ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

北海道寄宿舎研究会

2011年01月11日 20時44分03秒 | 生活教育
北海道寄宿舎教育研究会の研究集会に話しに来ている(「子どもの権利と生活教育実践の課題-インクルージョンと特別学校」)。

歴史を縦糸に、国際的な広がりを横糸に、その交点で生活実践を深めるということにしたいと思った。
資料は、レジュメを出していたので、それでと思ったが、急遽、その場で、画像や映像も含めて示したいと思ったので、パワーポイントをつくった。
結局、2時間。そんなに続かないと思ったが、話をしてしまい、それでも時間が足りなかった。
北大、学術会館。100人くらいの参加(下支えは数人の人でよくもここまでがんばっているなぁ)。
「夜明け前の子どもたち」見たことのある人は数人。広報「人」の映像もみせて、就学猶予免除の姿も見せた。
北海道の高等養護学校の寄宿舎の実情はたいへんらしい。それだけ、要望が強いと言うこともあるようだ、しかし、北海道の養護学校の配置の問題もある。高等部増設運動をやっていた先生にもあった。もう退職をしているようだが、しかし、資料は沢山あるということだった。そんな資料も大切である。

広報「人」

2011年01月10日 22時34分35秒 | その他
1960年代後半に製作された京都府広報「人」のフィルムを探している。

京都府教育研究所『戦後京都教育小史』(京都府教育研究所、1978年3月)には、以下のように年表に記されている。憲法との関係で作られた映画であることがわかる(1967年は憲法施行20周年であった)。

1968(昭和48)年5月3日 憲法記念「府民のつどい」で府広報課製作映画「人間」を初公開
この年、1968年1月10日 府立向日ヶ丘養護学校完工式
その後、10月17日 京都府立向日ヶ丘療育園開所(府下初の母子通園訓練施設、園児36人収容)、11月3日 府立聾学校創立90周年式典

全障研京都支部『障害児・者科学の夜明けをめざして-京都全障研運動10年のあゆみとこれから』の中には、府教委広報「人」とあったと思う。

フィルムを記録したビデオはぼけて判然としないが「人」とある。製作主体などは判読できない。

寄宿舎教育研究会のホームページ

2011年01月09日 22時18分54秒 | 生活教育
午前中、大学に行って、昨日忘れていたメールをする。修論の検討は、まだできていないということで延期となり、時間ができたので、亡くなった三好さんがつくってくれた、ホームページのファイルを暫定的に大学のサーバーを利用してアップした。第25回の生活教育全国研究集会(沖縄)でとまっていたもので、三好さんが亡くなる前に、ファイルをCDにやいてくれたもの。
まずは、当面、そのままにして見ていただき、全体としてやりかえて利用できるようにしたいと思っています。


『障害児の生活教育研究』などは、資料的価値のあるものである。今後やりかえて、『とまりあけ』などのバックナンバーなども掲載できるようにしていきたい。

午後1時からキャンパスプラザで、寄宿舎関係の事例の検討会。北九州市立大学のK先生や京都府のスクールソーシャルワーカーのM先生の参加もあり、ケースの検討がなされたが、全体として学部の先生方は子どもの何をみているのだとうかと疑問に思うことが多くあった。教室に来ている間だけみている状況…?担任、福祉、寄宿舎などのもっている情報が、「個人情報」という名の下に、それぞれのところでとめられていて対応ができていないのか。人権の名による、人権侵害や放置がなされている。「この子達が生きた」という証が消されていく。それを記憶と記録に残すのは、実践を担うものの役割ではないかと言わざるを得ない。学校に子どもの発達や家族の再生のトリックスターがいなくなっている。「大きなお世話」が大事では・・・。

帰るとお年玉が待っていた。ありがとうございました。京都にあった汐文社の出版物にふれ、汐文社の今田さんといろいろ話をしたことを思い出した。現在は、文理閣がその伝統を受け継いでいる。


記憶と記録-「探偵ナイトスクープ」に感動し・・

2011年01月08日 19時19分55秒 | その他
入試で、大学へ。画文集の原稿をかくのに悩んだ。講座会議のレジュメをかき、そして、いろんなメールをだした。
仕事は進まず、寒いこと、寒いこと。いろいろやることが多くて、講座会議の資料を添付してメールをだすのをわすれてしまった。

記憶・記録の重要性について、昨日の「探偵ナイトスクープ」の「身重の妻をおもう葉書の解読」で実感した。あわせて、奈文研の研究や技術が、人の生きた証を再度、照らすものとなったこともよかった。「遊び」も、ムダなことのように言われても、それが必要なのだとも思う。
そんなこともあり戦後障害児教育史をあらためて今年の重要課題とすることを決意。

