マブチモーター社長宅殺人放火事件 なぜ死刑が執行されなかったのか?

2023年02月14日 22時48分03秒 | 事件・事故

概要 刑務所内で知り合った男2人組がマブチモーター社長(当時)・馬渕隆一宅に押し入って馬渕の妻・娘を絞殺し、馬渕宅に放火して逃走した。男2人組はこのほか歯科医師(東京都目黒区)と資産家の妻(千葉県我孫子市)をそれぞれ殺害して金品を奪った。
マブチモーター社長宅殺人放火事件(マブチモーターしゃちょうたく さつじんほうかじけん)は、2002年(平成14年)8月5日午後[3][5]、千葉県松戸市常盤平にあったマブチモーター社長(当時)・馬渕隆一(まぶち たかいち[10] / 同社創業者・馬渕健一の弟)宅で発生した強盗殺人・放火事件。加害者2人により馬渕の妻A(事件当時66歳)と長女B(事件当時40歳)が絞殺され、馬渕宅は放火された。

主犯格の小田島 鐵男(死亡時の姓:畠山)ら本事件の死刑囚の男2人は本事件以降も同年9月24日に東京都目黒区歯科医師強盗殺人事件、さらに同年11月21日には千葉県我孫子市金券ショップ経営者妻殺害事件計2件の強盗殺
生誕 1943年4月17日

死没 2017年9月17日(74歳没)死因 食道がん
殺人
犠牲者数 4人
犯行期間 1956年–2005年1月20日
国 日本の旗 日本
逮捕日 2005年1月20日

 強盗殺人罪・強盗罪・殺人罪・詐欺罪・窃盗罪・逮捕・監禁罪・建造物侵入罪・住居侵入罪・放火罪
判決 死刑(千葉地方裁判所)

本事件を含め一連の連続強盗殺人事件の主犯格だった元死刑囚・小田島 鐵男(犯行当時59歳、逮捕当時61歳)は、1943年(昭和18年)4月17日に北海道北見市で生まれ、死刑確定後の2017年(平成29年)9月17日に収監先の東京拘置所で食道がんのため病死した(74歳没)。

生い立ち
小田島は出生前に父が死亡したため、祖父母の子として入籍され、実母・母方の祖父母の「畠山」姓で育った。北海道紋別郡滝上町で育ったが、当時4歳だった1947年(昭和22年)には、実母から無理心中を迫られた。

祖父母の家庭、母とその交際相手の家庭、親戚の家庭を転々としながら成育した小田島は、生活は貧しく、中学生時代には、買い物に行った店の引出しから現金を盗んで補導された。さらに中学校卒業後、店を経営する祖母の小切手を、その取引先に持ち込み、1万円を借りて遣ったこと[11]、空腹に耐えられず[15]、夜間に飲食店に忍び込んで飲食物を盗んだことで、1959年(昭和34年)10月、家庭裁判所から詐欺・窃盗の罪で、紋別市の中等少年院送致の処分を受けた。

その後、小田島は家族の下を離れ、住み込みで働くなどして生活していたが、やがて金銭に窮するようになった。1960年(昭和35年)12月[11]、当時17歳だった小田島は、夜間商店のショーウィンドーから、指輪を盗んだなどとして、窃盗・窃盗未遂・住居侵入未遂の罪で、懲役1年以上3年以下の不定期刑に処せられ[11]、函館少年刑務所に服役した。

函館少年刑務所を出所後、小田島はバーテンダー、ミシンのセールスなどの職を務めつつ、北海道内を転々としたが、寸借詐欺や自動車窃盗で逮捕され、札幌刑務所で3年間服役した。26歳だった1969年(昭和44年)には、帯広市で窃盗と傷害で逮捕され、釧路刑務所に服役した[15]。以後、甲府、府中、鹿児島の各刑務所で、それぞれ獄中生活を経験した。

結局、小田島は1989年(平成元年)3月までの間に、窃盗・詐欺などの罪で、合計6回にわたり懲役刑に処せられるなど、多数の前科があった。

練馬三億円事件
1990年(平成2年)6月2日深夜、小田島は刑務所で知り合った男とともに、東京都練馬区内にある建設会社「内野工務店」(同区本社所在)の社長宅に押し入り、翌6月4日正午頃までの約38時間にわたって社長ら家族7人を脅迫・監禁し、3億円を強奪した練馬三億円事件を起こした。

警視庁練馬警察署捜査本部・警視庁捜査一課は同事件を多額強盗事件とみて、強盗・逮捕・監禁容疑で逃走した2人組の行方を追った。

1990年9月20日、小田島は新東京国際空港(現・成田国際空港)から香港に出国して行方をくらましていたが、1990年9月22日午後8時過ぎの便で帰国したところ、成田空港に張り込んでいた練馬署捜査員に任意同行を求められた。警視庁練馬署捜査本部が取り調べたところ、小田島は3億円強奪を認めたため、1990年9月23日夜に強盗・逮捕監禁・建造物侵入の容疑で逮捕された。

なお、同事件の主犯格とされた男は1990年11月29日、潜伏先の茨城県つくば市内で逮捕された。その後、主犯格と認定された共犯の男Xとともに、強盗、逮捕・監禁などの罪で、東京地方検察庁から、東京地方裁判所に起訴された。

