1月31日午前1時45分からCSテレビのザ・シネマで観た。
これで観たのは3度目であるが、少年時代と大人になった人物たちが交錯するワクワク感が何とも言えない感動を呼ぶ傑作。
.
1920年代のニューヨーク ユダヤ系移民の子、ヌードルスはある日、仲間たちと酔っ払いから財布を抜き取ろうとするが、一人の少年にそれを阻まれる。
その少年はブロンクスからやってきたマックスといった。
ヌードルスとマックスは最初こそいがみ合うものの、やがては友情で結ばれていく。
ヌードルスは仲間を殺された腹いせで殺人を犯し、刑務所へ…。
出所したヌードルスを待っていたのは勢力を広げたマックス達だった。
禁酒法を利用して次々と犯罪行為に身を染めていく青年たちは、束の間の栄光を味わう。しかし、彼らの挫折は思わぬところで待ち受けていた。それは禁酒法の終焉であった。
そして、マックスは壮大な計画をヌードルスに打ち明ける…。
やがて時が流れ、老け込んだヌードルスは、再びニューヨークに戻ってくる。
彼の元に一通の手紙が届いたのだ。かつての面影をわずかに残すほどしかなかった老人を、再び呼び戻した人物とは、一体誰なのか。
キャスト
ヌードルス ロバート・デ・ニーロ
マックス
ベイリー商務長官 ジェームズ・ウッズ
デボラ エリザベス・マクガヴァン
パッツィ ジェームズ・ヘイデン
コックアイ ウィリアム・フォーサイス
ファット・モー ラリー・ラップ
キャロル チューズデイ・ウェルド
フランキー ジョー・ペシ
イヴ ダーラン・フリューゲル
ホワイティー リチャード・フォロンジー
ペギー エイミー・ライダー
ジョー バート・ヤング
ジミー トリート・ウィリアムズ
チキン・ジョー リチャード・ブライト
クローニング ジェラルド・マーフィ
アイエロ ダニー・アイエロ
バグジー ジェームズ・ルッソ
フレッド フランク・シストー
アル クレム・カサータ
少年時代のヌードルス スコット・ティラー
少年時代のマックス ラスティ・ジェイコブズ
少女時代のデボラ ジェニファー・コネリー
少年時代のモー マイク・モネッティ
少年時代のパッツィ ブライアン・ブルーム
少年時代のコックアイ エイドリアン・カラン
少女時代のペギー ジュリー・コーエン
そして、第37回カンヌ国際映画祭でワールド・プレミア上映され激賞を得るが、なんと長尺に映画会社が難色を示し、アメリカほか多くの国では再編集短縮版(139分)で公開され、酷評されてしまう。だが、日本やヨーロッパの一部ではオリジナル版(205分)で公開されると高評価を得て、その後、監督自身による再編集完全版(229分)が公開されると、ギャング映画の傑作として一転して賞賛された(新発見の映像を加えた251分版もある)。アカデミー作曲賞6度目のノミネートにして初受賞をモリコーネにもたらした。
カンヌも震撼させた全編を貫く凄絶なバイオレンス描写とともに、レオーネ作品の重要なモチーフである愛と友情、金と記憶、裏切りと悔恨が、二人の主人公を鏡映しにノスタルジックに描かれ、時間の長さは感じない。イタリア人監督レオーネが、憧れていたアメリカへオマージュを捧げたフィルム・ノワールだ。
