平成16(2004)年6月 自由民主党発行 |
「憲法改正のポイント」 ―憲法改正に向けての主な論点― |
<自民党がつくる憲法は、「国民しあわせ憲法」です> 私たち自由民主党は、すでに昨年の総選挙における政権公約において、立党50年を迎える2005年11月までに新しい憲法草案をつくることを、国民のみなさんにお約束いたしました。 私たちは、この約束を実行するべく、本年1月から、日本国憲法をすみずみまで点検する作業を着実に進めています。 現憲法は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を三原則として、戦後日本の平和と繁栄に大きく貢献し、我が国に定着してきました。このことは高く評価すべきであり、これらの原則は、人類普遍の価値として、今後ますます維持・発展させていく必要があります。 そして、私たちの考える新しい憲法は、国民の誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される「品格ある国家」を目指すものです。 また、科学技術の進歩や少子・高齢化の進展など、新たな課題に的確に対応するとともに、人間の本質である社会性が個人の尊厳を支える「器」であることを踏まえて、家族や共同体が、「公共」の基本をなすものとして位置づけられた憲法でなくてはならないものと考えます。 歴史、伝統、文化に根ざした我が国固有の価値(すなわち「国柄」)や、日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識を大切にし、同時に、日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見いだし、憲法を通じて、国民の中に自然と「愛国心」が芽生えてくるような、そんな新しい憲法にしなければならないと考えています。 私たちが目指す、この新しい憲法を一言で表すとすれば、それは、国民の国民による「国民しあわせ憲法」ということです。
このパンフレットは、党内のこれまでの議論を踏まえ、新しい憲法についての基本的な考え方と方向性を示し、憲法に関する国民的議論が活発に展開されることを願って作成したものです。 どうか、一人でも多くの国民の皆さんが、私たちの活動に加わっていただけますように……。憲法は、国民のみなさんのものなのですから!
1 美しい日本語で書かれた前文に 国の根幹を規定する最高法規が憲法ならば、その冒頭に置かれる前文は憲法の「顔」にあたるものです。 私たちは、憲法改正の際には、いまの日本国憲法の前文は全面的に書き改めるとの方向で検討を進めています。 新たな前文は、日本が目指すべき国家像を明記することです。それには、日本国憲法の基本原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」及び「平和主義」とともに、①国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される「品格ある国家」を目指すことを明記すべき、②我が国の歴史、伝統、文化などを踏まえた「国柄」について言及すべき、③環境権や循環型社会の理念を書き込むべき、との様々な意見があります。 また、前文の表現それ自体についても、平易で分かりやすいものとし、美しい日本語の表現をもちいるべきとの意見もあります。 憲法前文の内容・表現などについては、新憲法が真に国民による国民のための憲法となるよう、国民のみなさんのご意見を十分に聞きながら党内議論を行って、憲法全体を通じた理念が的確に表現されたものとなるよう、広範かつ総合的に検討してまいります。
2 「現実の平和」を創造し、非常事態に備える 日本の安全保障と国際貢献については、和を尊び、命を慈しむ我が国古来の伝統・文化を基本に据え、我が国民の生命と財産を守り、より積極的に世界の人々の生命・人権を尊重するという立場から、自衛のための戦力保持の明記や、国際協力(国際貢献)に関する規定の創設など国際平和に積極的・能動的に貢献する姿勢を内外に宣言します。
