自公連立政権は、日本の政権の一つ。
1999年(平成11年)10月5日から2009年(平成21年)9月16日まで、及び2012年(平成24年)12月26日から現在も継続中の自由民主党と公明党による連立政権である。
概要
1999年(平成11年)10月5日、小渕第2次改造内閣(小渕恵三首相)の下で自由民主党と公明党が連立し、衆議院及び参議院で過半数の議席を制した状態を指す。
当初は自由党(2000年(平成12年)4月1日まで)、保守党(2000年(平成12年)4月1日から2003年(平成15年)11月21日まで。
ただし2002年(平成14年)12月25日に保守新党に改称)も参加していた自自公連立、自公保連立だったが、2003年に保守新党が自民党に吸収される形で消滅し、第2次小泉内閣(小泉純一郎首相)から自公連立になった。
小泉フィーバーから自公連立へ
2001年(平成13年)、小泉純一郎自民党総裁が首相に就任し第1次小泉内閣が誕生すると、小泉純一郎の人気に推されて自民党人気が復活。
軒並み選挙では小泉人気に比例し勝利を重ね、自民党と公明党は議席を伸ばした。
一方で保守新党は議席を減らし、2003年(平成15年)11月、自民党に吸収される形で解散、自公連立政権となる。
2005年(平成17年)、郵政民営化を巡る争いで衆議院が解散、第44回衆議院議員総選挙が実施され、自民党は大勝したが公明党は逆に議席を減らす結果になった。
中北 浩爾 (著)
商品の説明
内容紹介
単独政権が可能な自民党は、なぜ連立を解消しないのか?
福祉重視の公明党はなぜ、自民党と連立するのか?
「連立」から日本政治を読み解く、初の本格的分析!
内容(「BOOK」データベースより)
なぜ、自公「連立」なのか?単独政権が可能な自民は、なぜ連立を解消しないのか?
平和・福祉重視の公明はなぜ、自民と連立するのか?
「連立」という視角から、日本政治を読み解く自公政権にかんする、初の本格的分析!
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中北/浩爾
1968年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中途退学。博士(法学)。立教大学法学部教授等を経て、一橋大学大学院社会学研究科教授。政治学、特に日本政治外交史・現代日本政治論を専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
▽粘り強さだけが目的達成への道なのだ―詩人・シラー
▽今は、誰でも撮れる写真は飽きられてしまうため<今、この時にしか撮れない>というものの方が価値が高く、多くの人が食い付きやすくなる。
そこに個性も出る。
▽<インスタ映え>などでフォロワーを増やしたいのであれば「コンセプト」をはっきりさせることが大切だ。
▽「私はこうした写真を撮ります」という個性を明確にすれば、「この人はこんな写真を見せてくそう」とと期待が生まれ、フォロワーは増えていくだろう。
▽ツイッターで学びたいことや読んだ本について発信している人を探して、フォローしてみる。
▽人間の行動はかなりの部分、周りの人間によって作られているので、日頃からそうした人たちの刺激を受けることで、知らずしらずのうち勉強する気が起きる。
コンセプト:主張・理念、「全体を貫く基本的な概念」
▽人間の価値は「生産性」だけでは決まらない。
むしろ、友人や家族を、どこまで大切にできるか―そこに、人としての最も大事な価値がある。
▽異なる文化や言語の人たちに対する理解や包容力を培う。
▽どのな人も、さまざまな悩みを抱えながら懸命に生きていることを知り、誰にも共感できる自分になれたら。
▽「価値創造」とは「人々を励ますことを人生の目的に据えること」といえる。
▽「人に尽くすための教育」
<大学は、大学へ行けない人にためにある>
▽「世界市民」という人材像。
▽「世界をより良くしたい」と願っている学生たち。
▽大学は「社会変革の道を学ぶ場所」でもある。
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊。1999年度和辻哲郎文化賞受賞。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
渡辺/京二
