公的年金運用益、2.3兆円

2019年07月06日 19時31分59秒 | 社会・文化・政治・経済

黒字3年連続、海外株価が回復-18年度

7/5(金) 時事通信

公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は5日、2018年度の運用益が2兆3795億円だったと発表した。

黒字は3年連続。収益率は1.52%のプラス。昨年12月末時点では赤字だったが、年度末にかけ米国を中心に海外の株価が持ち直し、黒字を確保した。
運用益は17年度が10兆810億円だったが、18年度は大幅に縮小した。
保有資産別の運用損益を見ると、外国株が3兆1411億円、外国債が6975億円、国内債が5959億円の黒字。外国株と外国債は運用資産に占める割合が過去最高となった。一方、国内株は回復が鈍く、2兆732億円の赤字だった。国内株の赤字は3年ぶり。 

 


未婚10代母、遠い自立 娘残し無念

2019年07月06日 15時33分29秒 | 投稿欄
キャバクラ暴行死

毎日新聞2017年9月2日 

 
2017年7月に東京都港区新橋のキャバクラで起きた傷害致死事件で亡くなった与島稜菜(りょうな)さん(家族提供)

 東京都港区新橋のキャバクラ店で7月、勤務中だった与島稜菜(りょうな)さん(当時19歳)が、店の経営に関与していたとされる伊藤英治郎被告(31)=傷害致死罪で起訴=に顔を踏みつけられるなどの暴行を受け、亡くなった。与島さんは2歳の長女を育てるシングルマザー。自立を模索するさなかだった。

 「ママに会いたい」。骨つぼの前で、まだ死の意味も分からない長女が訴える。両親によると、与島さんは高校1年の時、同級生の子を妊娠して中退。出産後、「自立のために勉強したい」と高卒認定を取り、がんで闘病中の父親(53)と、働く母親(52)に支えられ、長女を保育所に預けて弁当店のパートをしていた。早朝勤務だったため「昼間は子供をみられるのでは」と区役所から指摘された。

無資格でできる産婦人科の看護助手になったが、「できた命を大切にしたい」と出産を選んだ与島さんには人…

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閑に任せて、ネットを検索するような日々。
こんな人生でいいのか?
と振り返るが、無視できない情報に・・・
だがら、ネット検索は止められない。沼田利根



「1票の格差」最多埼玉と最少福井で3倍超に

2019年07月06日 15時15分10秒 | 社会・文化・政治・経済

違憲とし、選挙無効求める動きも

 
 

抜本的な選挙制度の見直しを求める声

今回の参院選で、福井選挙区は議員1人当たりの有権者数が全国で最も少なく、最多の埼玉選挙区との「1票の格差」は3倍超と最大格差になっている。人口の少ない隣接選挙区を統合する「合区」など選挙区定数の「10増10減」により、前回選挙に比べて格差は縮小したが、東京の弁護士グループは違憲だとして選挙無効を求めて11日に提訴した。福井県関係者からは「3年後は福井が合区対象になる」との懸念や反対論が出ており、抜本的な選挙制度の見直しを求める声が強まっている。

総務省が公示に合わせて公表した6月21日時点の選挙人名簿登録者数に基づく試算で、議員1人当たりの有権者数が最も少ないのは福井選挙区の32万9506人。最多は埼玉選挙区の101万4713人で、福井との格差は3・08倍だった。投票当日の有権者数を基にした1票の格差も3倍を超えるとみられ、選挙無効訴訟が提訴されれば、この最大格差が違憲かどうかを司法で判断する。

2013年参院選の最大格差は4・77倍。最高裁が違憲状態と判断し、参院は昨年の選挙制度改革で「鳥取・島根」「徳島・高知」の2合区を含む選挙区定数「10増10減」を実施した。10年の国勢調査を基にした試算で2・97倍に抑えられるとしていたが結局、自民党などが「憲法の許容範囲」とした格差3倍未満は超える形になった。

昨年7月に成立した改正公選法の付則で、19年参院選に向けた抜本改革に関し「必ず結論を得る」と明記した。自民は今回の参院選公約で「都道府県から少なくとも1人が選出されることを前提として、憲法改正を含め在り方を検討する」と掲げている。

福井選挙区の自民現職、山崎正昭候補は参院議長として選挙制度改革に当たってきた。「大変苦労した」と振り返りつつ「合区は心から賛成できず、鳥取・島根などの有権者に申し訳ないと思っている。合区に終止符を打ち、都道府県単位で議員1人は出すべきだ」と主張している。

