5月25日はさくちゃんに教えられた山口県萩市の足摺山に行きます。
当然のことですが、帰宅は遅くなります。そのため予約投稿しておきます。
仲間たち十名余は来月北海道礼文島に行きます。
そろそろそのことが北海道に行かない仲間でも話題になっています。タカ長は今回は行きませんが、その話題には加わっています。
今回の旅では不可能なのですが、、、、北海道に行くのなら船長の家に行くようけしかけているのです。
船長の家はこの「黄色」をクリックしていただければお分かりのように、サロマ湖のそば、、、というか、、、
タカ長たちバーダーに関心のあるワッカ原生花園のそばにある料理宿です。民宿と言っていいのかもわかりません。
そのウリは料理の量が半端ではないということです。
これが二人分ですが、、、、これだけではありません。
上の写真には写っていない毛ガニはあとから出てきました。
どのカニも子供だましのものではありません。
このような感じでドカッと出されます。もちろん食べきれるものではありません。
そしてこれだけで終わるわけではありません。
食事がすすむにつれてこのようなものも出されます。
少々の大食漢でも食べきれません。
それだけの量が出されるのがここのウリです。
これが二人分の朝食ですが、全部写していないようです・
朝食でも普通の夕食より多かったような、、、、、、そのような印象があります。
船長の家の家に泊まればたくさんの料理が出ることはネット情報で知っていたので、2013年に北海道に行ったとき、到着と同時に予約しました。
宿泊の前は早朝からコムケ湖周辺を歩いたり、、、
ワッカ原生花園を鳥を見ながら歩きまわりました。
多少は運動したつもりですが、どんなに歩いても、、、、
宿泊の前にチョットした山に登っても、あれだけの量の料理は食べきれません。
食べ残すほうが多いことを知っていても予約するのは、、、、ハッキリ言えば安いからです。
へたな旅館の料金より安いので気軽に行けるのです。
タカ長たちが宿泊した翌朝フロントから「空さんが面会です、、、、」という電話がありました。
空さん、、、そのような友だちがいたかなぁ???
疑問に思いながらフロントに行ったら北見のブロガーsaraさんでした。何か差し入れを頂いたような記憶もあります。
そのお礼に、、、今度行くときは広島土産を持参して、、、、、と考えながら実現できないままになっています。
加齢とともに年々遠くなってゆく北海道、、、、でも、、、、もう一度行ってみたいなぁ、、、、。
タカ長80歳の誕生会を「船長の家」で、、、、というのも悪くないですね。
当然のことですが、帰宅は遅くなります。そのため予約投稿しておきます。
仲間たち十名余は来月北海道礼文島に行きます。
そろそろそのことが北海道に行かない仲間でも話題になっています。タカ長は今回は行きませんが、その話題には加わっています。
今回の旅では不可能なのですが、、、、北海道に行くのなら船長の家に行くようけしかけているのです。
船長の家はこの「黄色」をクリックしていただければお分かりのように、サロマ湖のそば、、、というか、、、
タカ長たちバーダーに関心のあるワッカ原生花園のそばにある料理宿です。民宿と言っていいのかもわかりません。
そのウリは料理の量が半端ではないということです。
これが二人分ですが、、、、これだけではありません。
上の写真には写っていない毛ガニはあとから出てきました。
どのカニも子供だましのものではありません。
このような感じでドカッと出されます。もちろん食べきれるものではありません。
そしてこれだけで終わるわけではありません。
食事がすすむにつれてこのようなものも出されます。
少々の大食漢でも食べきれません。
それだけの量が出されるのがここのウリです。
これが二人分の朝食ですが、全部写していないようです・
朝食でも普通の夕食より多かったような、、、、、、そのような印象があります。
船長の家の家に泊まればたくさんの料理が出ることはネット情報で知っていたので、2013年に北海道に行ったとき、到着と同時に予約しました。
宿泊の前は早朝からコムケ湖周辺を歩いたり、、、
ワッカ原生花園を鳥を見ながら歩きまわりました。
多少は運動したつもりですが、どんなに歩いても、、、、
宿泊の前にチョットした山に登っても、あれだけの量の料理は食べきれません。
食べ残すほうが多いことを知っていても予約するのは、、、、ハッキリ言えば安いからです。
へたな旅館の料金より安いので気軽に行けるのです。
タカ長たちが宿泊した翌朝フロントから「空さんが面会です、、、、」という電話がありました。
空さん、、、そのような友だちがいたかなぁ???
