根本の「人間」を変えるしかない。

2023年02月10日 12時47分53秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼「人権について学ぶ」といっても、単に知識として頭に入れるだけではなく、「人間観」を深めていくことが大事だ。

<人権は勝ち取るものだ>。

人権を学ぶには、哲学を学ぶことだ。

そして「哲学」とともに大事なのは、「闘争」である。

▼戦わなければ、人権は勝ち取れない。

たとえ、制度や法律で保障されていても、人権闘争を続けなければ空洞化してしまう。

中身が、からっぽになってしまう。

なぜか、それは権力というものは、人権を好まない魔性があるからだ。

国家権力にせよ、他の権力にせよ「人権」は軽んじられている

▼人権は「一人の人」を大切にする。

かけがえのない「一人」として、開花させようとする。

反対に、権力は人間をマス(集団・かたまり)でとらえ、物質のように扱い、数字や記号にしてしまう。

▼「権力の魔性」を打ち破るためには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。

根本の「人間」を変えるしかない。

民衆が強くなるしかない。

民衆が賢くなるしかない。

そして世界中の民衆が心と心を結び合わせていくことだ。

▼人のよいところを認めあう。

人の個性を認め合うのは、人権の第一歩である。

違いがあっても「同じ人間」なのだという、しっかりとした人間観をもつことだ。

だれに対しても「同じ人間」として付き合える人こそ「優れた人」であり、本当の教養がある人だ。

▼自分の人間性が豊かな分だけ、他人の中にも、人間性を発見できる。

人をいじめたり、いばったりする人間は、その分、自分の人間性を壊しているのだ。

 

 

 


大事なのは「人間として」生きることだ

2023年02月10日 12時01分06秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼偉大な人とは確信がある人。

▼一人立つ人を励ます。

そこから新たな歴史が始まる。

▼学ばなければ、心が卑しくなる。 

卑しいとは、品がなく、野心に溢れている。

「卑しい」には「軽蔑」のニュアンスが含まれます。

人が卑しくなる原因のひとつに「嫉妬心」があります。

人が卑しくなる原因に、欲求不満があります。

▼「冬来たりなば、春遠からじ―詩人・シェリー

どんなに苦しく寒い冬が続いても、冬は必ず春となる。

だから人間も、どんなにつらい冬が続いても、希望を捨ててはいけない。

希望をなくさない限り、必ず春が来る。

▼花は、百花繚乱である。

ところが人間の世界は、違いを尊重できないで、「差別」したり、「いじめ」をしたりする。

それは人権の破壊である。

ここに根本的な不幸が生まれる。

▼だれもが、人間として、人間らしく開花し、人間としての使命をまっとうしていく権利がある。

自分にもる。人にもある。それが人権だ。

▼人権を尊重しないだけでなく人権を侵害するのは、すべての秩序を破壊しているようなものだ。

人権を大切にし、人を尊敬できる―そういう「自分自身の確立」が必要だ。

▼人間はどうして差別するのか。

在日外国人へのヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会全体で問題視されるようになった。

▼外国人を「同じ人間」として見られない。

それは心の貧しさからだ。

▼自分が「人間として」どう生きるかという哲学をもっていないからだ。

哲学を学ばず、目先しか見ていない。

欲望のまま生きていることに元凶があるのだ。

▼大事なのは「人間として」生きることだ。

まず、教育で人権意識を大いに高めなければならない。

▼人間を「手段」ではなく、「目的」として見られる社会つくることだ。


「誰も取り残さない社会」

2023年02月10日 11時40分51秒 | 新聞を読もう

▼「誰も取り残さない社会」は全ての人がつながる「共生社会」である。

子どもや高齢者、障害者も活躍できる場である。

子ども食堂

こども食堂とは、無料または安価で栄養のある食事がとれる場所のことです。家族揃ってご飯を食べることが難しい子どもたちに対し、共食の機会などを提供しています。

こども食堂には

・手作りで温かい食事が格安で食べられる
・子ども同士、親同士のコミュニケーションが取れる
・アットホームな雰囲気で誰かと食事ができる
 
しかし、こども食堂の運営には課題も多く存在するのも事実で、ボランティアや寄付などの支援も必要です。
 

こども食堂とは、地域住民や自治体が主体となり、無料または低価格帯で子どもたちに食事を提供するコミュニティの場を指しています。

また、単に「子どもたちの食事提供の場」としてだけではなく、帰りが遅い会社員、家事をする時間のない家族などが集まって食事をとることも可能です。

このように、「人が多く集まる場所」ができたことで、地域住民のコミュニケーションの場としても機能しているのです。

こども食堂は、民間発の自主的、自発的な取り組みから始まりました。

子供食堂と連携した地域における食育の推進

 