民進党は本部が合区に賛成しているが、福井県連の山本正雄代表は反対の立場を取る。「大都市だけ議員が増え、地方の声が届かなくなる」とし、米国の上院は各州定数2人と憲法で明記されていることを挙げ「参院も同様のシステムにするべきだ」と訴える。

共産党県委員会の南秀一委員長は「1票が平等に議席につながる比例代表制中心の選挙制度にすべきだ」と強調。自民の憲法改正を含めた検討については「前提としている選挙区制そのものが1票の格差を広げる」と批判する。

「1人1票裁判」に取り組む升永英俊弁護士(東京)は「主権者の国民の多数意見で国会議員を選び、国会の議事を多数決で決めるため、国民の投票価値は平等であることが憲法で定められている。格差が2倍だろうが3倍だろうが憲法違反であり、『1票の住所差別』だ」と指摘。今回の参院選の選挙無効を求め提訴する考えだ。

 


公示 1票の格差3倍下回る

2019年07月06日 14時57分50秒 | 社会・文化・政治・経済
2019参院選

 法改正で縮小 根強い「違憲」批判も

 
衆院選・参院選の1票の格差の推移

 総務省は4日、参院選公示前日の3日現在の選挙人名簿登録者(有権者)数を発表した。選挙区の議員1人当たりの有権者数を計算すると、最多は宮城県(定数2、改選数1)の97万5949人で、最少の福井県(同)の32万5526人と比べた「1票の格差」は2・998倍となった。2016年参院選で最大の格差があった埼玉県(3・08倍)は18年の公職選挙法改正で定数が増えて格差が縮小し、3倍は下回った。

1宮城県2.998
2新潟県2.956
3神奈川県2.949
4東京都2.935
5大阪府2.822
6千葉県2.702
7長野県2.701
8岐阜県2.588
9栃木県2.529
10群馬県2.518
最少福井県1(基準)



イランは最高指導者が絶対権力 大統領は行政の長

2019年07月06日 14時32分12秒 | 社会・文化・政治・経済

2019.6.12 産経新聞 国際中東・アフリカ

日本の首相41年ぶりイラン訪問

イランの権力構造 ハメネイ師に権限集中

【テヘラン=佐藤貴生】イランは1979年にパーレビ王政を打倒した革命が起きて以来、イスラム教シーア派の法学者による統治が続く。最高指導者は国政全般に最終決定権を持ち、絶大な権力を握る。大統領は国会や司法と並ぶ行政の長に過ぎず、軍に対する権限などはない。

 現最高指導者のハメネイ師は初代のホメイニ師に次ぐ2代目。若くしてシーア派聖地コムの神学校でホメイニ師に学び、革命運動を指導した「革命第1世代」だ。革命防衛隊の司令官や大統領を歴任し、ホメイニ師死後の89年に最高指導者となった。
 イスラムの価値観を重視する反米保守として国を率い、預言者ムハンマドの末裔(まつえい)であることを示す黒いターバンで頭部を覆う。

 一方、現大統領ロウハニ師もコムで学んだ法学者だが、革命成立後に海外から帰国し、イラン・イラク戦争(80~88年)に参加。穏健派の故ラフサンジャニ元大統領の側近で、改革派のハタミ元大統領時代の2003~05年に核問題の交渉責任者となり、13年から大統領を務める。
ロウハニ師は白いターバンで頭部を覆っており、イスラム法学者としての位階では、最高位「大アヤトラ」のハメネイ師より低い。

 ハメネイ師の権力の源泉の一つとされるのが、反米で保守強硬派の牙城とされる革命防衛隊だ。イラン・イラク戦争で勢力を拡大し、ハメネイ師の最高指導者就任後は経済活動も顕著になった。テヘランの政治評論家によると、傘下企業は国内の通信や石油化学、金融などの分野に幅広く進出。ハメネイ師の“蓄財”の基盤とみる海外メディアもある。

 最高指導者の選出、罷免の権限は法学者で組織する専門家会議(定数88)が持つ。ただし、実際に罷免したことはない。

 大統領は国民の直接選挙で選ばれる。今年に入り、政府の要職に保守強硬派が就く事例がみられ、80歳と高齢となったハメネイ師の後任を見据えた人事との指摘もある。

 

 