<憲法9条の虚構性と「現実の平和」創造への努力> 憲法9条では、戦力の保持は禁止され、日本には軍隊はありません。しかし、日本は独立国である関係から、国を防衛するために自衛隊があります。 戦後の憲法論議の中心は、9条と自衛隊の関連でした。 現在は、国民の多くが自衛隊の存在を高く評価しています。最近では、自衛隊も海外のPKO活動や人道的支援活動で汗を流すようになりました。しかし、派遣要員が自己や同僚を守る目的なら武器は使えるが、同じ任務のために離れた場所で活動する外国軍隊や国際機関の要因のためには使えない、といった憲法解釈上の不備が指摘されています。これでは、軍隊としてはおかしな話です。 また、9条により集団的自衛権が行使できないと解釈されていることについても、「日米同盟の『抑止力』を減退させる危険性をはらんでいるのみならず、アジアにおける集団的な安全保障協力を効果的に推進する上での障害となる」との批判も出ています。 私たちの目指す9条の改正は、まず自衛隊を軍隊として位置付けることです。次に、集団的自衛権の行使も可能となるようにする必要があります。 現在は、国際テロリズムや北朝鮮の拉致事件などがあり「憲法9条を世界にPRすれば平和になる」というような状況ではないのです。国及び国民の安全が確保できるような憲法9条の改正をする必要があるのです。
<平和への貢献を確かなものにするための「国際協調主義」> 日本国憲法は、その前文で、全世界の国民の平和的生存権を認めた上で、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と延べ、こうした国際協調主義の立場に立つことは「各国の責務である」としています。 私たちは、このような国際協調主義の考え方は優れたものであり、今後とも堅持すべきであると同時にこの考え方をもつと大きく育てていく必要があると考えています。 このような国際協調主義の考え方の下に、戦後日本が平和国家として国際的信頼と実績を築いてきたことは高く評価されるべきですし、これを今後とも重視していくべきだと考えます。 私たちは、先の総選挙の政権公約で約束した「国際平和協力のための基本法の制定」作業を進めると同時に、我が国が世界平和のために責任を果たす国家であることを憲法上明らかにするようにいたします。
<非常事態に備えて> 私たちは、憲法には、平和時のことだけでなく、有事とか非常事態への対応も規定すべきものだと考えます。 これに対して、日本国憲法には、先の戦争は日本が起こしたもので、日本さえ戦争を起こさなければ、周辺の国々は良い国で戦争は起きない、といった考え方から有事や非常事態の規定がないのです。 新憲法では、非常事態における総理への権限の集中や武力攻撃事態、大規模なテロや大規模自然災害の発生などにより、多数の国民の生命、身体及び財産が危機に瀕し、統治機関の枢要部分が欠けた場合のダメージを拡大させず、少なくする方向に作動するような仕組みを作っておく必要があります。 最近、法律レベルでは、武力事態対処法や国民保護法など有事法制の整備が行われるようになってきましたが、これは国家としては当然のことなのです。 しかし、それだけではなく、非常事態における包括的な憲法原則を明確にする必要があります。具体的には、非常事態においてやむを得ず行われる権利・自由の制限など、国家権力の行使の代替措置をあらかじめ決めておくことです。それによって、非常事態における恣意的な権利・自由の制限を防ぎ、国家権力の円滑な行使を可能とすることになります。
3 新しい時代に即した「新しい人権」を
近年のいわゆるIT技術の進展により、世界的規模で高度情報化社会が形成されつつあります。日本国憲法が制定されたときは、今日のように大量の情報が瞬時に世界を駆けめぐる時代が来るとは想像もつかなかったことでしょう。 情報化社会の到来により、「個人に関する情報(個人情報)の保護」及び「政府が有する情報(政府情報)の公開」をめぐって、「プライバシー権」及び「知る権利」といったいわゆる「新しい人権」の内容についても、突っこんだ議論がなされています。
(1) プライバシー権 この権利は、はじめは「(国家から)ひとりで放っておいてもらう権利」と把握されていました。どちらかというと自由権的な、消極的なものと理解されていたわけです。しかし、情報化社会の進展に伴い、「個人情報をコントロールする権利(情報プライバシー権利)」ととらえられ、とくに行政機関の有する個人情報の保護を積極的に請求していくという側面が重視されるようになりました。
(2) 知る権利 この権利は、はじめは「(国家から)干渉されずに自分の意見を持つ自由」、「情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由」と把握されていました。それは「表現の自由」全般を支える基礎的理念と理解されていたからです。 しかし、情報化社会の進展に伴い、「政府情報の開示を請求する権利」ととらえられ、とくに行政機関の有する情報の公開を積極的に請求していくという側面が重視されるようになりました。