光と影、クローズアップの多用と遠景を織り込んだ緻密な画面構成、フラッシュバック、長回し、さらに鏡、覗き穴、電話などを効果的に用いて登場人物の心情を表現。そして、名曲「アマポーラ」とともにモリコーネの音楽が物語を語っていると言っても過言ではない。また、当時のマンハッタンを再現した映画美術も素晴らしく、脚本、撮影、衣装など最高のスタッフで作り上げたスケールと豪華さに圧倒されるに違いな
4K映像にて蘇った4時間11分に及ぶこの名作を「午前十時の映画祭」にてスクリーン鑑賞することができた。冒頭から巨匠レオーネの凄まじいバイオレンスが飛び出し、それを抜けると「覗き穴」から景色を望むがごとく、セピア色の昔話が途端に色づいて華やぎ出す。
この記憶の紡ぎ方が何とも見事で、圧倒される。まっとうな人生、正義、友情、愛の定義なんて誰からも教わらず、路上で這い上がってきた主人公たち。一心不乱に本能のまま駆け回った子供の頃と、大人になってあまりにも多くのことを知り過ぎた頃とがオーバーラップし、立ち上る埃と汗と阿片窟の煙に思わずむせ返りそうになる。
前に知人から、ウォン・カーワイ監督作『グランドマスター』も本作の影響を多分に受けていると聞かされたことがある。阿片窟や列車ホームでの戦いなどを見ているとそれも深く納得だ。ともあれ、一生に一度、映画ファンならば是非体感しておくべき名作と言えるだろう。
貧しいながらも仲間と逞しく生きるヌードルス、ギャングとして生きるヌードルス、なにもかも失った壮年期のヌードルス…ひとりの男の人生を、哀しみ、憂い、いろんな感情を折り込みながら描いている映画です。
人の欲望、憎悪、嫉妬、愛。綺麗事だけではないリアルさや、不条理さの多い作品なので、そういった類が苦手な方には無理かも。観終わった後の感想は、なんともいえない気持ち。
人生って幸せも不幸も、いろんなことがある。簡単な言葉になってしまいますが、そう感じる映画です。
観終わった後に考えさせられる、余韻の残る映画。
踊るジェニファーコネリーの愛らしさ。天窓のあるこの部屋は聖域。そこが違法酒場と堕とされ、それでも踏み込まれる気配を示さぬ聖女を、勢いに任せて踏みにじる演出。男どもの獣性溢れる世界観。理性や秩序がなく、連帯しなければ生きながらえぬ世界。懐古的でいられるか?それを肯定しえない運転手。窒息しそうで反吐がでる。しかしこの世界しか与えられていない。
ゴミ収集車に消え去る男は多くの妥協の末に世を渡ったのだろう。それでも古きものと共に古い者は退場する。狂った世の中で、狂って聖女と戯れたか。
1.ロバート・デニーロ主演なので、てっきりイタリア移民の話かと思っていたら、ユダヤ移民の話だった。
2. マックスは最後に自殺したと思っていたが、必ずしも自殺とは断定できない。
彼の死体のシーンがないこと、自殺しようとする人がゴミ収集車の中に飛び込むようなおぞましい死に方を選ぶだろうか。さらに、マックスのような人を欺くような性格の人間だから、自殺したと思わせる事は十分に考えられる(ゴミ収集車の側面に隠れていたとか)。
そもそも自殺する設定にするなら単純にピストル自殺のシーンにすれば済むことなのに、わざわざこんなシーンにする必要はなかったであろう。
ただ自殺でなく、ヌードルスに自殺と思わせただけなら、その後マックスはどうしたのであろうか。遠くのどこかに逃げて一人寂しく余生を送るつもりだったのだろうか?
それともあの邸宅から出てきたマックス、ゴミ収集車、その後のパーティー帰り風の一団の乗用車が通過するシーンまではヌードルスの幻が夢だったのか?