疑問に思いながらフロントに行ったら北見のブロガーsaraさんでした。何か差し入れを頂いたような記憶もあります。
そのお礼に、、、今度行くときは広島土産を持参して、、、、、と考えながら実現できないままになっています。
加齢とともに年々遠くなってゆく北海道、、、、でも、、、、もう一度行ってみたいなぁ、、、、。
タカ長80歳の誕生会を「船長の家」で、、、、というのも悪くないですね。
今朝は晴れました。
一昨日も晴れ、運動会の予定があった昨日だけが雨、まさに「狙い撃ちの雨」でした。
というのは昨日の話題で、今日の話題と天気とは何の関係もありません。
山ではそろそろコアジサイが咲き始めますが、、、、今日のタカ長は休養日です。
昨今のテレビ報道などを見てやり切れない気持ちになるのはタカ長だけではないはずです。
この国のトップはウソばかりつくし、、、
官僚も国民をだまし続けるし、、、、。
スポーツの世界ではあってはならない反則プレイが白昼堂々と行われ、、、、
そのことが問題になると監督は長期間の雲隠れ、、、、
当該選手が記者会見、この記者会見が立派だったのがせめてもの救いでしたが、、、、
しかし、、、、、その席には大学の関係者の同席はなく、文字通りの単独会見になりました。
当該選手の行ったことはスポーツマンとしても人としても許されるものではありませんが、、、、、
事後の行動は立派だったと思います。
名前も顔もふせることもなく行った記者会見は誰にでもできることではありません。
その勇気に感服、敬意を表します。
それにひきかえ、、、、監督、コーチの記者会見、、、、、
何かを隠し、何かを守ろうとしたら、人の表情はこれだけ醜くなるのだとあらためて思いました。
アメフト部 どっちが生徒か先生か、、、そのようがざれ歌を歌いたくなります。
タカ長だけではありませんが、私たち日本人は、、、
ウソを言ってはいけない、、、とか、、、ウソを言ったら閻魔さんに舌を抜かれる、、、とか、、、
誰も見ていないと思ってもお天道様が見ている、、、、とか、、、
そのようなことを親から教えられながら成長したはずです。
いまテレビ報道で世の中を騒がせている人にはそのような親はいなかったのでしょうか?
タカ長の両親は他界しましたが、もし生きていれば、かの大学へ行って修身の先生でもやらせたいですね。
二階に上がらされて梯子を外された選手の心情を思うと涙が出ます。
そのような大学に「危機管理学部」があると言うのは最高のブラックユーモア???
魚は頭から腐る、、、、というようなことをを現役のころ企業講習会で勉強したことがあります。
この国も同様ですね。
このままでは日本沈没も必至ですが、、、、その日はタカ長が死んだ先に、、、いや、我が子が死んだ先にして欲しい、、、、、。
その先はどうなってもよい、と無責任なことを思います。
国のトップがあれですから、タカ長ごときが無責任なことを考えたってどうっていうことはないですよね。
昨日は好天に恵まれいい登山が出来ました。明日は晴れ予報です。
昨日と明日の間の今日は朝から雨になりました。
晴れと晴れの間の雨、まさに「狙い撃ちの雨」です。
今日は長寿会の運動会なのですが、、、、無情の雨のため室内で競技することになりました。
長寿会の運動会は春秋の2回行われていますが、、、、どうも雨にたたられることが多いような印象があります。
会長が雨男なのか、その他のメンバーが悪いのか、本当のことはわかりませんが、狙い撃ちの雨に逢うのは今日だけではありません。
雨のため室内で4種の競技をしました。と言ってもたいした競技ではありません。
タカ長はこの輪投げなど4種目すべての競技で合格、賞品の野菜をもらいました。
と言ってもほとんど全員もらえるようになっているのです。
要するに家を出て、集会所に集まり、皆でおしゃべりするのが目的で、賞品はその付録みたいなものです。
しかし、、、、、やるからには好成績を収めたいのは人情で、、、、タカ長とて例外ではありません。
4種目すべてで合格点をもらってほっとしました。
本当のお楽しみは競技の後のこれで、、、、
なんだかんだと談笑していたら、これを完食していました。胃袋のほうもまだまだ元気ですね。
と言いながら、、、、午後遅い時間になってもまだ満腹状態で、、、今夜の夕食が入るところがあるか心配になってきました。
なかなか空腹を感じないのは、、、、、
これをこれだけやったから、、、、、と日記には書いておきます(笑)
タカ長もこの歳になってやっとビールの味を覚えました???