東京地方裁判所(高橋省吾裁判長)は1991年(平成3年)11月28日の判決公判で、主犯の被告人に懲役13年、小田島被告人に懲役12年の判決をそれぞれ言い渡した。

詳細は「練馬三億円事件」を参照
宮城刑務所服役中
練馬三億円事件で懲役13年の有罪判決が確定した小田島は、1992年(平成4年)2月18日以降、宮城刑務所に服役した[5]。

小田島は服役直後の1992年3月12日、所内の印刷工場に配属された際、同じ工場の同じ班に配属された後述の男Mと知り合った[11][22]。小田島は1995年(平成7年)12月14日、Mと同房になった。

これを機に2人は親しくなり、周りの同房者に対し「前は会社の社長宅に押し入り、銀行から金を持って来させて、3億円を強奪した。海外で豪遊して帰って来た」と、練馬三億円事件について繰り返し自慢するような発言をするようになった[11]。また、出所後について「資産家の家を狙って、10億円ぐらいの大金を手に入れる。今度は証拠隠滅のため、家の人間を皆殺しにし、火を点けて逃げる。その後は、偽名のパスポートで海外に高飛びする」などと、将来の犯行計画について話したりしていた。

そして小田島は、犯行のターゲットとして「会社として利益が出ていて、ワンマン経営で、大金をある程度自由に動かせるオーナー社長を狙おう」と考えた[11]。小田島は獄中で雑誌などを読んで会社の内容などを調査し、多数の会社の持ち株率・借金状態・住所・電話番号など、各種のデータをノートに書き込み、情報を収集した。小田島はその結果、多数の候補の中でも会社の経営状態が良く、社長の持ち株率も高いマブチモーターを一番の有力候補と考えた。

前述の受刑者Mとともに犯行計画を話し合ったり、計画を記したノートを見せ合うなどするうちに、小田島はMに「入手した金を折半しよう」などと持ち掛け、犯行計画に誘うようになった[11]。最初は軽く受け流していたMも、小田島から何度も誘われるにつれて本気になり、1996年(平成8年)年末頃までに小田島に対し、小田島と犯行計画を実行する意思を伝えた[11]。

その後も小田島はMと、上記犯行計画について何度も話し合った上で、Mに「先に出所したら、犯行の謀議に使用するアパート・犯行に使用する自動車・資金などを準備しておいてくれ」と依頼した。

死刑囚M
共犯者M・Kは1950年(昭和25年)10月17日に鹿児島県伊佐郡で生まれた。2019年10月1日時点で死刑囚M(現在72歳)は東京拘置所に収監されている。死刑囚は2013年5月、斎藤と面会した際に死刑囚Mが再審請求中であることに言及しており[27]、2015年12月時点では最高裁に係属されていた。

生い立ち
Mは幼少期に両親が離婚し、その後は父の家庭で成育した。Mは中学卒業後、父が教員として勤務する、鹿児島県内の私立高校に進学したが中途退学し、その後は大阪府大阪市内の会社に勤務しつつ、定時制の高校に通い卒業した。

1976年(昭和51年)、Mは勤務先で知り合った女性と結婚し、息子1人をもうけた。しかしMはその後、競馬などのギャンブルにのめり込み借金を重ねるようになったため、1979年(昭和54年)頃に退職した。Mはその後妻とも離婚し、転職・転居を繰り返すようになった[22]。

Mは1983年(昭和58年)3月25日、自動車を無免許で運転したなどとして、有印私文書偽造・同行使、道路交通法違反の罪により、懲役10か月・執行猶予3年の刑に処された。

その後、同居していた女性の金品を盗むなどして、1986年(昭和61年)12月1日、窃盗罪により懲役1年4月に処せられ、医療刑務所に服役した[。

殺人前科
Mは前述の刑期を終え、医療刑務所から出所後、東京都調布市内に在住していた。

1988年(昭和63年)9月[29]、Mの交際相手だったタイ人女性は、タイの売春シンジケートで同居していた、使用者のタイ人女性(事件当時21歳、東京都新宿区上落合在住)に、「使用権」を保有され、歌舞伎町のバーで男性客との売春に応じていた。

交際相手女性は、バーの常連客だったMに対し「120万円払えば自由にしてやる、と使用者から言われた」と相談した。

これを受け[29]、Mは交際相手の女性を束縛から解放するため、1989年(平成元年)1月9日夜、使用者女性のマンションを訪れ[29]、「(交際相手女性を)60万円で自由にしてくれ」と相談した。

しかし交渉は難航し、Mはその使用者の女性と口論となった。激情に駆られたMは、使用者女性の首を、室内にあった電話コードで絞めて殺害し、女性の部屋にあった現金7万円・ネックレスなどを盗んで逃走した。

被疑者Mはこの殺人事件で、警視庁戸塚警察署捜査本部により、1989年4月12日夜、殺人・窃盗容疑で逮捕された。1989年10月11日、被告人Mは殺人・窃盗の罪により、懲役12年に処せられた前科があった。

宮城刑務所服役中
前述の懲役刑により、1989年10月26日から[22]、受刑者Mは宮城刑務所に服役することになった。

Mは当初、刑務所内の印刷工場に配属されたが、1992年2月18日、前述のように小田島が同刑務所に収監されてきた。

1992年3月12日、Mと同じ印刷工場の同じ班に小田島が配属された。その後の1995年12月14日、Mは小田島と同房になり、自然に親しくなっていった。

小田島は、他の同房者たちに対し、「以前、資産家の家に押し入って人質を取り、3億円を奪い、海外で豪遊して帰ってきた」などと繰り返し自慢したり、出所後について「金持ちの社長の家を襲い、億単位の金を奪う。証拠を残さないよう、家人を皆殺しにし、家に火を点ける」「成功したら他人名義の偽造パスポートを作って海外に行き遊んで暮らす」などと、将来の犯行計画について話したりしていた。多くの者は、小田島の話を非現実的な話と考え、軽く聞き流しており、Mも当初は半信半疑だった。