これらの権利については、「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律(平成15年法律第58号)」や「行政機関の保有する情報の公開に関する法律(平成11年法律第42号)」の施行状況を踏まえ、国民のみなさんのご意見を十分に聞きながら、党内議論を行って、憲法上どのように位置づけるかを検討してまいります。
<生殖医療・遺伝子技術、移植医療の発達と生命倫理> 近年における生殖医療・遺伝子技術、移植医療の発達には、目を見張るものがあります。 その中でも遺伝子技術については、科学として、人類に新しい知見を与えたという点ではプラスの影響力があります。しかし、例えばヒトクローンの研究となると、社会的に微妙な問題が生じる可能性があります。生殖医療、移植医療についても、生命倫理上問題になった事例が少なからず見受けられます。 こうした事態は、日本国憲法がおよそ予想していなかったものです。 私たちは、生命倫理が、個人の尊厳にかかわる人権問題であり、同時に生命の尊重、自然の摂理と人間の存在の意味にかかわる深刻な問題をはらんでいるものと認識しています。 この問題については、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律(平成12年法律第146号)」や「臓器の移植に関する法律(平成9年法律第104号)」の施行状況を踏まえつつ、憲法上どのように位置づけるべきかを検討してまいります。
<犯罪被害者の権利> 日本国憲法は、刑事事件の被害者、被告人の権利は数カ条を費やしてこれを保護していますが、犯罪被害者の保護については一切の言及がありません。 アメリカでは、1980年代以後から、ようやく犯罪被害者の権利に関する意識が高まり、洲レベルで犯罪被害者の権利章典が制定され、洲憲法に規定されるようになったということですから、約60年前に制定された日本国憲法がふれていないのも無理からぬことかもしれません。 しかし、犯罪被害者がその犯罪に関する刑事裁判から疎外されることは、被害の回復を遅らせるとともに、刑事手続に対する不信感、不満感を増幅させることにつながります。私たちは、犯罪被害者の迅速で完全な被害回復ができるよう、憲法において、こうした権利を保護することも十分検討に値すると考えています。
<環境権・環境保全義務> ますます深刻化する地球環境問題に対処するため、国際的な環境保護運動が広がりをみせています。我が国でも、天然資源の消費が抑制され、環境への負荷ができる限り低減される循環型社会の形成に向けての取り組みが進んでいます。 こうしたなか、諸外国において、環境に関する規定を憲法に設ける動きが出てきました。これらの規定を詳細にみると、①国民の人権として規定するもの、②国民の義務ないし責務として規定するもの、③あるいはこれらを組み合わせるなど、バラエティーに富んだものトなっています。 日本国憲法が制定されたときには、今日のような形で環境問題が意識されていなかったから、何らの言及もありません。しかし、環境保全に対する国民の意識の高まりを考えがえるとき、憲法に環境に関する規定をきちんと位置づけることを検討する必要があります。
4 「公共」とは、お互いを尊重し合うなかまのこと
日本国憲法は、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として保障しています(11条)。基本的人権は人類の普遍的価値であり、我が国が永久にこれを尊重することを基本とすべきです。 各人が、「個人として尊重」され(13条)、それぞれが「永久不可侵の基本的人権」を有するということは、同時に、他人も同じ「永久不可侵の基本的人権」を有しているということです。 人間は社会的な存在であり、人間としての尊厳をもっとお互いに大切にすべきです。他人への配慮や思いやり、社会に対する積極的な貢献を果たすことによって、自己の存在、尊厳もまた大事にされるのではないでしょうか。このように、人間の本質である社会性が個人の尊厳を支える器であることを考えると、人間の自然な集まりである家族、共同体、ひいては国際社会も、公共の基本をなすものとしてとらえ直さなければならない時代になっているのです。 各人が他人を思いやり、相互に尊重し合えば、個人の関係からなるネットワークができます。これが「公共」です。 「独りよがり」の人権主張ではなく、他人を尊重する責務からはじまる「公共」の概念を、私たちは大切にしていきたいと考えています。