米イラン 確執の歴史 戦争は望まぬ両者 

2019年07月06日 11時16分05秒 | 投稿欄

高橋和夫・放送大学名誉教授に聞く

毎日新聞2019年7月5日

米国とイランの関係に詳しい高橋和夫・放送大学名誉教授に両国の確執や対立の今後について聞いた。

 イランで反米感情が強いのは「期待していたのに裏切られた」との思いがあるためだ。19世紀にロシアと英国に虐げられ、ドイツに接近したが第二次大戦でひどい目にあった。そこで米国に頼ったが、米中央情報局(CIA)などの工作で民族主義派のモサデク政権を倒されてしまった。この出来事は今でも尾を引いている。ただザリフ外相らエリート層に米国留学経験者は多く、米国への親近感もあり愛憎相半ばする。

一方の米国は1979年の米大使館占拠事件で被害者意識を持った。

冷戦中はイランの東側陣営への接近を恐れ、嫌いでも付き合う必要があったが、ソ連崩壊後は容赦しなくなった。


イラン反米の原因

2019年07月06日 11時07分48秒 | 社会・文化・政治・経済

実は、アメリカは第二次世界大戦後、イランの民主化を何度も邪魔してきた。

イランの第二次世界大戦;イギリスとソ連のイラン進駐
イランは、ソビエト連邦と、英国領インドに挟まれていたが、石油利権を英国にとられた状態にあった。

そのため、ソ連側でも英国側でもない勢力を取り込もうとしていた。米国との交渉を試みたが失敗したため、ナチスドイツともコンタクトするなど外交を展開した。
イラン進駐
第二次大戦中、イランは中立の立場をとり、イラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否するなど、連合国側から見れば協力的でない態度をとった。

連合国のイギリスとソビエト連邦は、1941年8月25日に鉄道を含む補給路と、石油などの豊富な資源の確保のためにイランへ侵攻した。

この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の一国でイランとの関係も深かったアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求めたものの拒否され、やがて、イラン軍は制圧されることになる。
その後イランは両国による共同進駐を受け、両国の圧力を受けて退位した父(親ナチスとみなされていた)に代わり、息子のモハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝に即位した。

それまで軍を利用した独裁制を敷いていた父レザーシャーが倒れたことにより、民主主義が復活、禁止されていた政党活動や労働組合結成などが認められるようになり,抑圧されていたイスラム教も自由となった。
第二次世界大戦後、アングロ・イラニアン石油会社(現在のBPの一部)が、イランの石油利権を事実上独占していた。

同社は20世紀初に英国によって設立され、英国85%・イラン15%の割合で利権を分割する協定を結んでいた。

それ自体不公平な契約でしたが、さらに同社がイラン政府に財務報告を提出していなかったことが明かになると、イラン国民の財産の不適切な独占とみなされるようになってくる。
アングロ・イラニアン石油国有化
そのような背景のもと、選挙で選ばれたのが石油生産の国有化案を訴えていたモハンマド・モサッデグだった。

すでにイランは議会制民主主義の国だった。度重なる要請にもかかわらず、財務報告をしないアングロイラニアン石油に対し、イラン議会は満場一致で、アングロイラニアン石油を国有化すると決定した。

石油権益を失った西側諸国は、イラン政府をこぞって批判した。
西側諸国による政権転覆工作

アメリカ政府、イギリス政府が画策したCIAによる皇帝派クーデター「アジャックス作戦」を展開。これはテヘランの合衆国大使館の指揮によるもので、反政府勢力を支援し、民主化革命の前の独裁者であったシャーを帰国させてしまうというものだった。

これによりモサッデグ首相をはじめとする反植民地主義の政権のメンバーは逮捕されてしまう。

そして、モサッデグ元首相はその後、軟禁中に死亡した。
1953年イランクーデターが成功。政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を撤廃。

シャーはアメリカの支援下で専制君主として復帰することになった。米国は、民主主義を破壊し、王政を復活させることに成功したのだ。
傀儡政権の樹立

米国傀儡政権による独裁時代、イランではミニスカートを履く女性の姿もあった。

後に、モサッデグ政権を崩壊させた軍事クーデターは、CIAにより、アメリカの外交政策として実行されたことがアメリカの公文書から明らかになった。

アメリカは、民主的なイランを破壊し、王国に戻したのです。それが石油利権をイラン国民から米国と英国に取り戻すための手段でした
モハンマド・レザー・シャーはその支配において、合衆国から多大な支援を受け、アメリカから大量の兵器を購入した。シャー自身もしばしばホワイトハウスを公式訪問し、歴代大統領と謁見した。

