全面解除1か月、27か所でクラスター…新規感染の半数は東京

2020年06月24日 12時55分44秒 | 社会・文化・政治・経済

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新型コロナウイルスの感染拡大に伴う政府の緊急事態宣言が全面解除されて25日で1か月となる。この間(5月25日~6月24日)の全国の新規感染者は1397人で、半数以上にあたる748人を東京都が占めた。
クラスター(感染集団)とみられる事例は全国27か所で発生しており、引き続き封じ込め対策と感染防止策の徹底が求められる。  
1か月間で100人以上の感染者が出たのは東京のほか、福岡県(176人)、北海道(156人)、神奈川県(106人)。この4都道県の感染者で全国の8割以上を占めている。  
一方、東北や九州などの17県では感染者がゼロで、21府県では1ケタ台にとどまった。全国的には収束傾向が見られるものの、都市部の一部でまとまった感染者が出ている状況だ。  
特定の場所や会合で5人以上の感染者が確認され、自治体が「クラスターが発生した可能性が高い」とみている事例は、6月24日までに東京や北海道など5都道府県で27か所に上った。  
東京都は24日、新たに55人の感染者が確認されたと発表した。都内では1か月間でクラスター事例が13か所で発生しており、ホストクラブなどの接待を伴う飲食店の関係者ら「夜の街」や、パーティーなどの「会食」での感染者が目立つ。
 北海道でも24日、小樽市内の飲食店で昼間にカラオケをした利用客ら9人の感染が判明。道内ではこうした「昼カラオケ」の利用者らの感染事例がほかにも3か所で確認されている。
 舘田一博・東邦大教授(感染症学)は「3密(密閉、密集、密接)の状況で声を出すことのリスクが改めて浮かび上がっている。経済と人の移動が戻る中でマスクを外して会話する場面が生まれやすく、クラスターの経路調査とともに、適切な手洗い・マスクや3密回避など感染防止策の徹底が重要だ」と指摘している。
 

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入管施設の長期収容 人権意識が問われている

2020年06月24日 12時55分44秒 | 事件・事故

社説

入管施設の長期収容 人権意識が問われている

毎日新聞2019年11月10日 東京朝刊

オピニオン

 人権意識が問われる課題だ。

 出入国在留管理庁の施設に長期収容される外国人が急増している。3年半収容されたナイジェリア人男性がハンガーストライキを行い、6月に餓死してクローズアップされた。

 男性は40代。窃盗罪などで服役後に国外退去を命じられ、長崎県の施設に収容された。離婚した日本人女性との間に子どもがいて、帰国を拒み、仮放免を求めていた。

 在留資格がないなどとして退去強制令書を出された人は入管庁の施設に収容される。期限の定めはない。

 今年6月末の収容者1253人のうち、6カ月以上の収容は54%の679人に上った。2年前、6カ月以上の収容者の割合は30%だった。現在、長い人は収容が7年に及ぶ。抗議のハンストは各地で起きている。

 長期化について入管庁は、収容者の7割が送還を拒否しているためと説明する。一方で2016年以降、仮放免者は減っており、条件を厳格化した運用が理由との指摘もある。

 入管庁は、送還拒否者の4割は入管法違反以外で有罪判決を受けており、仮放免を認めるべきでないと主張する。難民認定の申請中は送還されないため、制度を乱用した帰国逃れが一定数あるとの見解も示す。

 しかし、退去命令を受けた人の大半は出国する。送還を拒むのは帰国すると危険があったり、日本でできた家族と離れたりするからだろう。

 身体の自由は基本的人権の大きな要素である。仮放免は、もっと柔軟に運用すべきではないか。仮放免中の犯罪や逃亡は、就労を禁止されることが一因との見方もある。

 さらに、退去強制令書に伴う収容に、期限を設ける必要がある。収容はあくまで送還の準備が目的だ。海外では欧州連合が原則6カ月とするなど期限を定めている例が多い。

 退去や収容の手続きは行政処分として入管庁や法相が行っている。身体の自由を奪う判断であり、裁判所が関与する仕組みを検討すべきだ。

 日本の入管制度は度々、国連の機関から懸念を示されてきた。入管庁は有識者会議を設け、年度内に長期収容の改善策の提言を受ける。

 働き手不足で、日本は外国人の受け入れを拡大した。長期収容への対応は、日本が外国人にどう向き合っていくのかを示す指標でもある。

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入管収容長期化 確実な送還可能にする対策を

読売新聞 2019/11/25 05:00
 

全国各地の入国管理施設で、在留資格のない外国人の収容が長期化している。是正する手立てを講じねばならない。

 今年6月末現在、収容されている1253人のうち、半数超が6か月以上の長期収容だ。3年以上にわたる人もいる。長期収容者の割合は、5年前の約3割から増えている。

 入管施設は、不法滞在などで国外退去処分となった外国人を送還するまでの間、暫定的に収容する場所だ。長期の収容が、本来の趣旨を超えた運用になっていることは間違いないだろう。

 長崎県の入管施設では、送還を拒否して3年以上収容されていたナイジェリア人男性が、拒食の末に餓死した。死者まで出るのは、正常な状況とは言えまい。

 収容者の中には、人道上のやむを得ない理由から施設外で生活できる「仮放免」を求める人が多い。一部の収容者は、体調悪化による仮放免を狙い、ハンガーストライキに及んでいる。

 ただ、仮放免の許可にあたっては慎重さが求められる。仮放免中に逃亡したり、事件を起こしたりする事例が少なくないからだ。

 出入国在留管理庁は、薬物事件などの重大な犯罪で罰せられたことがある収容者に原則、仮放免を認めていない。個々の申請内容を精査し、仮放免の妥当性を見極めることが欠かせない。