1930年、京都市生まれ。日本近代史家。書評紙編集者などを経て、河合塾福岡校講師。熊本市在住(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
「日本人のこころ」「日本的精神」が政治的な視点でなく民俗学的公平公正な視点で描写されている希少な著作
2015年12月24日
形式: 単行本Amazonで購入
われわれ日本人の良くも悪くも独特で特異な思考や思想と感覚感性がいかにして培われ受け継がれてきたのか
明治の開国文明開化で失われた日本人の美徳や、時代が変わった今も日本人の根底に流れ続けている「日本人らしさ」など
江戸末期~明治期日本に滞在した外国人の体験や感想といった客観的事実を積み上げた民族研究書ではありますが
日本人としてのアイデンティティがどこにあるのか改めて見直した一冊であり、繰返し読みたくなる本です
現代日本は「日本人であることの誇り」を忘れつつありますが、未来の日本人を育てる教育関係者に特にお薦めします。
「日本人のこころ」「日本的精神」が政治的な視点でなく民俗学的公平公正な視点で描写されている希少な著作
2015年12月24日
形式: 単行本Amazonで購入
われわれ日本人の良くも悪くも独特で特異な思考や思想と感覚感性がいかにして培われ受け継がれてきたのか
明治の開国文明開化で失われた日本人の美徳や、時代が変わった今も日本人の根底に流れ続けている「日本人らしさ」など
江戸末期~明治期日本に滞在した外国人の体験や感想といった客観的事実を積み上げた民族研究書ではありますが
日本人としてのアイデンティティがどこにあるのか改めて見直した一冊であり、繰返し読みたくなる本です
現代日本は「日本人であることの誇り」を忘れつつありますが、未来の日本人を育てる教育関係者に特にお薦めします。
JORDAN会とは
JORDAN会は、1992年1月に取手男声合唱団安本拓治氏らが、常磐線の沿線にある男声合唱団に呼びかけて発足しました。
名前の由来は「常磐線で東京へ通う人たちが、冗談を言い合える仲間になろう」ということで、常磐線の‶JOR”と男声合唱団‶DAN”にちなんでいます。
発足当時は松戸市の東葛男声合唱団、柏市の男声合唱団フロイデ、我孫子市のアンサンブル・ レオーネとシャウティング フォックス、取手市の取手男声合唱団の5団体からなり、各団員は 日頃常磐線で東京に通勤しているサラリーマンがほとんどで、当時の平均年齢は40歳台後半で した。
その後、常磐線の日立市から常磐ひたちメンネルコール、野田市の野田男声合唱団、 常磐線の起点日暮里にある男声合唱団金曜会、そしてひたちなか市の男声合唱団やまびこが加 わり、2016年には、9団体で総勢250人を超える会員数となっています。
これまで3年毎に合同演奏会を開催しており、2016年1月17日には松戸市森のホール21で第8回合同演奏会を開催しました。
合同演奏会のない年は、毎年1月に会員が一堂に会して、総会と懇親会を開催しています。
懇親会では各団の演奏と合同演奏があり、合同演奏曲は愛唱歌などを全員で歌って、会員相互の親睦を深めています。
■2019年1月20日(日)東京都北区「北とぴあ」で、JORDAN会第9回合同演奏会が開催されました。
多数のご来場ありがとうございました。
平成30年度の障害者雇用は82万1,000人
厚生労働省は6月25日に、平成30(2018)年6月に実施した「平成30年度障害者雇用実態調査」の結果を公表した。
同調査によると、従業員規模5人以上の事業所に雇用されている障害者数は82万1,000人という結果が明らかになった。以下、報道発表資料より。
調査結果の主なポイント
■従業員規模5人以上の事業所に雇用されている障害者数は82万1,000人。
内訳は、身体障害者が42万3,000人、知的障害者が18万9,000人、精神障害者が20万人、発達障害者が3万9,000人。
※以下注)にあるとおり、平成30年度調査では、重複障害のある者をそれぞれの障害に重複して計上しているため、身体障害者、知的障害者、精神障害者、発達障害者の合計と調査対象となった事業所に雇用されている全障害者数は一致しない。
また、平成30年度調査は平成25年度調査と実施方法が異なるため、調査結果をそのまま比較することはできないが、精神障害者の雇用者数が大幅に増加(前回4万8,000人)したことが特徴。
■雇用されている精神障害者のうち、週所定労働時間20時間以上30時間未満の割合は39.7%、20時間未満の割合は13.0%であった。また、正社員の割合は25.5%であった。