昨日と明日の間の今日は朝から雨になりました。
晴れと晴れの間の雨、まさに「狙い撃ちの雨」です。
今日は長寿会の運動会なのですが、、、、無情の雨のため室内で競技することになりました。
長寿会の運動会は春秋の2回行われていますが、、、、どうも雨にたたられることが多いような印象があります。
会長が雨男なのか、その他のメンバーが悪いのか、本当のことはわかりませんが、狙い撃ちの雨に逢うのは今日だけではありません。
雨のため室内で4種の競技をしました。と言ってもたいした競技ではありません。
タカ長はこの輪投げなど4種目すべての競技で合格、賞品の野菜をもらいました。
と言ってもほとんど全員もらえるようになっているのです。
要するに家を出て、集会所に集まり、皆でおしゃべりするのが目的で、賞品はその付録みたいなものです。
しかし、、、、、やるからには好成績を収めたいのは人情で、、、、タカ長とて例外ではありません。
4種目すべてで合格点をもらってほっとしました。
本当のお楽しみは競技の後のこれで、、、、
なんだかんだと談笑していたら、これを完食していました。胃袋のほうもまだまだ元気ですね。
と言いながら、、、、午後遅い時間になってもまだ満腹状態で、、、今夜の夕食が入るところがあるか心配になってきました。
なかなか空腹を感じないのは、、、、、
これをこれだけやったから、、、、、と日記には書いておきます(笑)
タカ長もこの歳になってやっとビールの味を覚えました???
5月20日に砥石郷山に登りながら思ったことを書き綴っています。
紹介したように砥石郷山は広島県の最高峰、恐羅漢山の隣にある山です。
この砥石郷山だけではありませんが、恐羅漢山をめぐる一帯のやまは「芸北山群」と呼ばれ、広島の岳人のふるさと、ハイマートでした。
タカ長とて例外ではなく、恐羅漢山をめぐる山には何度も通ったものです。そのため恐羅漢山やそのふもとの古屋敷にはたくさんの思い出があります。
そのことを書き綴るのが今日のテーマではありませんが、、、、、
恐羅漢山をめぐる思い出を一つだけあげるとしたらやはり「三八(さんぱち)豪雪」のことになります。
昭和37年12月末から降り始めた雪は例年にない雪でした。その時もタカ長は正月休みを利用して古屋敷の民宿をベースにスキーを楽しんでいました。
古屋敷の滞在を終えて帰るとき、内黒峠の登り口で地元の古老から「この雪はいつもの雪と違うから気をつけて帰れよ」と声をかけられました。
その声は未だに耳の底に残っています。
結果的にみるとタカ長たちが内黒峠を越えたのは「ギリギリの脱出行」になりました。タカ長たちは降り続く雪の中を難儀しながら無事に下山しましたが、少し遅れた人は本当に難儀されたようです。内黒峠で遭難事故も発生しました。
そのようにして降り始めた雪は、横川谷では最大5.5mになったという記録もあります。
あの豪雪のあと挙家離村が一気にすすみました。タカ長たちが定宿としていたMさんも広島市内に出てゆかれ、思い出の民家は無人になりました。
その年の秋だったのか、次の年の秋だったのか忘れましたが、そのMさん宅を独り訪ねてみると、家の前には草が生えていました。
その日は風の強い日で、風が木々をゆすり、ススキを叩く音だけが集落に満ちていました。その音も今もって耳の底に残っています。
そのような鮮烈な思い出もありますが、多くの思い出は年とともに消えています。
牛小屋高原から牛小屋谷に向かうこの道などまったく覚えていません。
古屋敷から牛小屋谷を下りて田代に行き、そこから三段峡に行ったり、、、横川谷を下りて三段峡に行き、帰り道を牛小屋谷にしたり、、、、
そのようなことをしていたはずですが、そのあたりの記憶がほとんどなくなっています。
しかし、、、、、牛小屋谷は小さな谷で三段峡よりは好きだった記憶はあります。そして、、、、
新緑のころ歩くのが良かったという思いでもあります。
今では数少なくなった牛小屋谷の思い出ですが、、、、
田代から牛小屋谷に向かうときに右手に見る民家がだんだんと草に埋もれていく思い出は鮮烈です。
その思い出は三八豪雪の後のものですが、、、その最後の思い出は山友とその長男と3人で歩いた時のものです。
その時その長男は高校生でした。初めて連れ歩いた山がよほど気に入ったみたいで、しきりに感動していました。
その時もあの民家の前を通り、一緒に山を見上げました。
その時の山行きで山に目覚めた彼は大学進学と同時にワンダーフォーゲル部に入部し活躍したようです。
その彼は社会に出て家庭を持ちましたが、若くして病没してしまいました。
そのため彼とあの民家を見ることはできません。
その時以来初めて歩いた田代でしたが、その民家を見ることも、その場所を特定することもできませんでした。
あの民家は本当に草に埋もれてしまったのでしょうか?
お恥ずかしい写真を紹介しますが、、、、
加齢とともにバランス感覚が悪くなり、このようなところを歩くのがおっかなびっくりになりました。
若い時なら鼻歌気分で歩けた牛小屋谷ですが、いまはご覧の有様です。
ということは、、牛小屋谷もそろそろ見納め?
