58年に出されたこの終刊号も読んでいるはずですが、川崎精雄氏の「麓のない山登り」を読んだ記憶は残っていません。
ご存知の人も多いと思いますが、川崎精雄氏は1907年生まれの、百寿を達成された登山家です。
今あらためてその文を読んでみて、その指摘にハッとしました。
近頃の日本の山は、どこも核心地帯まで立派な道路が通じてしまった。私たちの山登りは、今や「麓のない山登り」である。(中略)
昔のことばかり書くのは気が引けるが、あの頃の山登りにあっては、麓は山頂にも等しく欠くべからざる存在であり、場合によっては主題でさえあった。だから山男は、それぞれおのれの愛する麓を持った。
麓のない山登り、その指摘にハッとしたのです。
タカ長が青春のころ通ったのは、広島県の最高峰、恐羅漢山です。戸河内でバスを下りて、標高1000メートルの内黒峠を越えて古屋敷に下り、そこで定宿としていた民宿に泊っていました。テントを持参した山登りもあります。
あの頃の古屋敷は恐羅漢山の麓だったのでしょうか?この文を読んで考えました。
民宿のMさん夫婦との語らいは、今になって思えば宝物と言える大切な時間でした。Mさん夫妻の温かさが好きで、テント持参の山登りでも、雨に降られたときはMさんのところに話に行ったものです。
その大切な語らいも永くは続きませんでした。昭和38年の豪雪、「38豪雪」で離村する人が急増したのです。Mさんもその一人でした。
その翌年だったか、翌翌年だったか、村人の去った古屋敷を独り歩いたことは今も忘れられません。集落にはあっという間に雑草が茂り、ススキの穂が風にゆれていました。風の強い日で、あの時のススキがゆれる音は、今でも耳の底に残っています。
その恐羅漢山にスキー場が出来て、地形もすっかり変わってしまいました。
秋にはススキの原を歩きながら、牛小屋谷の向こうに深入山を見るのが楽しみでしたが、そのような風景は今はありません。
今、私たちはそのススキの原をつぶして造った駐車場に車を置いて、恐羅漢山をめぐる山登りをしています。
だから、今の恐羅漢山登山は、間違いなく「麓のない山登り」です。
しかし、青春のころ登った恐羅漢山は、タカ長的には「麓のある山登り」だったと、Mさん夫妻や古屋敷の人たちを回想しながら思っています。
そういえば、私たちがいつも行く「裏山歩き」はどうなるのでしょうか?
標高250メートルまで車で上るのですから、裏山の麓は車で通過している、ということになるのでしょうか?
どうでも良いことですが、ひと時代前の登山家、川崎精雄氏の文を読みながら、いろいろ考えています。