それはともかく、この映画をいちばん気に入っている点は、多分他の人とずれていると思うが(多分他の人は2番目か3番目位かな)、音楽とジェニファー・コネリーである。
監督のセルジオ・レオーネはマカロニウェスタンで有名だが、その際の音楽は大体エンニオ・モリコーネだった。気のあったコンビという感じだ。ただこの作品ではマカロニウェスタンでよく使われるトランペットやギターを使わずに、盛り上げてくれた。特に気に入ってるのがニ箇所。 一つ目が、最初のほうの子供の頃のエピソード。
仲間の子供が敵にピストルで撃たれて死んでしまうシーン。画面がスローモーションになり、流れる音楽だ。パンフルート(オカリナを侘しくした感じの音色)が実に涙を誘う。 もう一つはレストランでヌードルスがデボラと踊るシーンで流れたアマポーラだ。
ジェニファー・コネリーは、子供の頃のデボラを演じているが、ヌードルスが一目惚れをして好きになってしまうのが納得のいく美しさだった。
アメリカ・イタリア合作のギャング映画。セルジオ・レオーネ監督・脚本作品。音楽:エンニオ・モリコーネ。禁酒法時代にニューヨークのユダヤ人ゲットーで育った二人のギャングの生涯を描いたレオーネの遺作にして代表作である。
ハリー・グレイの自伝的小説に感銘を受けたセルジオ・レオーネが、小説を原作に自ら脚本を執筆した作品である。「続・夕陽のガンマン」を撮り終えた頃から脚本を書き始めていた。
しかし、彼に従来のマカロニ・ウェスタンを監督させようとする映画会社の思惑や、小説の映画化権獲得に手間取ったこともあって、製作は遅々として進まず、脚本の草案を脱稿したのが 1981 年、実際に映画が公開されたのが 1984 年と、完成までに 10 年以上もかかった。
カンヌ国際映画祭で先行上映され、そこで高い評価を得るが、アメリカ公開時には製作会社が物語の時系列を整理し、映画の上映時間を大幅に短縮、更にモリコーネの楽曲までカットした改竄版だったため、酷評された。
ただし、日本やヨーロッパの一部の国ではオリジナル版がそのまま公開され、高い評価を得ている。アメリカでの不評にはレオーネも深く落胆するが、自身の編集によって3時間49分の完全版を作り上げ、再びアメリカで公開したところ、それまでの不評が打って変わってギャング映画の傑作として捉えられ、レオーネの評価を更に高める結果となった。映画監督のクエンティン・タランティーノなど、本作品のファンであることを公言する著名人は多い。
本作では、往年のハリウッド産ギャング映画にオマージュを捧げつつ、そこでは決して描かれることのなかった裏社会の残酷で醜い現実を赤裸々に暴いている。ヌードルスとマックスの友情は一見すると美しく、時として英雄的ですらあるが、しかし同時に破滅的で破壊的で無秩序で歪んでいる。
彼らがまき散らすのは暴力と混沌。挙句の果てに、ヌードルスはマックスとの固い絆の無様な成れの果てを突き付けられる。理想と現実の間に横たわる苦々しいまでの矛盾。そもそも本作の登場人物たちは、彼らを含めて誰もが善と悪の大きな矛盾を抱えている。それは彼らを取り巻く社会も同様だ。
およそ 10 時間にも及ぶフィルム素材を、当初は6時間に編集したというレオーネ監督は、前編と後編に分けて上映するつもりだったらしいが、さすがにそれは無茶だと説得されて短くしたものの、それでもなお4時間近い長尺に仕上がった。一つ一つのシーンが執拗なまでに長く、全体的にセリフよりも沈黙が多い。
言葉による説明は極力省かれ、登場人物の表情や行動、場を包む空気などによって心理や状況が伝えられる。確かに暴力描写や性描写は過激であるものの、いずれも瞬発的で簡潔だ。
非常に余白の多い映画だが、その余白こそが豊かな情感を生み、名もなきギャングたちの物語を壮大な叙事詩へと昇華させる。失われた過去の時代を細部まで丁寧に再現したセットも素晴らしいし、エンニオ・モリコーネによる切なくも哀しい音楽スコアがまた、見る者の感情を嫌がおうにも掻き立てる。実に贅沢な映画だと言える。