その前に今度は紅葉の牛小屋谷だけは見ておきたいのですが、、、、。
紹介したように砥石郷山は広島県の最高峰、恐羅漢山の隣にある山です。
この砥石郷山だけではありませんが、恐羅漢山をめぐる一帯のやまは「芸北山群」と呼ばれ、広島の岳人のふるさと、ハイマートでした。
タカ長とて例外ではなく、恐羅漢山をめぐる山には何度も通ったものです。そのため恐羅漢山やそのふもとの古屋敷にはたくさんの思い出があります。
そのことを書き綴るのが今日のテーマではありませんが、、、、、
恐羅漢山をめぐる思い出を一つだけあげるとしたらやはり「三八(さんぱち)豪雪」のことになります。
昭和37年12月末から降り始めた雪は例年にない雪でした。その時もタカ長は正月休みを利用して古屋敷の民宿をベースにスキーを楽しんでいました。
古屋敷の滞在を終えて帰るとき、内黒峠の登り口で地元の古老から「この雪はいつもの雪と違うから気をつけて帰れよ」と声をかけられました。
その声は未だに耳の底に残っています。
結果的にみるとタカ長たちが内黒峠を越えたのは「ギリギリの脱出行」になりました。タカ長たちは降り続く雪の中を難儀しながら無事に下山しましたが、少し遅れた人は本当に難儀されたようです。内黒峠で遭難事故も発生しました。
そのようにして降り始めた雪は、横川谷では最大5.5mになったという記録もあります。
あの豪雪のあと挙家離村が一気にすすみました。タカ長たちが定宿としていたMさんも広島市内に出てゆかれ、思い出の民家は無人になりました。
その年の秋だったのか、次の年の秋だったのか忘れましたが、そのMさん宅を独り訪ねてみると、家の前には草が生えていました。
その日は風の強い日で、風が木々をゆすり、ススキを叩く音だけが集落に満ちていました。その音も今もって耳の底に残っています。
そのような鮮烈な思い出もありますが、多くの思い出は年とともに消えています。
牛小屋高原から牛小屋谷に向かうこの道などまったく覚えていません。
古屋敷から牛小屋谷を下りて田代に行き、そこから三段峡に行ったり、、、横川谷を下りて三段峡に行き、帰り道を牛小屋谷にしたり、、、、
そのようなことをしていたはずですが、そのあたりの記憶がほとんどなくなっています。
しかし、、、、、牛小屋谷は小さな谷で三段峡よりは好きだった記憶はあります。そして、、、、
新緑のころ歩くのが良かったという思いでもあります。
今では数少なくなった牛小屋谷の思い出ですが、、、、
田代から牛小屋谷に向かうときに右手に見る民家がだんだんと草に埋もれていく思い出は鮮烈です。
その思い出は三八豪雪の後のものですが、、、その最後の思い出は山友とその長男と3人で歩いた時のものです。
その時その長男は高校生でした。初めて連れ歩いた山がよほど気に入ったみたいで、しきりに感動していました。
その時もあの民家の前を通り、一緒に山を見上げました。
その時の山行きで山に目覚めた彼は大学進学と同時にワンダーフォーゲル部に入部し活躍したようです。
その彼は社会に出て家庭を持ちましたが、若くして病没してしまいました。
そのため彼とあの民家を見ることはできません。
その時以来初めて歩いた田代でしたが、その民家を見ることも、その場所を特定することもできませんでした。
あの民家は本当に草に埋もれてしまったのでしょうか?
お恥ずかしい写真を紹介しますが、、、、
加齢とともにバランス感覚が悪くなり、このようなところを歩くのがおっかなびっくりになりました。
若い時なら鼻歌気分で歩けた牛小屋谷ですが、いまはご覧の有様です。
ということは、、牛小屋谷もそろそろ見納め?
