6/13(土) 9:01配信
現代ビジネス
4月7日に発出された、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う政府の緊急事態宣言が5月25日に解除され、社会もようやく元の生活を取り戻しつつある。だが、6月3日には東京都で34名の感染者が確認されたことから、都知事は独自の「東京アラート」を出し、都民によりいっそうの警戒を呼びかけた。
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そんな、誰もが先行きに不安を覚える状況を反映してか、営業自粛や移動制限を過剰に解釈し、ルールの解釈が自分と異なる他人に対して嫌がらせをするなどの行き過ぎた行動をとる、いわゆる「自粛警察」も一向にその数が減らないのだという。しかしこのようなことは、いまに始まったわけではなく、75年前の戦時中にも似た例があった。いつか来た道、「歴史は繰り返す」のか――。
「おかわいそうに事件」の真相
3月下旬、満開の桜の名所が封鎖され、4月7日には緊急事態宣言が関東、近畿の7都府県に発令され、16日には全国に拡大した
6月2日、時事通信が報じた〈宣言解除後も1日30件 東京のコロナ関連110番「居酒屋が3密」など・警視庁〉と題する記事によると、
〈東京都内の新型コロナウイルス関連の110番が、緊急事態宣言が解除された先月25日の翌日以降も1日平均30件近く寄せられていることが2日、警視庁への取材でわかった。
解除前1週間とほぼ同水準で、専門家は「宣言解除は早すぎると考えている人の不安やストレスを反映しているのでは」と指摘する。〉
とある。
「居酒屋が3密」など、店舗の営業や生活騒音に関するものが目立つというこれら110番が、警察の業務に直接関係のない、それこそ「不要不急」なものがほとんどであることは想像にかたくない。
110番にとどまらず、他都道府県ナンバーの車や、営業している店舗、公園で遊んでいる子供、旅行鞄を持っている人、感染者との接触の可能性が高い医療従事者などに対する謂れなき嫌がらせは後を絶たない。
県をまたいで自宅と仕事場を車で往復している筆者の知人も、仕事場に近いスーパーの駐車場で、高齢男性からタイヤを蹴られたりつばを吐きかけられたり、睨まれ舌打ちをされたりと、度重なる嫌がらせに遭っているという。
いつしか「自粛警察」と呼ばれるようになったこんな嫌がらせに、正義などあろうはずがない。だが、嫌がらせをする当人は、それが正しいことだと信じ、使命感からやっているつもりなのだろうから始末が悪い。正義はときに人を酔わせ、簡単に暴走させる、麻薬のようなものだ。
一種の集団ヒステリーとでもいうべき、こんな事例には既視感がある。筆者は25年間にわたって数百人の戦争体験者をインタビューしてきたが、戦時中、まさに似たような話がいくつもあったのだ。
当時、社会問題になったこととしては、昭和17(1942)年の「おかわいそうに事件」がある。前線で捕らえられ、日本に連行されたアメリカ兵捕虜に対し、ある日本の上流婦人が発したという「おかわいそうに」の言葉が物議をかもし、いまで言う「炎上」状態になったのだ。戦地では日本軍将兵が命を投げうって戦っているのに、敵に情けをかけるとはけしからん、というわけである。
しまいには、昭和17年12月4日、大本営陸軍報道部長・秋山邦雄中佐がラジオで声明を出し、12月5日付朝日新聞で、〈打破せよ心中の“米國” 米俘虜に「お可哀想」とは何事ぞ〉の見出しで記事になるほどの騒ぎになった。
ただこの話、筆者も何人かの戦争体験者から聞かされたが、話が広まるうちに尾ひれがついたり、もしかするとほかの事例と混同されたりしたものらしく、語る人によってディテールが少しづつ異なる。「家の前を連行される捕虜を見たある華族婦人が『おかわいそうに』とつぶやいて、周りの人から非難を浴びた」、「貴婦人が捕虜に同情して慰問の品を持って行った」などがその主たるものだが、新聞に掲載された秋山中佐の談話では、
〈私は先日「お可哀想に」といふ言葉を聞いた。対手はアメリカの捕虜である。我が忠勇なる日本軍将兵に抵抗したとこれ等のアメリカ人どもが武運拙く……いや彼等をしていはしむれば死なないことに於て運よく捕虜となつて、港の波止場で卒倒しつつある姿が新聞のうへに写真となつて現はれた。その姿に向つて不用意に発せられた言葉が実に「お可哀想に」である。〉