■雇用している障害者への事業主の配慮事項としては、知的障害者、精神障害者及び発達障害者において、「短時間勤務等勤務時間の配慮」が最も多かった(知的障害者では57.6%、精神障害者では70.8%、発達障害者では76.8%)。
注)平成30年度調査は、以下の点において平成25年度調査と実施方法が異なるため、平成25年度調査結果とそのまま比較することはできません。
・重複障害の取扱いの変更
平成25年度調査では、重複障害のある者については、いずれかの障害に寄せて(知的障害と他の障害の重複障害のある者は知的障害者とする等)計上していましたが、それぞれの障害について把握する方がより詳細なデータとなり、施策に活かせるため、平成30年度調査では、それぞれの障害に重複して計上し各項目の分析を行っています(例:身体障害と知的障害の重複障害のある者は、身体障害、知的障害それぞれに、精神障害と発達障害の重複障害のある者(うつ病と広汎性発達障害の重複のある者など)は、精神障害、発達障害それぞれに計上して集計)。
従って、平成30年度調査では、身体障害者、知的障害者、精神障害者、発達障害者の合計と調査対象となった事業所に雇用されている全障害者数は一致しません。
・発達障害者
平成25年度調査では、発達障害者のうち精神障害者保健福祉手帳を所持している者が精神障害者の障害種別として把握されていましたが、精神障害者保健福祉手帳を所持していない発達障害者(精神科医の診断により発達障害を確認している者)は調査の対象に含まれていませんでした。
平成30年度調査では、発達障害のみにより精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている者は発達障害者の障害種別とするとともに、精神障害者保健福祉手帳を所持していない発達障害者(精神科医の診断により発達障害を確認している者)も調査の対象としています。
調査の概要・調査結果の概要(別添):https://www.mhlw.go.jp/content/11601000/000521376.pdf
【報道発表資料:『平成30年度障害者雇用実態調査の結果を公表します』より|2019年6月25日・厚生労働省】
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自治体、精神障害者の採用枠拡大 神奈川県、佐賀県職員採用
民間企業による精神障害者の雇用が急速に進む中、自治体でも精神障害者の採用を広げる動きが出ています。
神奈川県では2018年度から、障害者向けの県職員採用試験で、精神障害者と知的障害者も応募できるようにするとしています。常勤職員として採用する制度は全国で初めてとなります。
神奈川県の法定雇用率は昨年6月1日時点で知事部局3.22%、教委2.28%、県内の民間企業の法定雇用率は1.92%となっています。
今年4月より地方公共団体の法定雇用率が2.5%に引き上げられたことを踏まえ、県はこれまで身体障害者のみが対象となっていた県職員採用選考を精神障害者、知的障害者にも広げることで、県として率先して雇用に取り組むとしています。
佐賀県でも、これまで身体障害者だけが対象になっていた県職員の障害者別枠採用を、精神障害者と知的障害者にも拡大するよう検討を始めました。
佐賀県内の民間企業における障害者雇用率は2.54%で全国3位と高い数値になっています。障害種別にみると、最も雇用が多いのは身体障害者は1,466人(前年度比4.6%増加)ですが、伸び率でみると精神障害者が最も多く、前年度比12.5%増加し184人、知的障害者は5.6%増加して698人となっています。
一方で県の17年度の障害者雇用率は2.37%で、前年度より0.17ポイント低下。今年4月からの法定雇用率2.5%を下回る状況です。県は、知的障害者に関しては本年度内にも非常勤職員で採用し障害の特性を見極め、担当業務を精査した上で早ければ2020年度から正式採用を目指すとしています。
自治体での精神障害者の雇用は十分に進んでいるとは言えない状況です。社会全体として障害者雇用が広がる中、公的機関も取り組みを進める必要があると言えるでしょう。
関連リンク
▽「先駆」の精神とは何か。
「自発能動」の行動力である。
▽勝利を決するのは、不屈の精神。
▽教師こそが学校それ自体。
▽子どもの資質を引き出せる教育。
▽民衆の生命を耕す文化。