 大切なのは、出身国への送還を拒否している収容者について、正当な理由が認められない場合には、出来る限り速やかに、送還手続きをとることである。

 日本が収容者を強制的に送還しようとしても、非協力的な出身国がある。必要なパスポートを発給しない、身柄を引き渡す日程調整を円滑に進めないといったケースが見られるのは問題だ。

 法務省と外務省は連携して、こうした国に対し、送還への協力を強く働きかけるべきである。

 難民認定申請中は送還できないため、申請を繰り返す収容者も目立つ。入管庁によると、認定の見込みがないのに申請する人もいるという。難民認定制度の悪用を防ぐ対策が必要だ。

 理由なく送還を拒み続ける人に対し、何らかのペナルティーを科すことも検討課題と言えよう。

 今年4月に特定技能制度が始まり、外国人労働者の受け入れは今後、大幅に拡大する。適切な出入国管理は、その大前提である。

 入管庁の有識者会議は、長期収容問題を議論している。実効性のある防止策を探ってほしい。

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外国人の長期収容に終止符を!
アムネスティ日本
ホーム あなたにできること オンラインアクション 外国人の長期収容に終止符を!
出入国在留管理庁(入管庁)の収容施設では、オーバーステイなどの外国籍の人たちの収容が長期化しています。長期収容されている人たちの中には、人生のほとんどを家族と一緒に日本で暮らしている人や、自国に戻ると迫害のおそれや命の危険がある難民認定申請者など、帰国できない理由がある人たちが多いと言われています。

長期収容は、身体の自由を奪う扱いであるだけでなく、いつ釈放されるのか分からない収容者に多大な不安を与えるものであり、心身に過度のストレスを生じさせます。このような扱いに耐えかねた収容者が抗議のためハンガーストライキを決行するケースが急増し、2019年6月には餓死者が出る事態に至りました。入管庁は、ハンストをやめさせるために仮放免(一時的に収容を停止して収容者を釈放する)措置をとりましたが、対象者は短期間で再収容されています。問題の解決につながらない入管庁の対応は、身体の自由と表現の自由を侵害する行為に他なりません。

さらに入管庁は、収容者の送還を促進するために、難民認定申請者を強制的に出国させることを禁止している法規定の改変までも検討しています。このままでは、日本に逃げてきた難民や庇護希望者が日本から追い出され、本国で命の危険にさらされる事態になりかねません。自国で受けた迫害や生命の危険からやっとのことで逃れた難民を本国に送還することは、国際法上で明確に禁止されています。「ノン・ルフールマンの原則」と呼ばれるこのルールは、いかなる場合でも遵守する義務があります。日本も批准している難民条約の基本原則の一つでもあります。

移民・難民の基本的人権を守るため、次の3点を法務大臣に要請する署名に参加してください!

抗議活動を行う入管施設収容者を仮放免で釈放し、短期間の後に再収容するのはやめること
ノン・ルフールマンの原則をいかなる場合でも遵守すること
出入国管理上の収容は送還の準備に必要な短期間に限るよう、収容期間に上限を設けること


童謡詩人 野口雨情

2020年06月24日 12時38分54秒 | 事件・事故

このページでは、「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「船頭小唄」「波浮の港」等を作詞し、今なお多くの人々の心に愛着を抱かせる当市が生んだ詩人「野口雨情」を紹介します。

施設概要

北茨城市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)は、北茨城市に生まれ日本三大童謡詩人の一人とされる野口雨情の偉業を顕彰し後世に伝えるために開館されました。
また、北茨城市の特色を示す民俗、文化財あるいは歴史の流れを裏づける遺物、文書等の歴史資料を保存展示し、郷土の歴史と文化に対する知識と理解を深め文化の振興を図ることを目的としています。


雨情40代後半頃の写真
  • 野口雨情の生い立ち&年譜
    詩人、野口雨情誕生から、逝去までを当時の写真と共に紹介します。
  • 童謡
    雨情のたくさんの童謡の中から、よく耳にする代表作23編を選びました。
  • 民謡
    雨情は日本全国で多くの地方民謡(ご当地ソング)を作っています。
  • 校歌

    雨情の校歌は、平成14年9月現在見つかっているだけで、31作品あります。
    日本国内だけでなく、中国、韓国、台湾の学校でも作詞していました。

生い立ち

は、明治15年(1882)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として生まれ英吉と名付けられました。
生家は、かつて水戸徳川家藩主の御休息所で「観海亭」と称され「磯原御殿」とも言われた名家で、家業は廻船業を営み、父は村長を2期務めた人望家でもありました。
明治30年(1897)伯父の衆議院議員野口勝一(北厳)宅に寄宿し、同34年4月、東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)に入学しますが、1年余で中退しています。
少年時代より文学的素養にとみ、回覧雑誌への掲載のために民謡風の作詩をしていたと言われています。

詩壇登場と漂泊のころ

 


前列右端から、雨情。
前列左から2番目が、佐藤千夜子
雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしでした。明治35年(1902)3月、文芸雑誌「小柴舟」によって詩壇に登場しますが著名の域までにはいたりませんでした。
同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ヒロと結婚。同38年3月、処女詩集「枯草」を自費出版したものの中央詩壇までは響きませんでした。
同39年樺太に渡り、のち早稲田詩社の結成に参加し、やがて北海道に新聞記者として渡り2年余り漂泊しました。この間、石川啄木との交友がありました。
明治45年中央より離れて帰郷し詩作活動を続けながら村の公職にも就いています。

