TBSが引き起こしたマスコミ不祥事・報道被害

2018年07月10日 22時18分42秒 | 社会・文化・政治・経済
森達也 映画監督、作家、明治大学特任教授
2017年11月21日

テレビ・ディレクター時代、オウム真理教の信者たちを被写体にしたドキュメンタリーの撮影を始めてすぐに、所属していた番組制作会社である共同テレビジョンの上層部から、オウムを絶対悪として強調する意識が足りないと注意された。
その時点ではフジテレビで番組として放送されることが決まっていたけれど、局の上層部も同じ意見だと上司である制作部長からは説明された。
もっと悪辣(あくらつ)さを強調しろ。オウムは日本社会に出現した絶対的な悪なのだ。

 言われていることの意味がよくわからず(実は今もわからない)、曖昧な対応を続けていたら撮影中止を言い渡され、仕方なくデジタルキャメラを手に一人で休日に撮影を続けていたら、社命に背いたとの理由で解雇を言い渡された。

 もっと悪辣さを強調しろとの指示の意味は今もわからないが、撮影中止となった要因のひとつはわかる。
撮影が始まったそのタイミングで、TBSが坂本弁護士事件に結果として関与してしまっていたことが明らかになり、全メディアに激震が走ったのだ。ウィキペディアから概要を引用する。

 TBSビデオ問題は、1989年(平成元年)10月26日に、TBSのワイドショー番組『3時にあいましょう』のスタッフが、弁護士の坂本堤がオウム真理教を批判するインタビュー映像を放送前にオウム真理教幹部に見せたことで、9日後の11月4日に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件の発端となったとされる事件であり、TBSが引き起こしたマスコミ不祥事・報道被害である。

 事件はオウム真理教への強制捜査(1995年3月22日)が行われたのちの一連のオウム真理教事件の捜査の途上で浮上し、当初は否定していたTBSが1996年3月になってから認めたもので、TBSオウムビデオ問題、オウムビデオ問題、TBSオウム問題、TBS問題などとも呼ばれる。

 この記述は相当にあっさりしているが、この時期にテレビ業界にいた人ならば、激震の凄まじさは記憶しているはずだ。
TBS以外のテレビ各局は、情報源の秘匿というジャーナリズムの原則を逸脱したことで結果的にはオウムの犯罪に加担したとしてTBSを激しく叩き、多くの人はTBSの放送免許取り消しなどを主張した。
「3時にあいましょう」の後続番組である「スーパーワイド」は打ち切りとなり、複数のプロデューサーが懲戒解雇の処分を受け、磯崎洋三社長は辞任し、TBSは反省のあかしとして午前0時以降の番組をしばらく休止した。

 でもTBSを激しく批判しながら、各局関係者は、「ウチだってやばい」と思っていたはずだ。なぜなら地下鉄サリン事件からしばらくのあいだ、オウムはメディアにおいてはまさしくキラーコンテンツだった。
この時期によく耳にしたのは、「オウム特需」という言葉だ。新聞は毎日1面。号外も頻繁だった。
テレビは通常編成を打ち切って早朝から夜中までオウムの特番ばかり。オウムの名がつくだけで高視聴率は約束されたし、雑誌や新聞は部数を上げた。不安や恐怖を煽れば視聴率や部数は上がる。だからメディアはオウムの危険性や悪辣さを強調する。これは市場原理だ。

 こうして常軌を逸した取材や報道がスタンダードになる。オウムは生物兵器をすでに保持しているとのニュースが流れた時期もある。核兵器を持っていると断定した週刊誌もあった。
つまりフェイクニュースだ。

 普通ならば反論が立ち上がる。事実関係を検証した誰かが声をあげる。
でもオウムは日本社会に対峙する敵の位置にいた。国民の憎悪は凄まじい。少しでも違う角度の報道をすれば、オウムを擁護するのかと叩かれる。さらに生物兵器や核兵器を保持していると報道しても、オウムからの抗議はほとんどない。なぜならこの時期のオウムは混乱状態で、上層部や幹部の多くは逮捕されて指示系統も錯綜していた。つまりやられっぱなしなのだ。

TBSを叩いた後の委縮 多くのメディア関係者は、オウムの危険性を煽るばかりの記事を書いたり番組を制作したりしながら、自分たちは常軌を逸しかけていると気づいていたはずだ。だからこそTBSを激しく叩きながら、「自分たちだって叩かれればいくらでも埃が出る」と意識下で感じていた。

 こうしてTBSを激しく叩きながら、他のメディア(特にテレビ)は委縮した。
不思議な現象だ。でも実は最近もあった。2014年に起きた朝日新聞の従軍慰安婦報道問題だ。
このときもメディアは「売国新聞」「国益を侵害した」などと激しく朝日を罵倒した。国のトップである安倍晋三首相は、慰安婦問題を間違った解釈で国際世論に広めたと朝日新聞を名指しで攻撃した。