しかし、Mは小田島の話に「すごいですね」など、適当に話を合わせているうちに、小田島から、マブチモーターをはじめ、多数の会社の名称・住所・取締役の名前・資本金・株価・借金状況・大株主の持株比率など、様々な情報を、雑誌などを読んで研究しつつ、それらを詳細にメモしたノートを見せられた。

これによりMは、小田島が「大金を動かすことができるワンマンの経営者を狙っていること」「会社の負債や持株比率などから、マブチモーターが有力候補であること」「同社からは10億円くらい取れそうであること」など、具体的な話をされるようになった[22]。そして研究熱心な小田島に感心したMは、小田島に 「一緒に(犯行を)やらないか。奪った金は折半しよう」などと持ち掛けられ、「やります」と答えたが、互いに出所は先の話だったため、この時点ではまだ本気で考えてはいなかった[22]。

しかし、Mはその後も、小田島から繰り返し、上記ノートを見せられたり、事件の計画について話をされ、何度も「一緒にやろう」と誘われたことから、「小田島が本気で自分と一緒に犯行を行おうと考えている」と思うようになった[22]。Mは当時、「自分のように殺人事件を起こし、10年以上も刑務所に服役する人間は、世間から冷たく見られる」と思い、出所後の生活に夢も希望も持てずにいたが、小田島から「億単位の大金を手に入れる事件をやろう」と誘われたことで、「小田島と事件を起こして大金を得れば、好きな旅行や女遊びに金を使うことができるようになる」と考えるようになり、この際、小田島を信頼して勝負に出るしかないと考えた。

Mはその結果、1996年末頃までには小田島とともに犯行計画を実行する意思を固め、小田島に対しその旨を伝えた。

その後もMは小田島と、印刷工場の暗室で作業している時や食事中などに、犯行をどのような方法で実行するかについて、「マブチモーター社長など、東京周辺の資産家を狙い、家に押し入って家人を脅し、銀行などから大金を用意させ強奪する。その後、証拠を隠滅するため、家人を皆殺しにして家に放火する」ことなどを、何度も話し合った[22]。

1997年(平成9年)12月頃、小田島と別の房に移ることが分かると、Mは小田島と出所後の連絡先を交換するとともに、小田島から「Mが先に出所したら、犯行に使用するためのアパート・自動車・資金100万円を用意しておいてくれ」と頼まれた[22]。Mは1997年12月12日、小田島とは別の房に移り、翌1998年(平成10年)3月23日以降、働く工場も別になったため、それ以降は出所まで、刑務所内で小田島と会うことはなくなった。

事件前の経緯
M・小田島が出所
2000年(平成12年)5月23日、仮釈放を許された受刑者Mは、宮城刑務所から出所した。

Mはその後、しばらくは更生保護施設に寄宿していたが、仮出所後も定職に就かず、知人らとともに浮浪者の名義を利用して携帯電話を購入し、外国人らに転売する仕事をしていた。

Mはその後、その仕事から手を引くことにしたが、その際に数名の浮浪者の個人情報・印鑑を入手し、その浮浪者の個人情報のうち1人の名義を利用し、国民健康保険証を取得してこれを身分証明書として用い、同人名義で借金をしたりして金を稼いだ。

そして、保護観察期間終了後の翌2001年(平成13年)9月頃、Mは施設を出てアパートの一室を借り、宮城刑務所で知り合った群馬県佐波郡に住む知人を頼り、知人宅に居候するなどして生活を送っていた。Mはその後もまじめに働く気はなく、知人らと浮浪者の名義を利用して携帯電話を購入し、外国人などに転売するなどして金を稼いでいた。

2001年9月28日、Mは入手した浮浪人のうち1人の名義を利用し、消費者金融から借入れをするため、群馬県佐波郡内の村役場で浮浪人の住民登録を不正に知人方に異動させ、住民基本台帳ファイルに虚偽の記録をさせ、公正証書の原本としての用に供した(Mの電磁的公正証書原本不実記録罪、同供用罪)。これにより、国民健康保険証などを入手したMは、これを身分証明書として用いて浮浪人名義で借金をし、借りた金でフィリピンに旅行に行ったり、パチンコに興じるなど、無為徒食の生活を送っていた。2001年12月から、Mは知人の紹介で、運転手の仕事を始めたものの、楽をして大金を得ることはできないかなどと考えていた。

Mは2002年5月、「そろそろ小田島が仮釈放され、刑務所を出所してくる頃だ」と考えた。Mは「小田島と宮城刑務所で話し合った犯行計画を、まだともに実行する気があるならば、一緒に実行したい」と考え、「刑務所内で話し合った計画がどうなったか聞こう」と思い、小田島から出所後の連絡先として教えられていた、小田島の義父の電話番号に電話をかけた。

その結果、約1か月後の2002年6月下旬頃、「小田島が仮出所する」と聞いたため、自分の携帯電話の電話番号を連絡先として教え、「小田島が出所したら、その番号に連絡してくれ」と伝言した。その上で2002年6月11日、Mは小田島の出所に備え、群馬県伊勢崎市内のアパートの一室を借り、そこに住むようになった。