シャーとワシントンの緊密な関係、大胆かつ急速な西洋化政策は、イラン人の一部、特に強硬なイスラーム保守層の慷慨を招くこととなる。イランの石油権益のほとんどを流出させ、しかもイスラム文化とは相容れないアメリカ文化をイランに持ち込んだためだ。

結果的に急速に貧富の差が拡大し、国家への不満が高まっていきます。この経験から、中東におけるイスラム文化の破壊に対する敵対心が芽生えたのです。
再び民衆が立ち上がった
パフラヴィー皇帝は自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除していた。やがて、民衆の怒りは蓄積し、米国が作った傀儡政権は再び民衆の手に戻されることになる。これが現在まで続くイラン・イスラム革命であり、現在まで続くイランのスタート地点だ。
結局、国民の中から湧き上がったデモにはじまる革命により、再びシャーが国外逃亡、「休暇のためにイランを一時的に去る」と称してシャーが政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近とともにエジプトに亡命。イランは民主化のプロセスを始めることになった。
新政権は米国傀儡時代の不公平条約の撤廃や、シャーのイランへの送還を米国に求めた。

不平等条約の撤廃を求めたイランに対し、在米資産の差し押さえ
しかし、米国はこれを拒否し、さらにイランの在米資産を差し押さえる行動にでる。このため、現在でもイランと米国は非常に険悪なのです。しかし、そもそもイランを一方的に奪おうとしたのは米国だったのです。米国はシャーを利用してイラン国民の財産を米国に持ち出し、その返却を拒み続けた。
国民の支持を集めたホメイニ
イラクを支援したアメリカ
ラムズフェルドと握手するフセイン
イラン・イスラム革命によりイランの支配を失った米国は、イラクへの武器供与を開始します。これがその後のイラン・イラク戦争へと繋がっていきました。

 


安達峰一郎記念財団

2019年07月06日 10時12分28秒 | 社会・文化・政治・経済
この記念財団は、かつて外交官として、また常設国際司法裁判所長として、世界平和のために貢献した安達峰一郎の遺業を後世に伝えるとともに、有為の国際的人材を養成することを目的としている。
 安達峰一郎は、1869(明治2)年6月、山形県山辺町に生まれ、1934(昭和9)年12月にオランダ国アムステルダム市において永眠したが、オランダ国家は国葬の礼をもって、世界の良心の府の常設国際司法裁判所は、同所葬をもって、その功績を讃えた。
 この財団は、かね夫人の意図によって、1960(昭和35)年に創立された。山形県の安達の生家も、郷里師弟のため公共施設として寄付された。同所には、安達と学友の元首相、若槻禮次郎の筆になる記念碑が建立されている。安達夫妻の墓は鶴見、總持寺にある。
安達峰一郎記念財団
創立1960年6月

お知らせ

  • 2019/07/04
    安達峰一郎150周年記念シンポジウム関連記事が掲載されました。
    2019年 6月16日 山形新聞
    2019年 6月20日 毎日新聞 朝刊
    2019年 6月26日 毎日新聞 夕刊
    2019年 7月 3日 朝日新聞 夕刊
    2019年 7月 4日 毎日新聞 朝刊
  • 2019/06/18
    2019年6月15日(土)開催の安達峰一郎生誕150年記念シンポジウム「よみがえる安達峰一郎ー世界が賞賛した国際人に学ぶー」は、お足元の悪い中大勢のご参加を頂き、成功裏に幕を下ろしました。
  • 2019/05/31
    「安達峰一郎生誕150年記念シンポジウム」の参加申込受付を本日を以って終了させていただきます。
    沢山のお申し込みをいただき、誠に有難うございました。
  • 2019/05/10
    安達峰一郎生誕150年記念シンポジウム記事(毎日新聞 2019年5月9日 夕刊)  ⇒ こちら
  • 2019/03/01
    安達峰一郎生誕150年記念シンポジウム開催のご案内  ⇒ 詳細及び申込みはこちら
  • 2019/03/01