 そうした状況を見ながら、きっと各メディアは委縮すると僕は思っていた。忖度(そんたく)や自主規制はこれまで以上に強くなり、風や流れに逆らうことが難しくなる。そしてこの予想は、(その後のメディア状況を見れば)ほぼ的中したと言っていいだろう。

 時代は区切られていない。
常に連続している。繋がっている。オウムがメディアに与えた影響は大きい。
TBS事件後、メディアはオウムに対して一気に及び腰になり、オウムはキラーコンテンツの位置から取扱注意になった。
オウム幹部のインタビューを放送することは国民に対してのプロパガンダになるとの奇妙な論理で、テレビ各局はこれを自粛することが当たり前になった。
だからこそフジテレビと共同テレビジョンは、撮影が始まったばかりの僕の作品を問題視した。

 補足するが、メディアは自分たちの名前を決して匿名にすべきではないと思っているので、僕はフジテレビと共同テレビジョンという固有名詞をここに記載している。
ただしフジテレビと共同テレビジョンだからこの事態が起きたわけではない。
テレビ朝日とテレビマンユニオン、日本テレビとドキュメンタリージャパンでも、同じことが起きた可能性はある。

『A』が忌避された理由

1998年公開のドキュメンタリー映画『A』から。マイクを向けられているのは、オウム真理教の荒木浩・広報副部長 でもそれは今だから思うこと。当時はわからなかった。そもそも意識がなかった。
なぜ撮影中止を命じられたのか、なぜオフの日に一人で撮り続けたことで解雇されるのか、その理由が僕にはわからなかった。とにかく会社から排除された。
3人目の子供が生まれる直前だった。これからどうやって生活すればいいのかと途方に暮れた。
撮影済みの映像をラフに繋いでパイロットフィルムを作り、フジテレビ以外の各局の知り合いや伝手(つて)を頼ってアポイントをとっては持参した。
でも結果はすべて同じ。こんな映像を放送することなどありえない。その答えは共通していた。
門前払いされたことも二度や三度ではない。どうやら自分はテレビ業界から排除されかけている。道を踏み外しかけている。
そう気づいたがどうしようもない。

 結果としてその作品が、1998年に自主制作ドキュメンタリー映画『A』になった。
なぜこれほどに僕の映像はテレビから忌避されたのか。あの頃はその理由がわからなかった。
でも今ならわかる。なぜなら映画は持続する。テレビと違って観た人の感想を直接聞くことができる。『A』を観た多くの人は、「オウムの信者があれほどに普通だったとは思いませんでした」と最初の印象を口にする。
確かに彼らは普通だ。
普通という言葉の定義は実のところ難しいが、少なくとも一般的な基準よりは善良で純真で優しい。
考えれば当たり前だ。人を殺すために出家した人など一人もいない。世界を救済すると信じて出家したのだ。出家前は障害者施設で働いていた信者がいた。
でも彼らの生活のサポートはできても、本当の意味で彼らを救えない。そう思い悩んだすえに、彼はオウムの門を叩いた。
真面目なのだ。善良なのだ。そんな信者はたくさんいる。

 ただし彼らのそんな側面を伝えることは、当時の(あるいは今も)ほとんどのメディアではNGだ。彼らが普通であるとのアナウンスはできない。当時のメディアがオウムを伝えるとき、レトリックはほぼ二つに限定されていた。

①邪悪で狂暴で凶悪な殺人集団
②麻原に洗脳されて感情や理性を失った危険な集団

 この二つに共通するのは、彼ら(オウム)は自分たちとは違う存在であると視聴者や読者に訴えることだ。違う存在であるから、あれほどに凶悪な事件を起こしたのだと社会は腑に落ちることができる。事件後にメディアと社会が考えるべきは、これほどに普通の人たちが、なぜこれほどに凶悪な事件を起こしたのか、そのメカニズムだ。
でも結果としてメディアと社会は、この煩悶(はんもん)や洞察を拒絶した。邪悪で狂暴だから人を殺したとの単純な構図に事件を回収しようとした。

 そしてこのレトリックは、これほどに危険な個人や組織が存在しているとの危機意識を喚起する。しかもあれだけの報道量だ。
だからこそオウム以降、日本社会は劇的に変質した。不安や恐怖を抱いたがゆえに一人が怖くなって集団化が加速した。集団は同調圧力を強めながら、集団内では同調しない異物探しに躍起になり、集団外に共通の敵を探し求めるようになる。
その帰結が今の日本であり、アメリカ同時多発テロ以降はこの傾向が世界に拡散した。

日本はオウムを置き去りにした 『A』発表から3年後に、僕は『A2』を発表する。この過程で、メディアに対する僕の意識は劇的に変化した。

 今も時おり、もうオウムは撮らないのですかと訊かれることがある。つまり『A3』だ。ただし(映画ではないが)、麻原彰晃とオウム裁判をテーマにした『A3』(集英社文庫)は、活字作品としてすでに発表した。だからもし映画を撮るのなら、順番としては『A4』になる(何だか紙のサイズのようだ)。