童謡・民謡詩人としての活躍

大正4年(1915)妻ヒロと離婚の後、現いわき市常磐湯本町の柏屋に移り、詩作活動を続けます。同7年水戸へ出て「茨城少年」の編集にあたりながら童謡作品を発表し、秋、中里つると結婚します。同8年、西条八十等の紹介もあり中央の児童雑誌に童謡作品の発表を開始します。
また自由詩集『都会と田園』の刊行により詩壇復帰をはたします。著名な「船頭小唄」(原名枯れすすき)を作詞し、中山晋平に作曲を依頼したのもこの頃です。同10年には「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」などの作品を発表し、同11年から『コドモノクニ』にも作品を発表します。「雨ふりお月さん」「あの町この町」「兎のダンス」等は、この雑誌に掲載されました。作曲家の本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の試作に最適の曲譜を付けたことも幸運でした。
雨情はこの時期ごろから全国各地への童謡・民謡普及のための講演旅行が多くなり、その足跡は国内のみならず当事の台湾・朝鮮・満州・蒙古にまで及んでいます。新民謡作品も「須坂小唄」をはじめ、全国各地で数百編にもなります。
昭和10年(1935)ごろから詩作は減少し、同18年病に倒れます。同19年宇都宮郊外に戦火を避けて疎開します。昭和20年(1945)1月27日、永眠、行年63歳。

年譜

明治15年 5月29日、茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として出生
明治30年 4月上京、東京数学院中学へ入学。(のち、順天中学に編入)この頃、小川芋銭と知り合う
明治34年 東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)入学。坪内逍遥の薫陶をうける
明治37年(1904) 父、死去。帰郷し家督を継承。11月、栃木県喜連川の高塩家の娘「ヒロ」と結婚
明治40年 「早稲田文学」に詩作品を掲載。新聞記者として北海道へ渡り、札幌の「北鳴新報社」入社。石川啄木と知友となる
明治42年 北海道を離れ、帰郷後、上京する
明治45年 故郷に帰る。山林管理や、漁業組合の公職につき、雑誌なども刊行する
大正4年 妻ヒロと協議離婚。のち、二児を連れて、湯本の柏屋に住む
大正8年 詩集『都会と田園』で詩壇復帰。「枯れすすき」作詞、中山晋平に作曲依頼(のちの船頭小唄)『金の船』に童謡作品を発表
大正10年 童謡集『十五夜お月さん』、「七つの子」「赤い靴」発表。長編童話「愛の歌」を出版。民謡、童謡普及の講演旅行へ
大正11年 『コドモノクニ』に童謡作品の発表開始。評論『童謡の作りやう』を出版。「黄金虫」「シャボン玉」発表
大正13年 「あの町この町」「波浮の港」発表、童謡集『青い眼の人形』を出版。「證城寺の狸囃子」発表
大正14年 「雨ふりお月さん」発表。評論「童謡と童心芸術」を出版
昭和4年 民謡集「波浮の港」を出版。「全国民謡かるた」を出版。雑誌「民謡音楽」主幹
昭和10年 日本民謡協会を再興し理事長となる
昭和15年 このころから4年間、全国各地を巡訪し、地方小唄を作詞
昭和19年 栃木県河内郡姿川村鶴田(現、宇都宮市)に転居し、療養生活に入る
昭和20年 1月27日、永眠

斬鉄剣は小樽にあった!? 隕石から作られた「流星刀」初公開 榎本武揚ゆかりのお宝

2020年06月24日 12時23分32秒 | 社会・文化・政治・経済

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「石川五ェ門の斬鉄剣?」と話題に

榎本武揚が作らせた「流星刀」

 北海道開拓に貢献した榎本武揚が隕石から作らせた刀剣「流星刀」が6月21日、小樽市の龍宮神社で初めて一般公開された。新型コロナウイルス禍で今年は例大祭のみこし渡御や露店は取りやめた一方、武揚ゆかりのお宝の御利益にあずかってもらおうと企画。大勢の参拝客が疫病退散を願った。

【動画】隕石から作られた「流星刀」初公開

 龍宮神社は1876年(明治9年)に創建。富山県で見つかった隕石「白萩隕鉄」を武揚が買い取り、刀工に頼んで1898年(明治31年)に制作した5本のうちの1本。刃渡り約19センチの短刀で、2017年に武揚のひ孫の榎本隆充さんが、武揚ゆかりの同神社に奉納した。  

北海道浜中町出身の漫画家モンキー・パンチさんの原作「ルパン三世」に登場するキャラクター、石川五ェ門が持つ刀「斬鉄剣」は隕石から作られているとの設定のため、ルパン三世ファンの間で公開前からSNSなどで情報が拡散。公開当日には小樽市内外から多くの人が詰め掛け、長い行列ができた。見学者は神秘的な雰囲気漂う刀剣を興味深く眺めていた。

 

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小樽市で感染拡大9人「昼カラ」で新型コロナ…新たなクラスターが発生 市長が市民に注意呼びかけ

2020年06月24日 12時23分32秒 | 事件・事故

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小樽市の迫俊哉市長は6月24日午前11時から会見を開き、市内で確認された新型コロナウイルスの感染者9人について詳細を発表しました。  

感染が確認されたのは、いずれも小樽市内に住む9人で、市内の飲食店でカラオケを利用していた人が7人、その家族が1人、カラオケ店の経営者が1人です。  

9人とも症状は軽症または無症状で、うち7人は市内の指定医療機関に入院したということです。  

5人以上の感染者が確認されたことから、小樽市はクラスターが発生したと判断。店名の公表については、店の経営者の意向とリンクが追えていることから、控えたいとしています。  

