『教育』の2月号に、「映画をつくる-人の育ちを支える教育の仕事との重なり」として、山田洋次と田中孝彦の対談が掲載されている。はなしは、1.「寅さん」や「おとうと」などの「不届き者」のこと、不届き者のそばから見えてくるもの、そしてそれを包み込む家族と社会(みとりの家のような施設)、2.「京都太秦物語」の製作にかかわって、若者の本当の願い(本格的な学習・研究を、なぜ今まであまり経験できないできたのかという悔しさ」の気づき)、そして3.伊丹万作の「演技指導論草案」について(演技指導論)の3点。
いろいろ思うところがあって、面白かったが、最近行っているフィルム関係のしごとや歴史の掘り起こしとも関係していて、不思議な縁を感じた。
京都関係の障害児教育史のなかで、戦前の特別学級の歴史、そしてそれが滋賀の近江学園などに受け継がれていくのだが、その担い手となった一人が田村一二である。田村の「忘れられた子ら」「手をつなぐ子ら」の映画化にいては、「戦後民主教育の開始と知的障害児へ取り組む教師」(『障害児の発達理解と教育指導』)として書いたことがある。また、このブログにも「斉藤千栄治と田村一二-奈良・京都・滋賀の障害児教育の歴史の中で」(「たちあがる」)として書いたことがある。
最近、与謝の海養護学校などの資料をみているのだが、松本宏先生の記録の中に田村一二の文章が採録されているのをみつけた(松本宏『不立文字』第二集、2001年12月、私家版)。それは伊丹万作の思い出をはじめとして、映画のことについていろいろ書かれたものであった。まだ、掲載誌のうらをとっていないが、次のようなもの。羽仁進監督の「手をつなぐ子ら」はみていない…。
映画「手をつなぐ子ら」と「忘れた子ら」の思い出
滋賀・一麦寮長 田村一二 1868年6月、愛護127号
終戦の年だったと思う。その頃、私は1週間か10日に一回ぐらい、京都の伊丹万作さんの見舞いに行っていた。わずかの野菜をぶら下げて、木炭バスに乗って出かけるわけだが、この野菜を見たら伊丹さんが喜ぶぞと、あのひげがニコッと動くことを見るのが楽しみであった。
伊丹さんはたいてい病床に病臥したまま、私は枕元に座って話し合うのだが、そのころの伊丹さんは映画人というよりも学者の感じであった。それも恐ろしく趣味の広い学者である。話題は多岐にわたったが、映画、文学は勿論、絵画、俳句などについても、造詣が深く、硯についても実にくわしかったことを覚えている。
その頃「手をつなぐ子ら」の脚本を伊丹さんは書いていたが、あのなかにでてくる。氷すべり、草ぞり、土の中に埋められる場面などのことをよくきかれた。これらはみな私の子どもの頃の経験なので、詳しく話しをすると、伊丹さんはうんうんとうなずきながら、メモをとったり略図をかいたりしていた。それから何日かたってまた見舞いにいったとき、脚本をみせられて驚いた。場面場面が精密な鉛筆画になっていた。ちょうど、フィルムの一コマ一コマを見る感じであった。このまま放っておいたら、伊丹さんは、鉛筆で映画をかいてしまうではないかと思ったほどである。
「本当はこの映画は自分で監督したいんですがね、この体ではとても駄目ですから、せめて、まあ、こんあことっでもして慰めているんです」といって、伊丹さんはのびた無精ひげをちょっとまげてわらったが、それは、単なる慰みごとどころのものではなかった。誰が監督をするにしても、自分のイメージはこわされたくない、こういう映画をつくってほしいという願い、そその願いを通すために、文だけでなく絵にもかいておいて、のっぴきならぬものを監督に突きつけようという、いわば映画に対する恐ろしいまでの執念、執着が、病気でやせ細った手に鉛筆を握らせたのではないかと私は思っている。
この「手をつなぐ子ら」は、昭和24年、稲垣浩さんの監督で映画化された。カメラマンは、宮沢一夫さんであった。これは文部大臣大臣賞をもらい、その賞状が大映撮影所の応接室にかかっているのを見たことがある。配役は、担任の先生が笠智衆さん、校長先生が徳川無声さん、母親が杉村春子さんといった顔ぶれであった。子役は選ぶのがなかなか難しかったようで、私も一度稲垣監督やスタッフの人達といっしょに、京都新聞社で、たくさん集まった子どもたちのなかから、主役の寛ちゃんやいたずら児の山金、級長の奥村君などを選ぶ仕事を手伝ったことがある。このときの子役たちが、10年後に、笠さんのお宅に集まって旧交をあたためたくことがあるが、いまはもうりっぱなおやじさんになっている年頃である。