戦後障害児教育史のページをつくろうとおもって、HPをいじる。昔つくったものをすこしさわったが、なかなか難しい。
資料として、この間、ブログにアップしてきた『桃山の教育を語る会』の冊子の関連部分を資料としてアップしてみた。



探偵ナイトスクープのHPより転載
『レイテ島からの葉書』(田村裕探偵)
大阪府の男性(65)から。私の父は新婚5ヵ月で召集され、フィリピンのレイテ島に出征し、私が生まれた昭和20年1月には、すでに戦死していたようだ。女手一つで私を育てた母の苦労は並大抵ではなかったが、その母も5年前に他界した。母の遺品を整理していて、出征した父からの葉書を2枚見つけた。それは鉛筆書きで、母が何度も読み返したためか、かなり磨り減っている。1枚は何とか読めたが、もう1枚はほとんど読めない。しかしその中に「身重であるお前」と読める箇所を発見した。父は母が私を身ごもっていたことを知っていたのか。それとも、知らずに逝ってしまったのか。父の葉書をなんとか判読してもらえないか、というもの。

NHK「無縁社会プロジェクト」取材班編『無縁社会』文藝春秋

2011年01月07日 20時41分46秒 | 
知的障害教育方法論の講義(上田君と戸次君の場合の検討、レポート提出)、演習(これまでのレポートの編集)、その間、事務棟に呼び出されたり、イラストレーターのインストールやら、幼稚園にいったりで、食事を取る暇もなかった。
与謝の海養護学校の「ぼくらの学校」の未使用フィルムが研究室に…来週にはデジタル化のために業者に出す予定。そのほか、桃山の資料のPDF化をお願いしたり、学生さん達となっきょんの話をしたする…。

NHK「無縁社会プロジェクト」取材班編『無縁社会』(文藝春秋)には考えさせられることが多かった。「雇用の拡大」という名の企業のグローバリゼーション化の促進政策によ0る「雇用破壊」、「生命の再生産の場」としての地域の衰退、人間関係の劣化と自己責任の強化、すべての世代で危機感を感じざるを得ない社会となっていることを思う。その中で、絆を取り戻す契機としての「子ども達の存在」の重要性を感じる。
子どもの権利条約、障害者権利条約ができた今、次の段階で高齢者権利条約が提案された時に、私たちの社会の姿はどうなっているのか…それを思うと薄ら寒い思いがする。

「無縁社会」の目次は次の通り。

はじめに
序章 「ひとちぼっち」が増え続ける日本
第1章 追跡「行旅死亡人」-わずか数行にまとめられた人生
 コラム 静かに広がる「直葬」
第2章 薄れる家族の絆-「引き取り拒否」の遺体の行方
第3章 単身化の時代-「生涯未婚」の急増
 コラム 呼び寄せ高齢者
第4章 社縁が切れた後に-疑似家族に頼る人々①
第5章 「おひとりさま」の女性達-疑似家族に頼る人々②
 コラム 共同墓
第6章 若い世代に広がる「無縁死」の恐怖-ツイッターでつぶやく将来の不安
 コラム 働き盛りの「ひきこもり」
第7章 絆を取り戻すために-二度の人生を生きた男
あとがきにかえて

松本先生余録(その4) 京都府独自の訪問教育制度の実施

2011年01月06日 23時59分59秒 | その他
 滋賀の野洲養護学校での寄宿舎を中心とした事例検討会に参加した。子どものケース検討は興味深いもので、重要なものと思った。小・中・高と寄宿舎(そして家庭)と子どもの発達と障害、生活の姿を総合的に検討できることはいまどこでも難しくなってきている。個人情報だといって、回避されてしまうこともあり、家庭や教師や子どもといったばらばらに責任を押しつけ合うということにもなっている場合もある。
 電車の中で、NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』(文藝春秋、2010年11月)を読み終わる。最後の章で不覚にも電車の中で胸が詰まってしまう。これについては、また書きたい。

松本先生の余録は最後の部分。京都府単独の訪問教育制度の発足秘話である。京都府下南部の全員就学を支える制度としての訪問教育として位置づけるられるものであるが、コメントさんのように施策として多様な選択肢が用意されたわけではないともいえるかもしれない。