小樽市での新型コロナの感染確認は46日ぶり。感染者は計28人となりました。

 迫市長は「人の動きが出始め、ここ1~2週間は注意が必要と思っていた中でのクラスター発生は大変残念だ。改めて感染予防策の徹底を呼び掛けていきたい」と述べました。

<感染が確認された9人の内訳>

▼70代男性(無職)昼カラ利用客

▼60代女性(無職)昼カラ利用客

▼年齢・性別非公表(無職)

▼80代男性(無職)昼カラ利用客

▼女性 年齢非公表(無職)昼カラ利用客

▼年齢・性別非公表(無職)昼カラ利用客

▼60代男性(団体職員)昼カラ利用客

▼70代男性(無職)昼カラ利用客

▼年齢・性別非公表(自営業)飲食店経営者

UHB 北海道文化放送

 

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ヒロシマ愛の川

2020年06月24日 11時56分43秒 | 社会・文化・政治・経済

新型コロナウイルスの影響で、とうろう流しの一般参加が中止になりました。
これを受け、広島愛の川プロジェクトは、本年度は現地での合唱は行わず、

代わりに日本全国から(海外からも)みんなで歌った動画を募集いたします。

広島、国内、海外からの子供達、歌手の皆さんとで歌う動画を集め8月6日現地での催しと組み合わせた動画を作り発信します。ぜひご参加ください。

 

参加いただける方は下記の参加方法のリンク先から、申し込みフォームにてご記入をお願いいたします。

​「広島 愛の川」の詩について

はだしのゲンの作者、中沢啓治さんは、

晩年、一つの詩を書き遺しました。

入院中、病院近くの平和記念公園を散歩しながら、じっと川を眺めていたそうです。

「はだしのゲン」では、

地獄の様な場面で描かれていた広島の川。

見るのも辛かったことかと思います。

でも、この詩で、中沢さんはその川を

「愛の川」と表現しています。

「怒り」「悲しみ」を背負うのは、

もう自分たちの時代だけで十分だ。

次の世代には、「優しさ」を残してあげたい。

最後まで、平和を願った

中沢さんの思いが伝わってきます。

この遺された思いを

また、次の世代へと繋いで行けるように

消えてしまわないように

毎年8月6日、みんなで歌い続け、

思いを繋いでいきたいと思います。

 

​私たちの思い

10年先へ繋ぐ  歌プロジェクト

2015年は、被爆70年です。

その先の、80年を想像して下さい。

どうなっているでしょう。

 

子供は、大きくなり

若者は、親になり

次の時代へ向かって行く一方

戦争を知る方々は、

もうほとんど自らの体験を語れなくなっている。

 

いろんなことが変わってしまっていても

守っていきたいことがあります。

 

 

 

そんな10年後、

 

大切な何かを失っていませんか?

今、信じた未来は、どうなっていますか?

 

平和は続いていますか?

 

今、未来を想像し、

思いを先へ繋げて行く

そんな機会があればと思います。

 

 

音楽には、時間を超えて思い出や感情を運ぶ、

という力があります。

 

時を挟み、同じ場所で、同じ人達で、同じ歌を歌う

変わってしまったものは何なのか、

守り続けたものは何なのか

気づけたらと思います。

 子供は、夢を、

大人は、次の世代に託したいことを、

それぞれの思いを繋いでゆく。

 そんな歌を、みなさんで一緒に歌えたらと願い、

このプロジェクトを立ちあ上げます。

2014年12月19日

                                                     (中沢啓治さんのご命日に)

 

 

        作曲家 山本加津彦


10代女性に「泊まっていいよ」…自宅で性的暴行 容疑で会社員を再逮捕 他にも事件「知らない」/川越署

2020年06月24日 11時43分16秒 | 事件・事故

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埼玉県の川越署は23日、わいせつ目的誘拐と性的暴行の疑いで、川越市熊野町、会社員の男(29)を再逮捕した。 女子中高生14人に睡眠導入剤…性的暴行、裸を撮影 容疑の男を追送検 女性数十人とのわいせつ行為も判明

 逮捕容疑は昨年11月下旬、同年夏頃にSNSで知り合った県内の10代女性に対し、「自宅に泊まっていいよ」などと誘い、わいせつ目的で自宅に誘拐して性的暴行を加えた疑い。

 同署は別の女性に対する児童買春・ポルノ禁止法違反容疑で5月5日に男を逮捕し、同25日には県青少年健全育成条例違反などの疑いで再逮捕していた。調べの中で今回の容疑が浮上した。「知らない」などと容疑を否認しているという。

 

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小田急線トンネルで男性ひかれ死亡 一時運転見合わせ 

2020年06月24日 11時40分15秒 | 事件・事故

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23日午前11時55分ごろ、小田急線渋沢-新松田間の第一菖蒲トンネル(秦野市千村、約450メートル)内で、同市に住む無職男性(21)が新宿発小田原行きの快速急行にひかれ、間もなく死亡した。秦野署が事故原因を調べている。

【写真でチェック】ロマンスカーに車が突っ込む  

署によると、電車の運転士が新松田側から約50メートルのトンネル内で、線路上に横たわっていた男性を発見し、ブレーキをかけたが間に合わなかった。男性がトンネルに立ち入った経緯は不明という。  

小田急電鉄によると、同線は秦野─新松田間で上下線45本が運行を見合わせ、約7200人に影響した。

神奈川新聞社

 

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横浜市で火事、6人死傷 工事関係者が寝泊まりか

2020年06月24日 11時35分53秒 | 事件・事故

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24日午前3時45分ごろ、横浜市青葉区しらとり台の建物から火が出ていると、通行人の男性から110番があった。神奈川県警青葉署などによると、木造2階建ての建物が全焼。男性6人が病院に搬送され、うち1人の死亡が確認された。  