その前に今度は紅葉の牛小屋谷だけは見ておきたいのですが、、、、。
仲間たちと新緑の山を歩いてきました。
その軌跡を取ったつもりだったのですが、電池切れのためか、gpsロガーの調子が悪かったのか、とにかく軌跡を取ることが出来ませんでした。
そのため今日行ったところは「ヒミツ」ということにします。
本当の理由は、今日の話題は花のことなので、念のため詳細な場所を明かしたくないのです。
世の中には心ない登山者がいることは確かなので、そのようなことにしました。
タカ長はタカのことにも関係しています。と言っても最近はとても不真面目なのですが、、、、
この面でも、、、、特に繁殖情報などは秘中の秘のようなことになっています。
タカのことを勉強するシンポジウムでも安心できないのが現実です。タカの関係者だけが集まるシンポジウムだからと言って安心できないのが現実なのです。
そのようなこともあって今日歩いた山の具体的な情報は伏せることにしたわけです。
何とも悲しい現実ですね。
タカ長は山に咲く花の名前は多くは知りませんが、花を見るのは好きで、花を見ればカメラを向けます。
花の名前を知ってカメラを向けるとは限りません。見た目気に入った花があれば写真を撮ります。
そのように花の写真を撮ることをある程度想定して山を決めることがあります。
また、花のことなど考えないで歩いていたら思わぬ花に遭遇して、、、、ということもあります。
今日のサルメンエビネは後者です。
タカ長の勉強不足だと言ってしまえばそれまでですが、今日の山ではサルメンエビネが見られるなんて考えていませんでした。
そのため、、、、仲間が見つけてくれたときはうれしかったです。
そのサルメンエビネも1株だけではありませんでした。
天気もヨシ、、、急ぐ山歩きではないので仲間とともに何枚も撮りました。
しかし、、、、、残念ながら半分はピンボケでした。
ここでこのような花が見られるのなら、デジイチを持ってくるという選択肢もありますが、、、
でも、山歩きにデジイチは重たいですね。
ということでいつものコンデジで撮った写真をあと3枚だけ並べます。
この程度の写真しか撮れませんでしたが、、、、、仲間たちはどの程度のものを撮ったのでしょうか?
現場ではだれの写真が一番いいか、、、、、というようなことを話していましたが、一堂に集めてコンテストをするわけではありません。
私たちが撮る写真は、、、、自分のが一番いいとうぬぼれていればいいのではないでしょうか。
5月22日は山予定があるので予約投稿しておきます。
昨日は砥石郷山の森のことを書きました。
それと似たようなことですが、、、、中身はまったくの逆の話題です。
砥石郷山の北に聖山というお椀を伏せたような形の山があります。
この山がかつては全山ススキの山であったことを知る人は広島でも少数派になっています。
昨日も紹介している「西中国山地」(桑原良敏著)には、、、、
山頂の展望はかつては360度であったが、近年低木が茂り始めたので悪くなる一方である。よく晴れた日には日本海に浮かぶ「高島」に打寄せる白波まで見える。樽床貯水池をへだてて眺めた刈尾山の山容も印象的である。
と書かれています。(刈尾山の刈は上に草冠が必要ですが、その字をパソコンで出すことが出来ませんでした)
この本が発行されたのは昭和57年12月ですが、この原稿がいつ書かれたものかは知り由もありません。
タカ長が足しげくこのあたりの山を歩いたのは昭和30年代半ばから40年代の初めです。そのころは360度の展望であったことは記憶にありますが、日本海の白波まで見た記憶はありません。
タカ長が好きだったのは山頂から西側のアカゴウ谷を俯瞰した風景です。県境との間の広い谷を見下ろしながら、どこか適当なところに小屋掛けして仙人みたいな生活をしてみたいと夢想したものです。
全山ススキだった聖山も今はこのように木が茂っています。と言ってこれを撮ったのは2006年10月のことです。
最近はもっと茂っているのかもわかりません。
一面ススキの山だった聖山がこのように変わっていった事情は承知していませんが、昔の聖山を知る者には、この森の風景は心の痛むような風景なのです。
そのため聖山に登る気になれなくて、2006年以来ご無沙汰が続いています。
ある年の5月、恐羅漢山のふもとの古屋敷の民宿を出発して、ナツヤケのキビレから砥石郷山を往復して中之甲に下り、十文字峠から樽床ダムまで歩き、そこからバスで戸河内の町に帰る計画で歩いていたら、反対方向から歩いてきた登山者が「樽床ダムからのバスは運休だ」と知らされました。
