tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ナチュラル・アボーン・キラー(1)

2007-06-05 20:12:48 | 日記

オレは自分で言うのもなんだが、根っからの殺し屋だ。情や感傷なんてものは、そもそも持ち合わせていない。オレの職業はリストカット請負人。といっても、決して自殺幇助をするわけではなく、プロとして自殺の一歩手前で衝撃的な自己破壊をするのを助けるのが仕事だ。
こんな仕事でも、結構食っていかれる。それは、近年の高齢化社会の閉塞感から、若年層および中高年層の間で境界性人格障害を持つ人が増えてきたためだ。
この境界性人格障害とは、簡単に言ってしまえば「神経症と分裂病との境界」。精神分裂病といってしまうには症状が足りず、かといって神経症でもない状態のヤツらをいう。具体的にどんな人格かというと、非常に衝動的で、感情の起伏が激しく、そのため対人関係がいつも不安定な人格。感情をコントロールする力が弱いため、ときに暴力的だったり、自殺を図ったりする。あんたらの周りにも結構いるんジャマイカ。
それで、オレの仕事とは、境界性人格障害をもつ暴力的な若者を、家族の依頼により徹底的に痛めつけて言うことを聞くように(つまり、逆療法ってヤツだ)したり、自殺を繰り返す老人に対して死ぬほどの痛みを分けてあげることだ。この仕事の難しさは、一言でいってしまえば暴力のさじ加減。相手が死んでしまえば、へたすると自殺関与・同意殺人罪で訴えられることになる。だから、相手を殺すようなドジを絶対踏まないように、医学的・生化学的な知識を総動員した上で事に望むことが不可欠だ。そのために、相手の健康状態を徹底的に調べ上げ、事の最中には最新の医療技術を駆使して相手を痛めつけている。
ただし、過去には1度だけ失敗したことがある。相手に与えた恐怖が大きすぎ、相手は完全に精神異常をきたしてしまった。その時に、依頼主(オレはそれを患者と呼ぶ)から莫大な慰謝料を請求されたこともあり、最近は相手に生命保険を掛けるなど万一の場合に備えている。また、最近多くなってきて頭を痛めているのだが、若い境界性人格障害のヤツらは抱えている不安感を解決させるために、自我の内部で自己の評価を上げる自己愛性人格障害にチェンジしたり、対人関係の不安定さを回避しようと、引きこもりのような状態になる回避性人格障害(不安性人格障害)に変わってしまったりすることがよくある。こうなるとやっかいで、10代のヤツらから威張り散らされたあげく代金を払ってもらえなかったり、まったくコンタクトが取れなくなって代金を払ってもらえなくなったりする。だから、こっちも相手が若いヤツの場合は、ヤツの境界性人格障害が進行しないように治療を施しながら、ヤツを痛めつけるような対策をとることにしている。
傍目には楽そうな仕事に見えるかもしんないけど、結構大変な仕事だ。
おまけに自殺者の急増に対して、昨年の5月に施行された「自殺を図ったものは最高6ヶ月の禁固刑」と制定された法律により、リストカットしてやった客が刑務所に入所して、境界性人格障害から回復してしまうケースが増えてきた。おっと、ブログとはいえ、制定された法律の年月日を正確にかかないと、校閲者(レフリー)にはねられてしまう。昨年2037年の5月11日に制定された法律だ。リピートオーダーをしてくれるせっかくの上客(オレに言わせれば患者)が減ってしまうのは悲しいものがある。といっても、世間にこちらの惨状を訴えることはできない。なんせ、オレの商売は、ヤミの商売だから・・・・・・。

