発掘された日本列島2008 「発掘された近世都市”江戸”の誕生」キリシタン遺物「メダイ、ロザリオ玉」
会場には、「寛永江戸全図」(複製、臼杵市教育委員会原資料所蔵)の大きなポスター・パネルが飾られており、そこに数人が長々と話を交わしていた。当時、ここには何があったか、あるいはそれ以前はここはどこそこだったとか、きりがない。
2006年9月29日、臼杵市立図書館蔵の寛永江戸全図が現存最古級の江戸全図であることがわかった。大きさは3.1×2.7m、寛永20年(1643)の江戸城下を手書きで描いたもの...[西日本新聞より]
と最近になって発見された地図で、かなり地形がわかる優れたものである。
これから、話を進める東京駅八重洲北口遺跡、ここでの大きな目印は呉服橋である。先の江戸全図で、呉服橋は後藤橋と記されている。その他にも寛永江戸図(1624~1643年)、武州豐島郡江戸庄圖(明暦大火1657年直後)でもしかり。
17世紀の後半ごろから呉服橋と記されるようになる。後藤橋の後藤とは、徳川家康が連れてきた幕府御用達の呉服師後藤縫殿助のことであり、寛永江戸図には「元ごふく丁」の地名が記されている。また、文久3年(1863)の江戸切絵図には「呉服町」となっており、そこに(現在の中央区八重洲一丁目3番22号あたり)「後藤」と家の名前が記されている。すなわち、八重洲から呉服橋(後藤橋)を渡り終えると、大きな屋敷があり、それが江戸初期から幕末まで続いた呉服師後藤家の屋敷であった。
呉服橋があった場所に立てられている案内板には、下記のように記されている。
『以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。
「御府内備考(ごふないびこう)」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
古くは後藤橋といへり。【寛永中江戸絵図】呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。【江戸紀聞】今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)
これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~43)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
なお、外堀が昭和29年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含め外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。 平成九年三月 千代田区教育委員会』
さて、話は(呉服橋を渡り)戻り、2007年7月~2001年6月にかけて、千代田区八重洲北口遺跡(千代田区八重洲1-8)の調査が行われた。今回、その出土品が出展されていた。興味を持ったひとつが「メダイとロザリオの玉」(写真)である。この地が、近世初頭の墓地であり、キリシタン遺物および人骨の出土により、キリスト教信者が当時の江戸にいたとの証である。その出土場所は、現在のグラントウキョウ・ノースタワーから丸の内トラストタワーまでの辺りである。調査層は現在を含めて5面で、各々の面の状況を大まかに箇条書きにすると下記のようである。
0面:大正3年(1914)、東京駅開業に伴って建てられた鉄道院庁舎の基礎。
1面:文化3年(1806)~幕末の北町奉行所に伴う遺構。
2面:元禄11年(1690)火災以降~文化3年(1806)の大名屋敷の遺構。
3面:元禄11年(1690)以前、北側に南町奉行所、南側に小笠原家の遺構。
4面:近世初めの溝、掘立柱建物跡、墓跡が出土。墓には長方形木棺や土坑墓が見られ、仰臥伸展葬で埋葬され、このうち1基からメダイ、ロザリオ玉(写真)などのキリスト教関連の遺物が出土し、それらの遺物などから16世紀末から17世紀ごく初頭の遺構面と見られる。
[参考:「千代田区東京駅八重洲北口遺跡の調査」金子智氏、前出]
江戸博物館で行われていた「発掘された日本列島2008」は先月末に終了しました。
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