大昔、水野良太郎氏が著書の中で昭和50年代当時の鉄道模型の入門書や専門誌を紹介した折に「専門誌を読むだけのファンも増えてほしい。そしてよく読み込んでほしい」という一節を書いたことがあります。
学生の折、これを初読した時実は「これはかなり無理な論旨ではないか」と思ったのを思い出しました。この本が上梓された時(昭和52年頃)は専門誌と言ってもTMSのほかは「とれいん」が創刊されて日が浅い時期でしたし専門書といってもその大半がTMSの別冊という状況でしたから。
(あとは「模型とラジオ」「子供の科学」などの総合工作誌の1コーナーくらい)
ですが私の場合で言うならその後、20年の趣味の中断期間の間TMSだけは購読を続けていた事は趣味の再開後に大きな糧になっていたのは間違いありません。
その中断期間に「RM MODELS」と「N」が創刊され専門誌が4誌体制になりましたし、そのそれぞれが別冊という形で纏った作例集やレシピ本をコンスタントにリリース。それとは別にムックなどで鉄道模型を扱う物も出てきました。
少なくとも水野氏が願っていた当時よりは鉄道模型の専門書は増えましたし地方でも入手が比較的容易になったのは確かです。恐らく、ですがこうした専門誌を読むだけの鉄道模型ファン(「読む模型鉄」とでも名付けましょうか?)もそれに伴い一定の数はいるのでないでしょうか。
「読むだけ」というのは極端にしても例えば「手持ちの車両が1両、レールが一本しかない状況でも専門誌を肴にイマジネーションを膨らませる」という楽しみ方もあるはずですし、丸々10年以上「基本セットから進んでいないファンでも専門書を参考にプランだけは成長している」というのもあるかもしれません。
これは鉄道模型だけではなく他のホビー系でも言えると思いますが、殊鉄道模型の場合は車両工作では工具の拡充と技量の問題が、レイアウト派についてはスペースの問題がかなりハードルを上げているのは確かです。事実車両工作派の凄腕さんのワークショップは下手な町工場顔負けの設備を有しているのも結構ありますし、6畳どころか12畳間を占領しているレイアウトなんてのも専門誌ではざらに見る話です。
お金や手間(そしてお金w)をある程度掛け、それ以上に時間をかけて「鉄道模型を好きで居続ける」熱意(と妄想力)がないとここまでのレベルには達せられないとは思うのですが、そうした情熱を維持し続ける要素として定期的に誰かの作例を見る、読むというのは結構有効に働いくのではないかと思います。
今だったら同じ事はネットでもお手軽にできますし。
ただ、問題なのは「読むだけ、見るだけ」で終わってしまうことが果たして良いことなのかと言う疑問ですが。
車両にしろレイアウトにしろ鉄道模型誌はその大半が「自分で作るための工作誌」と言う側面を持っていますし入門書も大半はそうです。
それらを目にして「自分も作ってみようかな、やってみようかな」と思わせられればそれは著者や出版社にしても本望と言えるでしょう。
例えて言うならケーキのレシピ本のような物で「読むだけ、見るだけで終わってしまう」というのは結構虚しい感じがする気がします。たとえ失敗しても不味くいっても「実行してみることそれ自体に価値がある」訳で「仕事や家事ではない、道楽としてのホビー」にはこれが大事なことと思います。
あるいは「自分の範囲だったらここまでだったらできる」という見極めをつけることにもつながるでしょう。
できる事ならこうした本を読んで幾分かでも実際に手を使ってもらえるならと思います。
2
上で紹介した水野良太郎氏の本が出たのは今から40年以上前と言うのは既に書きましたが、実はこの時点でも鉄道模型の専門書はTMS以降の物だけとっても既に30年の歴史を持っていました。
今だと更に40年分は上乗せされましたから(変なたとえですが)「TMS創刊時に生まれた赤ちゃんが今は後期高齢者目前の年齢」と言うほどの歴史を刻んできたことになります。
その70年間にはOゲージから16番ゲージ、そしてNゲージへと言う主役交代劇が何度かありましたし、3線交流式から2線直流式へ、ハンドメイドの金属模型からプラ量産模型へ更にはレーザーカッターや3Dプリンタの登場による「同人誌的な少量多品種のマニアック路線キットへと言った変遷もありました。
ここ30年位の大きな変化はNゲージの普及が引き金となった(と私が勝手に思っている)「工作派とは異質なコレクター派の増加」とネットの普及に伴う「ファンの個人レベルでの情報・意見の発信の発言力の増大」と言うのがあると思います。