 もしも今『A4』を撮るのなら、現状としてはオウムの後継団体である「アレフ」と「ひかりの輪」が撮影対象になるけれど、その意欲はまったくない。
なぜなら今この二つを撮っても、日本社会のメタファー(暗喩)にはなりえないからだ。

 『A』および『A2』は、被写体は確かにオウム真理教の信者たちであるけれど、作品は決して「オウムのドキュメンタリー」ではない。
テーマは日本社会だ。つまり『A』と『A2』は、サリン事件後のオウムをメタファーに使いながら、オウム出現後の日本社会の変化にフォーカスを合わせた作品だ。

 でも今の「アレフ」と「ひかりの輪」は、もう日本社会のメタファーにはなりえない。それほどにこの22年で日本社会は大きく変質した。
ある意味でオウムを置き去りにした。撮るのなら、『A2』発表後すぐに撮るべきだった。

 実のところ『A2』を編集しながら、『A3』の構想はすでに考えていた。実際に撮影素材の一部は『A3』に使うために、『A2』から落としていた。
でも身体が動かなかった。撮影に行くことができなくなった。
その理由は幾つかあるけれど、『A2』が興行としては失敗だったことは大きな要因だ。
オウムへの憎悪がまだ生々しい時期に公開された『A』については、ある程度のあきらめはついた。
でも『A2』は、公開時には地下鉄サリン事件からすでに約6年が経過したことに加え、その公開前年の9月11日に起きた同時多発テロによって急激に変質する(つまり集団化だ)アメリカを目撃したことで、多くの日本人はクールダウンしたはずだと僕は思いこんでいた。

 結果は惨敗だった。オウムへの嫌悪と憎悪はむしろ肥大していた。興行成績は『A』以下だ。そのダメージが大きかった。だから撮ることができなくなった。

 

オウムに加担したマスコミ

2018年07月10日 22時03分39秒 | 医科・歯科・介護
梶井彩子(かじいあやこ)1980年生まれ。大学を卒業後、企業に勤めながら、ライターとして雑誌などに寄稿。

バラエティ生放送に教祖が出演
振り返ってみると、メディアのオウムに対する姿勢は当初は「半笑い」だったのではないか。

象の被り物で、独自の歌を歌いながら展開していた90年の選挙運動ひとつとっても、普通に見れば異常でしかない(しかもこの総選挙での大敗が武力革命実行を加速させたとされている)。が、これも「おかしな連中がいる」というくらいの半笑いでそこまで深刻にとらえられず、その映像はテレビでダダ流れとなり、子供たちはオウムの歌を口ずさんでいた。

サリン事件が起きる前には、当時人気絶頂だった芸人・とんねるずの「生でダラダラいかせて!!」という番組に麻原彰晃がスペシャルゲストとして生出演したこともあった。「話題の『教祖』が出演」とあって、スタジオは大歓声。
「青春人生相談」と題し、スタジオに集まった若者が、それこそ「半笑い」で質問をぶつけていたのである。

「好きな芸能人は誰ですか」という質問に、「今はいないが、秋吉久美子が好きだった」と答える麻原。「なんだ、教祖とか言ってるけど結構普通じゃん(笑)」というギャップによる「半笑い」がスタジオを包み、テレビの前の視聴者を覆っていた。

「事件発覚前は危険性が認識されず、単なるトンチキな宗教団体だと思われていた(から仕方ない)」と言うのは簡単だが、この時期すでに出家信者と家族の軋轢や、教団内での殺人・隠蔽はもちろん、坂本弁護士一家殺害事件を経ていた。
また本書によれば麻原の武力革命的思想はすでに早い段階から口にされてもいた。「危険な宗教団体」の萌芽はすでに育っていたにもかかわらず、テレビメディアが面白がって半笑いでネタにするという実に恐ろしい状況にあったのである。

事件後もそうだ。映像的にインパクトのある、教団服を着たいい歳の大人たちが、口角泡を飛ばしてあの麻原彰晃を庇い、教団の正当化を図る。
ホーリーネームで呼び合う、オカルト思想に彩られたおかしな集団。
なのに幹部は高学歴でみな堂々としている。教団幹部だった上祐史裕氏には追っかけのギャルが出現し、彼が得意とする「ディベート」は流行語にまでなった。

本書では、メディアに関しては雑誌『ムー』の役割に触れられる程度で、テレビなどで扱いはあまり出てこないが、テレビメディアがある面でオウム真理教に対する世間の警戒心のハードルを下げ、布教に加担した可能性は否定できない。

虐待を行ったのは誰か
また本書には「ポアすれば、悪の道に染まっていたとしてももう一度人間界に転生させ、修行させることができる。グル(麻原)にはその力がある」と信じ、信者の一人を殺害した教団幹部・早川紀代秀(09年に死刑確定)の述懐が登場する。

早川は、人現界に転生させられるとしていた被害者が「実は白熊に転生させられた」と別の幹部から聞かされた。このくだりを読んで一瞬、私も半笑いにはなった。「なんでピンポイントで白熊なんだ」と。
が、そのあと背筋が寒くなった。
早川はこれを聞いて笑うどころか、「残念だが、(地獄に行くよりはましだと)納得した」というのだ。これほどの認識の断絶がどうして起こるのか、マインドコントロールと一言で片づけられない背景があるはずだ。