消防などによると、搬送されたのは10~50代の男性で、亡くなった1人の他、少なくとも1人が重症。建物には工事関係者が寝泊まりしていたとみられ、1階が特に激しく燃えているという。  青葉署は出火原因や亡くなった男性の身元の特定を急ぐ。現場は東急田園都市線の青葉台駅から南西約1キロの川沿い。

 

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安保戦略練り直し着手へ NSC、今夕開催 政府

2020年06月24日 11時31分23秒 | 事件・事故

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政府は24日夕、国家安全保障会議(NSC)の会合を首相官邸で開き、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入計画停止を受けた安全保障戦略の練り直しに着手する方針だ。  
今夏に集中的に議論を進め、外交・安保政策の中長期的な指針である国家安全保障戦略の初改定や防衛計画の大綱などの修正を視野に入れる。  

政府はこれまで陸上イージスをミサイル防衛の柱と位置付けていたが、河野太郎防衛相が15日、周辺住民の安全性確保に必要な迎撃ミサイルの改修に費用と時間がかかりすぎるとして停止を発表。これを受け、安倍晋三首相が「わが国の防衛に空白を生むことはあってはならない」として安保戦略の練り直しを表明した。 

 

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「助けてください」 入り口ふさがれた壕から2日響いた声 沖縄戦から75年、遺骨の一部見つかる

2020年06月24日 11時26分26秒 | 社会・文化・政治・経済

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発掘調査のため落石が撤去され、石が積まれた山城壕付近。石積みと茂みの下辺りに壕があるとみられる=22日、糸満市束里

 2019年度に県内で収集された沖縄戦犠牲者の遺骨は59柱(暫定値)で、過去3年で最多だった。このうち1柱は、家族5~6人が生き埋めになったとの証言がある糸満市束里の「山城壕」で今年2月末、45年ぶりに厚生労働省が収集した。県内には今も、2790柱が地中に眠ったままとされる。

この記事の他の写真・図を見る  厚労省によると、山城壕で見つかったのは右すねの外側の骨(腓骨(ひこつ))。形質鑑定で人骨と鑑定されたが年齢層は不明。5人が生き埋めになったとの証言を基に1974~75年度にも同じ地点で3柱を収集したが、安全上の理由で中断。このほど、壕上部の岩石を重機で撤去するなどすれば安全確保できると判断し、地権者などに説明した上で再調査した。他に遺骨は見つからず、調査は今回でおおむね終了する方針。  

山城壕は糸満市の束辺名(つかへな)公民館近くの山中にある。当時を知る山城住民の仲門キクさん(87)によると、「桃原」さん家族が避難していた。父は防衛隊にとられ、祖母と母、男女4人のきょうだいが壕にいた。糸満市史の世帯別戦災調査によると、山城で当時「桃原」姓は1家族だけ。戸主は「桃原蒲」さんで、家族8人のうち6人が同市域で死亡し、1人が軍人軍属として市域外の県内で戦没した記録が残る。

 現在山城区長を務める仲門保さん(70)は、亡き父の忠一さん(享年84)から生前、桃原さん一家の話をよく聞いていた。

 地上戦が激しくなる前の梅雨の時期、山城壕付近に米軍の砲弾が直撃し周辺が落盤。外にいて助かった末娘の「キヨ」さん(当時15、16歳)が、近くの壕「マヤーアブ」まで助けを呼びに来たため、忠一さんら数人が救助に向かった。砲弾は壕に直撃せず、土砂で入り口がふさがれたとみられ、中からは「助けてぃくみそーりよー(助けて下さい)」との叫び。しかし人力では岩や土砂を撤去できず、2~3日後に声は途絶えた。  

保さんは、一家全員の遺骨を供養したいと県や国に発掘を要請していたが長年進展はなかった。  

ところが今年3月、壕付近で遺骨収集らしき作業が行われているのを目撃し、厚労省に問い合わせると山城壕の発掘だった。「犠牲家族を気に掛けてきた山城住民に何の説明もないまま調査が始まり、報告もなく終わってしまった。戦時を知る住民への確認もなく、何を根拠に作業をしたのか。いいかげんではないか」と腑(ふ)に落ちない。調査内容と結果について報告会を開くよう求めており、厚労省と調整している。

 

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家族10人失った8歳に日本兵が銃を…「神様、助けて」 一人で生きた沖縄戦体験を初証言 金城節子さん(83)

2020年06月24日 11時21分02秒 | 事件・事故

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<button class="sc-TOsTZ gsCfop" type="button" aria-label="次へ" data-rapid_p="39"></button>沖縄戦体験を初めて公に証言した金城節子さん=20日、糸満市

 1945年6月中旬、本島南部の旧摩文仁村伊原。米軍が空からの爆撃と艦砲射撃で日本軍陣地に徹底的な攻撃を加える中、当時8歳だった糸満市糸満の金城節子さん(83)は、ひとりぼっちで戦場を逃げ惑っていた。「パーパー(おばあ)よ」。

はぐれた祖母を探し、泣き叫ぶ少女に日本兵は「撃つぞ」と銃を向けた。その時、「ヒンギレー(逃げろ)」。近くから声が聞こえた。一目散に必死で逃げた。「神様、神様、助けて、助けて」。心の中で叫び続けた。  

沖縄戦から75年。戦争で家族10人を失った金城さんは、自らの体験を初めて語った。  米軍が迫っていた45年6月。金城さんは母の富さんと弟の正一ちゃん、正康ちゃん、祖父の勝二さんと祖母のトクさん、親戚の美代子さん、父方の祖父の次良さんなど計11人で糸満の集落を転々と逃げ続ける中、次々に家族を失った。同じころ、日本軍は与座岳から国吉―真栄里―米須を最後の防衛戦として部隊を再配備し、徹底抗戦していた。米軍は空と海、陸から猛攻撃を加え、西側から摩文仁へ迫った。一家が逃げ惑った時期と経路は、まさに最後の激戦の渦中だった。  