偽造パスポートの用意
小田島は2002年6月25日付で仮釈放を許され、宮城刑務所を出所した。同日、保護観察所に出頭した小田島は東京都内の更生保護施設に入所するとともに、義父からMの携帯電話の電話番号を聞いた[。Mに電話をかけて連絡を取った小田島は[11][22]、翌6月26日、外泊許可を受けて[11]、Mに駅まで迎えに来てもらい、Mが用意したアパートに行った。

小田島はアパートに着くと、宮城刑務所の中で話した「マブチモーターを狙う計画」についてMと話し合った。 Mは「小田島に計画を実行する気持ちがまだ残っていれば、やるつもりだ」と考えていたため、小田島から「マブチモーターの社長宅を狙おう。Mさん、気持ちは変わってないか」などと切り出し、犯行計画を実行する気持ちに変化がないか確認された上で、改めて「10億円くらいは手に入る」などと切り出されると、Mは「大丈夫です。やりましょう」と答えた[11]。

そのため2人はその場で、刑務所内で話した計画の内容を再度確認し、億単位の金員を強取できるものと期待し、これを実行することを決めた[11]。小田島はその際、Mに対し「事件を起こした後、警察からのマークを避けたり、海外逃亡できるように、他人名義のパスポートを作りたい」と相談した。Mは「小田島が逮捕されれば、自分の身も危うくなる」と考えたことから、これに協力し、前記の方法で入手した浮浪人の個人情報・同人名義の国民健康保険証などを小田島に受け渡した。

小田島は、浮浪者名義のパスポートを入手するとともに、犯行後に他人に成り代わって生活するため、Mの共犯者が入手していた浮浪者の個人情報を利用した。2002年7月12日、小田島は同名義の一般旅券を入手しようと、この浮浪者が住民登録していた伊勢崎市役所に対し、浮浪者の住民登録を不正に異動させようとして、市民課戸籍係員に対し「浮浪人は伊勢崎市内の(Mが用意したアパートの)住所に転入した」とする虚偽の内容の住民異動届を提出するなど、虚偽の申し立てをして、住民基本台帳ファイルに嘘の記録をさせ、備え付けさせた(小田島の電磁的公正証書原本不実記録罪、同供用罪)。

小田島は2002年7月22日、更生保護施設から義父方を転居先とする転居許可を受け、2002年7月25日に施設を退所した。

小田島は2002年7月26日、同じく浮浪者名義で外務大臣・川口順子(当時)宛ての一般旅券発給申請書を作成し、その氏名欄に浮浪人の実名を、現住所欄に「群馬県伊勢崎市…」(当時の2人の住所)などと記入し、申請者署名欄にも浮浪人の実名を記載した上で、小田島自身の顔写真を貼り付け、一般旅券発給申請書1通を偽造した[11][22](小田島の有印私文書偽造罪)。

小田島は同日、この一般旅券発給申請書を前橋市内の群馬県パスポートセンターに、浮浪人の戸籍謄本などとともに本物と装って提出し、群馬県知事(当時:小寺弘之)を経由し、川口外務大臣に一般旅券の発給を申請した(小田島の有印私文書行使罪)。

2002年8月6日付、小田島は同センターで、浮浪人名義・小田島の顔写真入りの一般旅券(旅券番号:TG2422125)の交付を受けた[11][22](小田島の旅券法違反)。この不正行為で小田島が旅券の交付を受ける際、Mはあらかじめその情を知りながら、2002年6月27日頃、同県伊勢崎市内のM方(当時)で小田島に対し、浮浪人名義の国民健康保険被保険者証・住民票などを手渡し、前述の各犯行を遂げるために必要な浮浪人の氏名・生年月日・登録住居地など、各種個人情報を教示するなどし、小田島の各犯行を容易にさせ幇助した(Mの電磁的公正証書原本不実記録幇助罪、同供用幇助罪、有印私文書偽造幇助罪、同行使幇助罪、旅券法違反幇助)。

犯行前の準備
小田島は、当時マブチモーターの社長だった馬渕隆一宅付近を数回下見し、電話をかけて日中の在宅状況を調べるなどして情報を収集した。

2002年7月下旬頃までに2人は、小田島が収集した情報をもとに、「2002年8月5日に犯行を実行する。具体的な手順としては『宅配業者を装って馬渕邸に侵入し、在宅している女性を人質に取る。その後、馬渕社長が帰宅したら、刃物で脅すなどして制圧し、電話で銀行から現金を持参させて奪う。その後、一家を皆殺しにし、家に火を点けて逃亡する』」ことなどを取り決めた。小田島らは犯行当日までに、犯行に使用する段ボール・刃物・布粘着テープ・缶入り混合ガソリンなどを用意したり、犯行時に乗っていく自動車を駐車しておく場所を馬渕邸の最寄り駅である新京成電鉄新京成線常盤平駅から離れた[11][22]、別の駅(松戸駅)近くの駐車場に決めたりするなど、犯行のための準備を進めた。

小田島らは2002年8月5日、Mが運転する自動車で下見をしておいた[11][22]、松戸駅前の駐車場に向かい、同日午前11時30分頃にその駐車場に自動車を駐車した。2人はそこから電車(新京成線)・徒歩で馬渕邸に向かった。

