開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していた。アメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、元山上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請。10月7日、第一掃海隊が下関を出港した。
元山掃海作業では10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分する[116]。10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出した[116]。12月15日、国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。
特別掃海隊に対して北朝鮮外相朴憲永は非難、ソ連も国連総会で非難した。李承晩韓国大統領も1951年4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた[118][119]。一方、日本側も掃海隊員を上陸させないよう指示していたが、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に見破られ問いただされた。隊員が理由を話すと、韓国兵は日本語で「ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎したという[120]。
米軍発注の朝鮮特需に、太平洋戦争で船舶を失った多くの船員たちは恩恵にあずかれず、仕事が無かった。GHQの在日米海軍司令部・在日米海軍部局の日本商船管理局の募集に多くの船員たちは応じた。GHQが日本人船員を募集した理由は、戦前、日本領だった朝鮮半島仁川海岸の地理にくわしく、国連軍の戦車揚陸艦(LST)運航に必要だったからであった。仁川上陸作戦の内部資料には、朝鮮半島の地形を熟知する日本人が運航するLSTが作戦に大きく貢献したと記され、仁川上陸作戦に参加した元海兵隊員のロバート・ワイソンは「日本人は朝鮮半島には何度も行っているから、海岸の地形について非常に詳しかったです。彼らは敵から攻撃を受けながら、ゲートを開き、荷下ろしを必死で担いました。我々は協力し合い、作戦を成功させたのです」とLSTの運航を担った日本人の存在なしには、仁川上陸作戦の成功は難しかったと述べている[21]。米国立公文書館海軍資料によると、LSTの約6割30隻以上が日本人によって運航され、日本人約2000人が運航従事しており[21]、GHQと外務省との間で交わされた通信記録などの資料から分かった日本人船員の死者は少なくとも57人に及ぶ[21]。
中国人民志願軍の参戦
朝鮮戦争中の中華人民共和国の1950年代前半のプロパガンダ・ポスター。「抗美援朝」(美国に対抗して朝鮮を援けることの意味)と大書されている。
金日成は北朝鮮が滅亡の危機に瀕するとまずソ連に援軍を求め、スターリンへ戦争への本格介入を要請したが、スターリンは「勝利には少しばかりの挫折や敗北は伴うものだ。北朝鮮は、アジアにおける帝国主義に対抗する解放運動の旗手だ。金日成同士よ、忘れないで欲しい。あなたは孤立していない」として矢面に立つことを避け[21]、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と回答してきた。
当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てており[123]、この頃、スターリンはモスクワに東ヨーロッパの指導者を集めて「無敵と言われていたアメリカは北朝鮮にさえ勝てない。これでアメリカは今後2 - 3年、アジアで足止めされるだろう。これは我々にとって好都合だ。ヨーロッパにおける軍事基盤を固めるため、このチャンスを有効に活かすべきだ」と呼びかけており、アメリカをアジアに釘付けにすることでヨーロッパでの覇権争いを有利に進めようとした。
ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めた。中国では、数名の最高幹部は参戦を主張したが、毛沢東共産党主席と林彪や残りの多くの幹部は反対だった。国連軍の反撃に遭い苦境に陥った金日成が、「敬愛する毛沢東同志! 我々の力だけでは、この危機を乗り越えることは困難です。中国人民解放軍を出動させ、敵と戦って下さい」と援軍を求めたが[21]、毛沢東は金日成を相手にせず、「慎重に検討した結果、軍事行動は厳しい結果を招くという結論に達しました。我が軍の装備は貧弱で、アメリカ軍に勝つ自信はありません。さらに中国が参戦すれば、アメリカとの全面戦争に突入する危険があります」として参戦は難しいとスターリンに弁明した[21]。反対理由としては次のようなものがあった。
中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える中国国民党の蔣介石総統による「台湾国民政府」の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など「国内問題」の解決を優先すべき
しかし、スターリンは毛沢東をとがめ、いずれ日本の軍国主義が復活し、朝鮮半島の戦火は中国に及ぶと揺さぶりをかけ、中国人民解放軍の参戦をけしかけ[21][22]、毛沢東にはスターリンから参戦をけしかける電報が届けられた[注釈 5]。そして、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された。副司令官は北朝鮮で要職を務めていた朝鮮族出身の朴一禹を任じ、12月の中朝連合司令部の設置からは朴一禹が朝鮮人民軍を主導することになる[124]。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された[125]。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで26万人[21]、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。
参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。
抗美援朝義勇軍の兵士
中朝国境付近に集結した中国軍は10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始した。中国軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。