-その4-

(3)京都府の初の全国初の訪問教育制度の実施
 桃山分校の1年次、72年度となった頃、京都府教育委員会は、全国の都道府県で最初に全員就学の方針を確認していた。さらにそれを徹底しようとするとき、病虚弱・重症児などの在宅の通学・寄宿舎入舎の困難な事例をどうするかの課題があった。
 2学期になって、府教委の学校教育課・保健体育課・教職員課と府教育研究所から関係する担当者、学校から与謝の海本校、桃山分校・向日が丘から各1名が集まった。訪問教育制度の内容と実施要綱案を学校教育課が主催しながら秘密会として検討するというものだった。秘密会とするのは、義務教育として学籍をつけての訪問教育は、国の制度にも全国の都道府県にも例ののないもの、予算的にも府単費持ち出しであり、知事部局の了解が得られないやもしれない時のことをおもんばかってのことだった。
 案の定、財政折衝は、暗礁に乗り上げた。財政課レベルにおける交渉から、総務部長・教育長レベルの折衝も合意にいたらず、ついに最終の知事直接決済事項となる。
 2月に入っていたのではなかったか、長澤学校教育課長(故人)から、「夕方5時から知事と会ってくる。これが最後だ。東城君(義務教育係長。故人)といってくる」と電話があった。
 あくる朝、どうだったかなと思っている所へ電話があった。「できたぞ!通ったぞ!」と。すでに知事も事の概略は承知されていたのだが、もう一度、就学猶予・全国動向・子ども達・父母達の実態ねがい・全員就学を京都府がリードすることの意義などについての説明応答の後、「それにしても教員を家庭に訪問させて教えることを、養護学校の教員にさせていいのか。養護学校の教員は嫌がらずにやってくれるのか」と聞かれて、「やってくれます。大丈夫です!じつは養護学校の教員諸君が、『学校に来れない子達を放っておかないで、一人残らずやりましょうといってくれているんです』と言った時には脚が振るえたっちゃ。そしたら知事が『そうかあ』といって、しばらく眼をつむってじっとしておられるんだ。そして、眼をあけて、『よしっ、やりましょう。予算をつけましょう』といわれたんだ」ということだった。私には電話の言葉や響きの感動が、今も脳裏にある。
 桃山分校の2年次、73年4月から与謝の海本校、桃山分校、京都市域は市立呉竹養護学校が担当して、京都府全域にわたっての全員就学の態勢は大きく前進したのだった。
 2年次の分校は、児童生徒102名内訪問教育21名。教職員28名。もはや独立校に匹敵する態様で、本格開校も進めていった。

(4)養護学校教育全員就学義務制政令公布
 1973(昭和41)年11月20日朝、一般的に「養護学校義務制実施、昭和54年(79年)4月より」といわれる政令公布がマスコミによって大々的に報じられた。私は、これの、都道府県において養護学校必置を義務とすることよりも、「全員就学を原則とする」としたところが感慨無量であった。義務制実施と全員就学原則は本来別のもので、義務制実施が自動的に全員就学を実現するものではなく、就学猶予免除はそのままということはあり得ることだった。
 その朝、職員朝礼で、「義務制実施全員就学、政令公布された」ことを告げた。「それがどうした。すでに当たり前のこと」とでもいうような皆の反応だった。与謝の海開校時の「石にかじりついてでもやりきる」と意思統一し、全力投球の実践追求に明け暮れした集団と、その積み上げで京都においては全員就学が当然となっている後発の学校現場とでは差があるのだなと納得した。
 「ついにやりきったな」と、府教委や与謝の海と電話せずにいられなかった。その日一日中、私は「よし、やりきれた。これで全員就学はゆるぎないものとなった。もうつぶされないぞ」と体中の血がわきたつ感動に浸り続けていた。

5.むすび
 思い起こせば、与謝の海の開校と軌を一にしたように、国会において繰り返し就学猶予免除問題がとりあげられ出した。そして全国あちらこちの地方議会においてもとりあげられ始めた。
 71年、京都府議会においては、京都北部障害者問題連絡会(北障連)の署名請願の「就学猶予免除の撤廃にうjちえの国への意見書提出要請について」に基づき、委員会での相当な討議を経て、全会派賛同の下に意見書が採択・提出されたこともあった。
 与謝の海本校開校の70年度に、調査見学来校者が2000人、翌年度は2学期を終えた頃だったか2000人を越えたと事務室から聞いた記憶がある。桃山分校にも「京都の障害児教育を知りたい」と全国からかなりの来校者があった。
 ともし火は、正に全国に燎原の火のように広がり、「納得の上で普遍性を実現していく」国民大衆の高まりが、国の教育政策として打ち立てられていったとみられる。