事件発生
第1の事件(本事件)
2002年8月5日午後3時頃、小田島・M両名は、宅配業者を装って馬渕邸を訪問した[11]。その際、馬渕の長女B(当時40歳)が応対し[3][11]、1階の玄関ドアを開けた[11]。

小田島・Mはそのまま家の中に押し入ると(住居侵入罪)[11]、Bと、その母親である馬渕の妻・A(当時66歳)に対し[3][11]、持っていた刃物のようなものを突き付け、両名の両手首をネクタイのようなものでそれぞれ縛り上げた[11]。そして、2人の口・長女の眼に布粘着テープを貼り付けるなどの暴行を加え、2人を抵抗できないようにした上で、馬渕家の資産である現金数十万円や[11]、市価数十万円から数百万円の、外国製の腕時計5個、ダイヤモンドなどの指輪4個の[31]、貴金属計5点(時価合計約966万円相当)を奪った[11]。

小田島はそのまま、2階の馬渕夫妻の寝室で、Bの首にネクタイを巻き付けて絞めつけ、被害者Bを窒息死させて殺害した(強盗殺人罪)。そして、Mは1階の居間で、Aの首をネクタイのようなもので絞めつけ、被害者Aを窒息させて殺害した(強盗殺人罪)[11]。殺害される直前、Bは小田島らに対し、「なぜ、こんなことをするの」と、涙を浮かべて訴えていた[32]。

小田島らは2人を殺害後、同日午後3時30分頃にはBの遺体があった2階の寝室で、ベッド上に混合ガソリンを撒いた[11]。さらに、Aの遺体があった1階居間の床上にも同じく混合ガソリンを撒くと、その2か所にそれぞれライターで点火し、放火した(現住建造物等放火罪)[11]。

火は、1階居間の壁・天井などに燃え移り、馬渕邸(鉄筋コンクリート造亜鉛メッキ鋼板葺2階建て、床面積合計約214.81㎡)のうち、1階居間の壁・天井など、合計約83㎡が焼失した[11]。放火後2人は、勝手口から逃走し、松戸駅に戻り、車で逃走した。事件後、小田島・M両名は8月20日、フィリピンに出国した。

第2の事件(東京都目黒区歯科医師強盗殺人事件)
当初の計画とは異なり、本事件では馬渕邸にある金品を強取しただけで、予想していたほどの大金を得られなかった。そのため、小田島は自動車学校の費用・生活費・パチンコ代などに、Mも旅行・フィリピン女性との交際・パチンコなどの遊興費などに[22]、それぞれ強奪した金品を浪費した。

これにより2人は金銭に窮したため、Mは事件から約1か月後の2002年9月頃、フィリピン旅行から帰国して以降、「再び本事件のような事件を起こし、大金を手に入れたい」と思うようになり、小田島に対し「また資産家を狙おう」と提案した[11][22]。

Mは、小田島から「すぐには計画を立てられない」と言われたことから[22]、その後しばらくは[11]、Mのアパートで同居しつつ[11][22]、2人でマンションなどへの空き巣狙いで[22]、窃盗を繰り返して生活していたが[11]、その後「どうせ捕まる危険を冒すのであれば、資産家の家に押し入り、家人を縛り上げて大金を奪う方がよい」と思い[22]、再び小田島に対し、資産家を狙おうと催促するようになった[11][22]。

小田島は、以前犯行標的の候補として検討していたゲームソフト会社の社長宅を狙おうと考えたが、Mとともに同社長宅を下見に行ったところ、防犯設備が整っていたことから、同宅を狙うことを断念した[11][22]。しかし、その帰宅中に小田島は「歯科医であれば金を持っているだろう」と考え、立ち寄ったコンビニエンスストアから取ってきた職業別電話帳を調べたところ、東京都品川区内(東急目黒線・武蔵小山駅付近)の、歯科医院の広告が掲載されていた[11]。これに目を付けた小田島は、Mに対し[11]、同医院を経営する目黒区目黒本町在住の歯科医男性C(当時71歳)宅を標的とし、狙うことを提案すると、Mはこれを承諾した。

2002年9月19日、2人は歯科医院・C宅周辺を下見した結果、C宅には入りやすいと判断し、同所で強盗殺人を行うことを決めた[11]。小田島が具体的な計画として、夕方に歯科医院の前でCが帰宅するために出てくるのを待ち、家までCの後をつけ、Cが家に入ったところ、ナイフで脅して家に押し込み監禁して金を出させることとし、金を奪った後、マブチモーター事件と同様に家人を皆殺しにし、現場から逃走するという計画を立てた。

2人はその後、犯行に使用するナイフ・手袋を用意し、2002年9月23日には、翌24日に計画を実行することを決めた。

2人は事件当日の2002年9月24日、Mが運転する車で歯科医院に赴き、少し離れた場所に車を駐車した。その後、再度C宅を下見し、歯科医院の診療終了時刻が近づくと、帰宅するCが歯科医院から出てくるのを医院付近で待っていた。しかし夕方になっても、Cが一向に出てこなかったことから、Cが出てきたのを見逃したかもしれないと考えた2人は、小田島がC宅に向かった上でMが歯科医院前に残り、小田島からの電話連絡を待つことにした。現場となったC宅は、東急目黒線西小山駅から北約300mの住宅街の一角だった。