  • 安達峰一郎生誕150年記念出版物のご案内  ⇒ 詳細はこちら
  • 2018/11/02
    本年度「安達峰一郎記念賞」を石井由梨佳氏に贈る
    安達峰一郎生誕150年記念シンポジウム開催決定!  ⇒ 詳細はこちら
  • 2018/07/30
    安達峰一郎生誕150年記念事業のお知らせ ⇒ 詳細はこちら
  • 2017/12/05
    第50回安達峰一郎記念賞贈賞式を開催
        受賞者:中島 啓 氏(国際司法裁判所法務官補)
        受賞研究業績: 「国際裁判の証拠法論」 ⇒ 詳細はこちら
  • 2016/12/15
    安達峰一郎記念賞贈賞式 (2016/10/31 開催)
    第49回安達峰一郎記念賞は早稲田大学法学学術院教授 萬歳寛之氏
    『国際違法行為責任の研究-国家責任論の基本問題-』に贈られた。 ⇒ 詳細はこちら
  • 2016/07/26
    「動きだす! 絵画」展の開催 当法人所蔵ロダン作品2点展示公開!! ⇒ 詳細はこちら
  • 2016/07/26
    「山形大学安達峰一郎研究プロジェクト」成果報告シンポジウム開催 ⇒ 詳細はこちら
公益財団法人 安達峰一郎記念財団
160-0004 東京都新宿区四谷1-13 オパス・ロイヤル307
TEL:03-3341-5036 FAX:03-3341-5063

安達 峰一郎の足跡

2019年07月06日 09時45分56秒 | 投稿欄

世界が称賛した国際人

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山形大学 安達峰一郎研究資料室について

 安達峰一郎(1869年〜1934年)は、山形県山辺町に生まれ、明治・大正・昭和期にかけて外交官として活躍し、アジア人初の常設国際司法裁判所長を務めました。国際平和と正義を追求した、第二次世界大戦前の日本を代表する第一級の国際人でした。

 安達峰一郎については、これまで伝記的研究や国際法分野を中心にした個別的研究が行なわれてきましたが、青少年期の精神形成時代、外交官としての活動、国際連盟における活動、常設国際司法裁判所裁判官としての活動等を総合的にかつ学術的に研究する点では不十分さが残っていました。

そこで、山形大学では、安達峰一郎研究プロジェクトを企画し、総勢10名の国際法・外交史研究者による共同研究の成果として、『安達峰一郎―日本の外交官から世界の裁判官へ―』(柳原正治・篠原初枝編著、東京大学出版会、2017年)を刊行しました。

「安達峰一郎研究資料室」は、この成果を継承し、山形大学人文社会科学部が安達峰一郎研究のさらなる発展のために設置するものです。

 安達峰一郎の外交官としての活動、常設国際司法裁判所裁判官としての活動は長期にわたり、これらに関連する資料は国内外に膨大にあります。「安達峰一郎研究資料室」では、在東京安達峰一郎記念財団、在山辺町安達峰一郎顕彰会、先の安達峰一郎研究プロジェクト参加メンバーの協力を得て、安達峰一郎研究をさらに進めるための情報交流拠点づくりを行います。

また、安達峰一郎の様々な業績を、高校生・大学生を始め、一般の方にもわかりやすく伝える事業も行います。これらを通じて、安達峰一郎が求めた法による平和と正義の精神を発展させる一助となることを目指しています。

安達峰一郎について

山辺町教育委員会(安達峰一郎博士顕彰会)提供

 安達峰一郎は、1869年(明治二年)に現在の山形県山辺町に生まれました。祖父や父の影響で幼少のころから勉学に励む一方で、腕白ぶりを示すエピソードも残されているようです。その後、1881年に設立された山形法律学社に入塾し、山形県中学師範学予備科を経て、法学をさらに学ぶために1884年に上京しました。司法省法学校では、特にフランス語の習得に努め、1889年に帝国大学法科大学法律学科に入学し、法律のなかでも国際法を中心に勉強しました。この間、ボアソナードに民法を学び、また司法省法律顧問であったパテルノストロが明治法律学校で行う国際法の講義の通訳・翻訳を行うなど、当時のお雇い外国人による大きな影響をうかがうことができます。

 1892年には外務省に入省し、1930年に大使を免ぜられるまで、38年間の外交官人生が始まります。38年間のうち、3回の本省勤務(1892年~1893年、1903年~1908年、1915年~1917年)を除いて、30年弱をイタリア、フランス、メキシコ、そしてベルギーの在外公館勤務で過ごしています。外交官としての業績は多数ありますが、まずは、日露戦争後のポーツマス講和会議に全権委員随員として条約案起草の難しい交渉をまとめたこと、ベルギー公使(後に大使)として、またフランス大使として二国間関係の構築に力を尽くしたことを指摘しなければなりません。これらの公使・大使時代に、日本外交における国際協調派外交官としての立ち位置を形成していったということができるでしょう。