松本先生余録(その3) 桃山分校開校

2011年01月05日 20時57分56秒 | その他
教職大学院の授業が始まる。今日は、通級指導教室の担当の先生をゲスト講師として招いてその実践について報告していただいた。いろいろな子どもを支える実践をされていて、パワーとともに、いろんな面で気配りをされているなぁと感じた。ありがとうございました。
1日~3日までやすんで肩こりはすこしやわらいでいたが、やはりこの間の研修・講義などはしんどかった。肩がこって、首が回りづらいので、ちょっとつらいです。

松本先生の余録は、桃山分校の開校のところとなった。

-その3-
4.桃山分校開校
(1)あわただしかった分校開校
72年3月21日今後5時ごろ、私は与謝の海で、22日、23日に実施する本格開校2年次の3学期総括研の諸準備に研究部担当として当たっていた。小松校長から「明日午前10時に府教委の横山学校教育課長の所へ出頭するように」と伝えられた。「明日総括研で手が離しにくいが何ですか」と聞くと、「多分、分校設置にかかわることかと思うが、ともかく行って来て」とのこと。
 あくる日の時刻通りに学校教育課の扉を開けるや、「あっ、来た来た、着いて来い」と課長が二階への階段を上がられる。正庁と呼ばれていた部屋の扉は開いていて、両脇にずらりと部長・課長が立って並ばれている中に立たされた。大八木教育長が読まれて渡されたのは、「京都府立与謝の海養護学校分校開設準備事務に従事させる」というものだった。
 終わって学校教育課に帰り、課長に、「分校といえども新設開校準備、スタッフjが一人とは。しかも、事前の予告も内示もなしの有無を言わさぬ人事とはどういうころですか」と詰問すると、「山城地域の知恵遅れ養護学校の開設準備を含めての分校設置を府議会に出していたんだが、府議会で議事日程のゴタゴタが続いて、昨日の閉会直前にようやく通過したんだ。それまで表立って動けなかったんだ。併設の桃山学園のことは、君はみな承知のことだしうまくやってくれ。新しい養護学校準備は、府教委と連絡しながら、第二の与謝の海をつくるつもりで思うとおりやってくれ」という、私にとってはまったく一方的な通告であった。当時も府は財政難が続いていた。「金が仕事をするのではなく、人が仕事をするのだ」などといわれながら、人使いは荒かったというのが私の印象である。

(2)実践、記録、検討、分析の力量の蓄積・深化をめざして
 手元に、①『京都府立与謝の海養護学校桃山分校の教育』(桃山分校発行、1972年5月3日)の謄写版刷り手作り製本のもの(78頁の冊子)、②『全面発達をめざす障害児教育の実践(昭和47年度の中間まとめ)』(与謝の海養護学校桃山分校、1972年11月、謄写版刷り手作り製本63頁)、③『47年度年報 桃山の教育1号(全面発達をめざす障害児教育の実践)』(桃山分校、印刷所印刷製本100頁)、④青木・松本・藤井著『育ちあう子ども達 京都・与謝の海の理論と実践』(ミネルヴァ書房、1973年4月5日)がある。
 ①は開校にあたっての理念・方針の討議の中で、開校挨拶をかねて、4月の実践を、5月当初の連休中に実践記録としてまとめ、手作り製本して関係機関に配布することとしたもの。「子ども達と一日とりくめば、一日の実践がある。われわれ実践者は実践でモノをいう」の新たな教職員集団の意思統一を、ひそかにこめたものであった。②については、一年次の実践の中間総括を冊子にして、京都の教育研究集会等にもレポートとして配布したもの。③については、年間を通じての実践事例その検討、その中における集団と個の関係、小学部の3人の最重度児の極微の変化のとらえ方など、初年度にして年間の実践総括誌としてはかなりのレベルのものと自負できるもの。④については、桃山分校1年次の実践事例もいくつか載せている。発達援助者としての教師達と子ども達全体の集団と、その中における個々の子どもや重度児のどこの何に視点をあてながら取り組むのかの綿密な検討をした内容について記した記録もある。
 なお、もう一つ。『講座日本の教育 8 障害者教育』(新日本出版社、1976年2月10日)に、近江学園・与謝の海養護、桃山分校・桃山養護学校の教育実践の解説が載せられている。
 全員就学を貫徹しえる実践の内実の力量を、こうして時の教職員集団の自覚の上に、自らに課した任務として培い深めていったのである。

(つづく)

松本先生余録(その2)

