ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

松本先生余録(その4) 京都府独自の訪問教育制度の実施

2011年01月06日 23時59分59秒 | その他
 滋賀の野洲養護学校での寄宿舎を中心とした事例検討会に参加した。子どものケース検討は興味深いもので、重要なものと思った。小・中・高と寄宿舎(そして家庭)と子どもの発達と障害、生活の姿を総合的に検討できることはいまどこでも難しくなってきている。個人情報だといって、回避されてしまうこともあり、家庭や教師や子どもといったばらばらに責任を押しつけ合うということにもなっている場合もある。
 電車の中で、NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』(文藝春秋、2010年11月)を読み終わる。最後の章で不覚にも電車の中で胸が詰まってしまう。これについては、また書きたい。

松本先生の余録は最後の部分。京都府単独の訪問教育制度の発足秘話である。京都府下南部の全員就学を支える制度としての訪問教育として位置づけるられるものであるが、コメントさんのように施策として多様な選択肢が用意されたわけではないともいえるかもしれない。

-その4-

(3)京都府の初の全国初の訪問教育制度の実施
 桃山分校の1年次、72年度となった頃、京都府教育委員会は、全国の都道府県で最初に全員就学の方針を確認していた。さらにそれを徹底しようとするとき、病虚弱・重症児などの在宅の通学・寄宿舎入舎の困難な事例をどうするかの課題があった。
 2学期になって、府教委の学校教育課・保健体育課・教職員課と府教育研究所から関係する担当者、学校から与謝の海本校、桃山分校・向日が丘から各1名が集まった。訪問教育制度の内容と実施要綱案を学校教育課が主催しながら秘密会として検討するというものだった。秘密会とするのは、義務教育として学籍をつけての訪問教育は、国の制度にも全国の都道府県にも例ののないもの、予算的にも府単費持ち出しであり、知事部局の了解が得られないやもしれない時のことをおもんばかってのことだった。
 案の定、財政折衝は、暗礁に乗り上げた。財政課レベルにおける交渉から、総務部長・教育長レベルの折衝も合意にいたらず、ついに最終の知事直接決済事項となる。
 2月に入っていたのではなかったか、長澤学校教育課長(故人)から、「夕方5時から知事と会ってくる。これが最後だ。東城君(義務教育係長。故人)といってくる」と電話があった。
 あくる朝、どうだったかなと思っている所へ電話があった。「できたぞ!通ったぞ!」と。すでに知事も事の概略は承知されていたのだが、もう一度、就学猶予・全国動向・子ども達・父母達の実態ねがい・全員就学を京都府がリードすることの意義などについての説明応答の後、「それにしても教員を家庭に訪問させて教えることを、養護学校の教員にさせていいのか。養護学校の教員は嫌がらずにやってくれるのか」と聞かれて、「やってくれます。大丈夫です!じつは養護学校の教員諸君が、『学校に来れない子達を放っておかないで、一人残らずやりましょうといってくれているんです』と言った時には脚が振るえたっちゃ。そしたら知事が『そうかあ』といって、しばらく眼をつむってじっとしておられるんだ。そして、眼をあけて、『よしっ、やりましょう。予算をつけましょう』といわれたんだ」ということだった。私には電話の言葉や響きの感動が、今も脳裏にある。
 桃山分校の2年次、73年4月から与謝の海本校、桃山分校、京都市域は市立呉竹養護学校が担当して、京都府全域にわたっての全員就学の態勢は大きく前進したのだった。
 2年次の分校は、児童生徒102名内訪問教育21名。教職員28名。もはや独立校に匹敵する態様で、本格開校も進めていった。

(4)養護学校教育全員就学義務制政令公布
 1973(昭和41)年11月20日朝、一般的に「養護学校義務制実施、昭和54年(79年)4月より」といわれる政令公布がマスコミによって大々的に報じられた。私は、これの、都道府県において養護学校必置を義務とすることよりも、「全員就学を原則とする」としたところが感慨無量であった。義務制実施と全員就学原則は本来別のもので、義務制実施が自動的に全員就学を実現するものではなく、就学猶予免除はそのままということはあり得ることだった。
 その朝、職員朝礼で、「義務制実施全員就学、政令公布された」ことを告げた。「それがどうした。すでに当たり前のこと」とでもいうような皆の反応だった。与謝の海開校時の「石にかじりついてでもやりきる」と意思統一し、全力投球の実践追求に明け暮れした集団と、その積み上げで京都においては全員就学が当然となっている後発の学校現場とでは差があるのだなと納得した。
 「ついにやりきったな」と、府教委や与謝の海と電話せずにいられなかった。その日一日中、私は「よし、やりきれた。これで全員就学はゆるぎないものとなった。もうつぶされないぞ」と体中の血がわきたつ感動に浸り続けていた。

5.むすび
 思い起こせば、与謝の海の開校と軌を一にしたように、国会において繰り返し就学猶予免除問題がとりあげられ出した。そして全国あちらこちの地方議会においてもとりあげられ始めた。
 71年、京都府議会においては、京都北部障害者問題連絡会(北障連)の署名請願の「就学猶予免除の撤廃にうjちえの国への意見書提出要請について」に基づき、委員会での相当な討議を経て、全会派賛同の下に意見書が採択・提出されたこともあった。
 与謝の海本校開校の70年度に、調査見学来校者が2000人、翌年度は2学期を終えた頃だったか2000人を越えたと事務室から聞いた記憶がある。桃山分校にも「京都の障害児教育を知りたい」と全国からかなりの来校者があった。
 ともし火は、正に全国に燎原の火のように広がり、「納得の上で普遍性を実現していく」国民大衆の高まりが、国の教育政策として打ち立てられていったとみられる。