▽浅い教えは信じやすく理解しやすいが、深い教えは信じ難く理解し難い、とは釈尊の教判
教判(きょうはん)とは:仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を判定し、解釈したもの。
自然と文化の森協会
2017年08月11日
火垂るの墓を歩く会のツアーに参加しました
今日(11日)。火垂るの墓を歩く会主催の『火垂るの墓』の舞台を歩くツアー(西宮コース)に、約50名ほどの参加者と一緒に猪名川キッズクラブと自然と文化の森協会からも8名が参加させていただきました。
野坂昭如さんの小説『火垂るの墓』は、阪神地方を舞台に子どもたちに降りかかった戦争被害の悲惨な様子を描いた名作です。
おばさんの家を出た清太と節子が住んだ防空壕があった場所としてアニメに描かれたニテコ池です。遠くに見えるのは甲山です。
第19回-1・2日目-実施風景 |
1 日 目 -御影コース- 参加者約30人 |
〔日 時〕 2017年8月1日(火)午前9時30分~11時30分 〔コース〕 阪神石屋川駅 → 石屋川公園(火垂るの墓モニュメント) → 御影公会堂 → 成徳小学校 → JR六甲道駅 〔距 離〕 約2.5km |
おばさんの家を出た清太と節子が住んだ防空壕があった場所としてアニメに描かれたニテコ池です。遠くに見えるのは甲山です。
アニメの中で親戚のおばさんのお家があったと描かれている場所です。ホタルが飛び交う場面も、この付近で観られたホタルの様子を描いているそうです。
合わせて小説に登場する「一里塚」という地名の名残の橋があることも説明。
石屋川公園へ。火垂るの墓モニュメントや公園が、
阪神・淡路大震災からの復興過程で造られたことなどを解説します。
石屋川を西に渡り、二本松から公会堂裏手を望む。
小説中、清太と節子が母親を探して訪れた場所です。
野坂さんが住んでおられた中郷町を経て成徳小学校へ。
野坂さんの出身校で、大やけどを負った野坂さんの養母が担ぎ込まれたのもこの学校でした。
このためアニメのなかの国民学校は、この成徳小の旧校舎や設備をモデルとして描かれています。
成徳小学校正面ホールのシャンデリア。旧校舎時代の講堂に吊されていたもの。
御影小学校(小説に登場する旧御影第一国民学校)旧正門前へ。
小説に登場する「一里塚」という地名の名残の橋「一里塚橋」に到着。
石屋川に架かる橋上から北に六甲と御影公会堂を望む。空襲の後、清太と節子が見た風景。
火垂るの墓モニュメント。描かれているのはホタル舞う西宮ニテコ池の光景です。
二本松。空襲の後、清太と節子がはぐれた母親を探して訪れた場所です。
作者の野坂昭如さんが住んでおられた中郷町付近。
野坂さんの出身校、成徳小学校へ。アニメのなかで、大やけどを負った
清太と節子の母親が担ぎ込まれた学校のモデルになった学校です。
とっても暑い中でしたが、猪名川キッズクラブの子ども達も最後まで頑張って歩きました。最終地点の夙川公民館に元気に到着です。
〔主 催/問い合わせ先〕
火垂るの墓を歩く会実行委員会
初出 『オール讀物』1967年10月号
刊行 『アメリカひじき・火垂るの墓』 文藝春秋 1968年3月25日 装幀:永田力
受賞 第58回(昭和42年度下半期)直木賞
『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材とした作品である。
『火垂るの墓』を原作とした同名タイトルの映画(アニメーション、実写)、漫画、テレビドラマ、合唱組曲などの翻案作品も作られており、特にアニメーション映画は一般的にも人気の高い作品となっている。
イギリスで実写映画化が予定され、撮影は2014年から行われるはずだったが、結局、実現しなかった。
文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている。
物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻きの中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、蛍が点滅して飛び交う。
そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている。
作品背景[編集]
神戸大空襲後の神戸市街
『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。