次なるカルト事件を防ぐために、「宗教の自由」「信教の自由」の壁に阻まれた信者の精神に挑む著者の姿勢に敬意を表する。一方、メディアはどうなのか。
「面白いから」と報じておいて、その影響によって生じる問題の責任は取らなかったのではないか。
アゴラ執筆者である松本麗華さんの記事からも感じ取れるかもしれないが、信者や関係者に対する虐待は教団や加害者となった人たちが行なったばかりではなく、メディアもその一端を担っていたのではないか。

ちなみに本書には旧統一教会が世界平和統一家庭連合と名称を変更する手続きが、申請から18年後の2015年8月にようやく承認された件について、「推測」としながらも現政権と統一教会の距離の近さを指摘している。
ご興味のある向きはぜひ読まれたい。

NHK女性記者の過労死はなぜ4年間も伏せられていたのか

2018年07月10日 18時13分17秒 | 社会・文化・政治・経済
篠田博之 | 月刊『創』編集長
2/13(火) 22:25
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佐戸未和さんの遺影(筆者撮影)右手前が仕事用の携帯電話

 都内に住む佐戸守さん恵美子さん夫妻の住まいを訪ねた。2013年に過労死したことが昨年10月になって報道された元NHK記者・佐戸未和さんのご両親だ。おふたりが語った娘の過労死についてのインタビューは月刊『創』1月号に掲載した。浅野健一さんがインタビューを行ったものだが、私は締切時期に両親にお会いできなかったので、日を改めて訪問しものだ。その『創』に掲載したインタビュー記事は今回、ヤフーニュース雑誌に全文公開することにした。

 未和さんの過労死については報道されたものを一通り見てはいたのだが、両親の生の言葉は衝撃的だった。新聞やテレビで報道されたものよりその悲しみや怒りははるかに激烈だったからだ。

 仕事のために支給された携帯を握ったまま亡くなっていたという未和さんの死は、同じメディアに携わる者として胸が痛むが、それ以上に衝撃だったのは、母親のこんな言葉だった。

《2013年7月25日午後2時半(現地時間)、当時、重機メーカーに勤める夫の仕事の関係で駐在していたブラジルのサンパウロで、私たち夫婦は悲報を受けました。職場である首都圏放送センターの上司の方から、夫の携帯に「未和さんが亡くなられた」という電話がありました。半狂乱になった私は主人に引きずられるようにしてその日の最短便に乗り、2日後に帰国し、死後4日目の変わり果てた娘と対面しました。》

《私は放心状態のまま家にこもり、毎日毎日、娘の遺骨を抱きながらずっと娘の後を追って死ぬことしか考えていませんでした。

 主人や子どもたちが、家の中からロープや包丁などはすべて隠しました。悲しみに暮れ、未和と同じ年代の女性やお腹の大きい女性を見るのは正直辛かった。未和もこんな人生を送れていたかもしれない、と思うと悲しくて見ていられませんでした。心の病にかかり、16年秋から数カ月入院もしました。でも、娘をこのままNHKに見殺しされたままにしておくわけにはいかない、という怒りのエネルギーで今は自分を奮い立たすことができています。》

《未和が亡くなった後、上司から娘に対して、「都議選と参議院選での正確、迅速な当確を打ち出したことにより選挙報道の成果を高めた」として報道局長特賞が届けられました。災害や事件事故で一刻の猶予もならぬ人の生死に関わるような取材活動に奔走した結果ならともかく、選挙の当確を一刻、一秒早く打ち出すために200時間を超える時間外労働までして娘が命を落としたかと思うと、私は込み上げてくる怒りを抑えることができません。》

 過労による死といえば電通の事件を思い出すが、その電通の事件を最も多く報道していたのがNHKだった。しかし、実際には、そのNHKで4年以上前に記者の過労死がありながら、昨年秋までそれが伏せられていた。当初NHKはそれが遺族の意向だったかのような説明を行ったが、実際には両親は「自分たちから公表を望まないと伝えたことは一度もない」と言っている。

 

 ではいったい未和さんの死はなぜ4年余も伏せられていたのだろうか。未和さんの父親はこう話している。

《私たちから、公表を望まないと伝えたことは一度もなく、事実ではありません。私たちが会見などでそう言った後、NHKは、「公表を控えたのは遺族の意思」と言わなくなった。事実上、訂正していると解釈しています。》

《NHK側は公表に関して、時間帯や時期なども考えたようです。視聴率の下がる夜9時のニュース、さらに総選挙告示直前に公表を行うことで、選挙報道の中へ未和の事件を紛れ込ませようとしていたのではないでしょうか。