実家のある糸満を出て国吉から真栄里に向かう途中、ちぎれた日本兵の足を踏んで驚いて歩けなくなってしまった金城さん。おぶってくれたのは祖父の次良さんだった。しかし次良さんは歩けなくなり、真栄里の手前で別れた。「お母さんたちに付いて行きなさい」。それが最後の言葉だった。  

真っ赤に防風林が燃える真栄里を通過し、伊敷にたどり着いた。金城さんと母の富さん、弟2人は屋敷内の石垣のそばに隠れ、他の家族は馬小屋に身を潜めた。金城さんは「パーパー(おばあ)のそばがいい」と美代子さんと場所を代わってもらった。  

「バーン」。10分もしないうちに、近くに落ちた爆弾が美代子さんを吹き飛ばした。即死だった。そばにいた母の頭上には、空から機銃掃射が降り注いだ。母がおぶっていた、末弟の正康ちゃんの頭を弾が貫通した。2人の遺体を道端の畑に埋め、先を急ぐしかなかった。

 けがをした母と、母を担いでいた叔父らが遅れ、伊原にたどり着いた時には、祖母と弟の正一ちゃんの3人となっていた。ガジュマルのそばに座った。そこに日本兵が来た途端、爆弾が落ちた。破片が日本兵の鉄かぶとに当たって跳ね返り、正一ちゃんの頭を直撃した。祖母は幼い孫の亡きがらを畑に埋め「後で迎えに来るから」とつぶやいた。

 祖母と2人だけとなり、逃げる金城さんの頭上には艦砲弾が「ヒューヒュー」と飛び交った。爆弾が近くに落ち、ついに祖母ともはぐれた。戻って祖母を探すが見つからない。たくさんの死体に紛れて米軍をやり過ごし、伊原の近くで米兵に背後から捕らえられた。  

戦後、金城さんは稼業を優先し、自身の戦争体験を公に語らなかった。日本兵に銃を突き付けられた恐怖や戦場での心細さは胸の奥深くにとどめたが、記憶は消えることはなかった。「ずっと苦しかった。この年になったら体験したことを伝えたい、という気持ちを我慢する必要はないと思った。本当に戦争は生やさしいものではない」  体験 次代へ継ぐ 今語らなければ 「戦争は人の心を鬼に」  

金城節子さん(83)=糸満市糸満=は戦後、自身の戦争体験を公の場で語ってこなかった。県遺族連合会と日本遺族会が主催する「平和祈願慰霊大行進」には毎年、参加した。しかし昨年、途中で体調を崩して歩くのを中断するなど自身の体力の衰えを感じた。「今語らなければ、もう残せないかもしれない」。切実な思いがあり、自らの体験を語る決意をした。  

沖縄戦で親戚や弟2人の死を目の当たりにし、はぐれた母や祖母を探し、戦場を一人でさまよった。逃げる途中、至る所に散らばる遺体を目にした。「シュー」。気付かず、膨れあがった遺体を踏むと音がした。内蔵がえぐれた日本兵の遺体が転がり、死んだ母親に寄り添って泣く子どもを目にしても、何も感じなかった。金城さんは「戦争は人の心を鬼にする」と振り返る。  

戦後は慰霊大行進を歩き、亡くなった家族を弔った。行進コースには金城さんが戦争中、家族と一緒に避難した行路が含まれる。当時は遺体であふれていた道は、今はきれいに整備された。家族が亡くなった場所の近くを通るたび「今年も会いに来たよ」と心の中で語り掛けた。  

自らの戦争体験を残したいと願う金城さんの気持ちを受け止めてくれたのは、またいとこの新垣康博さん(69)で、昨年11月から聞き取りを始めた。金城さんは「自分が死んだら終わりで、もう残せないと思っていた」と感謝する。  

体験を残したいと考えるのはもうひとつ理由がある。金城さんは沖縄戦の直後、旧具志川村前原の収容所に移され、孤児扱いとなったが、母方の祖母の姉・カメさんが収容所に迎えに来てくれた。カメさんの一家に引き取られ、カメさんの娘の玉子さんにも、よくしてもらったという。自らの体験を残し、感謝の気持ちを表したいと考える。  

沖縄戦から75年が経過した。戦後生まれの世代は、戦争の恐ろしさを真に受けていないのではないかと感じる。「戦争の苦しみは体験した人じゃないと分からない。戦争の教訓は平和だ。誰がなんといっても平和が大事なんです」。金城さんは力強く語った。(中村万里子)

琉球新報社

 

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味方に殺されたなんて…沖縄戦、17歳少年兵の残酷な最期

2020年06月24日 10時55分20秒 | 社会・文化・政治・経済

6/22(月) 9:54配信
西日本新聞

高江洲義英さんが亡くなる約2年前に撮影した国民学校高等科の卒業写真。後列左から4人目が義英さん

 茶封筒から取り出した一枚のモノクロ写真。丸刈りの少年とセーラー服を着た少女たちが緊張した面持ちで並んでいる。裏には「昭和拾八年卒業生 18名 三月廿八日 高江洲義英(たかえすぎえい)」と記されていた。

【写真】17歳で亡くなった少年兵

 「運良く焼け残った兄の写真。幼いでしょう」。那覇市の高江洲義一(ぎいち)さん(82)は写真を見つめながら語り始めた。兄は昭和18(1943)年、写真に写る仲間と国民学校高等科を卒業。1年7カ月後に少年兵となり、沖縄本島北部の山中で命を落とした。17歳だった。