明日に続く


プルートで朝食を

2007-06-04 20:13:35 | cinema

映画が斬新なストーリーや話題性を追求すれば、どうしても社会的なタブーに挑まざるを得ないのだろう。したがって、一般にタブーとされがちなことがスクリーンに映し出されることが多くなってくる。人は刺激に対する要求は、歯止めがきかないのが常だ。だから、この先もノーマルの領域がどこまでかわからなくなるほど、領域を踏み越えた世界が映像化されていくに違いない。この映画で挑んだものは、聖職者の性衝動とゲイの自分探し。ゲイの男は自分を見つけるために母親探しの旅に出て、ロンドンの雑踏に飲み込まれて父親に出会う。そして、最後に得られたのは家族愛。
はっきり言えば、この映画はぼくには「合わない」。ひとことで言ってしまえばそれで終わり。60年代のポップスに乗せられて、ただそれらの楽曲を聞きたいがために耐えて観ていた。一生懸命に耐えていた分、最後に聞くダスティ・スプリングフィールドが歌う”風のささやき the windmills of your mind” はぐっと心にしみた。
ダスティ・スプリングフィールドは、イギリスが生んだ最も偉大な白人ソウル・シンガーの1人である。60年代の終わり頃には、時代遅れのアーティストとなりつつあったが、ソウルの本場アメリカのアトランティック・レコードと契約しテネシー州メンフィスでアルバム”Dusty In Memphis”を発表する。 このアルバムからは、「Son of a Preacher Man」(邦題:「プリーチャー・マン」)が、アメリカとイギリスで共にヒットし、後にクエンティン・タランティーノ監督の”パルプ・フィクション”に使われて、リバイバルヒットした。 そのアルバムの中の一曲が先の”風のささやき the windmills of your mind”だ 。
もともとこの曲は、スティーブ・マックイーン主演の「華麗なる賭け The Thomas Crown Affairs」の中で使われた主題曲。名匠ミシェル・ルグランによる主題歌は、ノエル・ハリスンが歌いアカデミー主題歌賞を獲得した。

映画の中でも出てくるが、プルートは冥王星のこと。ディズニーのキャラクターとして親しまれているプルートは、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星(プルート)から名前が取られている。冥王星(プルート)の名前の由来は、ギリシア神話のハデス信仰を起源とするローマ神話の冥府の王プルートから来ており、太陽系最深部の暗闇に存在する冥王星のイメージを象徴している。ハデスは、冥府が地下にあることから地下の神ともされ、地下の鉱物資源の守護神である「富める者」の意味のプルートーン (Πλούτων)とも呼ばれる。 だが、オリンポス12神の中で唯一席を与えられておらず、冥府の王というイメージから、弟ゼウスとは不仲とされ、悪役としてのイメージが強い。
冥王星(小惑星番号134340 Pluto)は、海王星軌道の外側で太陽を公転する天体のうちで最初に発見されたものである。1930年に発見されて以来、長い間太陽の9番目の惑星であり外惑星の一つとされてきた。しかし、1992年に冥王星以外の外縁天体が初めて発見されて以降、冥王星と似た大きさの外縁天体が続々と発見され始め、現在、冥王星は準惑星に降格された。太陽系外縁天体内の新しいサブグループ(冥王星型天体)の代表例である。
そんな暗闇に存在する冥王星で朝食をとろうとする彼(ゲイ)は、生まれついた捨て子の孤独を太陽系のさらに外へ捨て去ろうとする。シリアスな事柄は地球上で、自分は遥か遠くの太陽系外縁天体内惑星の冥王星で楽しく生きる。常に求めるのは、太陽のような母の愛。しかし、暗く遠い外縁天体には、太陽の愛は降り注がないし、身内(惑星)の扱いをしてもらえない。わずかな絆で変則的な軌道を描いて太陽(母親)の周りを回るしかないのだ。
92年の「クライング・ゲーム」も、おなじニール・ジョーダンの監督作品。この作品も太陽系外縁天体内の話。領域外の異性人が愛を探すそんな話・・・・・・ニール・ジョーダンのコメディの軽妙さと奥深さは、ぼくには合いそうもない。もう、ゲイ関係はどんなに話題作でも終了(ry


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ダンコンの想い

2007-06-03 16:34:42 | 日記

僕が言葉の奇術師をめざしているわけ。あれは5年前のことだ。第3セクターの会社に出向して、単身赴任をしていた頃の話だ。いよいよ、出向先の会社の経営があやしくなり、出向元へ帰されることになった。いわゆる出戻りである。戻るも地獄、戻らぬも地獄。それまでに出向先で培ってきた人脈達は一様に僕のことを心配して、元の会社へ出戻りが決まってからは毎日のように顔を見せに来てくれた。まるで、今生の別れを惜しむかのごとく。縁起でもない。<ぼくはまだ死んじゃいない。まだまだこれからだよ>会う人ごとに僕は強がりを言っていた。もとの会社へ戻っても、ポジションはない。だから、僕は大学へ助教授でも講師でもいいからポジションを見つけるつもりでいた。

