6/22(月) 13:23配信
熊本日日新聞
「馬料理二代目天國」の店内を消毒する専門業者=4月、熊本市中央区(店長提供)
「食べても甘いとも、酸っぱいとも感じない。『コロナだ。間違いない』と思った」ー。
熊本県内では6月21日現在、47人が新型コロナウイルスに感染し、3人が命を落とした。44人は回復したが、重症化して死の淵をさまよった人もいる。熊本市の飲食店「馬料理二代目天國」の男性店長(53)もその一人。「死を覚悟した」-。県内の感染者として熊日の取材に初めて答え、退院するまでの闘病生活や、店名公表に踏み切った理由、容赦ない差別的な言動に対する思いなどを語った。(地方・都市圏部 潮崎知博、社会部 國﨑千晶)
■「コロナだ、間違いない」
「だるさを少し感じたのが3月25日の夜だった。葛根湯と市販の風邪薬を飲んで寝たが、薬が切れたら、高熱が出た。全身の節々も痛くなった。酒も飲まないし、たばこも吸わない。若い頃から体力には自信があり、風邪をひいたこともないので『もしかしてコロナかも』と思った」
店長の肺を撮影したレントゲン写真。右から入院した日の状態、人工呼吸器を付ける手前の状態、退院前日の状態
最初に異変を感じた3月25日、店長はメモを残した。「仕事終了後、けん怠感 22時 37・2度 少々のせき」
「27日朝、かかりつけの病院に行き、インフルエンザ検査をしたが陰性。解熱剤を服用し、熱は下がった。仕事柄、手洗いは一日何度もして、人一倍神経を使っていたので、どこで感染したのか見当がつかなかった」
3月28日のメモ。「15時 味覚、嗅覚鈍る 18時 激しい悪寒」
「ポンカンを手でむいていて、匂いが全くしない。家族に聞いたら『するよ』って言われて。食べても甘いとも、酸っぱいとも感じない。『コロナだ。間違いない』と思った」
■アビガン服用も重症化 「死ぬんだろうな」
男性店長が熱発した当時、国は風邪の症状や37・5度以上の熱が4日以上続く場合に、保健所の「帰国者・接触者相談センター」へ相談するよう呼び掛けていた。
「3月28日は本当にきつかったけど、25日の発熱から4日後を強く意識した。『病院に迷惑を掛けてはいけない』と、29日まで受診するのを我慢した」
3月29日、日曜の当番医が診察し、保健所へ「コロナの疑いがある」と連絡した。
「病院の駐車場で約1時間待ち、車内で保健所の人から検体を取られた。コロナと確信していたので、他人にうつさないよう早く入院したかった」
陽性の電話が自宅にあった後、29日午後8時ごろ、防護服姿の人たちがワゴン車で迎えに来た。
「病院には、誰とも接触しないよう裏から入った。先生の説明を受け、アビガン(新型インフルエンザ治療薬)や人工呼吸器、エクモ(人工心肺装置)を使う承諾書にサインした。『助かるなら、何でもしてほしい』という思いだった」
「アビガンは4回飲んだ。最初は入院2日目の夜。飲み込むのに苦労する量だけど、一気に9錠。2回目は翌朝に同じく9錠。3、4回目は次の日で朝晩に4錠ずつだった。熱は下がったが、容体は悪くなっていったので、薬の効果はよく分からない」
4月4日、軽症から中等症へ。肺のエックス線写真は真っ白な範囲が広がっていた。
「馬料理天國本店」に掲示されている「消毒済」を知らせる貼り紙。入店客にも手の消毒を呼び掛けている=6月18日、熊本市西区
「急にウーッと苦しくなるのではなく、じわじわと呼吸が浅くなって、自分で息を吸い込めない。鼻から酸素を吸入してもらっていたが、4日に人工呼吸器を着けた。意識はもうろうとし、『半分は夢、もう半分は現実』みたいな感じだった」
4月5日、重症に。集中治療室へ移った。人工呼吸器に点滴、心電図の装置など体は完全に固定され、約2週間を過ごした。