 私たちは、当初、未和の急死のショックや妻の心身の不調や入院で、対外的な公表のことなど考える心の余裕もありませんでした。ただ私達は未和の一周忌の時も、三周忌の時も参列された方全員に未和の死が過労死による労災であることをお話ししており、その中にはNHKの職員の方も多数参列されていたので当然局内では周知されているだろうと思い込んでいました。NHKは未和の過労死の事実を意図的に伏せようとしているのではないかと思ったのは2017年3月以降です。

 NHKとしては両親が騒がなければ内部で処分などをする必要もないし、時間が過ぎれば風化していくことを蒸し返したくない、という気持ちがあったと思います。》

 事実上封印されていた娘の死について、このままではいけないと思ったのは昨年だったという。父親の守さんがこう語っている。

《心身不調で入院していた家内が2017年3月に退院後、過労死関係のシンポジウムや集会等に参加し始めたが、そこで取材に来ていたNHK関係者に「自分の娘もNHKの記者だったが、過労死で亡くなった」と打ち明けたところ、「そんなことがあったのか」と初めて聞く話に驚愕していました。それも一カ所ではなく行く先々で同じような目にあいました。労働問題の解説委員さえ知りませんでした。

 命日の焼香に我が家にいらした未和の多くの同僚の方からも「NHKで進められている働き方改革の背後に未和の過労死の事実があることが局内に伝わっていない、若い人や新しく入ってくる人は事実を何も知らないまま」という声を聞きました。

 一方で、NHKは電通の事件を大きく取り上げ、長時間労働を問題にした特番も組んでいます。「NHKで長時間労働を取材する報道現場の人でさえ自分の社内で起こったことを知らない。声を上げなければ未和のことはNHKで埋もれてしまう。それは許せない」と感じました。また、2017年の命日には、連絡が4日前になってもなく、こちらから弁護士経由で連絡してはじめて首都圏放送センターから焼香に来た。自らに起こったことは棚上げにし、過労死の事実も風化させられると強い危機感と不信感を持ちました》

 私は月刊『創』のほかに『マスコミ就職読本』編集長を兼務しているために、毎年相当数のマスコミ志望者と接している。『創』の取材で新聞社やテレビ局の社員に会うたびに「学生の時は『マスコミ就職読本』にお世話になりました」と言われる。佐戸未和さんは私の出身大学である一橋大からNHKへ入ったという経歴であり、もしかすると就活の時期には顔を合わせていたかもしれない。そんなふうに志を抱いて憧れのマスコミに入った人が、入社後絶望したり不幸な状況に至るというケースは本当に残念だ。そんな思いから佐戸未和さんのケースもとても他人事として見ていられなかった。

 両親にとって、期待していた我が子がこんなふうに志半ばで命を落としてしまうというのは、耐えがたいことだろう。

 佐戸さんのご自宅を訪れて未和さんの遺影に手をあわせ、冥福を祈った。一時期、あまりの悲しい出来事に精神的に耐え切れず入院したという母親は、娘を失った悲しみは今も、今から先も癒えることはない、と語る。しかし、昨年来、いろいろな場所で娘について語る機会が増えたことが自分にとっても励みになり、生き甲斐になっているという。

 電通の高橋まつりさんの自殺も大きな社会的波紋を広げた。そしてこのNHKの佐戸未和さんの過労死についても、多くの人が、特にメディア界に籍を置く人が、自分の問題として考えなければいけないと思う。以下、ヤフーニュース雑誌に公開した両親のインタビュー記事全文をぜひ読んでほしい。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180207-00010000-tsukuru-soci 

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篠田博之
月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

NHKの女性記者が過労死

2018年07月10日 17時57分15秒 | 社会・文化・政治・経済
佐戸守さん(67)、恵美子さん(68)夫妻は2017年10月、NHKの記者だった長女未和さんの過労死について記者会見を開いた。
同月NHKが公表した内容に異を唱えてのことだった。
その会見によって若い記者の身に起きた過労死は広く世間に知られることになった。
愛する人を亡くした悲しみ、後悔、自責の念。「
過労死を絶対に出してはいけない」という思いで闘っている遺族の声を聞く。
(フォトジャーナリスト・深田志穂/Yahoo!ニュース 特集編集部)
佐戸守さん、恵美子さん佐戸さん夫妻は、2013年7月24日、長女の未和さん(当時31)をうっ血性心不全で亡くした。
「未和には悪いけど、未和は親孝行な子だったけど、あんたが一番親不孝だったんだよって。私は、ごめん未和、ごめん未和、ごめん、あんたが一番親不孝だったんだよって、つい言ってしまう。悲しいですね……」
恵美子さんは慟哭(どうこく)する。
未和さんは大学を卒業後、2005年NHKに記者職として入局した。
鹿児島放送局を経て、2010年7月から東京の首都圏放送センターに勤務。
2013年は6月に東京都議会議員選挙、7月に参議院議員選挙と選挙が続き、未和さんも取材に駆けずり回った。