「いやあ、男根(ダンコン)の世代の人たちが定年を迎えるようになれば、どっかに空きが出てくるよ」
僕は真顔でみんなに言ったものだった。
塊と書いて「カイ」と読む。戦後のベビーブームに生まれた人たちは団塊(ダンカイ)の世代。が、この「カイ」って漢字、霊魂の「コン」に似てるじゃないですか・・・・・・。まあ、これくらいは良しとしよう。あとで、1ヶ月ぐらい、穴があったら入れたい思いをすれば済む話だ。
インストロール。例えば、雑誌に上戸彩が主演の映画「インストール」の記事があったとしよう。その記事を読んでいる僕は、脳内でわざわざ「インストロール」に変換をしてその文章を読んでいる。いつしか、上役にパソコンに関する説明を求められた時や、会社の若い女の子に説明する時など、人生の重要な場面で「これをインストロールするとですねエ」とやってしまいそうな予感に怯えている。というのも、インターネットがまだ黎明の時期でパソコン通信が全盛だったころ、当時、はじめて定額制のインターネット接続サービスを謳ったベッコアメ・インターネットでダイヤルアップで接続をして、毎晩のようにエッチなalt.binaries.picturesを覗いていた。
そのうち、いろんな人からインターネットに接続してエッチな写真を入手するにはと聞かれて、
「それはね。まずはプロパダイバーに契約してねエ・・・・・・」
いつのことだろう。インターネットの技術書が書店ではまだ入手できなかった時に、ぼくはパソコン通信で仕入れた情報をもとにベッコアメ・インターネットを介してネットにつないでいた。おそらくその情報にタイプミスがあり、正しくは「provider(プロバイダ)」であるべき言葉が「propadiver(プロパダイバー)」とミスインプットされてしまったのだ。もう何十人の人に「プロパダイバーと契約してね」と言っちまったことだろう。
言葉の奇術。ささいなミスインプットが、とんでもない結果を引き起こす。これは、言葉の奇術師をうたっている僕にとって、言葉に対する錯覚が見事に予想もしない結末に帰着することを身をもって知る良い機会となっている。


ゆれる

2007-06-02 18:10:17 | cinema

陪審員制度が2009年(平成21年)5月にはじまる。過失か故意か、その判断を我々にゆだねられる日が遠からずやってくるのだ。しかし、前から疑問なのだが、人の内面について客観的にシロクロを決めることが可能なのだろうか?
例えば、「バベル」と言う映画で、ジャッカルを追っ払うため猟銃を預けられた幼子の兄弟が腕試しをする。彼らは標的を結局は逃げられてしまったジャッカルから、比較的当てるのがたやすい岩へ、そして遠くに見えるトラック、当るはずのない偶然通りかかった観光バスへと次々に変更している。これまで使っていた性能の悪い銃に比べ、新しく購入した銃は、最新式の高性能の銃だった。弾丸はバスを貫き、中にいたアメリカの観光客の女性の首を撃ち抜いた。
幼子たちにツーリストに対する憎しみがあって、「ブッ殺してやる」という意思のもとに当てようと思って猟銃を発砲させたら、それはもちろん故意であり殺人罪だ。しかし、逆に、バスに人がいることなど知らず全くの間違いで乗客を死に至らしめたとしたら、それは過失致死罪となる。この2つのケースは第3者にとってもわかりやすい心理状態だ。
バベルのケースでは、まさかあたるはずはないという気持ちが大部分を占める中で、あたったらすごいと引き金を引いて惨事を引き起こした。内面心理として犯意はなくとも、死亡という結果が発生することを「認容」してしまっているので、故意犯に近いものとされる。「未必の故意」というやつだ。
だが、もっと状況を複雑にして、バスを襲おうとしているジャッカルの群れ、あるいはテロリストに照準を絞って放った銃弾が流れて乗客を打ち抜いた場合はどうだろうか。この場合、内面で犯意を持たず、しかも死亡させるという結果の発生を「認容」していないので、故意犯としては扱われない。テロリストに銃弾が到達可能であることを知っていて、誤まって乗客を殺してしまうのだ。だから、この場合を「認識ある過失」という。そして、この時、犯人の内面に乗客を「助けてあげたい」という心理と、「乗客はどうせ死ぬんだから」という心理の葛藤があったとしたら・・・・・・。