<家族は、一番身近な「小さな公共」> さて、互いに尊重し合う個人のネットワーク、「公共」の一番身近で小さな形態は、家族です。家族が構成員は相互に尊重し合う責務を負うのですが、通常は、そういうことを意識することはありません。 しかし、児童・老親虐待の問題が深刻化する事態を受けて家族の在り方が問われるなかで、家族間の責務、すなわち児童を養育する責務や老親を扶養する責務を憲法に明記すべきであるという意見があります。 この問題については、国民のみなさんのご意見を十分に聞きながら、様々な角度から党内議論を行い、憲法上どのように位置づけるべきか検討してまいります。
<国家は、みんなで支える「大きな公共」> 現在の日本のような民主主義国家は、国民全体の支えの上に存在しています。自立し、互いに他を尊重し合う個人のネットワークである「公共」の一番大きな形態は、国家と言えるでしょう。「独立の気力のない国民は、国を愛する精神にも希薄である」(福沢諭吉)と言われています。 国家とは、主権を保持し、国土を守り、国民の生命、身体及び財産を保護する崇高な使命を負っているわけですが、比喩的に言えば、それはひとりひとりの国民の「他者の権利・自由を尊重しなければならない」という「責務」が集まってできたものともいえます。すなわち、「国家」とはどこか遠いところにある抽象的な存在なのではなくて、自分の愛する家族や隣人とかの権利・自由の集合体と考えた方がわかりやすいかもしれません。 最近は、個人主義が正確に理解されず、利己主義的な側面ばかりが強調された結果、自分のことばかり考えて国家や地域社会のことを顧みない風潮がはびこるようになりました。いかに自由があるとはいえ、自らの行動が他人に迷惑をかけることになれば、それは自由とはいえないのです。 国家の構成員としての国民の責務や日本古来の伝統・文化を尊重する責務を憲法に明記すべきではないか、といった点について様々な角度から党内議論を行い、憲法上どのように位置づけるか検討してまいります。 かつて日本人が諸外国から親切で礼儀正しいと言われ尊敬されたのは、道徳教育が行き渡り、「修身、斉家、治国、平天下」(大学)という考え方があったからです。 今後は、「他人への思いやりの心」を育てて行くことが何よりも大切なことと考えます。
5 緊張感をもって切磋琢磨する、統治機構のしくみ
戦後の国民主権主義、民主主義が我が国の国家社会の発展に大きく寄与したことを評価するとともに、この原則をさらに充実させるため、新しい時代の変化に即応し、正しい政治主導の政策決定システムをより徹底させ、そのプロセスを大胆に合理化し、スピーディに政治判断を実行に移せるシステムとするべきです。 しかし、現在の政策決定システムは、国会と内閣などとの関係において、最終的に国会の同意を得るに至るまでの間にあまりにも多くの時間を要するシステムになっているのではないでしようか。 日本国憲法が制定された約60年前と、今とでは大きく時代が違います。既存のシステムがうまく機能しない場合には、大胆に発想を転換すべきだと考えます。 なお、現在の二院制は、両院の権限や選挙制度が似かよったものとなっており、何らかの改編が必要であり、その具体策の提示が求められています。また、総理大臣以下の国務大臣の国会への出席義務を緩和し、副大臣などの代理出席でもよいとすることなどについても、今後検討する必要があります。
<政治部門をチェツクする裁判所のあり方> 政策決定・執行プロセスのスピードアップ化に伴い、事後的な第三者のチェツクが重要になってきます。こうした観点から、政治部門が行う政策決定・執行に対する憲法判断の仕組みを整備する必要があります。そこで、我が国においても、憲法裁判所を創設し、高度に政治的な問題についてもきちんとした憲法判断を出せるようにすべきであるとの意見があります。 憲法裁判所については、国会や内閣が負うべき政治の責任を民主的な基盤(主たる構成員が国民の選挙で選ばれた者であること)のない裁判所に負わせるのはおかしいとの指摘もあります。 しかし、諸外国の憲法裁判所のように、裁判官の人選について国会が関与するといったことで、民主的統制を機能させることは可能です。法律的素養があって、かつ、政治的判断が出来る人が裁判官になれば、高度な政治判断も可能になるでしょう。さらに、憲法裁判所ができても、国民の代表機関である国会が有する憲法改正の発議権まで否定されるものではなく、憲法裁判所がある問題について違憲判決を出しても、それに不服であれば国会としての責任で憲法改正を発議すればよいのです。 憲法裁判所の創設は、国会や国民が憲法に関する関心の度合いを高めるとともに、政治部門と裁判所のほどよい緊張関係の下に憲法を見直していく良い機会を提供するものと考えます。