バスに乗れないと三段峡を歩いて、入り口の柴木まで行かないと帰れなくなります。そうすると、歩行距離は倍増以上、忙しい山歩きになりました。
昼食時間もろくに取れなくて、渓流の水を食器にすくい、お茶漬けならぬ水漬で流し込むようなありさまでした。
そのように忙しい山歩きでも、十文字峠から聖山の山頂を往復しました。それだけ魅力のある山頂だったのです。
2006年に行った時の記念写真です。山頂はご覧のような森の中です。これを見ると山頂からの展望が期待できないことはご理解いただけますね。
砥石郷山の森が成長するのは楽しみですが、聖山には森が似合いません。というのが昔の聖山を知る者ボヤキです。
しかし、いくらタカ長がボヤいても聖山のススキの風景は戻ってきません。
タカ長の記憶には逆光に光るススキの波がハッキリと残っているのですが、、、、、、。
昨日は砥石郷山の森のことを書きました。
それと似たようなことですが、、、、中身はまったくの逆の話題です。
砥石郷山の北に聖山というお椀を伏せたような形の山があります。
この山がかつては全山ススキの山であったことを知る人は広島でも少数派になっています。
昨日も紹介している「西中国山地」(桑原良敏著)には、、、、
山頂の展望はかつては360度であったが、近年低木が茂り始めたので悪くなる一方である。よく晴れた日には日本海に浮かぶ「高島」に打寄せる白波まで見える。樽床貯水池をへだてて眺めた刈尾山の山容も印象的である。
と書かれています。(刈尾山の刈は上に草冠が必要ですが、その字をパソコンで出すことが出来ませんでした)
この本が発行されたのは昭和57年12月ですが、この原稿がいつ書かれたものかは知り由もありません。
タカ長が足しげくこのあたりの山を歩いたのは昭和30年代半ばから40年代の初めです。そのころは360度の展望であったことは記憶にありますが、日本海の白波まで見た記憶はありません。
タカ長が好きだったのは山頂から西側のアカゴウ谷を俯瞰した風景です。県境との間の広い谷を見下ろしながら、どこか適当なところに小屋掛けして仙人みたいな生活をしてみたいと夢想したものです。
全山ススキだった聖山も今はこのように木が茂っています。と言ってこれを撮ったのは2006年10月のことです。
最近はもっと茂っているのかもわかりません。
一面ススキの山だった聖山がこのように変わっていった事情は承知していませんが、昔の聖山を知る者には、この森の風景は心の痛むような風景なのです。
そのため聖山に登る気になれなくて、2006年以来ご無沙汰が続いています。
ある年の5月、恐羅漢山のふもとの古屋敷の民宿を出発して、ナツヤケのキビレから砥石郷山を往復して中之甲に下り、十文字峠から樽床ダムまで歩き、そこからバスで戸河内の町に帰る計画で歩いていたら、反対方向から歩いてきた登山者が「樽床ダムからのバスは運休だ」と知らされました。
バスに乗れないと三段峡を歩いて、入り口の柴木まで行かないと帰れなくなります。そうすると、歩行距離は倍増以上、忙しい山歩きになりました。
昼食時間もろくに取れなくて、渓流の水を食器にすくい、お茶漬けならぬ水漬で流し込むようなありさまでした。
そのように忙しい山歩きでも、十文字峠から聖山の山頂を往復しました。それだけ魅力のある山頂だったのです。
2006年に行った時の記念写真です。山頂はご覧のような森の中です。これを見ると山頂からの展望が期待できないことはご理解いただけますね。
砥石郷山の森が成長するのは楽しみですが、聖山には森が似合いません。というのが昔の聖山を知る者ボヤキです。
しかし、いくらタカ長がボヤいても聖山のススキの風景は戻ってきません。
タカ長の記憶には逆光に光るススキの波がハッキリと残っているのですが、、、、、、。
広島県の最高峰、恐羅漢山の隣にある砥石郷山は広島では人気の山だと思っているのですが、、、
昨日の登山中に出会ったのは5名くらいの男性グループが一組だけでした。タカ長たちが下山したあと田代から登ってこられる人がいれば別ですが、、、、
見たところ2組10名たらずの登山者しかいなかったことになります。
昨日は最高の登山日和で、牛小屋高原の駐車場には大型バス1台を含め多くの乗用車が駐車していました。その人たちのほとんどは恐羅漢山に登ったのでしょうか?