「忘れられた子ら」は、昭和25年、稲垣監督によって映画化された。このときは、稲垣さんは脚本もかき、独立の稲垣プロをつくって制作するという力の入れようであった。配給は新東宝。カメラマンは手をつなふ子らの時と同じ宮川一夫さんだったと思う。配役は校長先生が笠智衆さん、担任の先生が堀雄二さん、同僚の先生に泉田行夫さんなどがいた。撮影は京都の嵯峨小学校を中心に行われたが、教室ひとつ専用に使わせてもらい、その教室の天井板をぶちぬいてライトを入れるなど、学校側の協力ぶりはたいしたものであった。
「手をつなぐ子ら」の第2回目の映画化は羽仁進さんによってなされた。脚本は伊丹万作さんのものであった。配給は大映。昭和37年、私は羽仁進さんと2回会って話し合った。話し合いの中心はこの映画の目標をどこに置くかということであった。一方に現代っ子がいる。これは小学生で既に退職金の多少を論ずる連中である。退職金を多くもらうためには大会社に入らねばならぬ。そのためには優秀大学を卒業せねばならぬ。そのためには有名高校に入らねばならぬ。そのためにはカンニングも止むを得ないという徹底した論を吐く。他方おとなどもがいる。これがまた、現代っ子を見て、嘆き憤り、どうでもこうでも道徳教育を徹底させて、これを昔にひっぱり戻そうとする。現代っ子のガメツさと、おとなどもの古い固さの中間に精薄の子寛ちゃんを置く。左のガメツさと右の固さの間にたたされた寛ちゃんは、左にやっつけられれ、右にやっつけられながら、しかも、その左も右もが底抜けの善意にみちた寛ちゃんの方にいつの間にか引き寄せられていく。そこに、現代への批判と、その進むべき方向への示唆とを、寛ちゃんを通じて描こうということに話がきまった。
ロケ地は大阪府泉南の高石小学校になった。羽仁さんが高石小学校を訪ねたときには、偶然に、羽仁さんのお母さんと青木校長先生とは旧知の間柄であることがわかり、校長先生のあっせんで、学校はもちろん、町ぐるみ撮影に協力しようということになった。俳優は佐藤英夫さんと北条由紀子さんともう一人の女のひとと、とにかく二、三人しかいなかった。あとは全部素人で、撮影のスタッフや町のひとが出た。町のひとはみな、撮影にでたがって、校長さんが「あんたはもうこの間でたやないか、今度はあかん」とか「今度の役は誰と誰に頼む」とか、まるで配役係を一手に引き受けたような形で「目をまわしましたわ」といって笑っていた。私も何かの役に振当てられていたらしく、それをスタッフから聞いたので、おじ気づいてしまって、それからは撮影には一切近づかず、撮影が終わったときいてほっとしたものである。
子役は九州をも含めて、かなり広範囲から募集したらしいが、選抜された子どもたちは、全員高石小学校に転校して正規の教育を受け、そのひまを縫って、撮影は続けられた。生活の方は区内の民家を借りて、そこにスタッフと一緒に寝起きをした。スタッフの連中が宿題のお手伝いをやらされたり、佐藤英夫さんなどは洋服のボタンつけまでしてやって、まるで親父か兄貴のような間柄になっていた。
羽仁さん独特のやり方で、台本をもっているのおとなだけ。子どもたちは全然せりふなんか知らされていない。場面設定がなされると、子どもたちはさっそくがやがやわやわやとやりだす。それにおとなたちは合わさなければならない。台本にない、とっぴょうしもないしりふがとびだしてくる。先生役の佐藤英夫さんが目を白黒させてせりふに詰まってしまう。「子どもたちがね、先生、まあ、そうしょげるなよ、監督さんにぼくらであやまってやるからな、といってなぐさめてくれるんですよ。こんな難しい撮影ははじめてですよ」といって苦笑いしていた。おとなの俳優さんたちは困っただろうけれども、羽仁さんの子どもの使い方のうまさは「絶品」といっていい。
映画でみてもわかるが、そこには「子役」はいなくて「子ども」がいる。画面の「子ども」の発散する迫力に、われわれおとなはたじたじとなる。せりふの扱い方にも感心した。はじめはよくわからなかったが、だんだん画面を見ていくうちに気がついたことは、子どもたちのおしゃべりが、ぶつぶつとつぶやきのように流れていて、その中に、主になる子どものせりふがチカッチカッときこえてくる。ある声は低く弱く、ある声は中音に、ある声は高く強く、その強い声がすーと弱くなっていくと、つぶやきの中の声がぐーっと高まってきたりする。これらはまさに「せりふのオーケストラ」である。