中国軍の作戦構想は平壌-元山以北に二重、三重の防御線を構築し、国連軍が北上すれば防御戦を行い、国連軍が停止すれば攻勢に転ずるものであった[126]。しかし中国軍が北朝鮮に進撃した10月19日に平壌は占領されたため、これは不可能となった[126]。そこで彭徳懐は亀城-球場洞-徳川-寧遠の線で国連軍を阻止しようとしたが、これも韓国第2軍団の急進撃で不可能となった[126]。さらにこの時の中国軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力であった。このため彭徳懐は防御によって国連軍を阻止することは困難と判断し、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、その成果として国連軍を阻止しようとした[126]。
それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。10月25日、クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報の報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた[127]。またマッカーサーの元にも同様な情報が届けられたが、この情報は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーにより、マッカーサーに届けられる前に、マッカーサーの作戦に適う情報に変更されていた。第10軍団参謀ジョン・チャイルズ中佐は「マッカーサーは中国が朝鮮戦争に参戦するのを望まなかった。ウィロビーはマッカーサーの望むように情報を作り出した[128]。」と指摘している通り、マッカーサーはウィロビーより下方修正された情報を報告され信じ切っており、鴨緑江を越えて北朝鮮に進撃した中国兵は30,000名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている。
マッカーサーの作戦は朝鮮半島の西部をウォーカーの第8軍、東部をアーモンドの第10軍団、中央を韓国軍が鴨緑江を目指し競争させるものであった[130]。10月26日、韓国軍第6師団第7連隊の偵察隊が遂に鴨緑江に達し、マッカーサーはその報告に歓喜した[125]。同日に長津湖に向かって移動中だった韓国第1軍団の第26師団は上通で強力な敵と交戦したが、迫撃砲を中心とした攻撃に大韓民国国軍はこれを朝鮮人民軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国軍の大部隊が中朝国境の鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。韓国軍部隊は第8軍に中国軍の介入を報告したが、中国が公式に介入したという兆候が見られなかったため、私的に参戦した義勇兵と判断した。10月28日には米第1海兵師団も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた[132]。
前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった。
さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた。清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した[134]。その後、前線から中国軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した[134]。中国軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった。
毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ[135]。
マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた[136]。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった[137]。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍団が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍団の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、最もあてにならないと思われていた。
11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散った。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った[140]。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍団のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している。しかし実際には前進どころか、第10軍団の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた。
ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し、またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった。
中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった。
マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍団を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った。退却した距離は10日で200kmにもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ。
大韓民国の国民防衛軍(1951年1月)
12月11日、戦況が悪化した為、大韓民国の李承晩政権は国民防衛軍法を発効すると直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した。