野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10ヶ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている[4][5]。
ただし、「空襲で父母をなくした」は詐称であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は大怪我をしながら生きており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった。
野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない。
野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。
西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している。
こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった。
「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという。
野坂は妹の恵子について次のように述べている。
一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。
(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
— 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」
辻邦生、1963年、能登行きの列車内にて(写真提供:学習院大学史料館)
辻邦生 – 努力を重ね続けた“藝術家”の素顔に迫る
小説家として、数多くの作品を発表し、多くの読者を魅了した作家・辻邦生。元文藝春秋の文芸担当編集者、高橋一清氏が、『辻邦生』との思い出を語ります。
小説家として、みずみずしい感性による物語性を追求した多くの作品を発表し、多くの読者を魅了した作家・辻邦生。
元文藝春秋の文芸担当編集者として、辻邦生と多くの時間を共有した高橋一清氏に、辻邦生との思い出を語って頂きました。
女学生に人気のあった、イケメン教授『辻邦生』
パリ大学留学から帰国後、大学でフランス文学を講義する一方で、小説家として、みずみずしい感性による物語性を追求した多くの作品を発表し、特に『安土往還記』『背教者ユリアヌス』『嵯峨野明月記』等の歴史小説で、多くの読者を魅了した作家・辻邦生。
中でも、清冽な文体で、永遠の美に生きる魂の彷徨と死生観を描いた筆者初期の傑作として
1963年、第4回近代文学賞を受賞した『廻廊にて』、そして、今回P+DBOOKSより復刊となった『夏の砦』といった作品は、透明感に溢れ、今も色褪せない魅力に満ちています。
今回は、元文藝春秋の文芸担当編集者として、辻邦生と多くの時間を共有した高橋一清氏が、辻邦生との思い出を語ります。写真で見ても分かるように辻は“イケメン教授”でしたので、女子学生の人気の的だったようです。
『辻邦生』作家として、人として
著:高橋 一清
辻邦生さんの『夏の砦』を読んだのは、学生時代最後の頃だった。これまでの日本の小説にはない、みずみずしい感性と創造性にあふれていた。昭和42(1967)年春から文藝春秋で働くことになっていた私は、この人に小説を書いてもらおうと、ひそかな思いを抱いた。
入社してすぐ、「文學界」編集部に配属された。その最初の編集会議で「辻邦生」をあげ、執筆を依頼したいと言った。しかし、賛同は得られなかった。
会議のたびに、名前を口にする私に、挨拶のみと面会の許可が出たのは秋になってからだった。立教大学の教員室に辻さんを訪ねた。助教授として、フランス文学の講座を担当しておられた。作品世界から「ヨーロッパの貴公子」を想像していたが、剣道の心得があり、腰を低く構えた特有の歩き方をされた。その日が雨模様で、ゴム長靴を履いておられたことで、かえって親しみを覚えたのだった。私は、この機会を逃したくなく小説の執筆を依頼した。
頂いた作品は、昭和43(1968)年の3月号「文學界」に載った。『叢林の果て』と題して、中南米の革命戦士を描いた百枚ほどの作品である。独白を交互に並べ、改行がない、新しい文学の担い手として、意欲あふれる小説だった。約束を破って入手した作品であるが、編集長は何も言わなかった。わずかな間に、辻さんは文壇で注目の作家になっていたのである。