2002年9月24日午後6時30分頃、小田島は勝手口のドアからC宅に押し入り、Cの左側胸部を突き刺すなどして、被害者Cに肺損傷を伴う刺傷を負わせた。小田島はそのまま、C所有の現金約35万円・カレッジリング1個(時価3万円相当)を強奪すると、C宅から徒歩約10分の距離にある歯科医院前で待機していたMを電話で呼び出した。この時点でCは、既に両手をコードのようなもので縛られており、腹部から大量の血を流しながら居間の床の上に倒れ、身動きを取れず弱い呼吸をしていた。

その後、小田島から「(首を)絞めてくれ」とCの殺害を指示されたMは、殺意を持った上で、Cの首をタオルで首を力一杯絞めつけた。被害者Cは顎が少し上がった状態で「うっ」と苦しそうな声を出し、体が緊張した状態になったが、そのままMが首を絞め続けると首の力が抜け、やがて力が抜けてだらんとした状態のまま、身動きをしなくなった。Cはこの結果、左側胸部を刺されたことにより左肺を損傷しており、これに起因した胸腔内出血と、首を絞められたことによる窒息により死亡し、殺害された(強盗殺人罪)。

被害者Cの遺体を司法解剖しその死因などの鑑定をした医師が、小田島の公判で証人として出廷・証言し、刑事裁判で事実認定された内容は以下のようなものだった。

被害者Cの肺損傷による胸腔内出血・首を絞められたことによる窒息は、いずれも単独で、最終的に脳の循環障害を生じさせるものである。そのため、小田島被告人・被告人Mのどちらの原因がより直接的に効いたかは判断できないという意味で、死因が競合しているといわざるを得ない。
しかし両者がともにある場合、片方しかない場合に比べて死期が早まることは十分考えられ、最終的には両者が死因として関与したということができるということから、小田島被告人の刺突・被告人Mの絞首とも、被害者Cの死亡という結果と因果関係を有する[11][22]。
被害者Cは妻・内科医の長男との三人暮らしだったが、当時妻と長男は旅行中だった。Cはこの日、午後6時10分頃までは自分の経営する歯科医院で勤務しており、午後7時頃には近くの娘婿宅を訪れる約束をしていた[6]。

第3の事件(我孫子市金券ショップ経営者妻殺害事件)
2人は目黒区の事件後、奪った金品を約1か月で浪費したため、再び金銭に窮し、空き巣狙いによる窃盗を繰り返す生活をするようになった[11]。

Mは2002年10月上旬頃から、再び小田島に対し「金持ちのところを狙おう」などと誘うようになった。小田島も目黒区の事件で思っていたほど大金を得られなかったため、次の事件を考えるようになった。

小田島は以前、東京都千代田区神田の老舗金券ショップに来店した際、その活況ぶりが印象に残っていたことを思い出したため、同店を狙うことを思いつき、2002年11月15日頃、Mにそのことを提案すると、Mもこれに賛成した。

小田島・M両名は、2002年11月18日頃に金券ショップを下見したが、同店は防犯設備があり「そのまま押し入るのは困難だ」と判断した。そこで、同店を経営する経営者男性D(事件当時69歳)を拉致し、同店に連れて行き、鍵を開けさせて押し入ることを決めた。

Dを拉致する方法としては「帰宅途中を襲う方法を取ろう」「それが無理な場合、マブチモーター事件と同様、先に家に押し入り、家人を監禁して人質に取り、帰宅したDを捕まえよう」と検討した。そこで小田島らは同日、帰宅するDを尾行し、千葉県我孫子市柴崎台のJR東日本常磐線天王台駅付近にあるマンションに、Dが在住していることを突き止めた。

その上で2人は現場付近の状況を下見し、Dの下車駅からD宅までの間で、Dを襲撃・拉致することを決めた。また、小田島らは2002年11月19日、犯行に使用する手錠・催涙スプレーを購入し、D宅に侵入する場合は警察官を装うこと、翌日に計画を実行することなどを決めた。現場周辺は事件前から空き巣被害が頻発していたため、所轄の千葉県警我孫子警察署が重点的に警戒していた。

小田島らは2002年11月20日朝、警察官を装うためにスーツを着用し、包丁・催涙スプレーを封筒に入れて持った上で、Mの運転する自動車で現場に向かった。2人はD宅を再度確認した上、午後7時から8時頃にDの下車駅で、Dが出てくるのを待った。しかし同日は、午後11時を過ぎてもDが姿を見せなかったため、小田島らはこの日の計画の実行を断念し、警察官を装ってD宅に押し入る方法に計画を変更した上、翌日に実行を延期することとした。当時、Dは事件直前から残業で帰宅が遅くなることが多かった。同夜は、高速道路のサービスエリアに車を駐車し、車内で仮眠を取った。

 


法華経はなぜ優れているのか?

2023年02月14日 20時51分54秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

なぜ法華経?