2011年01月04日 21時53分49秒 | その他
今日は、「みんななかま教室」の職員研修で、権利条約の話をする(2時間半)。横糸に国際的な広がりを、縦糸に歴史をと思いながら、話をした。前半部分を、だいぶ速いペースで話してしまった。後半の1時間を歴史をとおもいながら、障害の重い人たちの就学の歴史をはなしているところで、つい思いあまって、声が詰まってしまった。若い職員の人たちには、おじさんのうろたえる姿は不可解なものとおもわれただろう。就学猶予免除とされた子ども達や父母のこと、向日が丘、与謝の海や桃山の開校、運動と実践を担ってきた父母や先生方のエピソードにふれてきた。その整理できない思いがつい喋っている中でこみ上げてきてしまったようだ。更年期か?
松本宏先生の余録は、桃山学園派遣教諭から、与謝の海養護学校へと突然の異動、そして本格開校準備へと続いている。

-その2-

3.与謝の海養護学校開校
(1)逆風に帆をあげた与謝の海丸
 1969(昭和44)年4月、与謝の海養護学校、高等部別科生17名での部分開校。仮開校ともいわれていた。翌70年4月、小・中・高等部本格開校。「全員就学」「就学猶予免除撤廃」「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり」を内外に宣言しての不退転の決意を固めた教職員集団の実践開始。
 障害児教育にかかわる当時の日本の社会状況をのぞいてみる。
 1960年代に入った頃、日本の政策の主柱に高度経済成長が据えられた。経済・資本の論理に基づき、経済効果優先主義、能力主義のもと、人的能力開発計画と呼称され、教育も経済計画の一環として絶えず再編成され続けた。
 63年、国の経済審議会答申に「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出された。65年の文部省の公報において、時の特殊教育課長は「特殊教育の目標は、端的にいって社会的自立を達成できる人間の育成である。社会的自立は職業に従事することによって可能となる」とし、文部行政は「精神薄弱児のうち、教育不可能の段階(知能指数45以下)を除いた教育不可能な児童生徒が精神薄弱教育の該当者のである」としている。それはそれなりの当時の社会的背景がもたらすものではあった。
 この就職の可能性の見いだせない子は、教育の対象外とする序列化、棄民政策に対して、与謝の海は学校設立運動の段階から、「制度理念における正義の原則の貫徹」を高らかに掲げて敢然と対峙したのであった。

(2)開校当時の府教委は、与謝の海の全員就学方針に懐疑的であった
 私は69年3月の年度末に、教委教教職員課で人事担当者から「与謝の海教員定数もう1名確保がどうしてもできなかった。2学期には君を配置するからそのつもりで」と異動内示にはあるまじき内示を受けた。
 それでも9月1日、与謝の海へ配置となり、岩滝の仮校舎へ出向した。午後の職員会議で「松本の公務分掌は4月に決定ずみ、一つは、すでに入学申請書運動によって提出されている入学希望者中の就学猶予免除者50名の、就学前実態把握と、就学前指導と、入学後のカリキュラム案の準備。もうひとつは研究部長。どちらも計画案を立てて」と。そしてドサリと机上にその入学申請書なるものの分厚い綴が置かれた。問い返す間もなく、皆平然としている中におけることだった。
 重度児就学前準備で、まず与謝丹後地域と、舞鶴・綾部・福知山市の中丹地域の申請書提出者の家庭訪問についてそれぞれの市・町村教委に協力していただきながら進めた。10月から丹後・与謝・舞鶴に会場を設けて、週1回約2時間、保護者同伴での集団学習を設定した。自家用車を使えない家庭の移動には、地教委の職員による援助をいただいた。
 これらのとりくみの中で、子ども達、保護者達、付き添っていただいた地教委の職員達の間で、子ども達の動きや変化に予期せぬ数々のドラマが生まれていった。
 それと連動して、後に制度化される適正就学指導委員会を、府教委・学校・学識者・医師等で構成。医師委員の見解も含め、5名の重症心身障害児などが入学保留となった。
 70年4月の2年次の本格開校時に、集まった68年の教職員のテキストとした『よさのうみ』(第1号、1970年3月)の後記に、そのことに関連する記述があるので、少しつけ足して記して記してみる。

-3月19日夜、重症心身障害で寝たままの子の親御さんから、「毎日まだかまだかと待っているのですが、入学通知がまだ届きません。先生は必ず入学させるといわれますけれども、通知をもらわないと不安で…」と電話があった。3月20日5時半、障害重症重複・寝たままの子ども5名の入学保留の入学許可をとりつけるべく、前日から府教委に据わり込みの藤田校長から「保留中の入学許可通知書、全員発送してよし」の電話あり、「よし」と郵便局に駆け込み発送をした。その後職員会議。暗くなってほかの議案を終了したところで、本誌の作製発効を提起し、原稿かを分担することとした。-