言葉で心の内面を描くのは簡単だ。しかし、映像でこれを見せるのはたやすいことではない。映画「ゆれる」では、心の奥に潜む些細な感情をもミノル役の香川照之が演じきっている。彼は揺れるつり橋で、事故に遭遇して手首に傷を負う。普通なら、それを証拠に無実を主張するところなのだが、彼の心は揺れていた。
ミノルは正直だった。だれの心にもある多重性を、ミノルはそのままの形で伝えた。人はすべての行動において、混じりけなしの心でその行動に望むのは難しい。例えば、だれかの訃報を耳にするにしても、もう会えないことを悲しむ気持ちと、なぜ死に至ったか好奇心むき出しの残酷な心とがせめぎあっている。こうした相反する心が折り合って、人の行動を決めていく。さて、果たして本当のところは殺人なのだろうか、あるいは事故なのか。

彼の手首に負った爪あとは、裁判で証言台に立った弟のタケルの心にも爪あとを残す。刑務所から出所するまで気がつかなかったタケルの過失、その贖罪の日々を思えば心が痛む。この結末を、ここに洗いざらい書いてすっきりと説明したい気持ちと、ネタバレを責める読者の気持ちを思う心とで、ぼくの心は ゆ れ て い る。

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実を言えばまだ書くのを迷っている。
ZARD(ザード)の坂井泉水さん。これを書いている間にも歌声が心にこだましている。彼女の歌声に10年前のつらかった日々が思い出される。今日、書かなければ、もうチャンスはないだろう。だけども、気持ちの整理がつかなくて、言葉にならなくて・・・・・・。


フラガール

2007-06-01 20:23:05 | cinema

茨城県北部から福島県南部にかけては、かつては日本有数の炭田「常磐炭田」が栄えていた。常磐炭田は、数社の会社により採掘がなされ大小多数の鉱山跡が存在する。この映画で出てくるぼた山は、その中の一つなのだろうか。石炭は、燃料および鉄鋼の原料として、わが国において明治以降産業の原動力として重要な役割を果たしてきた。しかし、効率がよく、安価な石油の登場で石炭は次第にその座を追われることになった。常磐炭砿(後の常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、石炭業自体も1985年に撤退している。
そんな中、常磐炭鉱の閉山対策、失職者に対する雇用先確保のため、常磐炭砿時代に厄介物とされていた地下湧水の温泉を利用した、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」が誕生する。1965年(昭和40年)のことだ。当時、高度経済成長を遂げる日本において、海外旅行はまだ高嶺の花であり、あこがれの外国はハワイだった。テレビでは「トリスを飲んでハワイへ行こう」というCMが流行していた。その頃1ドルは360円。ハワイに行ける人はお金持ちの新婚旅行ぐらいだった。プレスリーの「ブルーハワイ」という映画が上映されたのもこの頃だ。
地域興しで各地方自治体が四苦八苦している現在の状況から見ると、「温泉リゾート」の発想はかなり安直である。しかし、当時としてはテレビなどのメディアを使った宣伝が功を奏して盛況だったようだ。これの2番煎じを狙って大失敗した夕張市の悲劇が思い起こされる。
さびれ行く炭鉱。これを背景にいくつかの映画が作られている。「フル・モンティ」もそうだし、「遠い空の向こうに」、「リトルダンサー」もそうだ。産業の廃退は、様ざまな人間ドラマを巻き込み進んでいく骨太のテーマではあるが、そこには感動を産むストーリーがいくつも見られる。この映画では、生活のためにフラ(ダンス)を始める若い女性達が主人公だ。「プロジェクトX」のように岸部一徳を主役にしたストーリーも考えられるが、少女達を主役にすることで感情移入が容易になりずっと感動的な話に仕上がっている。

この映画の中で、「デレスケ」という言葉が出てくる。「デレスケ」って、茨城でも福島でもないぼくの田舎でも使う言葉だ。小さい時分には、両親からよくこう言われた。たぶん、今、若い女性から「デレスケ・・・・・・」って面と向かって言われると、デレスケなぼくでも非常に複雑な気持ちになるだろう。「デレスケ」って簡単に言うと「デレデレしているバカかお前は!」ってことなのだが、使う状況によってニュアンスが変わるし説明は難しい。