そうした変化、変遷が激しいだけに専門誌や書籍の内容もそれらを反映して時には緩やかに、時には急激に変わってきたと。
(もちろん量的な面でもこの間にかなりの書籍がリリースされてきてもいますが)
そうした時代の変化を90年代半ばに「作るコレクターの目線」で俯瞰して見せた「鉄道模型考古学」が登場したのは、そのタイミングと言い一つのターニングポイントとなったと思います。
それは「作る」とも「集める」とも違う「個々の製品を通して歴史を俯瞰する」と言う視点から鉄道模型を語り得る最初の本の登場とも言えるものでした。
そしてそれは同時に「読むだけの鉄道模型」がただ読み飛ばすだけに留まらない「テツドウモケイを歴史研究の対象として楽しむ(笑)」と言う第3の方向性を持ちえるようになった瞬間でもあったと思います。
私自身、趣味の中断時期にこの「考古学」に出会った意味は大きかったと思います。当時は模型に触れても居ない時期だったにも拘らず本書を読む事で「昔の模型を思いだし、思い出と照らし合わせて考察する」と言う楽しみ方に目覚めたのですから。
実際、モケイ自体に殆ど触っていなかった時期なのにこの本だけはそれこそボロボロになるまで読んだ記憶があります。
前述の様に鉄道模型の本は既にそれ自体が70年以上の歴史を持つジャンルになりました。
昔よりも古本屋新刊書の入手が容易になりましたし「鉄道模型本それ自体を集めて楽しむ、研究する」と言う方向性も大いにありだなと言える環境になってきたと思います。
しかも今はネットでそうした研究成果を発信し、かつそれらを同好の士同士で共有する事も可能ですし感想や考察などもダイレクトに得られますから凄い時代になったと思います。
ここに来てようやく「読む鉄道模型」の意義のひとつが認識されやすくなってきたと言うのは言えるのではないでしょうか。
3
上の項で今の鉄道模型の入門書について、ケーキのレシピ本を例にして「手を使わない読むだけ」の使われ方への疑問を書きました。
その時は「ケーキつくりのレシピ本」という例えを使いましたが、ケーキを楽しむにはもうひとつ「有名店のパティスリーのケーキを食べ歩く本」とか「世界の高級ケーキを俯瞰する本」と言うジャンルもまたあります。
これを鉄道模型に当てはめるなら「完成品のコレクション」がそれに相当しましょうか。
最近では入門書でもコレクターへのガイド的な性格の入門書がちらほら登場しています(特にイカロス出版系)
恐らくこの方向が登場したのは70年代中頃からの「とれいん」のアメリカ型モデルの連載辺りからでしょうか。
従来の専門誌がコレクターを取り上げるのは前に書いたように(それらが元々「工作誌」「作品展覧会誌」としてスタートしていることから)ほとんどなかった事です。
この点では一般誌の「アサヒグラフ」「サライ」「ラピタ」などの方がコレクター紹介の比率が比較的高かったように思います。
まあ「コレクター=強欲の権化」「拝金主義の相場師」というイメージが古くからの工作派や運転派に根強いのも確かなのですが、いずれにしろこれまで専門書の中ではコレクターは日陰の存在だったとは言えます。
ですが現実のネットオークションなんかで中古モデルやキットメイク品が玉石混交とはいえ非常に活発に取引され「まんだらけのオークションカタログで鉄道模型の特集が組まれる」ようなご時世。
恐らくネット上で同好のコレクター同士の横の繋がりも増えてきているのではないでしょうか。
それを思うとそろそろコレクターだけを対象とした専門誌というのもあっていいのかなとは思っています。
ただ個人的な希望を言うなら、もしそんなのが出てきたとしても闇雲なレア物の紹介に終始し「モデルの相場の吊り上げのお手伝い」として機能されても面白くないです。
そこで紹介されるべきは「個々のコレクターが各自持っているポリシー」だと思います。
本来ホビーというのは大なり小なりクリエイティブな物です。ホビーを通して実生活とは異質の視野、見識を広げることがホビーの重要な存在意義と思います。
(実際、そうでなければ「時間を使い、カネを払ってまでして苦労を買うような真似はできない」ですし)
コレクターの場合、工作派の様に作品を通して語る事はできませんが、集め方のポリシーなら語ることができるし有用だと思うのです。
その過程で工作派と共通する見識が得られるなら少なくとも今ほどの対立は減るのではないかと言う気もしています。
勿論個人レベルならネットやSNSでもそういう事はできるのですが、ここは「きちんとしたエリミネートを行い上質な上澄みをまとめた書籍」という媒体が向いていると思えますし。
まあ、この辺は単なる愚痴と言うか希望ですが。