 それより以前の67年3月の府立肢体不自由の向日が丘養護学校開校直前、重症児の入学不許可について、学校設立運動の母体であった親の会の度重なる強烈な入学許可要求も経ている府教委においても、全員就学ということにはまだ逡巡があった。府教委のある人はそっと「理想としての全員就学はわかるが、排泄も含めた身辺未自立、全面介助の子に教育が成り立つか」といい、またある人は「今は1年目10人の教職員の意思統一ができているが、4月から新しい数十人の皆が納得してついていくだろうか」と聞かせてくれる人もあった。
 すでに与謝の海がが全員就学を標榜していることを承知している近畿の養護学校からも「反対。与謝の海は自滅する」と聞こえてきた。京都市内の有力な障害児者関係団体からも、「それはもはや学校ではない。福祉施設以下だ。反対」と役員会で話し合われたとの情報もあった。

(3)与謝の海の実践の断片
 70年4月、小・中・高等部児童生徒170名。内、就学猶予免除であった者55名。教職員、校長以下教育職員40名、寄宿舎職員16年、事務・スクールバス・技術・調理・用務職員12名、合計68名で本格開校。現在の支援学校の国の定数法と比べるべくもない。集まった教職員全員にまず『よさのうみ』(1号)をテキストとして、○与謝の海養護学校設置経過の概要、○人間の発達について、○寄宿舎教育についてをはじめとする学習を研究会として行った。それは今までの学校教育の既成概念を横に置き、人間の尊厳を中核に据える自己変革闘争とも言えるものを組織しようとするものであった。

 これらの学習過程で民主的内部規律と称した「合言葉(アイコトバ)」として「このともし火を消すな」「石にかじりついてでもやりきる」ことを確認したのだった。「このともし火」とは、全国のあちこちでともりつつある「重度障害の子にも教育を」との父母の声を、与謝の海が全員就学をやりきる可能性を実践で示すことで、ともし火を燎原の火とすることができることを確認しあったものである。
 「実践から出発し実践に還る。指導案のグループ検討、実践の記録化、分析検討、次の実践へ」「子どもの個々の極微の変化を捉える眼」などなどの日々のつみあげの中で、2学期10月の体育祭の頃には、子どもたち個々と集団の連帯の広がり、父母・家族の子どもの変化への感動、父母と教職員の共感・共同・連帯の発展の事例が次々と報告されだした。そのことはまた、教職員の次への実践への自信と励みともなっていった・
 私は、2学期終了直後の全教職員での学期総括研の討議を経ながら、「よし、全員就学をやりきれる見通しはついたぞ」とひそかに感じたのだった。それにしても、この当時の与謝の海の教職員の実践・検討・研究・学習の日常化における創造的実践集団としての発展はすさまじいものであった。
 与謝の海の本格開校2年次の71年の適正就学委員会においては、学校の全員就学の基本路線を府教委も認めるところとなりつつあった。実践における個々の重度児の発達の可能性を、まだまだ荒削りの実践とはいえ容認できるものとなっていた。

桃山養護学校の前史(松本先生の余録より)

2011年01月03日 21時53分20秒 | その他
桃山養護学校が、本年3月末に閉校となる。
2010年11月27日に「桃山の教育を語る会」が開催されたようだが、その冊子を手に取ることができた。その中に、松本宏先生の「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり-桃山分校開校前後の個人的体験余録-」という文章があった。桃山学園への派遣教諭の経験、与謝の海養護学校の開校と桃山分校の開設、そして訪問教育制度のことなど、いままで知らなかったことも多く記されていた。貴重な証言であると思った。
京都府のみならず、全国的な障害児教育の確立をめぐる資料として、僭越ながら、このブログにも分割して掲載させていただこうと思う。なお、若干の表現上の統一をした部分もあることをお断りしておきたい。

松本 宏「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり-桃山分校開校前後の個人的体験余録-」『桃山の教育を語る会』(2010年11月27日)

-その1-

1.はじめに
 1972(昭和47)年の分校開校から、本年で39年目。「十年一昔」といわれる見方になぞらえれば、とおの昔の物語。「養護学校義務制実施、全員就学」なんて言葉は今では死語の領域のことであろうか。当時それを京都で貫徹し、国の制度の変革にとりくんだ集団の一人として、感慨ひとしおのものがある。思い出す個人的な体験のこぼれ話を記してみる。