1950年10月19日、中国人民志願軍が参戦すると、ソ連により中国に供与されていた最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が戦闘空域に進出し、ついに1950年11月8日にはロッキードF-80とMiG-15が激突して、史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が発生した[148]。 後退翼を採用した先進的なジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力であり、同じジェット機であっても直線翼であった国連軍のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアなどを性能的に凌駕していた。これまで北朝鮮軍の脆弱な防空体制により悠々と爆撃していたB-29は、11月1日に初めてMiG-15から迎撃された。この日は損害こそなかったが、爆撃兵団の雰囲気はがらりと変わり、最高司令官のマッカーサーは政治的制約を破棄して、日本本土爆撃のときと同様に、戦略目標に対する焼夷弾攻撃を命じた[149]。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「アメリカ軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた[150]。
しかし、実際に朝鮮戦争で失われたMiG-15はあらゆる戦闘要因を合計しても、ソ連軍335機、中国軍224機、北朝鮮軍約100機以上の合計約700機程度であり、アメリカ空軍の主張は過大である。一方でソ連軍も1,100機のアメリカ軍航空機撃墜を主張しているが、アメリカ軍の戦闘機の空戦での損失機数は全機種合計でも121機、対空砲火を含む他の戦闘要因損失を合わせても604機に過ぎず、ソ連側の主張も過大となっている。最近の調査ではF-86とMiG-15のキルレシオは当時のアメリカ空軍の主張の約半分となる5.6:1で、さらにソ連軍熟練パイロットが操縦した場合は1.4:1と互角に近い戦いであったと判明している[168]。
B-29も、当初はMiG-15に苦戦したが、国連軍が制空権を確保していくに従って損失も減り、北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。特に重要な目標となったのは、「中国人民志願軍」が中華人民共和国本土から続々と送り込まれてくるときの進路となる、中朝国境の鴨緑江に架けられた多くの橋梁であり、これらは日本が朝鮮半島を支配していた時に架けたもので非常に頑丈な造りであったので、B-29は最大で12,000ポンド(5,800kg)にもなる巨大な無線手動指令照準線一致誘導方式のASM-A-1 Tarzonで橋梁を精密爆撃して合計15か所の橋梁を破壊した。朝鮮戦争休戦までにB-29は、日本本土爆撃任務に匹敵する延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下であり、日本軍を相手にしていたときの損失と比べると軽微であった[170]。しかし、第二次世界大戦終戦時に大量に生産したB-29の多くはすでに退役し、朝鮮戦争でのB-29の平均的な稼働機は100機程度と激減しており、たとえ対日戦の1/10以下の損失であっても、当時のアメリカ軍にとっては大きな損害となった[171]。
朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争ともなった。アメリカ陸・海軍のシコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士や、前線で負傷した兵員の搬送に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。
なお、世界初の本格的なジェット爆撃機であるボーイングB-47は実戦投入されなかった。また、朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与された。そして徹底的に秘匿されて歴史から抹殺されていたソ連空軍パイロットは、その戦死すら秘匿されて、家族に知らされることもなく、極秘に旅順の墓地に葬られその数は202人にも達したが、ソ連崩壊と中国当局による旅順の開放で1990年代になってようやく明らかになった[156]。
国連軍の北進と中朝軍の攻勢
国民防衛軍事件で処刑される国民防衛軍の幹部(1951年8月12日)
アメリカ軍戦車大隊「Rice's Red Devils」のM4A3E8(イージーエイト)、中国兵への心理的威圧を狙って悪魔のペインティングをしている
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が死亡した[172]。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。
37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ第1軍団、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国第1軍団を第一線に配置し、後方にアメリカ第1騎兵師団を配置、アメリカ第1海兵師団と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近のゲリラ討伐に任じていた[174]。
国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた。 12月23日、さらに第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡するという不運に見舞われた。マッカーサーはウォーカーの訃報を聞くや、かつてよりこの状況を挽回できる唯一の人物として考えていた統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を後任として推薦した。トルーマンや統合参謀本部の評価はマッカーサーより高く「リッジウェイが司令官だったら、司令部が遠く離れた別の国にあって、何が起きているか実際には知らず、まったく別の気楽な戦争をやっているということはなかっただろう。」との評価で、アメリカ陸軍が得た最高の人物という評価であり、マッカーサーの推薦を承認しウォーカーの後任を命じた[175]。
リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた。リッジウェイはウォーカーと異なりアーモンドの第10軍団も指揮下に置くことができた。マッカーサーはウォーカーの事故死の直前にあと4個師団の増援がないと前線を安定できないとワシントンに要求していたが、リッジウェイは現状で朝鮮半島にいると予想される共産軍48万名を現在の国連軍36万名で十分処理できると考えていた[177]。
リッジウェイは12月26日には朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させたが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけであった。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じた[174]。