法華経は日本において、 平安時代 (七九四一一一八五) より釈尊の最高の教えとして広く尊崇されてきた。

仏教 者は僧俗ともに仏果を目指すのみならず、 病気平癒や世間的繁栄、国家の安穏、死後の幸福、死者への追善供養 のために、盛んに法華経を読誦し、その書写に努めた

法華経

NHK ※2019年11月の放送は、2018年4月に放送したシリーズです。

古来、大乗仏典の中でも「諸経の王」と呼ばれ、広くアジア諸国で最も信奉されてきた経典の一つ「法華経」。

日本でも、聖徳太子、最澄、道元、日蓮、宮沢賢治ら多くの人々に巨大な影響を与えてきました。「今昔物語」「源氏物語」「枕草子」などの文学にも法華経にまつわるエピソードが記され、日本文化の底流には脈々とその精神が流れ続けています。

しかし、現代人には、意外にその内容は知られていません。

「100分de名著」では、この法華経のサンスクリット版の原典を「思想書」ととらえて解読し、一宗教書にはとどまらない普遍的なテーマや、私たちにも通じるメッセージを引き出していきます。

「法華経」は西暦紀元1世紀末から3世紀始めに成立したと推定されています。

当時のインドは、厳しい修行や哲学的な思索を出家者が中心になって行う「部派仏教」と呼ばれる教団が栄え、仏教が庶民の暮らしから遠い存在になっていました。

そこに、広く民衆を救済しようという新たな潮流、大乗仏教が登場し、部派仏教との間で激しい対立が生じていました。この対立を乗り越え、これまでのさまざまな仏教をより大きな視点から統合しようとしたのが法華経だといいます。

法華経の舞台は、霊鷲山というインドの山。

釈迦の説法を聞こうと八万人にも及ぶ聴衆が集まっていました。深い瞑想の中にいた釈迦はおもむろに目覚め、今までに誰も聞いたことがない奥深い教えを語り始めます。

全てのいのちの絶対的な平等性、これまで成仏できないとされてきた出家修行者や女人、悪人にいたるまでの成仏の可能性、それぞれの人間の中に秘められた尊厳性、それを尊重する行為のすばらしさなどが、卓抜な比喩などを駆使して語られます。

そして、クライマックスでは、これまで秘されていた釈迦の成仏の本当の意味が明かされるのです。

法華経には、忽然と虚空に出現する天文学的な大きさの宝塔、大地をわって湧き出してくる無数の菩薩たち等、神話的なシーンが数多く現れ、合理的な思考からすると一見荒唐無稽な物語とみなされがちです。

しかし、当時の思想状況や社会状況に照らし合わせて読み解いていくと、当時の常識では到底受け容れられないような新しい考え方や価値観を、象徴的な出来事や巧みなたとえに託してなんとか表現しようとする作者たちの意図が明らかになっていきます。

その一つひとつを解読すると、その中核には、「釈迦がもともと説こうとしていた仏教の原点にたちかえれ」という力強いメッセージがこめられていることがわかります。それは、さまざまな因習に縛られ見失われそうになっていた「人間自体を尊重する人間主義の思想」だと、仏教思想研究家の植木雅俊さんはいいます。

排外主義が横行し分断される社会、拡大し続ける格差……憎しみや対立の連鎖からなかなか抜け出せない現代、「法華経」を現代的な視点から読み解きながら、「差異を認め合い、共存・融和を目指していく知恵」「自己に眠る大きな可能性を開いていくには何が必要か」など、生きる指針を学んでいきます

第1回 

【指南役】
植木雅俊(仏教思想研究家)
【朗読】
余貴美子(俳優)
【語り】
三宅民夫

法華経が編纂された当時は、出家修行者が自らの悟りを目指す一部の「部派仏教」と広く民衆を救済しようという「大乗仏教」が厳しく対立していた時代だった。法華経にはそうした対立を止揚し乗り越えようという新しい思想がこめられているという。

一部の部派仏教が決して成仏できないとした在家信者や女性も、初期大乗仏教が決して覚りを得ることができないと断じた出家修行者も、全て平等に仏になれるという平等思想を打ち出したのである。

法華経ではそのことを過去の因縁話や有名な「三車火宅のたとえ」など卓抜な表現を用いて見事に説いた。

第一回は、法華経にこめられた、人類初ともいえる「普遍的な平等思想」に迫る。

 

第2回 真の自己に目覚めよ

法華経が最も優れた経典とされる理由は「全ての人間が平等に成仏できる」と説いたこと。

では「成仏する」とはどういうことか? 

それは現代の言葉でいえば「真の自己に目覚めること」「人格を完成させること」だと植木さんはいう。

当時は釈迦が神格化され、釈迦の骨をおさめた塔「ストゥーパ」を拝む信仰が隆盛を極めていた。

しかし、法華経では、釈迦はあくまで覚りを得たひとりの人間なのだから、偶像を信仰するのではなく釈迦が説いた「法」や「経典」の方をこそ重視せよと説く。それこそが人格を完成していく方途なのだ。

第二回は、様々なたとえをもって語られる「真の自己に目覚めること」の大事さを解き明かす。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:植木雅俊

第3回 「永遠のブッダ」が示すもの

その場でたちどころに覚りを得る女性や悪人、大地の底から湧き出してくる菩薩たち……劇的なドラマが繰り広げられる法華経の中盤。

神話的ともいえるこれらの表現は、これまでの常識的な価値観をゆさぶり、全く新しい価値観を受け容れる地ならしをしようとした表現だという。

その上で明かされるのは、釈迦が四十年数前にブッダガヤで成仏したのではなく、気の遠くなるようなはるかな過去にすでに成仏していたという驚愕すべき事実。

そこに込められているのは、様々な形で説かれてきた無数の仏たちを一つに統合し、釈迦という存在の中に位置づけることで、これまでの仏典全てを包摂しようという意図だという。

