朝、集中講義の先生と挨拶。プロジェクターなどの準備。大阪教育大学のT先生を紹介してから、別の用事。12時半に終わり、その後、食事を取って、近鉄奈良駅へ。車は、奈良女子大学にいてみた。南門の所に、附属小学校跡が示されていた。
奈良駅で、卒業生とあう。20年前に卒業した、台湾からの留学。大阪に来ていて、少しあって話をする。兄さんが、視覚障害があり、台湾の盲学校を卒業後、大阪府立盲学校に進学、1984年の頃である。寄宿舎に入りながら、日本語の習得も課題となり、ライトハウスにもお世話になったようだ。兄が日本に来たことによって、妹の彼女も高等教育への道が開ける(彼女の両親は「女は大学に行かなくても…」という考え方の持ち主だったとのこと)。彼女も、兄のそばにいながら日本語学校に行き、大学に進学することになったのである。その後、兄さんは、筑波大学の附属に入学したかったがかなわず、その後、いろいろあったようである。今回は、その兄さんが、ライトハウスでお世話になった方にあいに、大阪に(奈良の老人ホームに入所しているとのことで、奈良に)。また、大阪府立盲学校の寄宿舎の寮母さんにもあったとのこと…。日本と台湾の盲教育の交流史などの一こまが見えてくる。兄さんの聞き取りをして、その体験を聞かせてもらいたいとお願いする。
車で、大久保まで、そこから電車で光華女子大へ。
臨床発達心理士会の地方支部の打ち合わせ。4時から6時過ぎまで。
終わってから、京都駅で、Oさんとあう。
夜明け前の子どもたちのナベちゃんの未編集記録の作業があがった。Oさん自身の映画「アトムの足音」のDVDもいただく。そのごの課題を確認して、お願いしてくる。来年度の資金計画を考えないといけない。
かえったら、8時過ぎ。食事をとって、風呂に入って、いろいろしていると12時過ぎ。ごろごろしているとリビングで寝てしまう。
奈良駅で、卒業生とあう。20年前に卒業した、台湾からの留学。大阪に来ていて、少しあって話をする。兄さんが、視覚障害があり、台湾の盲学校を卒業後、大阪府立盲学校に進学、1984年の頃である。寄宿舎に入りながら、日本語の習得も課題となり、ライトハウスにもお世話になったようだ。兄が日本に来たことによって、妹の彼女も高等教育への道が開ける(彼女の両親は「女は大学に行かなくても…」という考え方の持ち主だったとのこと)。彼女も、兄のそばにいながら日本語学校に行き、大学に進学することになったのである。その後、兄さんは、筑波大学の附属に入学したかったがかなわず、その後、いろいろあったようである。今回は、その兄さんが、ライトハウスでお世話になった方にあいに、大阪に(奈良の老人ホームに入所しているとのことで、奈良に)。また、大阪府立盲学校の寄宿舎の寮母さんにもあったとのこと…。日本と台湾の盲教育の交流史などの一こまが見えてくる。兄さんの聞き取りをして、その体験を聞かせてもらいたいとお願いする。
車で、大久保まで、そこから電車で光華女子大へ。
臨床発達心理士会の地方支部の打ち合わせ。4時から6時過ぎまで。
終わってから、京都駅で、Oさんとあう。
夜明け前の子どもたちのナベちゃんの未編集記録の作業があがった。Oさん自身の映画「アトムの足音」のDVDもいただく。そのごの課題を確認して、お願いしてくる。来年度の資金計画を考えないといけない。
かえったら、8時過ぎ。食事をとって、風呂に入って、いろいろしていると12時過ぎ。ごろごろしているとリビングで寝てしまう。