とある。この談話の通りなら、「上流婦人」は、日本に着いた捕虜の写真を新聞で見て、「おかわいそうに」と言ったことになるが、だとすると、どうしてそんな話が外に出たのか、誰がこの話を広めたのかがよくわからない。昭和17年10月上旬に南方の前線に出た人が知っていたから、元の話はそれ以前から流布されていたに相違ないが、じっさい、この言葉の主がどこの誰であるか、当時から確たる話は出ていなかったようである。
おそらく、「日本の上流婦人ともあろう女性が、仇敵である米兵捕虜の姿を見て、『おかわいそうに』と言った(らしい)」、という話がどこかから広まって、「それはけしからん!」と、正義感に燃えた人たちが真偽を確かめるすべもないままにいきり立ち、それがまたたく間に全国に、少しづつ形を変えながら広まったというのが真相に近いのではなかろうか。
インターネットなどなかった時代であっても噂は全国に広まる。昭和の「口裂け女」の都市伝説など、その好例だろう。
――これは、スピードの差こそあれ、現代のネットにおける情報の広がり方や、「自粛警察」のあり方とも共通するものがあるのではないか。
それ以来、日本人が信じられなくなった
戦中から著名な戦闘機乗りだった進藤三郎さん(昭和18年、ラバウル基地にて)
戦時中には、こんな話もある。
進藤三郎さん(少佐。1911-2000)は、中国大陸上空で零戦のデビュー戦を指揮して以来、真珠湾攻撃、ガダルカナル島攻防戦でも零戦隊を率いて戦い、新聞にもしばしばその活躍が顔写真入りで報じられた歴戦の戦闘機乗りだった。その進藤少佐が、昭和19(1944)年3月、ひさびさの内地勤務で呉に帰ってきたときのこと。
休暇を許された進藤さんは、背広姿で広島の街に一人遊びに出た。体質的に酒を受け付けないが、夜の街の空気が懐かしかったのだ。広島は、進藤さんの郷里でもある。南洋灼けした肌に、夜風がひんやりと心地よい。灯火管制で薄暗い通りを煙草をプカプカやりながら歩いていると、
「こらこらッ!」
と呼び止める者がいる。見れば、カーキ色の制服制帽に、脚にはゲートル(巻脚絆)を巻いた姿の、中年の警防団員であった。
戦争が始まってから、空襲に備える身支度として、すべての男子は防空服装としてゲートルを着用することが奨励され、また、坊主頭こそが「非常時」の身だしなみとされる風潮があった。
陸軍将校は料亭にも軍服で遊びに出かけるが、海軍士官は、公務以外の外出時は基本的に背広である。折悪しく防空演習がはじまり、ゲートルも巻かず、髪を伸ばした進藤さんの姿が、男の癇に障ったのに違いなかった。
「こら、何じゃ、その格好は。煙草を消せ、煙草を」
居丈高に怒鳴る男に、
「なぜですか」
進藤さんは聞いた。
「なぜもへちまもあるか、敵機に見つかったらどうする」
「上空から煙草の火が見えますか」
「見えるに決まっとる。貴様、口答えしよるか」
「そうですかねえ、私は夜間飛行もだいぶやっとるけど、上空から煙草の火を見つけたことは一度もないですがね」
相手は決まりの悪そうな顔をして黙ってしまった。
次に昭和19年4月のある日、要務で長崎県の大村基地に赴いたさい、いつものように背広姿で長崎から汽車に乗った進藤さんは、またしても国民服を着た中年男にからまれた。
「なんばしよっか、この非常時に髪なんか伸ばしよって」
「どうもすみません、必要なもんでつい伸ばしております」
「なんで必要か」
「いや、飛行機がひっくり返った時に怪我せんように……」
進藤さんが答えると、男は、エッと驚いて態度を豹変させ、
「これは大変失礼しました。海軍さんでしたか、いや、結構であります。ご苦労さまなことです」
と、揉み手せんばかりに機嫌をとり始めたという。陸軍の軍人と海軍の下士官兵は基本的に坊主頭だが、海軍士官は明治の昔から、きちんと手入れさえしていれば、常識の範囲内で髪を伸ばすことが許されている。進藤さんが答えたように、特にパイロットは、事故の際、頭部の負傷が少しでも防げるよう、士官はもちろん、部隊によっては下士官が髪を伸ばすことも黙認されていた。
「長いこと戦地にいて、帰ってみたら、『銃後』は戦意旺盛で、かえって軍人の方が窮屈に感じるほどでした」
と、進藤さんは回想する。
だが、昭和20(1945)年8月、戦争が終わり、原爆で焼野原になった広島に進藤さんが帰ってくると、焼け跡で遊んでいた5、6人の小学校高学年とおぼしき子供たちが進藤さんの姿を認めて、