未和さんが残した、東京都議会議員選挙の取材ノート(撮影:深田志穂)
守さんと恵美子さんは当時、海外駐在のためブラジル・サンパウロに住んでいた。
サンパウロでもNHKの放送を見られる。
「以上、選挙報道でした」。
隣室のテレビから未和さんの声が聞こえた。元気にやっている。恵美子さんはそう思った。
その1週間後。守さんの携帯に連絡が入った。相手が未和さんの上司だと名乗った瞬間、嫌な予感がした。「未和さんが自宅で亡くなられていることが分かりました」。守さんは最短便を探し、半狂乱になっている妻を引きずるようにして飛行機に乗った。
守さんと恵美子さんが亡くなった未和さんと対面したのは死後4日目だった。守さんは当時を振り返りこう言う。
「心がズタズタでした。錯乱状態で、生きているのがやっと。とにかく葬儀だけはということで済ませましたが、その後のほうが……。毎日毎日、私も生きていくのがつらかったし、家内も絶望感で打ちのめされて……よくあの時死なずに生きていられたと思うぐらいです」
その年の6月、守さんは未和さんの誕生日に「誕生日おめでとう」とメールを送った。返事にはこう綴られていた。
「パパへ。メールありがとう。なかなか悲惨な誕生日だったけど、なんとか体調も戻ってきたよ。都議選は終わったけど、もう1か月もしないうちに参議院選。それが終わったらすぐ異動だよ。忙しいし、ストレスもたまるし、1日に1回は仕事をやめたいと思うけど、ここは踏ん張りどころだね。。。」
これが父への最後のメールになった。

未和さんが使用していた携帯電話(撮影:深田志穂)
未和さんが発見されたのは参院選投開票日の3日後だった。携帯電話を握りしめていたという。
当時、NHKの記者には「事業場外みなし労働時間制」が適用されていた。
この制度は、外回りの営業のように、その人が何時間働いたかを把握しづらい場合に適用される。
厚生労働省が1988年1月に都道府県労働基準局長宛に出した通達によると、事業場外(会社の外)での業務でも、グループの中に労働時間を管理する者がいたり、無線やポケベルなどで指揮監督を受けていたりする場合は適用できないことが定められている。
当時、携帯電話はまだ普及していなかった。
事業場外みなし労働時間制の適用は、会社による労務管理や健康管理の不在を合法化してしまう危険性をはらんでいた。
守さんと恵美子さんは、未和さんが会社に提出していた勤務表の他に、パソコンや携帯の使用履歴を調べ、労働時間を集計した。
決められたみなし労働時間を大きく超えて働いていた。
亡くなる前1カ月で休みは1日だけ、終業が25時、26時になる日も珍しくなかった。
守さんと恵美子さんは2013年10月に労災を申請し、翌年4月に認定された。
労働基準監督署が認定した時間外労働は、亡くなる前1カ月には159時間に達していた。

NHKの有志による追悼集より(撮影:深田志穂)
守さんは言う。
「未和はキャップを含めて5人の都庁クラブのメンバーの中で唯一の女性で、一番若く、しかも独身でした。選挙期間中は通常の業務に加えて短期集中の業務が発生するわけで、相当な負荷がかかることは分かるはずですが、われわれが聞く限りでは増員されたわけでもなく、どこまで事前に適正な人員配置や割り振りが検討されていたのか。そういう中で未和は、とにかく2カ月やれば終わるんだと、しゃにむにやった気がしますね。夜中1時過ぎに退社しその日の朝6時過ぎには出勤しそのまま夜中の1時まで仕事をした日や、扁桃腺で高熱を出しながら点滴で押さえて仕事をした日もあった。そういう状態をなぜ上司がきちんと見ていなかったのか。どうして同じ職場の誰かが未和を気遣ったり、助けようとしたりしなかったのか」
過労死の実態「統計上は分からない」うっ血性心不全で亡くなった未和さんは「脳・心臓疾患の認定基準」に基づいて労災が認定された。
「脳・心臓疾患」の労災補償状況を見ると、死亡事案の労災認定件数は2006〜2015年度の10年間はおよそ年間100件から150件の間で推移している。しかしこれはあくまでも労災が認定された件数だ。
過労死弁護団全国連絡会議幹事長を務める川人博弁護士はこう言う。
「自殺に関しては警察庁の統計があって、1年間に2000人前後が仕事が原因・動機で自殺しています。労災では、業務による精神障害のうち自殺で亡くなっているケースの認定件数は80件前後ですから、比較すれば氷山の一角だと分かるわけです。ところが、脳・心臓疾患の死亡に関してはそういう統計がありません。労災認定されるのは1年間に100件前後ですが、仕事のために脳・心臓疾患で亡くなった人が本当はどれくらいいるのか、統計上は分からない」