ネット情報に毒されていたのかも知りませんが、田代から砥石郷山までの登りは相当キツイものになる覚悟していました。入れすぎるくらい入れ込んで現地に向かいました。
しかし、、、、帰宅して、あらためて軌跡を見ると、1時間で400m程度の高度しか登っていませんでした。
昨日のようにさわやかで、風が適当にあると汗だくになることもなく450mくらいは登れそう、、、というのが今のタカ長の脚力ですから、、、、
だから、あっけないくらい簡単に山頂に着いた、と感じたのでしょう。
今日のタイトルを「砥石川山」としましたが、これは変換ミスではありません。
「西中国山地」(桑原良敏著)によると、この山は昔は「長石山」と呼ばれていたようです。
砥石川山となったのは、牛小屋の谷の水源にあるナツヤケの谷より砥石になる凝灰岩質砂岩と思われる石が見つかったからである。砥石に使える石を初期には川の転石から見つけていたので、ナツヤケの谷を砥石川と呼んでいた。この付近では川を横川(よこごう)、中ノ川(なかのごう)、赤川(あかごう)の如く「ごう」と読んでいるので「砥石川山(といしごうやま)と書くのが正しい。
桑原先生は西中国山地のことを深く研究されているので、タカ長はこの記述に異議をはなみませんが、国土地理院の地図には「砥石郷山」とあるので、今では誰もがこの記載に従っています。
どのような経緯で国土地理院が「砥石郷山」としたのか、その経緯は知りませんが、地名は一つの文化財ですから、安易に変えることには賛成しかねます。
この峰より砥石郷山三角点までは、ミズナラ、ブナの樹林の中を歩くので展望がきかない。
「西中国山地」にこのように書かれている尾根道は、落葉期に歩くと明るくて好きでした。タカ長の記憶にある、青春のころのこの尾根は深い森を歩くのではなく、灌木中を歩いているようなイメージでした。
その森も年々成長して、、、人間にたとえたら「中学校入学」くらいにはなってくれたように感じています。
恐羅漢山をめぐる山はブナの山で、タカ長たちの年代の登山者が、その森の素晴らしさを知る最後の世代になったと感じています。
恐羅漢山の稜線部はもちろんですが、ナツヤケのキビレを下りた中之甲をめぐる山のブナは今では語り草になっています。その中之甲のブナはタカ長世代より前のことで、この集落を何度も歩きましたが、ブナの森の思い出はありません。
タカ長が知っているのは恐羅漢山山頂やその稜線部のブナですが、そのブナの森はスキー場の開発が影響したのか、今では見る影もないくらい酷いものになっています。
その森が再生するまで生きることはできないので、、、、、せめて砥石郷山の森が「高校入学」程度に成長する姿を見たいと思っているところです。
この尾根道は5年も10年もご無沙汰しているわけではありませんが、昨日歩いてみたら急に成長したように感じました。
森の成長も、ある時期には急に成長するのかもわかりませんが、しかし、どんなに急いでもらっても、あの森が昔の恐羅漢山のようになるまで生きることはできません。
そのことは重々分かっていながら、昨日の様子から「せめて高校入学までは見届けたい、、、」という夢は叶いそうな、そのような期待を持たせた山歩きでした。
ナツヤケのキビレから登ったところの展望のピークのまわりの木も成長してきました。
前方に見えるのが恐羅漢山ですが、砥石郷山のブナの森が「高校入学」くらいまで成長したころには、ここから恐羅漢山が見えなくなるのでしょうか?
ということは、、この秋にも行って、タカ長が好きな「全山紅葉」を見ておいたほうが良さそうですね。
昨日の登山中に出会ったのは5名くらいの男性グループが一組だけでした。タカ長たちが下山したあと田代から登ってこられる人がいれば別ですが、、、、
見たところ2組10名たらずの登山者しかいなかったことになります。
昨日は最高の登山日和で、牛小屋高原の駐車場には大型バス1台を含め多くの乗用車が駐車していました。その人たちのほとんどは恐羅漢山に登ったのでしょうか?
ネット情報に毒されていたのかも知りませんが、田代から砥石郷山までの登りは相当キツイものになる覚悟していました。入れすぎるくらい入れ込んで現地に向かいました。
しかし、、、、帰宅して、あらためて軌跡を見ると、1時間で400m程度の高度しか登っていませんでした。
昨日のようにさわやかで、風が適当にあると汗だくになることもなく450mくらいは登れそう、、、というのが今のタカ長の脚力ですから、、、、
だから、あっけないくらい簡単に山頂に着いた、と感じたのでしょう。
今日のタイトルを「砥石川山」としましたが、これは変換ミスではありません。
「西中国山地」(桑原良敏著)によると、この山は昔は「長石山」と呼ばれていたようです。
砥石川山となったのは、牛小屋の谷の水源にあるナツヤケの谷より砥石になる凝灰岩質砂岩と思われる石が見つかったからである。砥石に使える石を初期には川の転石から見つけていたので、ナツヤケの谷を砥石川と呼んでいた。この付近では川を横川(よこごう)、中ノ川(なかのごう)、赤川(あかごう)の如く「ごう」と読んでいるので「砥石川山(といしごうやま)と書くのが正しい。
桑原先生は西中国山地のことを深く研究されているので、タカ長はこの記述に異議をはなみませんが、国土地理院の地図には「砥石郷山」とあるので、今では誰もがこの記載に従っています。