「見てみい、あいつは戦犯じゃ。戦犯が通りよる」
と石を投げつけてきた。新聞でしばしば写真入りで報道されていたので、地元の子供たちは進藤さんの顔を知っていたのだ。たった1年半前にはあれほど戦意旺盛だった街の人たちから、「戦犯は死刑だ」「軍閥の犬」「何をおめおめと帰って来た」などと、戦時中とは逆の意味での罵詈雑言を浴びせられたこともある。これは、復員してきた旧軍人に対して、日本のいたるところで繰り広げられた光景だった。
つい昨日まで、積極的に軍人をもてはやし、戦争の後押しをしてきた新聞やラジオが、掌を返して、あたかも前々から戦争に反対であったかのような報道をしている。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の一環として、12月9日から、毎週日曜日夜8時に放送されたNHKの「眞相はかうだ」という番組の、
「われわれ日本国民を裏切った人々は、いまや白日のもとにさらされております。戦争犯罪容疑者たる軍閥の顔ぶれはもうわかっております」
で始まるナレーションをラジオで聴いたとき、進藤さんは、どうしてこんなことを日本人が言うのか、と無性に腹が立った。つい最近まで、「大本営発表」を軍艦マーチとともに賑々しく報じていたのと同じラジオの放送であるとは到底思えなかった。戦時中は戦意を煽り、「おかわいそうに」を糾弾した新聞も、GHQの検閲のもと、ラジオと同様、戦時中とは180度転換して、もはや消滅した軍部の批判を始める。
そんな報道に影響される面もあるのだろう、周囲の人間を見ても、戦争中、威勢のいいことを言っていた者ほど、その変節ぶりが著しい。
「それ以来、日本人というものがあんまり信じられなくなったんです」
以来半世紀、進藤さんは戦争の記憶を胸に秘め、一部の心を許した相手以外には、けっして昔の話をしようとはしなかった。
デマと恐怖に翻弄される人々
千歳基地で終戦を迎えた原田要さん(昭和19年、霞ケ浦飛行場にて)。終戦を境に一変した住民たちの姿をまのあたりにした
痛みは伝染しないが、恐怖は伝染する。恐怖はときに人の姿を一変させてしまう。
北海道の千歳基地で終戦を迎えた零戦搭乗員・原田要さん(中尉。1916-2016)によると、千歳では、「ソ連軍が侵攻してきて、男は全員去勢され、南の島で強制労働させられる」との支離滅裂なデマが飛び交い、恐怖に駆られた住民たちが基地に侵入、占領軍に引き渡すため格納庫に並べてあった物資を略奪していったという。
略奪を働いたのは、つい先日まで「兵隊さん、兵隊さん」と、基地の隊員を大事にしてくれていた人たちだった。
反対に、島根県の大社基地で終戦を迎えた陸上爆撃機「銀河」搭乗員の丸山泰輔さん(少尉。1922-2009)によると、終戦を告げる玉音放送が終わったとたん、近所の人たちが基地に大挙押し寄せてきて、
「こんなに飛行機が残っているのにどうして降参するんだ、もっと戦争を続けろ!」
などと口々に叫び、なだめるのに苦労するほどだったという。大社基地の例は、それまで空襲被害がほとんどなく、戦争で被った「痛み」よりも、終戦後の占領軍に対する恐怖の方が先に立ったからであろう。
全国津々浦々に義務教育が行きわたり、道徳教育の盛んだった当時の日本人一般が無知蒙昧だったわけではない。一人一人は教養ある常識人であっても、群集心理はときに、常軌を逸した行動へと人々を駆り立ててしまうのだ。
非常事態にあって、自らの「正義」の間尺に合わない者は叩いてよい、いやむしろ叩くべきだと考えてしまうのは、古今を問わず人間の持つ「業」なのかもしれない。だが、時代の同調圧力に、正義の名のもと進んで与していた人たちも、いざ自分自身が痛い目に遭ったり、恐怖に駆られたり、我慢の限界を超えたりすると、掌を返して正反対の行動をとるかもしれないことを、歴史は示唆している。
いまだ終わらぬコロナ禍の時代を生きる私たちは、それぞれに事情を抱えて外出する人や、やむにやまれず営業する店を威嚇したり、ましてや文字通り命がけで仕事に臨む医療従事者に嫌がらせをするような「自粛警察」にだけはなりたくないものである。繰り返すが、それはけっして「正義」ではなく、不安や恐怖を他人にぶつける恥ずべき「八つ当たり」に過ぎないのだから。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)