2.私の前史、桃山学園派遣教諭の頃

(1)学園児の無学籍問題
 1964(書和34)年、たまたま私は京都市立桃山中学校籍で、桃山学園の派遣教諭として丹後から転入した。私にとっては、陸の孤島に島流しになったような感じだった。子どもたち55人の集団生活の場だった。学園の指導職員も教員も、一つの職員室に机を並べ、全体の運営・指導態勢の中に教員も位置づいていた。
 赴任して最初の5人の教員の顔合わせ・会議が終わったところで、「われわれは府教委の人事で配置となり、所属は市教委の桃山小・中学校籍となっているが、学園の子どもたちの学籍(学校籍)が無いままなのだ」ということ。従って、施設内学級としての教育費の令達もないし、義務教育の教科書無償交付を受けていないとのこと。通常、児童入所福祉施設に措置された児童は、その地区の区役所に住民登録される。地区の教育委員会は学籍ををつけなければならない。無学籍であることを知りながら、そのまま放置しておくべきではないと、派遣教員一同の名において、桃山小・中学校長に、市教委への善処方申し入れを依頼した。
 結果は「府教委からの依頼で、教員籍は実務上市教委で預かって処理しているが、児童の学籍は府立の施設の子であり、市教委のあずかり知らぬこと」ということだった。
 私たちは、これは教育行政間の内部問題ととらえた。府教委でも問題提起するにあたって、桃山学園全体の意思統一の必要を考えた。学園は、学園を所轄するの府の民政労働部婦人児童課との連絡も進められた。府教委学校教育課長、府婦人児童課長が、それぞれに実態調査に来園、懇談もし、事後、相互に連絡をとりあった。
 府教委、婦人児童課、学園、派遣教員の相互確認として、「本問題は、かねてよりの懸案事項である。府教委学校教育課が、今後市教委と協議して善処したいので、しばらくの期間を与えられたい」ということとなった。
 本問題は遅々として進まなかった。翌年度の2年目となって、学校教育課から「市教委の意向として、障害重度の就学猶予免除とすべき児童の名簿を提出されたい。今後の協議を進める前提条件とのことである」と連絡があった。
 私たちはかねてよりこの猶予問題が出てくることを予期していた。すでに前年度に、園児たちの直接の保護者の会、桃親会において、教育権にかかわる学習会をもったりもしていた。「制度理念からみても、就学猶予免除は教育行政が裁量するものではなく、親権者が子女を就学させる義務を履行することが困難な状況がある場合に願い出るものである。学園児の保護者は、全面介助・言語コミュニケーション未獲得などの重度障害児であればなおさらに、全員就学を強く希望している。桃山学園内学級においては、従来より実態として全員を教育の対象としてきている」とする主旨で応酬をくり返した。
 学籍問題で、私たちはしばしば府教委学校教育課や府婦人児童課にフリーパスで出入りした。午後5時頃から、制度論のみならず、児童福祉・障害児教育のあり方などについて、ときに夜更けまで懇談したこともあった。
 本件はようやく4年次末の68年3月に、暫定措置として、「市教委は学園児全員の学籍を桃山小・中学校につける。但し教育費は令達しない、将来においては、府教委の管理下において措置を講ずることとする」となった。

(2)田中論文と、その人との出会い、
 学園に赴任した64年の4月の中頃、児童課長から「これの読むか」と小冊子を渡された。全国の精神薄弱児者福祉施設で構成されているところの「愛護協会」の月刊誌『愛護』であった。その中に、「講座 精神薄弱児の発達」(近江学園・田中昌人)があった。連載がその1月から始まっていた。私はその論文引きつけられた。宇宙・地球・生物・人類の生成・誕生とその発展過程にある今、自然科学や社会科学の成果の到達点における人類と人間一人ひとりの尊厳と、そこにおける人間発達と障害者問題のとらえ方等々。その頃の私に、もう一度私なりの科学的・総合的・哲学的思索の基礎学習、再学習の視点を与えられたものであった。
 私は愛護の編集部の近江学園の矢野さんに、ちょっとした実践記録を送りながら、田中先生の間をとりもってもらった。
 66年だったろうか。大阪で日本教育学会が催された。田中さんから「特殊教育分科会で発表する」と連絡があった。分科会参加者約30名。3人の発表が終わり質疑討論となった。冒頭に、司会の三木安正教授(当時、日本の特殊教育界の天皇といわれていた人)から、「田中君の論文や話は、むずかしいことで定評があるのですが-」とあって、会場に笑い声が広がり、会場の空気がなごんだ。
 午前の部が終わり、「飯を食べよう」と会場から出た。「午後の学会は」と問うと、「もういいい、二人で話そう」となった。「左に守屋先生(立命大、心理学教授)が目をつむって腕組みをして、達磨さんみたいにしてらっしゃる。右にあんたがどんぐり目でにらんでいる。あんなの話しにくいよ」などと二時間ばかり雑談したのだった。田中論文と、その人との出会いは、私のその後の人生を決定的にした。