「集中治療室は何重にも扉があり、医療ドラマで見るような厳重さで、天井には監視カメラも付いていた。入室から1週間後に意識が戻った時、相当きつかったので、『このまま死ぬんだろうな』と死を覚悟した」
看護師は24時間交代で対応した。
「床擦れを防ぐため体の位置を変えてくれたり、たんを10分に1回ぐらい吸引してくれたり。厳重に防護服を着て、汗だくでやってくれた。疲弊していただろうに、本当に感謝しかない」
■2週間ぶりの水 「人生最高のおいしさ」
容体は徐々に良くなり、元の病室へ。リハビリも始まった。
「約2週間ぶりに飲んだ水が人生最高のおいしさだった。病室の水道水だけど、涙が出た。ずっと点滴だけだったので13キロも痩せた。鏡を見ると、あばら骨が浮き出て、足は皮だけ。がくぜんとした。座ろうとしても体が揺れて怖い。座るのに3日、歩行器につかまって立つのに7日、歩行器で歩くのに10日かかった」
退院に必要なPCR検査は、三度目の正直で5月9、12日に陰性となり、45日間の入院生活が終わった。
「退院が決まった時は人生で一番うれしい瞬間だった。『病院の威信をかけて治す』という言葉を実行してもらった先生方のことは一生忘れない」
「感染広げてはいけない」 公表に踏み切る
「馬料理二代目天國」の店長は、自身の新型コロナウイルス感染確認後、店名を公表するに当たり、差別や偏見、経営への影響に不安を覚えた。だが、そこで浮かんだのは、これまで店をもり立ててくれた全国の顧客の顔だった。「ここから感染を広げてはいけない」。家族と相談し、公表に踏み切った。
中学生から届いた感想文を読み返す「馬料理二代目天國」の店長=6月16日、熊本市西区
「できれば店名を公表してほしい」。3月29日の感染判明後、市保健所から頼まれた。店長には3人の子どもがいる。東京にいる会社員の長女(25)と大学生の次女(21)、同居する中学生の長男(13)。「公表すれば、子どもたちが、特に地元にいる長男が、周囲から傷つくようなことを何か言われるかもしれない」と不安がよぎった。
それを払拭[ふっしょく]してくれたのは当の子どもたちだった。「お客さんのため、感染拡大を防ぐため、店名を言うべきだよ」。長女と次女の言葉が背中を押してくれた。長男も思いは同じだった。
身内には当初、「公表すれば、客が来なくなる可能性がある」という慎重な意見もあったが、「店名を伏せても、どこからか話が広がる。正直に公表しよう」と心を決めた。
■店の電話鳴りっぱなし 「よく言ってくれた」8割が激励
3月31日の公表後、入院中で店長が不在だった店の電話は一日中鳴りっぱなしだった。「よく言ってくれた」「再開したら絶対行くよ」。電話の8割は目頭が熱くなるような励ましの声。残り2割は「周りにうつすな」「県外客を入れるからだ」といった差別的な内容だった。そんな電話にも店として、感染予防に最善を尽くしていたことを伝えた上で謝罪した。
感染症指定医療機関に入院中、看護師がふと、「自分がどこで働いているかは外で言わない」とこぼした。献身的に世話をしてくれる人が見せた涙。「人助けをしている医療従事者がなぜ、差別の対象になるのか」とショックを受けた。
店長、妻、母、従業員の計4人が感染し、3月末から営業を休止していた天國本店(西区二本木)は6月1日に、二代目天國(中央区下通)は12日に営業を再開した。両店舗の消毒には100万円近い費用をつぎ込んだ。常連客の予約も入り始め、再開後、苦情の電話は1本もない。
店名公表で思わぬ連絡も入った。県内のある中学校の教諭から「新型コロナと差別の問題を人権教育で取り上げたい」。死を覚悟するほど重症化し、差別の現実を突き付けられた店長のインタビューを、教諭が動画に収め、生徒に伝えた。
