ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

桃山養護学校の前史(松本先生の余録より)

2011年01月03日 21時53分20秒 | その他
桃山養護学校が、本年3月末に閉校となる。
2010年11月27日に「桃山の教育を語る会」が開催されたようだが、その冊子を手に取ることができた。その中に、松本宏先生の「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり-桃山分校開校前後の個人的体験余録-」という文章があった。桃山学園への派遣教諭の経験、与謝の海養護学校の開校と桃山分校の開設、そして訪問教育制度のことなど、いままで知らなかったことも多く記されていた。貴重な証言であると思った。
京都府のみならず、全国的な障害児教育の確立をめぐる資料として、僭越ながら、このブログにも分割して掲載させていただこうと思う。なお、若干の表現上の統一をした部分もあることをお断りしておきたい。

松本 宏「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり-桃山分校開校前後の個人的体験余録-」『桃山の教育を語る会』(2010年11月27日)

-その1-

1.はじめに
 1972(昭和47)年の分校開校から、本年で39年目。「十年一昔」といわれる見方になぞらえれば、とおの昔の物語。「養護学校義務制実施、全員就学」なんて言葉は今では死語の領域のことであろうか。当時それを京都で貫徹し、国の制度の変革にとりくんだ集団の一人として、感慨ひとしおのものがある。思い出す個人的な体験のこぼれ話を記してみる。

2.私の前史、桃山学園派遣教諭の頃

(1)学園児の無学籍問題
 1964(書和34)年、たまたま私は京都市立桃山中学校籍で、桃山学園の派遣教諭として丹後から転入した。私にとっては、陸の孤島に島流しになったような感じだった。子どもたち55人の集団生活の場だった。学園の指導職員も教員も、一つの職員室に机を並べ、全体の運営・指導態勢の中に教員も位置づいていた。
 赴任して最初の5人の教員の顔合わせ・会議が終わったところで、「われわれは府教委の人事で配置となり、所属は市教委の桃山小・中学校籍となっているが、学園の子どもたちの学籍(学校籍)が無いままなのだ」ということ。従って、施設内学級としての教育費の令達もないし、義務教育の教科書無償交付を受けていないとのこと。通常、児童入所福祉施設に措置された児童は、その地区の区役所に住民登録される。地区の教育委員会は学籍ををつけなければならない。無学籍であることを知りながら、そのまま放置しておくべきではないと、派遣教員一同の名において、桃山小・中学校長に、市教委への善処方申し入れを依頼した。
 結果は「府教委からの依頼で、教員籍は実務上市教委で預かって処理しているが、児童の学籍は府立の施設の子であり、市教委のあずかり知らぬこと」ということだった。
 私たちは、これは教育行政間の内部問題ととらえた。府教委でも問題提起するにあたって、桃山学園全体の意思統一の必要を考えた。学園は、学園を所轄するの府の民政労働部婦人児童課との連絡も進められた。府教委学校教育課長、府婦人児童課長が、それぞれに実態調査に来園、懇談もし、事後、相互に連絡をとりあった。
 府教委、婦人児童課、学園、派遣教員の相互確認として、「本問題は、かねてよりの懸案事項である。府教委学校教育課が、今後市教委と協議して善処したいので、しばらくの期間を与えられたい」ということとなった。
 本問題は遅々として進まなかった。翌年度の2年目となって、学校教育課から「市教委の意向として、障害重度の就学猶予免除とすべき児童の名簿を提出されたい。今後の協議を進める前提条件とのことである」と連絡があった。
 私たちはかねてよりこの猶予問題が出てくることを予期していた。すでに前年度に、園児たちの直接の保護者の会、桃親会において、教育権にかかわる学習会をもったりもしていた。「制度理念からみても、就学猶予免除は教育行政が裁量するものではなく、親権者が子女を就学させる義務を履行することが困難な状況がある場合に願い出るものである。学園児の保護者は、全面介助・言語コミュニケーション未獲得などの重度障害児であればなおさらに、全員就学を強く希望している。桃山学園内学級においては、従来より実態として全員を教育の対象としてきている」とする主旨で応酬をくり返した。
 学籍問題で、私たちはしばしば府教委学校教育課や府婦人児童課にフリーパスで出入りした。午後5時頃から、制度論のみならず、児童福祉・障害児教育のあり方などについて、ときに夜更けまで懇談したこともあった。
 本件はようやく4年次末の68年3月に、暫定措置として、「市教委は学園児全員の学籍を桃山小・中学校につける。但し教育費は令達しない、将来においては、府教委の管理下において措置を講ずることとする」となった。

(2)田中論文と、その人との出会い、
 学園に赴任した64年の4月の中頃、児童課長から「これの読むか」と小冊子を渡された。全国の精神薄弱児者福祉施設で構成されているところの「愛護協会」の月刊誌『愛護』であった。その中に、「講座 精神薄弱児の発達」(近江学園・田中昌人)があった。連載がその1月から始まっていた。私はその論文引きつけられた。宇宙・地球・生物・人類の生成・誕生とその発展過程にある今、自然科学や社会科学の成果の到達点における人類と人間一人ひとりの尊厳と、そこにおける人間発達と障害者問題のとらえ方等々。その頃の私に、もう一度私なりの科学的・総合的・哲学的思索の基礎学習、再学習の視点を与えられたものであった。
 私は愛護の編集部の近江学園の矢野さんに、ちょっとした実践記録を送りながら、田中先生の間をとりもってもらった。
 66年だったろうか。大阪で日本教育学会が催された。田中さんから「特殊教育分科会で発表する」と連絡があった。分科会参加者約30名。3人の発表が終わり質疑討論となった。冒頭に、司会の三木安正教授(当時、日本の特殊教育界の天皇といわれていた人)から、「田中君の論文や話は、むずかしいことで定評があるのですが-」とあって、会場に笑い声が広がり、会場の空気がなごんだ。
 午前の部が終わり、「飯を食べよう」と会場から出た。「午後の学会は」と問うと、「もういいい、二人で話そう」となった。「左に守屋先生(立命大、心理学教授)が目をつむって腕組みをして、達磨さんみたいにしてらっしゃる。右にあんたがどんぐり目でにらんでいる。あんなの話しにくいよ」などと二時間ばかり雑談したのだった。田中論文と、その人との出会いは、私のその後の人生を決定的にした。

(3)研究部の設置と実践の共有化
 私の桃山学園の2年目、運営組織に研究部を設置することとなった。私は研究部長の担当となった。「お互いの実践をお互いの共有財産とする。実践記録を書く。出し合う。みなで検討する。実践に還る。年度末に実践を研究紀要としてまとめ、内外に配布する」といった方針を立てた。
 月2回の定例研究会は、子どもの事例研究・検討が盛んに行われたりなどの中で、子どもの見方・捉え方・援助の視点などの深まりを共有することができたとみている。職員たちは、中堅層も青年層も、子どもたちの被服も、善意の戴き物でやりくりしている貧しい施設の運営費の中で、みな子ども達を大切にし愛していた。

(つづく)