(3)研究部の設置と実践の共有化
 私の桃山学園の2年目、運営組織に研究部を設置することとなった。私は研究部長の担当となった。「お互いの実践をお互いの共有財産とする。実践記録を書く。出し合う。みなで検討する。実践に還る。年度末に実践を研究紀要としてまとめ、内外に配布する」といった方針を立てた。
 月2回の定例研究会は、子どもの事例研究・検討が盛んに行われたりなどの中で、子どもの見方・捉え方・援助の視点などの深まりを共有することができたとみている。職員たちは、中堅層も青年層も、子どもたちの被服も、善意の戴き物でやりくりしている貧しい施設の運営費の中で、みな子ども達を大切にし愛していた。

(つづく)


人生ムダにこそ

2011年01月02日 17時00分57秒 | 
昨年なくなった森毅の語録、福井直秀編『一刀斎、最後の戯言』(平凡社)を読む。肩肘をはらずに、過ごしていきたいとの思いもあったからだ。
森毅は、大阪的な率直さをもち、東京的な粋があり、かつ京都的な柔軟さをもつ複眼的な人という印象である。数学教育から教育への発言も多い。そのエッセンスを、福井が編集したもの。

教師への批評・・
「教師は堂々とダメぶり発揮してくればよいと思っている。(中略)
 それでは、教師にたいする「信頼」を心配する人もあるが、「信頼される人間」といったものを信頼しない程度には、ぼくだってヒネている。ぼくが信頼するのは、よく失敗したり嘘をついたりしてダメだなあ、しかし人間総体としてやっぱりエエナア、というヤツである。絶対に「正しいことしか言わない」なんて間を信頼できる訳がないじゃァないか。」

遠山啓の言葉の紹介もある・・
「遠山さんの言葉で一番忘れられないのに、「子どものようなおもしろい生きものを、ただで見物させてもらえるのだから、教師というのはいい商売だよ」というのがある。もちろん、教師商売のいやらしさも知りつくした上でのことだ。遠山さんが大学をやめてしばらくしたころ、「先生、近ごろ人相がようならはりましたなあ」とぼくがからかうと、「そりゃ学校をやめると人相もよくなるよ。森君もはやくやめたまえ」と言われてしまった。

まえがき
1.ドラマの中か、現実か?
 1.こんな少年見たことない?
 2.東の旅
 3.京大という劇場へ戻ってきて
 4.学生運動と団交の時代
 5.ついに脱官僚へ
2.「論理」の周りの気分-おもちゃにもなる数学
3.湧出る提案は教師家業のゆえ?
 1.教育の価値を未来に置く
 2.異論の中にも落とし処
 3.ことばの変な使われ方
 4.逆転すべき「常識」たち
 5.教育を遊びに
 6.計れるものとは何かー評価というやっかいなもの
 7.自分が大事
 8.ざしきわらし
 9.笑われてなんぼよー教師という面白き存在
4.風貌は一刀斎、でも二刀流使いの二刀斎
 1.マイナーな自分をいとおしく
 2.二刀流の極意
 3.見える鎖、見えない鎖
 4.笑って、笑われて
あとがき
関連年表
主要著作一覧


ついでに、楠凡之『「気になる保護者」とつながる援助ー「対立」から「共同」へ』(かもがわ出版)も読んだ。2008年に出されてもう3刷りであるから、こういう本に需要があるのかと思った。「粋」「ユーモア」「洒落」がない。「大変さ」の競い合いが、井戸端会議みたいになされることがあるが、そうならないことを願う。




あけましておめでとうございます。

2011年01月01日 21時51分17秒 | その他

あけましておめでとうございます。

昨年は、一つ職場が増え、子どもの発達に立ち返る日々をおくることができ、子ども達の発達を支える文化創造の課題も見え始めました。とはいえ、あわてもので、ダメ男、まじめに失敗をしている生来の姿は変えようもなく、今年もその路線でオロオロしているのが落ちだろうと思っています。
今年も、ご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします。

2011年1月1日 元日