 他方で、ベルギー・フランス大使時代には、多国間的な場においても目覚ましい業績を上げています。第1次大戦後のパリ講和会議では全権委員随員(代表代理)として活躍し、1920年に国際連盟が発足してからは、連盟総会(1921年~1929年)や連盟理事会(1927年~1929年)の日本代表として、様々な会議の議長・委員長などの要職を務めています。ある国際関係史研究者によれば、「安達は、常に礼儀正しく、端正に身なりを整えた当時の日本のエリートの一員であった。数々の問題に機敏に対応し、安達は1920年代の連盟を軌道に載せた一人であったのである。」と評価されています。現在の国際連合につながる、人類初の一般的平和維持機構である国際連盟の発展に彼が様々に貢献したことは確かです。

 そして、1930年には国際連盟における選挙で常設国際司法裁判所の判事に選出され(トップ当選)、就任当初から3年の任期で所長も務めました。アジア人初の所長であることはもちろん、判事就任一年目から所長を務めたことも注目されます。ちなみに、1920年に同裁判所を設立する条約の起草が法律家諮問委員会によって行われましたが、安達はその委員でもありました。これらに象徴されるように、確かに彼による学術的な論文・著作の数は多くありませんが、国際法学者としても卓越した能力を評価されていたと考えられます。

 国際紛争を裁判によって解決するという画期的な試みが本当にうまくいくのかどうか、誰も確信を持てなかった時期に所長を務めるというのは大変な激務であったかと思われます。まして、1931年9月に満州事変が勃発し、日中間の紛争がハーグやジュネーヴでも関心を集めるなかで、安達が頭を悩ませていたことは確かです。満州事変に対して、そしてより広い意味では国際紛争を裁判によって解決するということに対して、彼がどのような考えをもっていたかはまだまだ謎として残されています。

 日本は満州事変後、国際連盟からの脱退を通告しますが、そうしたことからくる重圧もあって1934年に病に倒れ、オランダのアムステルダムで65歳の生涯を閉じました。そして、オランダと常設国際司法裁判所による合同葬が行われました。安達の妻鏡子は、その後第2次大戦の混乱もあってベルギーのブリュッセルに留まり、帰国したのは1958年でした。安達の書簡・史料が現在でも膨大に残されているのは、鏡子夫人がしっかりと保存し、帰国時に持ち帰ってきたことによるところが大きいと言えます。

2018年11月2日 - 安達峰一郎,顕彰会,公式HP,世界の良心,ポーツマス講和会議,日露戦争,パリ講和会議, 小村寿太郎,若槻礼次郎,宮城浩蔵,国際司法裁判所,オランダ,ハーグ,徳富蘇峰.

安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日(明治2年6月19日) - 1934年(昭和9年)12月28日)は、日本の外交官、国際法学者。
アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。

所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。

この時、オランダは国葬の礼をもって、国際平和に尽力した多大の功績と栄誉を称えた。
1968年(昭和43年)より優れた国際法の研究業績をあげた研究者に対し安達の名前を冠した「安達峰一郎記念賞」が授賞されている[1]。
曾孫に詩人の河津聖恵。

略歴[編集]

