浅川澄一:福祉ジャーナリスト(元・日本経済新聞社編集委員)
2019.4.24
福生病院の人工透析中止問題は、マスコミの報道と病院側の主張の間に、いくつもの矛盾がありました(写真はイメージです) Photo:PIXTA
東京都福生市の公立福生病院での人工透析治療をめぐり、様々な疑問が浮上している。透析患者の死亡までの経過にとどまらず、延命治療や終末期医療、腎臓移植、尊厳死、QOL(生活の質)、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)など多くの検討課題が俎上に載ってきた。
「治療の中止」を許さない
マスコミの報道姿勢への疑問
まず第1の問題といえるのが、報道姿勢が問われているメディアについて、だ。
3月7日の毎日新聞朝刊の「スクープ」が始まりだった。「医師、『死』の選択肢提示」「透析中止 患者死亡」「指針逸脱 都、立ち入り」という見出しを掲げる。前日に東京都が福生病院に立ち入り検査していた。
その日の夕刊で、読売新聞が「透析中止提示 患者が死亡」、日本経済新聞が「透析中止提案」とする見出しで追いかけた。翌日の朝刊では、朝日新聞が「人工透析を中止 女性死亡」「医師が選択肢提示」、産経新聞が「透析中止を提示 患者死亡」、東京新聞は「医師が『選択肢』提示」「医師の提案『倫理上問題』」とする見出しで掲載し、全国紙が一斉に取り上げることになった。
注目は、各新聞の見出しがほとんど同じこと。患者が死亡した原因は、医師が患者に透析の中止を提示したことで、問題だ、と訴えている。東京新聞の「倫理上問題」はその趣旨が最も分かりやすい見出しだ。
果たして、医師は透析の中止、その結果としての死について患者に説明してはいけないのだろうか、という疑問が真っ先に浮かんだ。医師は診察後に、あらゆる治療法を患者に説明すべきだろう。手術や服薬の種類など想定できる可能性は複数ある。そのうちのどれを選択するかは、患者の判断であろう。
提案できる選択肢の中に、「とことん治療する」「延命処置を望む」の一方、「治療をしない」あるいは「治療を中止、中断」して自然に任せる、という道が含まれてはいけないのだろうか。
この時の各紙は、医師から透析中止の提示を受けた患者は、医師に「誘導」されて死に追い込まれた、と読者に受け取らせるような論調であった。
終末期のがん患者に病名を告知しなかった時代に戻れ、と言わんばかりの論調には違和感がある。治療の拒絶から始まる緩和ケアなどはもってのほかになってしまう。死に方のひとつ、尊厳死を望む国民が少なからずいる時代に、なんと時代錯誤な見出しだろうか。
3月8日の毎日新聞は「本人に判断迫るのは酷」「透析中止問題で患者団体」と、東京腎臓病協議会の事務局長の談話を写真付きで載せ、中止の提示を問題視する。本文では「医師のさじ加減で意思決定を迫るのは、道徳的にも問題ではないか」という声を伝えた。
同日の東京新聞も同じ事務局長の話を掲載。「医師が患者に生きるか死ぬかを選ばせること自体が明らかに間違っている」「医師は患者を治すのが仕事。最後まで助けてあげようとは思わなかったのか」という内容である。
当事者の患者の言葉で、紙面造りの根拠を提示しているかのようだ。
だが、患者に対して医師が話すべきことの中に、治療の限界を含めてはならないのだろうか、と疑問が湧く。毎日新聞は7日の紙面の解説記事で「医療の枠組みの中で『死の選択』が行われていたことは驚きだ。医療機関は治療する場所なのだ」と記す。
果たして、一方的な治療だけが医療の役割だろうか。これまでの医療は「死」に向かい合わず、「敗北」としかとらえてこなかった。だが今や本人のQOLを尊重し、本人の意思決定が最優先される時代になりつつある。
人生の幕引きを本人と周りで考える
「人生会議」の重要性
高齢社会の到来で、死や終末期をめぐる議論がこの10年ほどで大きく進展している。2007年に厚労省が打ち出した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」は昨年3月、大幅に書き換えられて、そのタイトルも「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」となった。
医療だけでなく、ケアの現場スタッフも含めて、本人などとよく話し合うべきだとされ、ケアが加わった。このガイドラインには、海外で「普及しつつあるACPの概念を盛り込み」(ガイドラインの解説編)とある。ACPとは「これからの治療・ケアに関する話し合い(アドバンス・ケア・プランニング)」のことだ。11月30日にACPの愛称として「人生会議」が命名される。