未和さんの遺品を抱く恵美子さん(撮影:深田志穂)
未和さんが亡くなった後、恵美子さんは同居していた次女の部屋へ夜中に行き、寝ている次女の口元に手を当てて、息をしているかどうか毎晩確認したという。
「寝れないんですよ。私が寝たら死ぬんじゃないかと思って。ひとつ命を亡くすとね、他の命が簡単にいくんじゃなかろうかと思うんです」
恵美子さんは心身の不調で療養していたが、退院後の2017年の春ごろから過労死家族の会や過労死を考えるシンポジウムなどに少しずつ参加し始めた。そこにはNHKの記者も取材に来ていた。
「自社で起きたことは当然知ってらっしゃると思って話しかけても、ご存じないんです。『佐戸未和って、NHKの記者をしていたんですけど』と話すと、固まってしまわれる。1カ所ではないんです」
守さんと恵美子さんにとって、これは耐えられないことだった。その年の夏。それまでは命日の3〜4週間前にはNHKから事前連絡があったが、4日前になっても何の連絡もなかった。守さんはその時の気持ちをこう語る。
「これは忘れとるな、未和のことを、と。弁護士を通じてNHKに申し入れました。6日後に首都圏放送センターの幹部の方が来訪されました。その時に初めて私どもは思いを全部その人に言ったんです。家内が退院してから(過労死防止関連の会合など)あちこちで未和のことを話したけど、記者の方も解説委員の方もご存じないと。どうしてですかと」

遺影には未和さんのペンダントが添えられている。「未和の涙なんです」と恵美子さんは言う(撮影:深田志穂)
約2カ月後、NHKは未和さんの過労死を公表。「ともに公共放送を支えてきた職員が亡くなり、過労死の労災認定を受けたことを重く受け止めています。このことをきっかけに記者の勤務制度を見直すなど働き方改革に取り組んでおり、職員の健康確保の徹底をさらに進めていきます」というコメントを出した。
NHKは4年間公表しなかった理由を「代理人から遺族が望んでいないと聞いていた」としたが、守さんは否定する。
「私たちは未和の過労死のことを隠す気持ちは初めからないんです。当時の私たちは外部に公表するとかしないとか、そんなことを考えることさえできないひどい状況でした。公表を要求したこともなければ、拒否したこともありません。私たちは多くのNHKの方が参列された一周忌でも、三周忌の場でも、未和の死が労災認定されたことは伝えており、NHKの内部では十分伝わっていると思い込んでいました。ところがまるで伝わっていないどころか、遺族が望んでいないという口実で記者が過労死したことを局員に伏せている。私たちにとって一番大事なことは、NHKの中で周知徹底してほしい、働き方改革の背景に未和の過労死の事実があることを局員のみなさんにきちんと伝えてほしいということだけなんです」
未和さんが亡くなった後の局内の対応についてYahoo!ニュース 特集編集部が取材を申し込んだところ、NHK広報部は「意図的に伏せていたということはないと考えています」とファックスで回答した。
2017年4月、NHKは記者を対象に、事業場外みなし労働時間制を廃し、専門業務型裁量労働制を導入している。同年12月に参院総務委員会で答弁に立ったNHKの上田良一会長は、未和さんの死についての質問に「今年4月に導入いたしました専門業務型裁量労働制は、労働状況を把握して健康確保措置を実施すること等が導入の条件になっております。記者に求められる自律的な働き方を担保しながら、法的裏付けのある措置を実施することにより、記者の健康確保をはかることとしています」と答えた。
「遺族の声」が果たす役割未和さんは学生時代から報道の仕事に関心を持っていた。大学2年の時にはTBSが運営していた「BSアカデミア」という、学生主体で番組を作るラジオ放送に参加した。

NHKの採用試験のために書いたエントリーシート(撮影:深田志穂)
守さんは言う。
「子どもの頃から、人前に出てしゃべったり、何かすることに対してほとんど臆しない子でした。なんでも自分ですすっとやって、しかも器用にできる子だった。文章を書くのも速いし、本を読むのも好き。人当たりはやわらかいし機転もきく子だったので、記者になると聞いた時はいい選択をしたなと思ったんです」
守さんは海外駐在が長かった。遠く離れて暮らす親子の共通の話題はNHKのニュースや大河ドラマだった。未和さんがNHKの採用試験のために書いたエントリーシートには「NHKは正確なニュースを速く伝えるだけでなく、私達家族を結ぶパイプの役割を持っているのだ」と書かれている。
恵美子さんも未和さんが報道の仕事に就くことを喜んだ。
「今考えると責めますね、自分を。未和がNHKに入ってさえいなければ。私がマスコミを勧めたりなどしなければ、未和は死なずに済んだのにと。自分を責める。それが苦しい」
記者としての未和さんの関心は、いじめの被害者やダウン症児とその家族、貧困問題や教育格差など、社会で弱い立場にいる人に向いていた。
「人が大好きだったんですね。世の中の弱い立場にある人の声をすくい上げたいということをよく言っていた。でも結局、自分が一番弱い者になってしまったじゃないの……!」
恵美子さんは声を震わせる。

