明石市教委は、太寺遺跡で平安時代末期(12世紀後半)から鎌倉時代(13世紀前半)の掘立柱建物跡や古墳時代後期の円筒埴輪片が見つかったと発表した。
今年2月から約430㎡を調査し、建物跡は約350の柱穴が見つかった。柱の跡は直径約25cmの円形で、深さ20~25cm。柱は2~2・5mの間隔で立っており、十数棟があったとみられる。
柱穴の一つから太寺廃寺で見つかった蓮華模様の軒丸瓦片と同じ瓦片もあった。瓦や土器、磁器など約200点も出土。このうち古墳時代後期のものが約50点あった。このほか、古墳時代の円筒形埴輪の破片なども見つかった。
発掘場所の東約100mには、7世紀後半の白鳳時代に建てられた「太寺廃寺」があり、古墳時代から地方の豪族が住み、「太寺廃寺跡」に関係する集落があったとみている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
参考:
太寺廃寺(明石市太寺2丁目)
太寺は白鳳期(7世紀後半~8世紀初)に造営された寺院の名であるが、早くより廃寺となった。現在は江戸時代に明石城主小笠原忠政(のち忠真、1596-1667)によって再興された天台宗太寺山高家寺がある。
境内の東南隅にある小高い土盛は太寺廃寺の塔跡で、塔の基壇は高さ約1.5m、円形造りだしの柱座が設けられた礎石が3石、現位置に埋没して残存している。1辺約7.3m(24尺)の塔であったと推定される。
寺の境内からは奈良時代~江戸時代の瓦が出土しており、奈良時代以降、数度にわたる改修を受けていたことがわかる。
[参考:明石市立文化博物館HP]
今年2月から約430㎡を調査し、建物跡は約350の柱穴が見つかった。柱の跡は直径約25cmの円形で、深さ20~25cm。柱は2~2・5mの間隔で立っており、十数棟があったとみられる。
柱穴の一つから太寺廃寺で見つかった蓮華模様の軒丸瓦片と同じ瓦片もあった。瓦や土器、磁器など約200点も出土。このうち古墳時代後期のものが約50点あった。このほか、古墳時代の円筒形埴輪の破片なども見つかった。
発掘場所の東約100mには、7世紀後半の白鳳時代に建てられた「太寺廃寺」があり、古墳時代から地方の豪族が住み、「太寺廃寺跡」に関係する集落があったとみている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
参考:
太寺廃寺(明石市太寺2丁目)
太寺は白鳳期(7世紀後半~8世紀初)に造営された寺院の名であるが、早くより廃寺となった。現在は江戸時代に明石城主小笠原忠政(のち忠真、1596-1667)によって再興された天台宗太寺山高家寺がある。
境内の東南隅にある小高い土盛は太寺廃寺の塔跡で、塔の基壇は高さ約1.5m、円形造りだしの柱座が設けられた礎石が3石、現位置に埋没して残存している。1辺約7.3m(24尺)の塔であったと推定される。
寺の境内からは奈良時代~江戸時代の瓦が出土しており、奈良時代以降、数度にわたる改修を受けていたことがわかる。
[参考:明石市立文化博物館HP]
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