誰もが迎える人生の幕引きに際して、医療だけに委ねるのではなく、本人を中心に生活を共にする人たちと一緒に考えましょう、というものだ。昨年の診療報酬改定で、終末期の態勢を取ることが要件として組み込まれたこともあり、今や各地で開かれる医療職の研修会などでは、テーマがほぼACP一色になるほど関心を呼んでいる。
そこで重要なのは、医療やケアの専門職から提案される様々な対応を本人がじっくり考えて、本人が選択すべきだが、本人の心は揺れ動くことを十分斟酌すべきとうたわれていること。本人の意思を尊重するためには、話し合いは早くから繰り返し行うことだという。その通りだろう。
今回の福生病院問題でも、このACPの在り方こそが問われるべきことだろう。医師が提示した透析中止は、透析の継続、あるいは継続方法と並ぶ「人生会議」の際の1つの選択肢である。それは当然の提案だ。むしろ、その選択肢を提示しないのであれば、それは専門職としての責任問題だろう。根幹は、患者本人の思いがどのように人生会議の場で伝わっていたのか、だ。
話し合いの中で、家族との意識の共有を目指す努力も欠かせない。だが今回、毎日新聞は患者の夫に取材し、3月7日の紙面で「治療を再開しなかった外科医に対する不信感は消えない」と本文で夫の心情を記す。夫の言葉では「医者は人の命を救う存在だ。『治療が嫌だ』と本人が言っても、本当にそうなのか何回も確認すべきだと思う」とある。家族と病院との意思疎通が十分ではなかったようだ。
今回の患者を含め同病院でこれまで死亡した24人の透析患者について、説明がきちんと記録されていなかったとして、立ち入り検査後の東京都は4月9日に同病院に改善指導した。
「患者が透析拒否」と病院が会見
メディアの報道内容に矛盾
第2の問題は3月28日に起きた。病院の担当医と院長が初めて共同記者会見に臨み「透析中止は患者の意思です。病院から透析中止の選択肢を示していない」と話し、それまでのメディアの報道を否定してしまったのである。
その深夜に時事通信と日本テレビが報じ、翌29日の朝刊で朝日新聞、東京新聞、産経新聞が伝えた。
では、なぜ患者は透析をやめることにしたのか。29日の朝日新聞によると、「外科医は首周辺に管を通す透析治療を提案したが、女性は『シャントがだめだったら透析をやめようと思っていた』と話し拒否した」という。あくまで患者本人から拒否の言葉が出たというのだ。続けて「外科医は透析をやめると2週間ぐらいで死に至ると説明、女性は『よくわかっている』と答えたという」とある。
さらに、患者とその夫を交えての話し合いの後、「透析からの離脱証明書に女性に署名してもらった」という経緯だと記してある。東京新聞、産経新聞もほぼ同様な記述だ。
共同会見だから同じ内容になるが、日本テレビでは以下のように伝えた。
「透析を継続するため、鎖骨付近からカテーテルを入れる新たな治療方法の提案を行ったものの、女性患者は『透析はやらない』などとして、同意が得られなかったと説明した。女性患者は、透析治療を中止する文書にも署名したという」
注目したいのは、会見の際の外科医の言葉だ。
「外科医は、『透析が可能な状況でこちらから中止を提示することはない』と説明。女性は中止の意志が固く『衝撃を受けた』と振り返った」
これは産経新聞の記事である。朝日新聞でも、外科医は「拒否したために透析ができなくなった特異なケース」と話しているとしている。
両紙から、患者の相当に強い意志がうかがえる。
読者は、これを読んで疑問に思わずにいられないだろう。3月7日、8日の時点では「病院が透析中止の選択肢を示した」と報じていたはず。違うではないか。どちらが事実なのか。
その内情を明かしたのは朝日新聞だけだった。同紙は「東京都は当初、外科医が透析をやめる選択肢を示した、と説明している」と言い訳を記した。つまり、東京都からの取材で、「透析中止を提示」と断定したことが分かる。当事者の医師の確認が取れていなかったのである。
一方、朝日新聞を除いたほかのメディアは、過去の記事との矛盾を説明しないままだ。その日の共同会見を病院から拒否された毎日新聞だが、翌日に「担当医『女性が手術拒否』」との見出しで報じた。患者が透析を断った経緯だけを記し、「病院は透析中止の選択肢を提示していない」という肝心な点には触れていない。
患者が臨終に至るまでが
「医師」と「夫」で食い違う
次に、第3の問題点は患者が亡くなった昨年8月16日の動きだ。
3月29日の朝日新聞は「未明に、女性は呼吸の苦しさや体の痛みを訴え、看護師に『こんなに苦しいなら透析した方がいい。撤回する』と発言したことが記録に残っている。しかし、16日昼前に女性の症状が落ち着き、外科医が呼吸の苦しさや体の痛みが軽減されればよいか、それとも透析の再開を望むかと尋ねると、『苦しさがとれればいい』と答えたという。外科医は女性の息子2人にも説明して理解を得たうえで鎮静剤を増やし、女性は同夕に亡くなった」と記す。