 10歳離れた兄と遊んだ記憶はほとんどない。ただ、米軍が本島に上陸する数カ月前、訓練の合間に沖縄県東村の実家に一時帰宅した日ははっきりと覚えている。

頭蓋骨を抱いて泣き崩れた母
 「当時珍しかった2色刷りの絵本を買ってきてくれてね。インキのにおいは頭を離れないさあね」。軍服姿の兄は軍靴を棒に引っ掛け、はだしだった。「靴擦れを起こしたんですよ。ほとんど履いたことがないから」。目の前の海で捕れたタコを湯がき、家族でつついたのが最後の晩餐(ばんさん)となった。

 戦後、兄は骨となって戻ってきた。砲弾が当たり破傷風で死んだと聞いた。「畑作業に出ては兄の帰郷を待ちわびた母の姿が忘れられない」。既に2人の子を沖縄戦で失っていた母は頭蓋骨を抱いて泣き崩れた。

 沖縄では三十三回忌で供養を一区切りする風習がある。節目の1977年6月に営まれた慰霊祭で、いつもは冷静な父が取り乱した。兄の元上官に詰め寄り「子どもを殺したのにあなたは生きているのか」と泣き叫んだ。「殺した」という言葉が心に残り続けた。

「どこで、どんな死に方をしたか知りませんか」
 2013年、本島北部を巡る平和学習バスツアーに参加した。兄が死んだとされる恩納村に近づき、座席から身を乗り出してガイドに尋ねた。「兄は護郷隊でした。どこで、どんな死に方をしたか知りませんか」

 この時、ガイドを務めていたのが名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さん(60)。彼は、まさに少年ゲリラ部隊「護郷隊」の調査中だった。
護郷隊の実態は

「証言の中にある生きた証しに耳を傾けることが大切だ」と語る川満彰さん=名護市

 「故郷は自ら護(まも)る」

 75年前、旧日本軍がこう命名した護郷隊の実態は少年兵によるゲリラ部隊だった。大本営は沖縄戦を本土決戦までの時間稼ぎと位置づけ、少年兵は沖縄と一緒に「捨て石」にされる。

 護郷隊には14~19歳の少年約千人が集められた。本島北部の山間部に潜み、米軍の進路を防ぐため橋を爆破するなどゲリラ戦を展開。死も恐れない少年兵は、米軍から「ゴキョウタイは手ごわい」と恐れられた。激戦に身を投じた隊の犠牲者は約160人に上った。

 「兵力不足は深刻で、召集の多くは法令違反だった」。名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さん(60)はこう指摘する。

 召集は陸軍省令に基づき行われた。1944年11月に19歳から17歳に引き下げられ、翌12月からは志願すれば14歳から召集を可能にした。ただ、施行前の召集や親の承諾など必要な手続きを取らないことが多かったという。

「フェンスの向こうは別世界さね」
 川満さんは米軍嘉手納基地の町、コザ市(現沖縄市)で生まれ育った。「地元の子はみすぼらしい服に島草履。米軍の子はカラフルな服に革靴。フェンスの向こうは別世界さね」

 団体職員の傍ら、30代で戦跡を訪ねる平和ガイドを始めた。沖縄の歴史を学ぶため44歳で沖縄大大学院に入学。2008年に市教委の嘱託職員になり、護郷隊の調査に取りかかった。

 先行の研究は証言の収集が不十分で「点と点の状態」。戦没者名簿や、護郷隊の結成に関わったスパイ養成機関・陸軍中野学校OBがまとめた記録から生き残った隊員、将校を探した。

 「10人殺したら死んでいいと教えられた」「爆薬を背負って戦車に体当たりを命じられた」「遅刻を理由に上官からスパイと見なされ、幼なじみに射殺された隊員がいた」-。目の前の友の死に何も感じなくなったとの証言もあった。

 調査から7年。ある元隊員が「軍医が少年を射殺した」と話した。軍医は少年に毛布をかぶせて拳銃を発射。1発目が外れると少年は毛布を払って笑いだし、2発目で絶命したという。
「味方に殺されたなんてショック。でもモヤモヤは晴れた」

兄義英さんの名前が刻まれた慰霊塔の前で「70年かかったが真実を知ることができて良かった」と語る高江洲義一さん=沖縄県名護市

 少年の名は高江洲義英(たかえすぎえい)。バスツアーで熱心に質問した高江洲義一(ぎいち)さん(82)の兄だった。

 元隊員は、重い病気やけがを負った隊員は足手まといになるため、射殺されたと証言。遺族への説明については「そんな残酷なことはできない」と尻込みしたが、15年6月23日の慰霊祭で対面した義一さんに兄の最期を教えてくれた。

 その様子をテレビで見たいとこから、義一さんに連絡があった。「やっぱり知らなかったのか」。いとこの兄は護郷隊から生還し、義一さんの父に全てを話していたという。三十三回忌で父が取り乱した理由がようやく分かった。「味方に殺されたなんてショックさ。でもモヤモヤは晴れた」

 川満さんは証言は記録するだけでなく、どう生かすかが重要と思う。「一人一人の生きた証しに耳を傾けると死者の名前がただの記録じゃなくなる。戦争の愚かさが、より理解できる」

    ◇    ◇   

 沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結して75年。23日に慰霊の日を迎える。市民約9万4千人を含む約20万人が犠牲になった地上戦の体験者は減り、県民の9割は戦後生まれになった。体験者の思いをどうつなぐのか。戦後世代の取り組みから沖縄戦と平和を考える。 (那覇駐在・高田佳典)

 

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「逆へ逃げた」9歳の脳裏に焼き付いた、数え切れぬ人の死 弟の小さな手は決して離さず