1951年1月25日、第25師団と第1騎兵師団を基幹とする部隊が北上を開始した。中国軍の抵抗は微弱で同日夕方に水原-利川の線に進出した[174]。1月27日、リッジウェイ中将は漢江南岸の中国軍を一掃するため、第一線部隊を5個師団に増加させ、威力偵察から大規模な攻勢に発展した。北上するにつれて第50軍と第38軍の抵抗を受け、第8軍の進撃は遅々としたものになった。第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した。
西部でサンダーボルト作戦を行っている頃に中東部戦線の国連軍は偵察活動によって洪川付近に中国軍が集結していることを掴んだ。その報告を受けた第8軍は、サンダーボルト作戦の成果を東部にも拡張し、洪川付近の中国軍を包囲してその後の本格的な攻勢を行うためのラウンドアップ作戦を発動させ、アメリカ第10軍団と韓国第3軍団、第1軍団に洪川-大関嶺-江陵の線に進出するように命じた[174]。2月5日から北進を開始し、順調に進展していたが、横城付近で強力な抵抗を受けたため北進は停滞した。
2月11日夜、中朝軍が横城正面に第40、42、66軍の3個軍を集中して攻勢に転じ、助攻として西方の第39軍で砥平里の第23連隊を包囲し、東方では北朝鮮軍3個軍団が平昌方向に進撃した[178]。横城の韓国軍3個師団は撃退されたが、砥平里の第23連隊は陣地を死守した。
攻勢開始から1週間ほど経つと衝力は衰え始め、2月18日には後退の兆候も見られるようになった。国連軍は中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、漢江-砥平里-横城-江陵に進出して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動した。2月21日、国連軍は全線にわたって北進を開始した。豪雨と中朝軍の抵抗を受けながらも3月初めには漢江南岸-砥平里-横城-江陵に進出し、キラー作戦の目標を達成したが、中朝軍の撃滅はかなわなかった。
リッジウェイ中将はキラー作戦の成果を不十分と考え、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパー作戦を命じた。3月7日、アメリカ第9軍団、第10軍団、韓国第3軍団、第1軍団が北進を開始した[179]。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回した[179]。一方、西部では韓国第1師団が15日に漢江を渡河しソウルを収復した。
4月9日、ラギット作戦が開始され、アメリカ第1軍団と第9軍団、韓国第1軍団はカンザス・ライン(臨津江-全谷-華川-襄陽)を越えて進出し、4月20日には次の目標線であるユタ・ライン(臨津江-金鶴山-広徳山-白雲山)を占領した。中東部の第10軍団と第3軍団は険しい地形と補給に悩まされながらもユタ・ラインに進出した。各軍団は21日からワイオミング・ライン(漣川-鉄原-金化-華川)を目指して北上した[181]。
4月22日夜、中朝軍の4月攻勢が開始された。4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線にわたって攻勢を開始した。中国軍は11個軍をソウル攻略に向かわせた[181]。国連軍は空軍と砲兵の支援で中朝軍に損害を与えつつ逐次にノーネーム・ライン(ソウル北側-清平南側-洪川北側-襄陽北側)まで後退した。新たに第8軍司令官として着任したヴァンフリート中将は400門の火砲を集め、海軍と空軍に協力を要請して、中国軍を火力で撃滅した。第8軍は中朝軍に休む暇を与えないため、直ちに反撃を命じ、5月初めには4月攻勢で失った土地の半分を回復した。ここでヴァンフリート中将は、再びカンザス・ラインに向かう攻勢を計画した。
国連軍の偵察部隊が北進したが、5月10日頃になると激しい抵抗を受けるようになり、中朝軍の攻勢を予感したヴァンフリート中将は全軍に進撃を停止させ、中朝軍の攻勢に備えさせた。5月15日夜、中朝軍による5月攻勢が開始された。西部に第19兵団、東海岸沿いに北朝鮮第3軍団をもって牽制させ、中東部戦線に第3兵団と第9兵団、北朝鮮軍3個軍団の総計は30個師団であった。そして北朝鮮軍は半島東部の太白山脈沿いの韓国第3軍団に攻撃の矛先を向けた。韓国第3軍団(ROK III Corp)が強力な防衛線を張る国連軍の弱点と見抜いていたのである。攻撃を受けた韓国軍は戦うことなく砲、重火器を放棄しただけでなく敵の目につきやすい輸送トラックもあきらめ、携帯武器も捨てながら山岳地帯を南に逃走。将校には捕虜になった際の用心として階級章をもぎ取る者が続出した[183]。去る11月の鴨緑江の再現である。17日に韓国第3軍団は崩壊し、東部戦線は崩壊の危機に瀕した。ヴァンフリート中将はアメリカ第3師団と韓国第1軍団に反撃を命じた。第3師団と第1軍団は中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた。5月末に各軍団はカンザス・ラインを回復した。
カンザス・ラインを確保した第8軍は、同ラインに防御陣地を構築し、さらにこの陣地戦を完全なものにするために前方20キロに連なるワイオミング・ラインを占領して防御縦深を確保すべく、パイルドライバー作戦を発動した。各軍団は北進を続け、6月11日には鉄原、金化を占領した。東部では亥安盆地(パンチボール)南側まで進出したが、同地に北朝鮮軍が堅固な防御陣地を築いていたため、それ以上の進撃を控えた[184]。
7月29日、国連軍は東部戦線で限定目標に対する攻勢を開始した[185]。しかし6月中旬から防御を固めていた中朝軍の陣地は強固で、第10軍団正面の蘆田坪、血の稜線、亥安盆地では激戦となり、数キロ前進するのに約3千人の死傷者を出した。10月初旬に国連軍は再び攻勢を開始した。アメリカ第1軍団は10キロ前進して漣川-鉄原の兵站線を安全にし、アメリカ第9軍団は金城川南側高地、韓国第1軍団は月比山、アメリカ第1軍団は断腸の稜線、1211高地を占領して陣地戦を推進した。
膠着状態に
中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だった。だが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。
それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、3月14日にはソウルを再奪回した[187] ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。
中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した。
1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた。
マッカーサー解任
マッカーサー解任・リッジウェイ着任を報じる新聞(世界通信)
リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、実際にマッカーサーから指揮権を譲り受けると、中国軍の攻勢を押しとどめて1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。しかし、昔から自己顕示欲が強く部下の活躍を素直に評価することができないマッカーサーはそれを不服と思っていた。マッカーサーは自分が指揮全権を委ねたはずのリッジウェイの戦いぶりを批判し始め、「これはアコーディオン戦争に過ぎない」と侮蔑的な評価をマスコミに対して公言していた。リッジウェイは少ない戦力で最大限の効果を上げるために、前進に拘ることはなく、戦力に勝る中国軍の攻勢を誘発して大損害を与えるという地道な作戦を繰り返し、着実にキルレシオ10~15:1と圧倒的に大きい人的損害を中国軍に与えていたが、この作戦に対してマッカーサーがケチをつけたものであった。
そのようなマッカーサーに対してリッジウェイは、部下の兵士たちがかなりの成功を収めていると士気も上がっている中で、最高司令官がそれを貶してるのであれば、もはや味方の最高司令官であるはずの人物が、前線で戦っている兵士の士気を挫こうと画策しているのに等しいと憤慨し、マスコミに対して「我々は中国征服に乗り出したわけではない。我々は共産主義を食い止めようとしたのである。我々は戦場における我が兵士の優位を立証した。中国が我々を海に追い落とすことができなければ、それは中国にとって計り知れないほどの敗北である」という見解を発表し、真向からマッカーサーに対抗した。のちにリッジウェイはマッカーサーに対して、自伝で「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している。
しかしマッカーサーはリッジウェイからの批判を意に介することはなく、自分の存在感をアピールするために「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を主張し始め、さらに「最長でも10日で戦勝できる」と嘯くようになった。その構想とは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって、50個もの原子爆弾を投下して壊滅させた後、アメリカ海兵隊と台湾の中国国民党兵力合計50万名を共産軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第8軍と包囲して朝鮮半島の共産軍を殲滅し、中国と北朝鮮国境に放射性コバルトを散布して放射能汚染させて、共産軍の侵入を防ぐというもので、マッカーサーはこの戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てると主張していたが、実現性の怪しいものであった。リッジウェイはこのマッカーサーの計画に対しては「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と朝鮮戦争の解決から逸脱して共産勢力の減殺を目論んでいたと推察していた。
一方でトルーマンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示しておらず、むしろ、リッジウェイが戦況を挽回したことで停戦の機が熟したと考えて、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望しており、自らの計画を実行するために原爆の使用許可を求めてくるマッカーサーをずっと黙殺していた。さらにトルーマンは、朝鮮問題解決の道を開くため、1951年3月24日に「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしており、事前の3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、3月24日のトルーマンが声明を出す前に、一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国へ「我々が中国を破壊する前に、今すぐ戦争を止めろ」と迫った実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した。
さらにマッカーサーは、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア前下院議長に対し、トルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙を出していたことが発覚、マーティンがその手紙を議会で読み上げたことで、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われたことが判明した。トルーマンは一瞬にして講和交渉をぶち壊されたのに続き、大統領の自分に対して叛旗を翻すマッカーサーに対し「もはや我慢の限界かもしれない。とんでもない反逆だ」と激怒した[198]。またこの頃になるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。
4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた。4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊で報じるという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言い放って、公表を急ぐこととし、急遽4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行ってマッカーサー解任を発表した。
日本時間の午後には日本にも第一報が届いた。マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた。周囲にいた日本人、アメリカ人を問わず、ほぼ全員がその知らせを聞いて動揺したが、当のマッカーサーは冷静に受け止めた。翌12日に、トルーマンから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行き、昼食中のマッカーサーに泣きながら封筒を手渡した。マッカーサーは感情を表に出すことはなくその封筒を開けてトルーマンからの指示を読んだ[204]。
大統領として、そして合衆国軍の最高司令官として、誠に遺憾ながら、貴殿を連合国軍最高司令官、国連軍最高司令官、極東方面軍最高司令官、アメリカ陸軍極東司令部総司令官の職から解く。貴殿の指揮権を、速やかにマシュー・リッジウェイ中将に移譲されたい。
マッカーサーはトルーマンからの指示を読んだ後もなんの感情を見せることなく、しばらく沈黙した後に夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った。
解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。