生徒たちから「苦しんでいる感染者や頑張る医療従事者をなぜ差別するのか。自分は絶対にしない」「病気を恐れる気持ちが、人を傷つける行動を招くと分かった」と、実直な感想が寄せられた。
入院中に家族と携帯電話で交わしたメッセージを振り返る二代目天國の店長=熊本市西区
店長は「思いが伝わり、すごくうれしい。偏見をなくさなければと親と話し合った生徒もいる」。びっしりと書かれた生徒たちの感想文を読み返し、ほほ笑んだ。大西一史市長からもメッセージをもらった。「勇気ある行動に敬意を表します」。感染した4人の症状も回復し、店に元の活気が戻ってきた。店長はかみしめるように言う。「いろいろ悩んだが、公表したことは、決して間違いではなかった」
■母、妻も感染 「俺のせいだ」
「発症時、自分はだるさを感じ、妻は『すっごく頭が痛い』と訴えた。母は無症状。三者三様なんですよ」
「馬料理二代目天國」の店長は3月29日、新型コロナウイルスへの感染が判明。異変を感じた3月25日以降、自分の部屋にこもって隔離生活を続けていたが、30日に母(80)、4月3日に妻(51)の感染が確認された。「俺のせいだ」。店長は自責の念に駆られた。
苦しむ店長を支えたのは家族だった。東京に住む会社員の長女、大学生の次女たちが次々と無料通信アプリLINE(ライン)でメッセージや写真を送り、会いたくても会えない病室の父に寄り添った。精神的なダメージは和らいでいった。
ただ、店長にはもう一つ心配の種があった。夫婦で入院し、自宅に残した中学生の長男のことだ。母も入院し、そばには自分の父(83)しかいない。食事のことが気掛かりだった。そこは、次女が東京から帰省し、世話役を買って出てくれた。市保健所の担当者も親身に相談に乗ってくれた。
それでも家族の試練は続く。店長の容体が悪化。店長はLINEで、3人の子どもたちへ思いを伝えた。「お父さんは、これで死ぬだろう。悔いのないように、しっかりと生きなさい」
■「生存率1%」 高齢の母、奇跡の生還
集中治療室での懸命の処置で店長には回復の兆しが見えたが、4月11日、今度は母が重症となった。
家族は人工呼吸器を装着するかどうかの判断を迫られた。医師は「高齢なので、着けても生存率は低く、1%ほどかもしれない。助かっても一生、呼吸器を外せないと思う」と説明した。家族は回復を祈り、呼吸器の装着を承諾した。
それから3週間。「奇跡が起きました」。主治医から店長に吉報がもたらされた。5月1日、人工呼吸器が外れた母は中等症に改善した。
5月21日に退院した母は「私は普通の年寄りとは体力が違った。毎日、階段を上り下りして、接客をしていましたから」と、うれしそうに“奇跡”を振り返る。
■「ああ生きている」 家族や友人、医療関係者に感謝
入院期間が53日に及び、自慢の体力は落ちたが、母は市内の病院にリハビリに通っている。「リハビリの初日は家族総出で見送ってくれた。家族や友人、医療関係者の支えに感謝しながら頑張る」。母は週明けの22日から店に立つつもりだ。
店長も妻も退院し、かつての日常が戻ったかに見えるが、現実は違う。母は「つい最近まで、不安で不安で眠れない日々が続いた」。自分のような苦しい思いを誰にもしてほしくない。「油断せず、感染しないよう細心の注意をしてほしい」と涙ながらに訴える。
店長も、肺の機能が低下し、すぐに息が切れ、5分歩くのがやっとだ。寝ても2時間ほどで目が覚めてしまう。「呼吸ができなかった時があるから、そのまま死んでしまうんじゃないかという気がして…。それでも毎朝呼吸をして、ああ生きている、と安心するんです」
死を覚悟した入院生活、いわれのない差別、多くの人からの激励…。さまざまな経験をした店長は、自らに言い聞かせるように言う。「未知の感染症に家族で立ち向かい、絆はより深まった。これからも、どんな困難にも負けることはないと思う」