-「子供食堂」とは? -

   近年、地域住民等による民間発の取組として無料または安価で栄養のある食事や温かな団らんを提供する子供食堂等が広まっており、家庭における共食が難しい子供たちに対し、共食の機会を提供する取組が増えています。

-食育の推進という観点から見た子供食堂の意義について-

   子供食堂の活動は様々ですが、親子で参加する場合も含め、

(a)子供にとっての貴重な共食の機会の確保

(b)地域コミュニティの中での子供の居場所を提供

等の積極的な意義が認められます。

-地域と子供食堂の連携の必要性-

   地方自治体は、地域住民、関係機関、関係団体・NPO等と適切に連携して、地域における食育を推進する役割を担っています。
   地方自治体が、子供食堂を、そうした連携先の一つとして位置づけ、連携を深める中で、子供食堂の取組に地域ぐるみで協力し、子供食堂の活動遂行に役立つような環境整備を行うことが期待されます。
   なお、国や地方自治体は、子供食堂の多くが民間のNPOや個人の善意に基づき、発足、運営されていることに十分留意し、子供食堂の自主的・自発的な取組を最大限尊重し、個人やNPOの善意で行われている子供食堂の活動の趣旨を理解することが必要です。

- 基本的な考え方-

   農林水産省においては、子供食堂と連携した地域における食育の推進について、関係府省(注)とともに、以下のような方針により、関係施策を推進します。

(1)地方自治体や地域における食育関係者が、食育推進の観点から、子供食堂の活動の意義を理解し、適切な認識を有することができるよう、全国レベルで情報発信を行うとともに、必要な支援を進めていきます。
   また、地方自治体や地域における食育関係者向けに、地域と子供食堂が適切に連携している好事例を収集、整理し、情報提供します。あわせて、子供食堂の抱える様々な課題の解決に役立つような課題ごとの参考情報の提供に積極的に努めます。
   食育活動の全国展開をとりまとめている農林水産省が中心となって、関係府省と協力しながら、上記のような情報発信、情報提供に取り組むことといたします。

(2)民間のNPOや個人の善意に基づき、発足、運営されている子供食堂の取組を後押しするためには、政府または地方自治体が実施する表彰制度を活用することが有効です。このため、国の既存の表彰制度を活用するとともに、地方自治体が当該自治体の実施する表彰制度を活用することを奨励します。


シベリア抑留 約57万5千人

2023年02月10日 11時32分43秒 | 社会・文化・政治・経済

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリアなどソ連各地やソ連の衛星国モンゴル人民共和国などへ労働力として連行され、長期にわたる抑留生活と奴隷強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。男性が多いが女性も抑留されている

ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満州朝鮮半島北部、南樺太千島列島で戦後にかけて抑留された日本人は約57万5千人に上る厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ソ連の継承国であるロシア連邦エリツィン大統領1993年平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている

シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した。だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた[7]

背景

ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあったスターリン体制下の1930年代以降は強制収容所ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。

初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談ウィンストン・チャーチル炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめたヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年ジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている

これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特に独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった

経緯

ソ連軍侵攻と停戦

第二次世界大戦末期の1945年昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、日本の実質的支配下にあった満州帝国との国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州および当時日本領だった朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。

8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連とヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた

ソ連軍占領地域の確定過程としては、日本降伏直後の8月15日にトルーマンから日本軍が極東ソ連軍に降伏する範囲として満州、朝鮮半島北部、南樺太とする旨がマッカーサーとスターリンに打電され、8月16日にスターリンが千島列島と北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線の北東側)を含めることを提案、8月18日トルーマンが千島列島分についてのみ同意し、北海道北半分については拒否して決着した、というものである