守さんと恵美子さんは「仕事に誇りと愛着を持ち、職責を全うして亡くなった未和の足跡がNHKに何も残らず、いずれ風化し忘れ去られるのではないか」という危機感があったと言う(撮影:深田志穂)
今国会で成立した「働き方改革関連法」には、当初、裁量労働制の対象拡大が盛り込まれていたが、裏付けとなるデータの不備が明らかとなり、削除された。しかし、一部の労働者を労働時間規制から除外する「高度プロフェッショナル制度」など、労働法制の根幹を成す労働者保護の考え方を大きく変えてしまうことになる問題について、野党や世論の強い反対がありながら、自民党などの賛成多数で法案は成立した。
「過労死」が社会的な問題だと認識されてから30年経つ。前出の川人さんは言う。
「(過労死がなくならない理由には)非常に複雑な、多様な原因が存在していて、30年ぐらいの取り組みでは残念ながら変わっていないということですよね。でも全く何も変わってないかといえばそんなことはなくて、これだけ社会的な関心も高まり、過労死防止法もできて、少なくとも公の場では『過労死はやむを得ない』などという議論は出ないわけです。われわれはそれを少しずつでも前進させていく。その上で、ご遺族の声はとても大切な役割を果たしていると思います」
恵美子さんは娘を亡くした母として、こんなメッセージを伝えたいと思っている。
「若い人の命を仕事で奪うなんて、仕事で使いつぶされるなんて絶対に許せないということを、みなさん、自分自身のことと思って考えていただきたいんですよ。死んでしまったらもう、取り返しがつかないんです」
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連載:「過労死・過労自死」遺族に聞く
「働き方改革」関連法が成立した。残業時間の規制などが盛り込まれているが、高度プロフェッショナル制度の導入などには「過労死を増やしかねない」との懸念の声も多い。「過労死を絶対に出してはいけない」という思いで闘っている遺族の声を聞く。
・「本当のしんどさが分かっていたら」――エンジニアの息子を過労死で失った母(7月9日配信)
・「若い人の命を仕事で奪うなんて絶対に許せない」――記者の娘を過労死で失った両親(7月10日配信)
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深田志穂(ふかだ・しほ)
フォトジャーナリスト。東京都生まれ。上智大学卒業後、渡米。ニューヨークで広告、ファッション業界を経て、フォトジャーナリストとして独立。ニューヨーク、北京を経て、現在は東京とボストンを拠点に取材をする傍ら、ディレクター、プロデューサー、シネマトグラファーとして活動する。
[写真]
撮影:深田志穂
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝
[本文構成]
Yahoo!ニュース 特集編集部

「人生100年時代」を生きるために

2018年07月10日 13時29分46秒 | 社会・文化・政治・経済
先進国の今の子どもの半数は100歳まで生きる。
日本では2007年生れの人の半数は107歳まで生きると推測。

日本でも旋風を巻き起こした『ワーク・シフト』の著者リンダ・グラットンと、経済学の権威
アンドリュー・スコットによる待望の新作が登場した。
『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)――100年時代の人生戦略』
これからを生きる...
100歳まで生きるのが当たり前になる時代に備えて、人生そのものを再設計する必要があると語る。
来るべき「人生100年時代」を生きるために
教育→仕事→引退の順に同世代が一斉行進する「3ステージ」の人生から、複数のキャリアを渡り歩く「マルチステージ」の人生へのシフトを勧めた。



記憶力の減退

2018年07月10日 11時38分47秒 | 日記・断片
散歩をする時間が早くなり、西田さんや鈴木さんたちと合わなくなる。
先日、久しぶりに出会う。
「元気なの。どうしているかと思っていたのだけれど」と鈴木さんが言う。
「まあまあの体調です」
「そうなの」と鈴木さんが微笑む。
なかなか良い笑顔であり、人柄を感じさせる。
「月の俳句を創った」と西田さんが俳句を記した紙片を示す。
「いいね」と鈴木さんがほめる。
「何か落ちていないかと、下ばかりばかり見ているので、月は見ないね」と鈴木さんが冗談を言う。
西田さんの月の俳句であるが、耳にしたものの記憶に残らない。
記憶力の減退である。
人の名前が出てこない。
家人はセパ両リーグの大半の選手名を記憶しており、「この選手の名前くらい覚えたら」と言うが聞いても頭に残らない。
家人は有望な選手たちをドラフトで注目したり、高校野球や大学野球などの活躍で記憶したものである。
また野球名観は2002年から本棚に揃えているので、時々それを見ている。
自然に覚えられるようだ。
野球場へ何度も行っているが、阪神の選手以外興味がなく、対戦チームの選手がどうであったの、記憶に残っていない。
一方、家人は負けた悔しさから、どの投手にやられ、どの打者に打たれたかまでを覚えている。
当方は酒を飲み、野球場のファンたちの様子などを見ていることが多い。









未来の勝利を切り開く

2018年07月10日 11時34分31秒 | 社会・文化・政治・経済
時には挫折があり、苦悩があり、葛藤がある。
その一つ一つを乗り越えた先に喜び、充実がある。
人生の積み重ねのなかに充実の「物語」がある。
「今」を懸命に生き、未来の勝利を切り開く。

人生に平坦な道のりなどない。
しかし、苦しんだ分、人は幸せになれるはずだ。
人は人間の関わりのなかで成長する。
人の関わりが、生命の錬磨ともなる。

相手ではない。
自分である。