エネルギーの依存が石油に移って以来、石炭を見たことがない子供が増えてきた。日本各地にある石炭資料館などに行くと、石炭を不思議そうに見ている子供たちが多い。当時の鋳物製の石炭ストーブ。学校や駅の待合所などでよく使われていたが、いまは見かけることはまずない。そして、炭鉱の爆発や落盤事故による多くの犠牲者。非常に危険な職場であることは、いまは本などで知ることができるのみだ。炭鉱での労働状況にはすさまじいものがある。労働のあと、坑内から出てきたときの坑夫の真っ黒けで、目だけがギョロッと光る顔を見ただけでもその仕事の過酷さが分かる。
ダンスをおぼえてこの町から脱出したいという願望を持つサナエ(徳永えり)は、キミコ(蒼井優)を誘いフラのメンバーになる。しかし、リストラにあった父親が北海道の夕張炭鉱に職を求め、サナエたち一家は常磐炭鉱の地を去っていく。映画を観ていて、一家が途中で帰ってくるのを思わず祈ってしまうが、母親のいないサナエの家庭では小さい兄弟たちもいてそれはかなわない。常磐の地でもあまりお金にめぐまれなかった彼女は、この先、つらく厳しい北海道の地で炭鉱に埋もれた生活を送るのだろうか。
「プロだったら、いつでも舞台ではヘラヘラ笑顔じゃなきゃ」 
ここで、昔のオレなら下手な脚本を止めちまえと言っていたかもしれない。安易に人を殺すなよ。炭鉱の落盤事故は悲惨だ。ただ、大事故につながる炭鉱のガス爆発や粉塵爆発でないだけましか。山に無情のサイレンが鳴り響く。家族はいつ、自分の愛する家族が事故で死ぬのかサイレンに怯えて暮らすことになる。あのサイレンを平然と聞くことができる炭鉱マンは皆無だ。だから、殺さないでと・・・・・・。
そして、時代を変えてしまう人間はいつの世でも嫌われる。追い出されて東京へ帰る電車に乗るダンスの先生マドカを、駆けつけたホームから見送る生徒達。かっこ悪いのが嫌いでマドカは見送りに答えようとしない。やがて電車は動き出し、ホームに立ち尽くすキミコはホーム越しにフラで気持ちを伝える。フラは手話と同じなんだ。ホームの反対側に行きかけたみんなが戻ってきて、集団でのフラ。まんず、デレスケな脚本だわー。涙が出てくるじゃないか、このー。
途中に挿入されるエピソードの部分が暗く救いようがなければ、それだけ明るい部分が際立って光る。映画は常磐ハワイアンセンターの開園でフィナーレを迎えるが、フラガールたちがまるで空から降りてきた妖精のようにキレイに見えた。そして、それまで、ほとんど気がつかなかったジェイク・シマブクロのウクレレがバックに流れて切ない。彼女たちの頬が光って見えたのはナンだったんだろう。泣かない約束のはず。東京では借金塗れで逃亡するしかないマドカを演じる松雪泰子が、本当に「いい女」に見えた。生徒たちの成長が彼女をまた「いい女」に変えていったのだ。おめえなんかあれだ。名前をど忘れしたが、トヨエツと結婚しろ。そして、一生、常磐に住んでフラをやってろ。お願いだ。
この映画の出演者の一部は、おそらく最初はそれほどのフラの経験がなかったはずだ。その出演者たちがフラをマスターしたということが、映画の中の素人の女の子たちがフラを練習してマスターしていくこととダブって感動を倍にする。凝った演出に頼るわけでもなく、効果音などもほとんど使わない。淡々としたストーリーがラストに向かって涙を誘っていくのだ。そして、フラ。フラダンスがフラメンコのような情熱的な踊りだとは思わなかった。見せるダンス。フラが宗教的なところから来ているいうことがよくわかった。格闘技を思わせるような激しい身の運び、ただ息を呑むばかりだった。
常磐ハワイアンセンターという温泉リゾートを知ってはいたが、船橋ヘスセンターと同様に行ってみたいところではなかった。日本は、このあと大阪万博が催され経済の発展とともに消費者の意識はテレビという巨大な影の下で踊らせられていく。だが、貧乏だったぼくの両親は常磐ハワイアンセンターへ出かけることはなかった。東京都内からはJR上野駅発の常磐線特急「スーパーひたち」に乗れば、2時間余りで常磐に着く。ひょっとしたら、格安ツアーでハワイに行くのと変わらない値段かもしれないが、行ってこようと思う。