奈良文化財研究所が28日、橿原市の藤原宮 (694-710) 跡の宮殿の中心・大極殿跡から東約450mの場所で、礎石を据え付けたと見られる柱穴(直径2~4m)が東西に3つずつ、2列あるのが見つかり、さらにその西側で、重量が1トン近くもある大きな礎石2個(幅、奥行き、高さ各約1m)が見つかったと発表した。
約1km四方を大垣(塀)で囲まれた藤原宮には、東西南北に3カ所ずつ、全部で12ヶ所の門があったとされ、柱穴はこれまで確認された藤原宮の門の跡と柱の間隔が同じことなどから、東側の真ん中の門に当る「建部門(たけるべもん)」(注1)の可能性が高いという。 また、2個の礎石は、都が藤原京から平城京に移された後に一帯が農地となった際、元の位置から動かして捨てられたとみられる。
建部門は他に5か所で見つかっている門跡から、高さ約1mの基壇上に立つ礎石建物で、規模は幅(南北)25m、奥行き(東西)10m、瓦葺だったとみられる。
藤原宮の門の跡が見つかるのは6例目だが、柱穴などとともに礎石が確認されたのは初めて。
現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:共同通信、NHKニュース、産経新聞、読売新聞]
(注1)建部門: 藤原宮南面中央は朱雀門(一説には、大伴門と呼ばれた)で、東面は北から、山部門・建部門・小子部門が判明している。 宮廷を警護した軍事氏族・建部氏にちなむとされる。
約1km四方を大垣(塀)で囲まれた藤原宮には、東西南北に3カ所ずつ、全部で12ヶ所の門があったとされ、柱穴はこれまで確認された藤原宮の門の跡と柱の間隔が同じことなどから、東側の真ん中の門に当る「建部門(たけるべもん)」(注1)の可能性が高いという。 また、2個の礎石は、都が藤原京から平城京に移された後に一帯が農地となった際、元の位置から動かして捨てられたとみられる。
建部門は他に5か所で見つかっている門跡から、高さ約1mの基壇上に立つ礎石建物で、規模は幅(南北)25m、奥行き(東西)10m、瓦葺だったとみられる。
藤原宮の門の跡が見つかるのは6例目だが、柱穴などとともに礎石が確認されたのは初めて。
現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:共同通信、NHKニュース、産経新聞、読売新聞]
(注1)建部門: 藤原宮南面中央は朱雀門(一説には、大伴門と呼ばれた)で、東面は北から、山部門・建部門・小子部門が判明している。 宮廷を警護した軍事氏族・建部氏にちなむとされる。
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