ロバート・デ・ニーロをはじめとする主要キャストは、少年時代から描かれているため、それぞれの子役が必要になったが、よくもまあこれだけ似た子役を見つけてきたものだと感心させられた。
少女時代のデボラを演じたのがジェニファー・コネリーである。その神がかり的な美しさときたら筆舌に尽くし難い。まさしく天使とはこの子のことだろうと思わずにはいられなかった。
彼女だけは成長後の姿にかなりのギャップがあって残念だった。ジェニファーがあまりにも美しすぎたのが原因だろう。その後、ジェニファーはレオーネの推薦でダリオ・アルジェントの「フェノミナ」(1985)に主演し、スターへの階段を上っていくことになる。
モリコーネがこの映画のために書いた曲は、一つ残らず屈指の名曲である。まず映画の冒頭、ビートルズの「イエスタディ」のアレンジが流れて、時代感を醸し出し、メインテーマ、デボラのテーマ、コックアイ(やぶ睨み)の歌など、他の人には絶対に書けない曲が目白押しである。特にパンフルートを駆使したコックアイの歌の音楽的な独創性は専門家をも唸らせるもので、世界的チェロ奏者のヨー・ヨー・マが作曲者自身に編曲してもらってチェロで演奏して回っている。
また、劇中で流れる「アマポーラ」は、スペイン出身作曲家ジョセフ・ラカールによって書かれたスタンダード・ポップスであるが、モリコーネの手によって美しいストリングスを奏でたり、クラリネットが主旋律を歌ったりいくつかのヴァージョンでアレンジされており、音楽全体にわたって重要な楽曲となっている。特に重厚なストリングスによってゴージャスな舞曲風にアレンジされたものは、モリコーネの手腕を余すところなく伝えており、更には、モリコーネが書き下ろした「デボラのテーマ」と「アマポーラ」が対位法的に一つの楽曲として交錯し、ついにはひとつの楽曲として絡み合うという神業を見せている。
本作品の完成後、レニングラード包囲戦をテーマとした次回作に取りかかろうとした矢先、レオーネは過労による心臓発作で逝去、結果的にこの映画がレオーネの遺作となった。
229 分版にさらに 40 分のシーンを追加した「レストア版」が 2012 年のカンヌ国際映画祭映画祭で公開された。2014 年のニューヨーク国際映画祭ではさらに 22 分のシーンを追加した「エクステンデッド版」が公開されている。
禁酒法時代のニューヨーク、ユダヤ系移民の子が主人公(ロバート・デ・ニーロ)、悪ガキだったがブロンクスからやって来た奴(ジェームズ・ウッズ)と親友になる。
主人公は近所に住む俳優志望の美少女(エリザベス・マクガヴァン)が大好きだった。
仲間とつるんで悪さをしていたが地元のボスに見つかり、幼い部下が撃ち殺され、仕返しにボスを刺し殺してしまい刑務所に。
昔、昔、アメリカでこんなことがあり、人生が大きく変わってしまった移民の子供たちがいた。
セルジオ・レオーネ監督の大河ドラマで遺作。名作の条件として、分かり易さがある。
名監督の作品(黒澤監督やコッポラ等)は観客に疑問を抱かせない。分かり易い。
冒頭、デニーロがマフィアに仲間を売ったという事で追われて友人が惨い拷問を受け恋人が射殺される。
実はそれは、デニーロが仲間のマックスが連邦銀行襲撃という無謀な計画を立てたのでそれを阻止しようと事前に警察に逮捕させるためだった。ところが最後の方で分かるのだがそれがために幼少の頃からの友人でマフィア仲間の友人たちが皆警察に殺されてしまう。要は冒頭で恋人を射殺しデニーロを追ったマフィア達は銀行襲撃で死んだ友人の配下だったのだ(と思う、たぶん-笑)。全然関連性が感じられる表現になっていないので終わってから暫くして気付いた。