この記述は、3月7日の毎日新聞の記事とほとんど変わらない。同じ外科医への取材だからであろう。ところが、臨終の場面の内容は大きく違っている。
3月29日の東京新聞は、共同会見した外科医の話として「鎮静剤を増し、別の病気で入院していた夫と息子2人が見守る中、落ち着いた状態で同日午後5時11分に亡くなったとしている」と書く。これは上記の朝日新聞と同じだ。
一方、3月7日の毎日新聞では、患者の夫の話として「(昨年8月)16日、麻酔からさめると女性は既に冷たくなっていた」とあり、妻を見守る状態ではなかったと記す。事実は1つ、どちらかが間違えているのだろう。
人工透析だけではない対処法
「腎移植」という選択肢も
ここまで、新聞を中心に経緯を追ったが、腎臓病、腎不全への医療の対応法にも課題がありそうだ。これが第4の課題である。
日本の透析患者は、日本透析学会によると2017年末で33万4505人。平均年齢は68歳。1990年には10万3296人だったから年々増えている。
血液にたまる老廃物や余分な水分を除去するために受ける血液透析は、1回に4~5時間ベッドにじっと横たわりながら受ける。週3回必要で、やめてしまうと苦しみ、数週間内に亡くなるという。このため一生受け続けなければならない。
福生病院の女性患者は別の医療機関で長く透析を続けてきた。昨年8月9日の来院時に透析の「離脱証明書」に署名したが、16日の未明に呼吸が苦しくなり体の痛みを訴えたという。
血液透析の費用は月約40万円と高額だが、高額療養費制度があるため、患者の負担は月1万円強といわれる。医療機関にとって人工透析患者は、長期にわたる安定した「収入源」ともなっている。1人年間約500万円の医療費は、国全体では約1兆6000万円に及ぶ。
人口透析には、患者自身の腹膜を使って行う腹膜透析もある。透析液を自分で入れ替えられるので自宅でできる。だが、長期間は難しく、実行者は1万人に達しない。
実はもう1つの対応法がある。透析ではなく、腎臓そのものを取り換えてしまう根本的な治療法である。腎移植だ。
移植された腎臓による拒否反応が問題視された時代があった。だが、現在は移植された腎臓がきちんと機能する確率は極めて高い。移植手術は医療保険の対象なので自己負担はあまりない。
人工透析よりはるかに優れた理想的な治療法だが、残念ながら2017年には年間1742件しか実施されておらず、極めて少ない。欧米では、移植と人工透析の比率は大して変わらない。腎移植を待っている間だけ人工透析を、という考え方も強い。
ところが日本では、腎臓の提供者が少ないため、腎移植という発想がはじめからほとんどない。腎移植の9割近くは家族などからの生体腎。死後の臓器を活用する献腎は極めて少ない。そもそも臓器を提供する文化が日本では定着していないからだ。
健康保険証や運転免許証、それにマイナンバーカードには「臓器提供の意思表示」の欄があり、提供したい臓器を選ぶことができる。心臓や肺などと並んで腎臓も表記されている。2010年の臓器移植法改正で表記が始まった。臓器移植への関心を高めるにはいい手法だろう。「遺体にメスを入れたくない」ではなく、世のため人のための心意気の広がりに期待したい。
「治す」だけではなく
人々の生活を「支える」医療の重要性
そして最後、第5の課題は、医療の果たす役割である。
高齢者の自宅や施設での看取りが増えてきている。2013年8月に社会保障制度改革国民会議(座長清家敦・慶應義塾大学塾長)がまとめた報告書で、新しい医療概念が打ち出された。
「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の維持・向上を目指す医療」「治し・支える医療」「人間の尊厳ある死を視野に入れたQOD(クオリティ・オブ・デス)を高める医療」とうたわれた。
医療は「治す」だけでなく、人々の日々の生活を「支える」ことが重要と訴え、誰もが迎える死にもQOLの概念を取り入れ、QODを高める医療を新たに提言した。QODが、政府関連の正式な文書に登場したのは初めて、画期的なことだった。
死は生活の延長線上にある。本人のQOL第一という発想から死を視野に入れた考え方である。森鴎外の孫で、埼玉県新座市で訪問診療を続けている小堀鴎一郎医師は、「日本は『生かす医療』はトップクラスであるが、『死なせる医療』は大きく立ち遅れている」(著書『死を生きた人々』から)と喝破している。「死なせる医療」とは名言だろう。
苦痛を免れない延命治療から、自然の摂理に委ねる自然死、尊厳死への転換が進んでいる。人口動態統計による死亡原因で、この数年「老衰死」の急増がその転換ぶりをよく示している。
「治療」だけが医療の役割という考え方は、過去のオールド・カルチャーになりつつある。福生病院の医師たちも、こうした社会の流れに合わせた対応を取ったと理解したい。
(福祉ジャーナリスト 浅川澄一)