どのような経緯で国土地理院が「砥石郷山」としたのか、その経緯は知りませんが、地名は一つの文化財ですから、安易に変えることには賛成しかねます。
この峰より砥石郷山三角点までは、ミズナラ、ブナの樹林の中を歩くので展望がきかない。
「西中国山地」にこのように書かれている尾根道は、落葉期に歩くと明るくて好きでした。タカ長の記憶にある、青春のころのこの尾根は深い森を歩くのではなく、灌木中を歩いているようなイメージでした。
その森も年々成長して、、、人間にたとえたら「中学校入学」くらいにはなってくれたように感じています。
恐羅漢山をめぐる山はブナの山で、タカ長たちの年代の登山者が、その森の素晴らしさを知る最後の世代になったと感じています。
恐羅漢山の稜線部はもちろんですが、ナツヤケのキビレを下りた中之甲をめぐる山のブナは今では語り草になっています。その中之甲のブナはタカ長世代より前のことで、この集落を何度も歩きましたが、ブナの森の思い出はありません。
タカ長が知っているのは恐羅漢山山頂やその稜線部のブナですが、そのブナの森はスキー場の開発が影響したのか、今では見る影もないくらい酷いものになっています。
その森が再生するまで生きることはできないので、、、、、せめて砥石郷山の森が「高校入学」程度に成長する姿を見たいと思っているところです。
この尾根道は5年も10年もご無沙汰しているわけではありませんが、昨日歩いてみたら急に成長したように感じました。
森の成長も、ある時期には急に成長するのかもわかりませんが、しかし、どんなに急いでもらっても、あの森が昔の恐羅漢山のようになるまで生きることはできません。
そのことは重々分かっていながら、昨日の様子から「せめて高校入学までは見届けたい、、、」という夢は叶いそうな、そのような期待を持たせた山歩きでした。
ナツヤケのキビレから登ったところの展望のピークのまわりの木も成長してきました。
前方に見えるのが恐羅漢山ですが、砥石郷山のブナの森が「高校入学」くらいまで成長したころには、ここから恐羅漢山が見えなくなるのでしょうか?
ということは、、この秋にも行って、タカ長が好きな「全山紅葉」を見ておいたほうが良さそうですね。
今日もいつもの三羽烏で砥石郷山に登りました。
砥石郷山は広島県の最高峰、恐羅漢山の北東方向にある山です。
その山頂そのものには何度も行っているので今更、、、、というような山ですが、今回はふもとの田代から登りたかったのです。
タカ長には初めてのコースなので、、、、そして、、、、そして、、、、このルートは急登のコースと言われているので、それがどのようなものか、自分の足で実感してみたかったのです。
今日の登山のスタート・ゴール地点は恐羅漢山のふもとのキャンプ場です。
ここに車を置いて牛小屋谷を下がり田代に向かいます。そこからが急登の始まりとなるコースです。
今日の軌跡はひどく乱れています。衛星の電波を拾ったのが牛小屋谷を半分下りたところ、その先はほぼ正確に記録されています。衛星の電波を拾うまでのルートは地図の点線とほぼ同じです。
この牛小屋谷は青春のころは何度も歩いたのですが、、、、
最近はご無沙汰しており、直近の、、、、とも言えないくらい前、34年くらい前に歩いたのが最後になっていました。
近年では谷があれていて、、、、というようなイメージをネットから得ていたので足が遠のいたままになっていたのです。
その牛小屋谷を歩く気になったのは、、、、友だちから「歩けますよ」と言う情報を頂いたからです。
ネット情報より実際に歩いた人の情報のほうが確かですね。
その牛小屋谷を歩いているところを相棒が撮ってくれました。
コースの一部には足場の悪いところがあり、、、、加齢とともにバランス感覚がガタ落ちのタカ長はおっかなびっくりで歩くところもありました。
田代から砥石郷山への登山口で小休、、、おむすび一つ食べて登り始めました。
登山道がしっかりしていることはネット情報で知っていましたが、、、そのうえ月末に行われるトレラン大会のための整備もされていて、苦も無く高度をかせぐことが出来ました。
急登といえば急登の道ですが、、、、
わが裏山でもこの程度の急登はあるので驚くほどのことはありません。
私たちはいつもおしゃべりしながら山を歩くのですが、そのおしゃべりが出来ないほどの急登ではありません。
ゆっくり、ゆっくり、しかし、休まないで登っていくとロープが現れて、、、、、
アレッ、、、ロープが現れたらこの登りも最終段階では、、、、、それにしては時間が経過していないなぁ、、、、、
そのようのことを考えながら歩いていたら高木がなくなり、、、、
遠くの風景が見えてきて、、、、
あっけなく砥石郷山の山頂についてしまいました。
現地に表示されているコースタイムはアテにはならないのでしょうが、、、、
田代の登山口のところに「1時間50分」と書かれていた登りを1時間20分、、、正確に言えばもう1分か2分早く山頂についてしまいました。
拍子抜けした、、、、と言えばその通りですが、、、、、
そのようなことが言えるのは、、、、今日は大陸の方から冷たい風が吹き出していて、、、、
汗だくで登ることがなかったからでしょう。
これがタカ長の実力なら嬉しいのですが、、、、本当はお天道様に助けられたラッキーパンチだったように思っています。