文藝誌の稿料の安さをぼやかれたが、一夕、国分寺市東元町の自宅に招かれ、佐保子夫人の手料理を御馳走になった。部屋に立机があるのに気付いた。教師の勤めを終えて帰宅し、夕食をとると睡魔が襲う。椅子に座ると居眠りが始まるので、立って読み書きをするとのことであった。辻さんは立教大学から学習院大学に移り、大学教授をしながら作家活動を続けた。両立する方法として、金曜日の夕食をたらふく食べ、熟睡し、土曜日の朝から机を離れないで書き続け、日曜日に眠気で頭脳が働かなくなるまで、原稿用紙に向かうとのことだった。
筆記用具は鉛筆。原稿用紙は『夏の砦』で味を占め、河出書房新社の原稿用紙を、最後の執筆まで愛用された。パリに滞在中の辻さんに書いていただきたく、河出書房新社に上がり、原稿用紙を分けていただき、辻さんのもとに空輸したことがあった。
辻さんの文章は、明晰で読みやすい。手が書く道具のように自然に動いて、何の抵抗感のない文章が書けるようになりたいと、毎日、原稿用紙何枚かの文章を書くことを自らに課した。先人の文章では、横光利一を筆写し感覚的な内容をいかに文章化するか学んだ。志賀直哉は中学生の頃に書き写し、清澄さにおいて日本の散文の最高のものとして、謙虚に学んだ。志賀直哉には、物を正確に見る視線のあることに気付いて、「純粋な視覚になったようにして追ってゆく志賀直哉の澄んだ眼差しに、私は、生理的なよろこびを味わっていた」と記した文章がある。その日記などを通して知る志賀直哉の気質と似たものが辻さんにあることを、長年、側にいた者として感じ取っていた。理性を働かせ、対応されるが、時として志賀直哉にあったという快、不快の感情が表出することがあった。
1955年、国分寺の自宅で佐保子夫人と(写真提供:学習院大学史料館)
辻さんに『小説への序章』という小説論がある。これを著わして、辻さんは本格的に小説を書き始めた。緻密に構成して書く作家であった。細部の描写のため、克明なノートがとられている。資質に恵まれた藝術家が、努力を重ねて身につけた手法で、たゆまず書き続けた。
辻さんの作品には、冒頭に献辞が記されている例が多い。「Aに」が相当数あるが、これは佐保子夫人へという印である。『天草の雅歌』には福永武彦、『安土往還記』では森有正、『背教者ユリアヌス』では渡辺一夫の名前が記されている。その作品を書く動機を与えてくれた先人、また扱う主題について啓発された恩師である。捧げられた人の思索と業績を重ねて作品を読むと、作品は深く理解できる。
文藝春秋では私が頼んでも、出版部は対応をせず、作品はことごとく他社の出版物に収められた。それでも、雑誌の連載企画を受けていただき、辻作品の刊行にありついた。『十二の肖像画による十二の物語』『十二の風景画への十二の旅』『私の映画手帖』、そして『フーシェ革命暦』。これらは私が本作りをした。それ以後、幾つもの約束を交わしていたが、果たされず終わった。平成11(1999)年7月29日、逝去。享年73。
辻さんが存命なら74歳となる誕生日、9月24日に、高輪プリンスホテルで「お別れの会」を開いた。この時、佐保子夫人の許しを得て、祭壇に、私が持ち合わせている辻さんの全作品を刊行順に並べた。4年後、74歳になる誕生日に、パリのデカルト街37番地のアパルトマンの壁面に記念のプレートが取り付けられた。「日本の作家 辻邦生 この建物に1980から1990まで 滞在」。隣の建物には、ヴェルレーヌとヘミングウェーが住んでいたとのプレートがある。
高橋 一清 (Kazukiyo Takahashi)
1944年生まれ。松江市在住。
早稲田大学第一文学部卒業後、1967年、文藝春秋に入社。「文學界」「別册文藝春秋」「文藝春秋」「週刊文春」「オール讀物」の各編集部、また出版部部員を経て、「別册文藝春秋」編集長、「文春文庫」部長、「私たちが生きた20世紀」特別編集長、「文藝春秋臨時増刊」特別版編集長を平成17(2005)年3月まで務める。その間、日本文学振興会理事、事務局長として芥川賞、直木賞などの運営にあたる。同17年の4月より松江観光協会に観光文化プロデューサーとして赴任。文化観光による松江の魅力を国の内外に発信している。著書に『編集者魂』『作家魂に触れた』『百册百話』『芥川賞・直木賞をとる! あなたも作家になれる』等。
おわりに
高橋氏の語る辻邦生は如何だったでしょうか?