カメラは有名な写真家の長野重一さん。いわゆる普通の映画のカメラマンではないが、さすがに画面がびっくりするくらいに美しい。私は試写を見ながら、その逆光の使い方、画面の構成のすばらしさに、しばしば唸った。嵐の襲来を予想させるような、風車の羽のあわただしい回転の間から見下ろした、子どもたちの喧嘩の場面の迫力は今でも忘れられない。この映画は昭和39年に完成した。
いろいろ思うところがあって、面白かったが、最近行っているフィルム関係のしごとや歴史の掘り起こしとも関係していて、不思議な縁を感じた。
京都関係の障害児教育史のなかで、戦前の特別学級の歴史、そしてそれが滋賀の近江学園などに受け継がれていくのだが、その担い手となった一人が田村一二である。田村の「忘れられた子ら」「手をつなぐ子ら」の映画化にいては、「戦後民主教育の開始と知的障害児へ取り組む教師」(『障害児の発達理解と教育指導』)として書いたことがある。また、このブログにも「斉藤千栄治と田村一二-奈良・京都・滋賀の障害児教育の歴史の中で」(「たちあがる」)として書いたことがある。
最近、与謝の海養護学校などの資料をみているのだが、松本宏先生の記録の中に田村一二の文章が採録されているのをみつけた(松本宏『不立文字』第二集、2001年12月、私家版)。それは伊丹万作の思い出をはじめとして、映画のことについていろいろ書かれたものであった。まだ、掲載誌のうらをとっていないが、次のようなもの。羽仁進監督の「手をつなぐ子ら」はみていない…。
映画「手をつなぐ子ら」と「忘れた子ら」の思い出
滋賀・一麦寮長 田村一二 1868年6月、愛護127号
終戦の年だったと思う。その頃、私は1週間か10日に一回ぐらい、京都の伊丹万作さんの見舞いに行っていた。わずかの野菜をぶら下げて、木炭バスに乗って出かけるわけだが、この野菜を見たら伊丹さんが喜ぶぞと、あのひげがニコッと動くことを見るのが楽しみであった。
伊丹さんはたいてい病床に病臥したまま、私は枕元に座って話し合うのだが、そのころの伊丹さんは映画人というよりも学者の感じであった。それも恐ろしく趣味の広い学者である。話題は多岐にわたったが、映画、文学は勿論、絵画、俳句などについても、造詣が深く、硯についても実にくわしかったことを覚えている。
その頃「手をつなぐ子ら」の脚本を伊丹さんは書いていたが、あのなかにでてくる。氷すべり、草ぞり、土の中に埋められる場面などのことをよくきかれた。これらはみな私の子どもの頃の経験なので、詳しく話しをすると、伊丹さんはうんうんとうなずきながら、メモをとったり略図をかいたりしていた。それから何日かたってまた見舞いにいったとき、脚本をみせられて驚いた。場面場面が精密な鉛筆画になっていた。ちょうど、フィルムの一コマ一コマを見る感じであった。このまま放っておいたら、伊丹さんは、鉛筆で映画をかいてしまうではないかと思ったほどである。
「本当はこの映画は自分で監督したいんですがね、この体ではとても駄目ですから、せめて、まあ、こんあことっでもして慰めているんです」といって、伊丹さんはのびた無精ひげをちょっとまげてわらったが、それは、単なる慰みごとどころのものではなかった。誰が監督をするにしても、自分のイメージはこわされたくない、こういう映画をつくってほしいという願い、そその願いを通すために、文だけでなく絵にもかいておいて、のっぴきならぬものを監督に突きつけようという、いわば映画に対する恐ろしいまでの執念、執着が、病気でやせ細った手に鉛筆を握らせたのではないかと私は思っている。
この「手をつなぐ子ら」は、昭和24年、稲垣浩さんの監督で映画化された。カメラマンは、宮沢一夫さんであった。これは文部大臣大臣賞をもらい、その賞状が大映撮影所の応接室にかかっているのを見たことがある。配役は、担任の先生が笠智衆さん、校長先生が徳川無声さん、母親が杉村春子さんといった顔ぶれであった。子役は選ぶのがなかなか難しかったようで、私も一度稲垣監督やスタッフの人達といっしょに、京都新聞社で、たくさん集まった子どもたちのなかから、主役の寛ちゃんやいたずら児の山金、級長の奥村君などを選ぶ仕事を手伝ったことがある。このときの子役たちが、10年後に、笠さんのお宅に集まって旧交をあたためたくことがあるが、いまはもうりっぱなおやじさんになっている年頃である。
「忘れられた子ら」は、昭和25年、稲垣監督によって映画化された。このときは、稲垣さんは脚本もかき、独立の稲垣プロをつくって制作するという力の入れようであった。配給は新東宝。カメラマンは手をつなふ子らの時と同じ宮川一夫さんだったと思う。配役は校長先生が笠智衆さん、担任の先生が堀雄二さん、同僚の先生に泉田行夫さんなどがいた。撮影は京都の嵯峨小学校を中心に行われたが、教室ひとつ専用に使わせてもらい、その教室の天井板をぶちぬいてライトを入れるなど、学校側の協力ぶりはたいしたものであった。
