歴歩

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韓国 1926~1931年当時の京都帝国大学建築学教室助手・能勢丑三の行跡

2010年08月25日 | Weblog
 聨合ニュースでは25日、1926年当時、京都帝国大学工学部建築学教室助手であった能勢丑三(のせ うしぞう)について、9点の写真とともにかなりの量の記事が書かれていた。
 冒頭は、1926年に朝鮮総督府が発掘調査した新羅時代の積石木槨墳「瑞鳳塚(서봉총)」(慶州市路西洞)の名前の由来の話。その年に発掘現場を訪れたスウェーデン(漢字表記:瑞典)のグスタフ アドルフ皇太子と出土した金冠の鳳凰飾りから一字ずつ漢字をとって名づけたという。皇太子を現場まで案内したのは、当時、京都帝国大学総長・濱田耕作(青陵)(考古学者)、そして、随行団の一員として同大学工学部建築学教室助手・能勢丑三がいた。ここで、就実大学大学院(岡山)賈鍾寿・教授が整理した能勢丑三の略歴が文章にて紹介されている。

1889年8月17日 京都市で生まれる。
 京都市立美術工芸学校図案科と京都高等工芸学校図案科を卒業。建築設計事務所に勤務。
1923年 京都帝国大学工学部建築学教室助手に就職。ここで古代建築研究に没頭し、その後、同大学考古学教室に配属されたりもした。
1926年 前述の慶州訪問を契機に朝鮮の文化遺産に魅了される。 1926~1931年まで全10回にかけて、父親から受け継いだ莫大な財産を元手に私費まで叩いて、朝鮮各地をくまなく探し、遺跡見学と発掘)調査、そして文化財復元を行う。
 彼の全般的な業績は、これというほどのものが学界では整理されていないが、韓国では十二支像(십이지상)の重要性を最も早く感知して先駆的な業績を上げたとしている。また、単純な見学に満足しないで関連遺跡に対する発掘調査も併行した。
1928年 慶州遠源寺(원원사)址を現地調査し、一方、皇福寺址で石塔基壇場所を発掘調査した。 また、開城の高麗王陵の調査も併行した。
1929年 高麗王陵と華厳寺西塔を調査し、遠源寺址の発掘を開始する。
1930年 遠源寺址を実測調査して、成徳王陵をはじめとする慶州地域新羅時代王陵の十二支像を調査するなど、1931年末まで朝鮮での文化財調査行跡を継続する。
1931年 遠源寺址三層石塔(雙塔)を復元した。

 賈教授は、彼が残した韓国文化財関連各種写真が現在、奈良市の文化財専門写真会社・飛鳥園に約2千500枚に達するガラス乾板で未整理のまま残っているとし、このような能勢丑三の資料に対して、韓国政府サイドの調査と整理が必要だとしている。
 賈教授は、最近発刊された季刊「韓国の考古学」夏号を通して、上記のことをまとめ紹介した。
[参考:聨合ニュース]


備考: その後の能勢丑三簡単な略年譜
1932年 文学部に異動し、考古学教室勤務を命じる。
1938年 京都大学文学部を依願退職。 その前後より、石塔の調査研究を行う。
1947年 京都師範学校講師。日本考古学を教える。
1953年 大阪市立大学文学部講師。考古学研究法を教える。
1954年 歿す。(享年66才。)
[参考:考古学京都学派・角田文衛編より「能勢丑三略伝」/角田文衛 (1994 雄山閤出版)]

備考:KBSニュースでは、11枚の写真を公開している。


追記 2017.2.2
 2017.1.31朝鮮日報は、「90년 전 일본 학자가 찍은 경주 발굴 사진 700장 공개(90年前、日本学者が撮った慶州発掘写真700枚公開)」と題して、
慶州学硏究院は1920~1930年代日本人建築、考古学者・能勢丑三(1889~1954)が慶州一帯を発掘調査して撮った写真と図面700枚余りを30日、本紙に公開したと発表した。
 写真は飛鳥園にガラス乾板状態で未整理のまま保管されていたものである。
 能勢丑三は新羅遺跡見れば感激するので現地の人々からは「感激先生(감격선생)」と呼ばれていたそうである。

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