<活力のある地方政府と中央政府の関係> 私たちは、地方自治について、「道州制」を含めた新しい地方自治のあり方を模索しています。その場合、住民に身近な行政はできる限り市町村といった基礎自治体に分担させることとし、国は国としてどうしてもやらなければならない事務に専念するという「補完性の原則」の考え方と、その裏づけとなる自主財源を基礎自治体に保障していくという方針が決定的に重要になっています。 地方に自己決定権を与えるとともに自己責任を負わせることによって、地方の努力をうまく引き出せるようにするには、いまの都道府県より広範な単位、すなわち「道州」が適当であると考えます。 各道州がそれぞれ努力していけば、全体としての国の力を最大化することができる、という「道州制」構想については、今後細部にわたった議論していく必要があり、新しい憲法には、こうした点を明示するべきでしょう。 「道州制」というと、すぐに道とか洲の権限、組織などに目が向きがちですが、住民に一番身近なコミュニティの重要性を忘れてはなりません。コミュニティこそ究極の自治の原点であり、我が国の伝統、文化が受け継がれていく場であり、地域によってはそこが生産活動、社会活動の場であり、生活そのものです。人や物の動きの激しい、こういう時代だからこそ、広域的自治体を整備する一方で、顔が見える自治組織をきちんと守り、育てていくことが必要ではないでしょうか。 国会とないかくの関係、憲法裁判所を含む裁判所制度、地方自治のあり方など統治機構の問題については、国民の皆さんのご意見を十分に聞きながら、引き続き、さまざまな角度から党内論議を行い、憲法改正が必要と認められる事項の整理を行ってまいります。
6 現実に即した憲法の規定に
憲法79条6項後段及び80条2項後段は、最高裁判所裁判官及び下級裁判所裁判官の報酬は、それぞれ「在任中、これを減額することができない。」と規定しています。ところが、最高裁は、平成14年9月、裁判官会議で、公務員給与全体のベースダウンに合わせて、全裁判官の報酬を一律に引き下げることは、合憲であると判断し、現行憲法で初めて裁判官給与を引き下げることを決めました。 憲法のどこを読んでも、裁判官の報酬を減額できる場合があるなどとは規定されていません。「憲法の番人」と呼ばれる最高裁自身が、憲法の明文の規定に違反するような行為をしているのです。 私たちは、いかなる場合であっても裁判官の報酬を下げてはいけないと言っているのではありません。合理的理由に基づき裁判官の報酬を下げるのであれば、こういう場合には報酬を下げることができますと、はっきり憲法を改正してからやるべきだと思います。 <私学助成と憲法89条の関係について> 憲法89条は「公の支配に属しない」教育事業に対して公金その他の公の財産を支出することを禁じていますが、これを厳格に解すると現行の私学助成制度には、違憲の疑いが出てきます。なぜならば、公の支配に属しないからこそ「私立学校=私学」であるわけで、「公の支配に属する私学」というのは、それ自体が矛盾した言い方になるからです。 現実には、私学助成制度がなければ我が国の私立学校は存立することができず、この状況を素直に認めるならば、憲法89条の規定を一刻も早く改正するのが筋というものでしょう。
<憲法改正手続について> 憲法96条1項は、国会が憲法改正を発議するには各議院の総議員の3分の2以上の賛成を要すると規定しています。しかし、この要件が厳格に過ぎて、いまの憲法を改正することが困難になっているとの指摘があります。 国民投票をもっと容易に行えるようにし、国民に憲法について考える機会を多く与えるためにも、憲法改正の発議は各議院の総議員の過半数で足りるとするべきでしょう。 さらに憲法96条1項は、憲法改正の際の国民投票について、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において」と規定しています。しかし、なぜこの二種類の国民投票を定めたのか、特に後者の国民投票についてわざわざ言及する必要がなぜあったのか、趣旨が不明です。 そもそも「国会の定める選挙」すなわち国政選挙は、与野党が政権の維持・獲得を目指し、それぞれの政策を提示して相争うものです。そのような国政選挙と、憲法改正案の賛否を問う国民投票とは、性格が全く異なるものです。仮に国政選挙と国民投票を同時に行えば、有権者は混乱してしまうでしょう。 以上のような理由から、本条項の「又は国会の定める選挙の際行はれる投票」は、削るべきでしょう。 |