タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

究極のくり返し

2019年12月05日 | 日々雑感
時々、本当に時々ですが、愛知県一宮市の福厳寺の大愚和尚の講話をYouTubeで聴いています。

昨夜は「究極の日常、人生で大切なことは毎日のくり返しの中にある」を聞きました。
関心のある人はここをクリックしてお聴きください。

その講話を聴いて、本題とは関係ないことかも知りませんが、自分の山歩きのことを考えていました。

    

山を歩くということは、当たり前のことですが、左右の足を交互に前に出して行くという単純な行為です。日常生活の「歩く」と言う行為も同じことですが、ここでは「山での歩き方」についてだけ考えます。

    

その山歩きを60年以上やってきました。

登山回数は変動があるので、定年してからのことだけ考えることにしますが、、、、

定年して、年金生活になって、1年間の登山回数は130回から150回の間で推移しています。今年は140回+αになります。

歩数の平均は1万歩+αになっていますから、少なめに考えても年間150万歩は山を歩いていることになります。

一日に登る標高差を400メートルとすると、年間6万メートル登ることになります。富士山を海辺から山頂まで15回登ることに匹敵する標高差です。

    

タカ長のレベルでもそのようなことをしているのですから、登山をする人はすごいことをしているのだと、あらためて思います。その登山は、要するに左右の足を交互に前に出すだけ、その単純なことのくり返しです。

これって「究極のくり返し」だと思えるのです。

    

大愚和尚が言っておられますが、そのくり返しのなかで何ごとも深まって行くのです。深めて行くことも出来るのです。

タカ長とて例外ではありません。

登山者としては軟弱だったタカ長は、登山を始めた時から、とにかく効率的に、少しでも楽に登れる歩き方を志向してきました。

まわりは強者ばかりだったので、そうせざるを得なかったのです。

そのような心の姿勢は今も変わっていません。いつもの裏山をいつものように歩きながら、自分の歩くラインをいつも見ています。

そうです。自分の歩くラインがタカ長には見えているのです。

自分の歩き方は自分には分かりませんが、それが「深まった」と言うことかも分かりません。一つのことを、意識を持って継続してきたから「山を歩く」と言う行為が深まったのかも分かりません。

    

大愚和尚がここで話されているのは、毎日毎日同じことをしていることへ意義を見出せない人への回答ですが、たとえば、皿を洗うという単純なくり返しでも、人生を深めて行くことが出来ると言うことを話されています。

それが「究極の修行」だと説かれています。

時間が30分かかりますが、もしよろしければ、この講話を聴かれることをお勧めします。