「手をつなぐ子ら」の第2回目の映画化は羽仁進さんによってなされた。脚本は伊丹万作さんのものであった。配給は大映。昭和37年、私は羽仁進さんと2回会って話し合った。話し合いの中心はこの映画の目標をどこに置くかということであった。一方に現代っ子がいる。これは小学生で既に退職金の多少を論ずる連中である。退職金を多くもらうためには大会社に入らねばならぬ。そのためには優秀大学を卒業せねばならぬ。そのためには有名高校に入らねばならぬ。そのためにはカンニングも止むを得ないという徹底した論を吐く。他方おとなどもがいる。これがまた、現代っ子を見て、嘆き憤り、どうでもこうでも道徳教育を徹底させて、これを昔にひっぱり戻そうとする。現代っ子のガメツさと、おとなどもの古い固さの中間に精薄の子寛ちゃんを置く。左のガメツさと右の固さの間にたたされた寛ちゃんは、左にやっつけられれ、右にやっつけられながら、しかも、その左も右もが底抜けの善意にみちた寛ちゃんの方にいつの間にか引き寄せられていく。そこに、現代への批判と、その進むべき方向への示唆とを、寛ちゃんを通じて描こうということに話がきまった。
ロケ地は大阪府泉南の高石小学校になった。羽仁さんが高石小学校を訪ねたときには、偶然に、羽仁さんのお母さんと青木校長先生とは旧知の間柄であることがわかり、校長先生のあっせんで、学校はもちろん、町ぐるみ撮影に協力しようということになった。俳優は佐藤英夫さんと北条由紀子さんともう一人の女のひとと、とにかく二、三人しかいなかった。あとは全部素人で、撮影のスタッフや町のひとが出た。町のひとはみな、撮影にでたがって、校長さんが「あんたはもうこの間でたやないか、今度はあかん」とか「今度の役は誰と誰に頼む」とか、まるで配役係を一手に引き受けたような形で「目をまわしましたわ」といって笑っていた。私も何かの役に振当てられていたらしく、それをスタッフから聞いたので、おじ気づいてしまって、それからは撮影には一切近づかず、撮影が終わったときいてほっとしたものである。
子役は九州をも含めて、かなり広範囲から募集したらしいが、選抜された子どもたちは、全員高石小学校に転校して正規の教育を受け、そのひまを縫って、撮影は続けられた。生活の方は区内の民家を借りて、そこにスタッフと一緒に寝起きをした。スタッフの連中が宿題のお手伝いをやらされたり、佐藤英夫さんなどは洋服のボタンつけまでしてやって、まるで親父か兄貴のような間柄になっていた。
羽仁さん独特のやり方で、台本をもっているのおとなだけ。子どもたちは全然せりふなんか知らされていない。場面設定がなされると、子どもたちはさっそくがやがやわやわやとやりだす。それにおとなたちは合わさなければならない。台本にない、とっぴょうしもないしりふがとびだしてくる。先生役の佐藤英夫さんが目を白黒させてせりふに詰まってしまう。「子どもたちがね、先生、まあ、そうしょげるなよ、監督さんにぼくらであやまってやるからな、といってなぐさめてくれるんですよ。こんな難しい撮影ははじめてですよ」といって苦笑いしていた。おとなの俳優さんたちは困っただろうけれども、羽仁さんの子どもの使い方のうまさは「絶品」といっていい。
映画でみてもわかるが、そこには「子役」はいなくて「子ども」がいる。画面の「子ども」の発散する迫力に、われわれおとなはたじたじとなる。せりふの扱い方にも感心した。はじめはよくわからなかったが、だんだん画面を見ていくうちに気がついたことは、子どもたちのおしゃべりが、ぶつぶつとつぶやきのように流れていて、その中に、主になる子どものせりふがチカッチカッときこえてくる。ある声は低く弱く、ある声は中音に、ある声は高く強く、その強い声がすーと弱くなっていくと、つぶやきの中の声がぐーっと高まってきたりする。これらはまさに「せりふのオーケストラ」である。
カメラは有名な写真家の長野重一さん。いわゆる普通の映画のカメラマンではないが、さすがに画面がびっくりするくらいに美しい。私は試写を見ながら、その逆光の使い方、画面の構成のすばらしさに、しばしば唸った。嵐の襲来を予想させるような、風車の羽のあわただしい回転の間から見下ろした、子どもたちの喧嘩の場面の迫力は今でも忘れられない。この映画は昭和39年に完成した。