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、満州を管轄していた関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍との全ての戦闘が終わった。

満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった

抑留の決定

スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、『国家防衛委員会決定 No.9898』に基づき、日本軍捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した


シベリア抑留者

2023年02月10日 11時10分56秒 | 社会・文化・政治・経済

いわゆる戦後処理問題の多くが解決を見てきた中で取り残されている大きな課題がある。60万人ともいわれるシベリア・モンゴル抑留者に対する補償問題や、また軍人恩給欠格者、さらにいわゆる残留孤児と言われる海外からの帰国者等に対する補償援助問題などである。
 とりわけ、シベリア・モンゴル抑留者は、今日に言う国家による拉致被害者であり、厳寒の中、過酷な強制労働に従事させられてきた人たちである。
 抑留者のほとんどが日本人の平均寿命を超えている事実にかんがみたとき、もはや一刻の猶予も許されない。

最高裁の司法判断にとらわれることなく、政府が独自に判断を下し、早急に抑留者の「未払い賃金」ともいうべき補償問題に着手し解決を図る時期を迎えていると言える。

1945年8月、日本が受諾した連合国の「ポツダム宣言」には武装解除後の日本兵の本国帰還が明記されていた。しかし、旧満州(中国東北部)などにいた兵士たち約57万5千人はシベリアなどに送られ、多くが2~4年、木材伐採や炭鉱労働、鉄道建設などに従事。

 シベリア特措法は強制労働の対価が支払われていないことや、その「労苦を慰藉(いしゃ)するため」、帰国の時期に応じて25万~150万円を交付。今年7月末までに約6万4千件(対象見込みの95%)の支払いが終わった。

飢えと寒さで約5万5千人が死亡した。

「朝鮮半島の出身者が同じ部隊にいた。彼らも命がけで戦争に行った。われわれと同じように交付金を支給するべきだ。なぜ除外したのか」と疑問を投げ掛ける。

シベリア抑留と遺骨収集
 抑留は1945年8月末、スターリンの指令で実施。第2次大戦で約2700万人が死亡したソ連は国の復興のために日本軍捕虜を利用する目的があったという。抑留者たちは約2千カ所の収容所に送られ、死因の多くは栄養失調。


【野口裕史】「ハンマー投げの元日本王者」が競輪に転向!

2023年02月10日 10時29分58秒 | 未来予測研究会の掲示板

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2年ぶりの開催となった西武園競輪のG3「開設71周年記念 ゴールド・ウイング賞」は最終日の18日、12Rで決勝戦が行われ、元ハンマー投げ日本王者の野口裕史(37)=千葉=が打鐘前から逃げ切り、G3初優勝を完全Vで飾った。野口の番手で続いた岡村潤が2着、中団から直線鋭く伸びた守沢太志が3着に入った。

初日から最後まで、みなぎるパワーは衰えなかった。「4日間、全部バックを取る事だけを意識して臨みました。いまだに信じられない」。2017年7月のデビューから今年で5年目。競輪界に飛び込んでまだ日は浅いが、高校、大学、実業団とハンマー投げ選手として活躍し、15年には日本選手権を制している。鍛え抜いたそのパワーを生かし、自らのスタイルを崩すことなく徹底先行で念願のタイトルをもぎ取った。

え抜いたそのパワーを生かし、自らのスタイルを崩すことなく徹底先行で念願のタイトルをもぎ取った。

 スタート時のアクシデントも味方に付けた。号砲直後に園田匠のクリップバンドが外れ、仕切り直しになった際、前を取ったのが同じく積極性ある町田太だった。「あの時、前を取りに行くそぶりを見せたので、ある程度、展開も想像できた」と、警戒する相手の手の内を読んでレースを有利に運ぶこともできた。
 次走は初めて挑むG1京王閣・日本選手権。「今回の走りで自信が持てたので、最低限バックを取るレースを続けたい」。フィールドからバンクに活躍の舞台を移した競輪界のビーストが、大舞台でも自らのスタイルをとことん貫く。