2020年06月24日 10時55分20秒 | 社会・文化・政治・経済

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沖縄戦で命を奪われた母ウシさんと当時7歳だった弟保善さんの名前が刻まれた「平和の礎」で思いを語る金城保盛さん=19日、糸満市摩文仁

[戦後75年の証言 語りつくせぬ記憶](2)  生き残ったのは、5歳の弟と2人だけ。互いの小さな手を離さぬよう握り合い、逃げ惑う大人たちの後を追うことしかできなかった。無残な遺体、傷つき苦しむ人々を見ても気にする余裕はない。母や弟、祖父の死さえ、「悲しんだのかどうかも覚えていない」。 この記事の他の写真・図を見る  

■凄惨な光景  

1945年6月、真壁村真栄平(現沖縄県糸満市)。当時9歳で米軍の銃弾に家族を奪われた金城保盛さん(84)=南風原町=は、三男の保信さんと戦火を逃げ惑っていた。凄惨(せいさん)な光景、遺体の臭いなど言葉にできない数々の体験は鮮明に覚えているが、これまで、家族にもほとんど話せていない。  

28歳だった母ウシさんは、家族一緒に隠れた大きなガジュマルの根元で保信さんを抱いたまま亡くなっていた。当時7歳の次男保善さんは、4人で潜んだ馬小屋の中で祖父と共に即死。母はすぐそばで、保善さんと祖父は数メートル向かい側に座ったまま、息絶えた。

 最初に亡くなった母の妹は埋葬できたが、「母や弟、祖父はそのまま」。子ども2人では、どうにもできなかった。厳しくも子ども思いの母、けんかはしても仲良しの弟。戦後すぐ、遺骨を探したが、ガジュマルも馬小屋も跡形も無く、すべて焼け野原になっていた。

 ■激戦地さまよう  

父は徴兵されて、母と3兄弟の家族4人。艦砲射撃が激しくなる前の3月に親戚のいる玉城村船越(現南城市)へ避難していたが、4月下旬か5月からは母の妹とその2歳前後の娘、祖父を含む7人で激戦地へと追い詰められていった。  

「知念半島は爆撃しないから向こうへ逃げろという感じの米軍の宣伝ビラがあったが、日本兵が『1カ所に集めて皆殺しにされる』というから逆へ逃げた」

 雨の中、新城から富盛へと逃げた時、150メートルほど前の日本兵2人に艦砲射撃が直撃した。初めて見た人の死。「人の形は残ってるがほとんどバラバラ。水たまりが血に染まった」。壕を見つけても「死体だらけ」で入れず、岩陰など少しでも安全な場所を求め、銃撃の中をさまよった。

 母たちを亡くした後も数え切れない死を見た。石に埋もれた状態で座る2人の女学生、ちぎれた足を引きずり戦車に隠れようとする日本兵-。当時9歳の脳裏に、鮮明に焼き付いた。  

母たちの遺骨も見つからないまま迎えた戦後75年。「慰霊の日」前に、今年も糸満市の「平和の礎」に刻まれた名前に触れ、「魂魄の塔」に手を合わせた。

 「本土側からすれば沖縄は捨て石。よくもあんな惨めな戦争をやらかしたと思うよ」。保盛さんは自宅での取材中、時折目を潤ませても、穏やかな語り口と表情は崩れなかった。ただ、テーブルを指でたたく音が静かに響いていた。(社会部・新垣玲央)

 

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沖縄戦終結75年「慰霊の日」 平和への誓い新た 

2020年06月24日 10時48分03秒 | 社会・文化・政治・経済

2020/6/23 9:33 

沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった人を悼む「慰霊の日」を迎えた。75年前のこの日、多数の住民を巻き込んだ地上戦の末、旧日本軍の組織的な戦闘が終結したとされる。最後の激戦地、糸満市摩文仁の平和祈念公園では県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開かれ、参列者は平和への誓いを新たにした。

県は新型コロナウイルス感染防止のため、例年より追悼式の規模を縮小した。式には遺族代表や玉城デニー知事らが参列し、正午に犠牲者に黙とうをささげた。参列者は約160人で、安倍晋三首相の招待も見送った。

玉城知事は平和宣言で米軍普天間基地(宜野湾市)の名護市辺野古への移設反対の立場から「我々世代が未来を見据え、責任を持つことが重要」と訴えた。

安倍首相はビデオメッセージで「基地集中の現状は、到底是認できるものではない。政府として、基地負担の軽減に向け、一つ一つ確実に、結果を出していく」と決意を述べた。

今年は戦後75年の節目のため、被爆地の広島、長崎の両市長や国連の代表者を招く予定だったが、招待を見送る代わりにビデオメッセージを寄せてもらった。県立首里高校3年の高良朱香音さん(17)は平和の詩を朗読した。

国籍や軍民を問わず、沖縄戦の戦没者名を刻んだ石碑「平和の礎(いしじ)」には30人が追加刻銘され、2020年度の総数は24万1593人となった。

1972年まで米軍統治下に置かれた沖縄では、強制的な土地収用で米軍基地が建設された。玉城知事は政府が進める米軍普天間基地の名護市辺野古移設に反対しており、政府との対決姿勢を続けている。19年2月の辺野古移設を巡る県民投票では「反対」が多数を占めた。その後の国政選挙でも移設反対派が勝利している。

沖縄戦は1945年3月26日、米軍が沖縄・慶良間諸島に上陸して始まり、同年6月23日、旧日本軍の司令官が自決し組織的戦闘が終結したとされる。県によると、一般住民の犠牲者は推計約9万4千人に上る。

52年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い日本は主権を回復したが、沖縄は日本本土から分離。米軍施政権下に置かれた後に、72年5月15日に本土復帰した。