『夏の砦』は、P+DBOOKSから絶賛発売中です。
北欧の都会にタピスリの研究に訪れた支倉冬子が、ある日、忽然と消息を絶った・・・。 生の回復を求める魂の遍歴を精緻に描き、辻邦生の“死生観“が見事に結実した初期の金字塔的作品。「創作ノート抄」も併録しています。
辻邦生ファン必見ニュース!
辻邦生の自筆原稿や創作ノート等の展示
「努力を重ね続けた“藝術家”辻邦生の素顔に迫る」
辻邦生氏が生前教鞭をとっていた学習院大学史料館で、2016年7月15日~8月12日まで、「春の戴冠・嵯峨野明月記」展が開催されます。辻邦生の自筆原稿や創作ノート等の展示のほか、講演会、朗読会等も開催されます。
詳細は学習院大学史料館ホームページでご確認ください。
学習院大学史料館 編
全五回にわたる学習院大学史料館での展示図録に、松浦寿輝、佐藤賢一、保苅瑞穂、塩野七生ほかのエッセイ及び講演等の新原稿を多数追加収録する愛読者必携の一冊。【没後二十年記念出版】
目次 : 遠い園生―文学を志した旧制松本高校時代からパリ留学まで(単行本未収録 旧制高等学校時代の習作―日記「園生」より(翻刻 冨田ゆり)
/ 野崎守英―松原湖近くの山村で出会った三十歳の辻邦生さんのこと ほか)
/ 著作に寄せて1―『廻廊にて』から『嵯峨野明月記』まで(廻廊にて 中条省平―虚無と死をこえて幸福な脱我へ
/ 夏の砦 田邊園子―『夏の砦』の前後 ほか)
/ 明澄な眼ざし―回想の中の辻邦生(宇野千代―辻さんの印象
/ 水村美苗―想像力の優位 ほか)/ 著作に寄せて2―『背教者ユリアヌス』から『浮舟』(未刊)まで(背教者ユリアヌス 高橋裕子―辻邦生・佐保子夫妻と『背教者ユリアヌス』
/ 背教者ユリアヌス 蜂谷緑―誰からも愛された人、辻邦生さん ほか)
/ 世紀末への招待―華麗な頽廃の伝統 対談 塩野七生×辻邦生
/ 年譜・著作リスト
米本 浩二 (著)
『苦海浄土』の本質に迫る。
石牟礼道子は「手伝い」よりも「加勢」という言葉を好んだ。
人生の基本の姿勢は闘うことだった。
それならば「加勢」がふさわしい。
「密着取材」と「渾身介護」で神話的作家・石牟礼道子(2018年没)の最晩年に寄り添ったジャーナリスト入魂の最新評伝。読売文学賞受賞後第一作。
評伝執筆を志した著者は、2013年後半から石牟礼道子のもとに通い続けた。取材をしながら、本の朗読や手紙の代筆をへて、起居の手助けなど介護の一部も担うようになった。そして迎えた最期の日ーー。
「道子さんのそばにいるのであれば、道子さんのことを書かねばならない。渡辺(京二)さんの言を待つまでもなく、書かないと消えてしまう。そうやって夢中で書いてきた日々の文章をまとめたのが本書である。日記、インタビュー、対話などスタイルは違っていても、石牟礼さんのことを書き残したいという気持ちは一貫している。私は書くことで道子さんのそばにいたかったのだ」(本文より)
『評伝 石牟礼道子ーー渚に立つひと』(2017年、新潮社)で読売文学賞を受賞。その刊行後の、亡くなるまでのかけがえのない日々と、一周忌をむかえますます存在感を増してゆく文学者の本質を数々の肉声とともにつづる。
米本浩二(よねもと・こうじ)
1961年、徳島県生まれ。徳島県庁正職員を経て早稲田大学教育学部英語英文学科卒業。在学中に『早稲田文学』を編集。毎日新聞記者。石牟礼道子資料保存会研究員。著書に『みぞれふる空――脊髄小脳変性症と家族の2000日』(文藝春秋)、『評伝 石牟礼道子――渚に立つひと』(新潮社刊)で第69回読売文学賞「評論・伝記賞」を受賞。