安達 峰一郎 (1931年)
1869年 - 羽前国村山郡高楯村(のち山形県東村山郡山辺町)に生まれる。
1884年 - 上京し、司法省法学校に入学。卒業後、東京帝国大学法科大学仏法科に入学し、英語、フランス語、イタリア語を習得。恩師・宮城浩蔵(明治大学創設者の一人)の紹介で、お雇い外国人で法理学のボアソナードや国際法学者のアレッサンドロ・パテルノストロ(イタリア語版)の通訳を担当する。
1892年 - 東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、外務省に入省。
1893年 - 条約改正取調委員。
1905年 - 日本全権小村寿太郎の随員として、日露戦争講和のポーツマス条約草案作成にあたる。
1907年 - 法学博士の学位を授与される。
1913年 - メキシコ公使。
1917年 - ベルギー公使。
1919年 - 第一次世界大戦のパリ講和会議日本代表代理。
1920年 - 国際連盟第1回総会 日本代表代理として活躍。
1921年 - ベルギー大使(公使館が大使館に格上げの為)。
1921年 - 国際連盟第2回総会日本代表(以後、第10回総会まで連続して日本代表)。
1927年 - フランス大使。
1928年 - パリ不戦条約締結に参与。
1929年 - ハーグ対独賠償会議日本代表。この会議でフランスとイギリスが激しく対立した時、調停の依頼を受けた安達は、日本流の茶会を開いて両国代表を招いて和解させ、会議を成功に導いた。
1930年 - 常設国際司法裁判所2期目の判事選挙で最高得票で当選。(判事の任期は9年)。
1931年 - 常設国際司法裁判所の第4代所長(裁判長)となる。(所長の任期は3年)。
1934年 - 逝去。オランダ国葬、常設国際司法裁判所葬。
学者としての顕彰[編集]
ファイル:Funeral of Adachi Mineichirō on January 3, 1935, in The Hague, Netherlands.ogv
オランダ、ハーグにおける安達峰一郎の埋葬(1935年)
ハーグ国際法アカデミー教授(1924年)
万国国際法学会(定員60名)の日本人初の正会員(1924年)
日本学士院 帝国学士院会員(定員100名)(1925年)
ルーベン大学法学部名誉教授(1927年)
アメリカ国際法協会名誉会員(1931年)
アメリカ学術科学アカデミー名誉会員(1932年)
オランダ科学協会会員(1933年)

 

 


世界万国の平和を期して

2019年07月06日 09時35分33秒 | 社会・文化・政治・経済

『世界万国の平和を期して 安達峰一郎著作選』が6/20「毎日新聞」で紹介されました。編者の柳原正治先生による論考です。
「国際平和の道と安達博士――安達が目ざした国際平和は残念ながら、今なお実現されているとはとてもいえない。
むしろ、この数年国際社会において注目されるのは、既存の国際法そのものに対する「挑戦」とでも呼ぶべき動きである。とりわけ、ロシア、中国、米国といった、世界の主要国の中にそうした動きがみられるという点が、深刻である」

世界万国の平和を期して

安達峰一郎著作選

ISBN978-4-13-036270-2発売日:2019年05月27日判型:A5ページ数:524頁
 

内容紹介

世界を舞台に華々しく活躍した国際人・安達峰一郎(1869-1934)の著作集。
日本の国益を代弁する外交官として、のちには世界の平和に尽力する裁判官として、安達は20世紀前半に活躍した日本人の代表的存在であるものの、その著書が刊行されたことはなかった。
学術論文や随筆のほか、外交官時代の調書や報告書、捕獲審検所評定官としての調査書や判決、国際連盟総会・理事会参加時の報告書、常設国際司法裁判所裁判官・所長としての報告書や個別意見、さらには重要な書簡なども併せて、一冊に纏め初の著作集として刊行する。加えて個々の資料を的確に位置づけるふたつの解題(柳原正治/三牧聖子著)を付すことにより、“国宝”(新渡戸稲造)とまで称されたその真の姿が明らかになろう。

主要目次

第一章 法学・国際法学の研究

第二章 外務官僚・外交官
 一 駐伊臨時代理公使
 二 アジアの諸地域を含む植民地をめぐる状況
 三 ポーツマス講和会議
 四 横須賀捕獲審検所評定官
 五 ロシア接伴報告書
 六 メキシコ革命
 七 ベルギー国の状況
 八 フランス国の状況

第三章 国際連盟と世界情勢
 一 パリ講和会議
 二 国際連盟での報告
 三 戦争損害賠償
 四 ジュネーヴ議定書
 五 万国国際法学会 
 六 戦争違法化への流れ
 七 大戦後の外交と国際連盟の役割――1930年帰国時の講演 

第四章 常設国際司法裁判所
 一 常設国際司法裁判所の創設
 二 常設国際司法裁判所への期待
 三 常設国際司法裁判所裁判官選挙
 四 常設国際司法裁判所所長として
 五 常設国際司法裁判所命令・勧告的意見に対する反対意見
 六 満州事変
 七 日本の連盟脱退と常設国際司法裁判所
 八 常設国際司法裁判所改革

第五章 随筆・小論など

[解題]
萬邦の平和と安達峰一郎(柳原正治)
安達峰一郎の国際協調外交――新時代の「国益」の模索(三牧聖子)


Peace Among All Nations:
A Collection of Mineitciro Adatci's Writings
Mineitciro ADATCI, Author
Masaharu YANAGIHARA, Editor

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