最後のシーン、実は生きていて長官になっていたマックスが自責の念ゆえにゴミ収集車の中に身を投じて(笑-もうちょっと別の設定も有ったのでは?)自殺した様だが、映像に写るパッカー車(ゴミ収集車)のローラーには木や葉っぱは巻き込まれてはいるが血糊は全く無かった。私は冒頭のマックスとデニーロとの出会いのシーンの様に暗闇からひょい、とマックスが現れて友情を復活させてめでたしとなるのかと思った。
そして最後のシーン。
デニーロがなぜか若い設定で何度も出て来る阿片窟で阿片を吸うシーンで終わる。
ただ此のシーンは私はとても良かった。
吸う前は普段の厳しい表情でいるのだが、ふかした後とてもリラックスした表情で笑いを浮かべた状態で本作は終わる。
このシーンに関して色々な解釈がレビューにあるが私はいつもニヒルで硬すぎる性格、恋人も友人に盗られて不器用ゆえに不毛な人生を送るヌードルス(デニーロ)。
それが粗末な阿片窟で阿片を吸ったときだけ唯一リラックス出来る・・・
そういう寂しい切ないキャラクターを浮き彫りにして観客を一気に引き込む。
そしてそれを理解し体現しているデニーロの演技も素晴らしい。
総括すると筋や構成はダメ、クオリティの高さと音楽、そしてデニーロの演技が良かったので3とした。
なお、レビューで恋人のデボラの子供がマックスの子供、という意見がありましたが、あれはデニーロの子供ですね(でないとデニーロ子供の頃を演じた子役を再び登場させる意味が無いし、タクシーの中でデボラをデニーロが犯したシーン-その時の子供-との整合性が取れないから)
とにかく一秒たりとも見逃せない、繊細で神経が行き届いた演出には脱帽。
スクリーンからそこに流れている空気や時間が直に伝わってくる。こんな映画は他にないかもしれない。
人間の愚かさが痛々しいくらいに描かれ、一種の神話を見ているような気さえしてくる。
一言では語り尽くせない、何度も見たくなる作品。
謎めいたエンディングの意味は、観た者の解釈しだい。
レオーネ自身が「夢オチ」的な発言をしていたと聞いた覚えがあるが、
だとすると、
ロバート・デ・ニーロ演じるヌードルスが自分の裏切りによって意図せずジェームズ・ウッズ演じるマックスや仲間が死んでしまった後、阿片窟に逃げ込んだところで、「そんなはずはない。マックスだったら逆に俺を出し抜いて何十年後にこんなことになるんだろう…」と想像して微笑んでいる…と読める。
しかし、それには辻褄が合わないところが多々ある。
(そもそも、レオーネの映画に辻褄を要求してはいけないかも…)
それよりも、自分の策略で仲間が一網打尽になって、「シメシメ」とほくそ笑んでいる…と見る。
マックスとは固い友情がありながら、意見の対立もあり、真に心を許しあってはいなかったのではないか。
何より、あのデ・ニーロの表情にはイヤラシさがあった。
だが今度は、これをエンディングに持ってきた意図がわからなくなってしまう。
マックスの最期は自殺か?という議論、デボラとマックスはどの段階で結びついたのか?という疑問等々、
観客に解釈を求める類いの映画だから、
何度も観て、その時その時に改めて考えを巡らせてみるのが楽しい。
「ゴッドファーザー」の成功以降ギャング映画が乱発されたが、本作は明らかに模倣品とは一線を画した傑作だ。クレーンを用いる等して、クラシカルな都会の風景をダイナミックに捉えた素晴らしい構図の数々。
トイレの壁穴から踊る少女を覗くノスタルジックなシチュエーション。
クリームケーキの微笑ましい挿話。
貧しいはずだが、子供たちは厚手のコートや帽子・サスペンダーなどでキメていて、あの時代は皆お洒落だった。それが寒々しいニューヨークの蒸気と濡れた石畳の背景に映えている。
暴力描写はレオーネお手のもの。
コッポラが見せたバイオレンスとは毛色が異なる、エグさだ。
何より、本作の最大の収穫は、ジェニファー・コネリーの美しさ。幼さと色っぽさが同居した、正にあの瞬間でしか捉えられなかった、絶妙なタイミングでのキャスティング。後にヌードルスに車中で犯されてしまうことを考えると、コネリーが少女期だけの配役でほっとした。