第三回は、法華経に説かれた「永遠のブッダ」が示す奥深い意味を明らかにしていく。

第4回 「人間の尊厳」への讃歌

法華経後半で最も大事な章と考えられている「常不軽菩薩品」。

どんな暴力や迫害にあおうとも、ひたすら他者に内在する仏性を尊重し礼拝し続ける常不軽菩薩が、経文などを全く読めずともやがて覚りを得ていくという姿を描いている。

ここには、法華経の修行の根幹が凝縮しているという。すべての人間に秘められた可能性を信じ尊ぶ行為こそが、自らの可能性を開いていく鍵を握っているというのが法華経の思想なのだ。

第四回は、歴史小説「等伯」を書いた直木賞作家の安部龍太郎さんとともに法華経を読み解き、理想の人間の生き方に迫っていく。

NHKテレビテキスト「100分 de 名著」はこちら
○NHKテレビテキスト

思想書として「法華経」を読む

今回、番組で「法華経」に取り組んでみたいと思ったきっかけは、一冊の書物との出会いからでした。

「思想としての法華経」。

「法華経」というと多くの宗派や教団の人たちが聖典として仰ぐ経典ですし、私たちもお葬式や法事といった場で読経を耳にすることも多いと思いますが、その「法華経」を「思想」として読むという視点にとても新鮮さを感じて手にとりました。

この著作を書いたのが、今回の講師、植木雅俊さんです。とりわけ印象に残ったのは、植木さんがこの本の中で、若き日に「法華経」に出会ったことが鬱病から立ち直る大きなきっかけとなったと書かれている箇所でした。

なんとなく抹香くさいイメージのあった「法華経」ですが、そこに込められた思想が、人間に秘められた大きな可能性に光を当てるものであり、一人の人間の心をこんなにも揺さぶり勇気づけるものなのか、と大いに驚きました。

「法華経」は西暦紀元1世紀末から3世紀始めに成立したと推定されています。

当時のインドは、厳しい修行や哲学的な思索を出家者が中心になって行う「部派仏教」と呼ばれる教団が栄え、仏教が庶民の暮らしから遠い存在になっていました。

そこに、広く民衆を救済しようという新たな潮流「大乗仏教」が登場しましたが、今度は、厳しい批判をしようとするあまり、部派仏教の修行者だけは成仏できないという差別思想を宿すことになりました。

こうした流れの中で、大乗仏教と部派仏教との間で激しい対立が生じてしまいました。

植木さんによれば、この対立を乗り越え、これまでのさまざまな仏教をより大きな視点から統合しようとしたのが「法華経」だといいます。

このような視点から、当時の思想状況や社会状況に照らし合わせて「法華経」を読み解いていくと、当時の常識では到底受け容れられないような新しい考え方や価値観を、象徴的な出来事や巧みなたとえに託してなんとか表現しようとする編纂者たちの意図が明らかになってきます。

そして、その一つひとつを解読すると、その中核には、「釈迦がもともと説こうとしていた仏教の原点にたちかえれ」という力強いメッセージがこめられていることがわかります。

それは、さまざまな因習に縛られ見失われそうになっていた「人間自体を尊重する人間主義の思想」だと、植木さんはいいます。

なぜ「法華経」が大乗仏典の中でも「諸経の王」と呼ばれ、広くアジア諸国で最も信奉されてきたのか。

そして、日本でも、聖徳太子、最澄、道元、日蓮、宮沢賢治ら多くの人々に巨大な影響を与え、「今昔物語」「源氏物語」「枕草子」といった文学や日本文化の底流に脈々とその精神が流れ続けているのはなぜなのか?

 植木さんの解説によって経典の本質が紐解かれていく中で、その大きな要因の一つが、この力強い「人間主義」にあったのではないかということが少しずつ見えきたのでした。

もう一つ、大きなことを学びました。釈尊がもともと説いた、人類初ともいうべき普遍的な平等思想でさえ、権威主義や組織防衛のために歪められ、歴史の中でその内容が改竄されていったという事実です。

「法華経」を読むことは、そうした改竄の恐ろしさや原点を取り戻すことの大切さを学ぶことにもつながっていきます。

排外主義の横行、頻発するテロや紛争など、憎しみや対立の連鎖からなかなか抜け出せない現代、「法華経」を読み直すことで、「差異を認め合い、共存・融和を目指していく知恵」「自己に眠る大きな可能性を開いていくには何が必要か」などをもう一度学び直したいと、あらためて痛感しています。

 


大人の真似してパンフレットを読む? 3歳児のユー君

2023年02月14日 20時51分54秒 | 沼田利根の言いたい放題
「パンフレットに関心あるの? 読んでいるつもりになっている・・・・。賢いね!秀才君だね」とバーバが感嘆する。
 
実は、従兄のシン君も、3歳で新聞の広告をに関心を示した。
 
「この字何?」と祖母に聞いていた。
「これは、横浜銀行」
「ヨコマギンコウ」
「これは?」
「これは東京ガス」
「トウキョウガス、トウキョウ、トウキョウ」
「そう、東京と読むんだよ」
 
 
動画リンク
 
茨城県・もみじ寺ー永源寺 2022年11月12日

窓 ベッドルームの女

2023年02月14日 10時59分22秒 | 社会・文化・政治・経済

窓・ベッドルームの女】の無料動画を配信しているサービスはここ ...

2月14日午前3時45分からCSテレビのザ・シネマで観た。

監督 カーティス・ハンソン
出演 スティーブ・グッテンバーグ/エリザベス・マクガヴァン/イザベル・ユペール

欲望が生煮え 縦横無尽のユペール 

 ハンソン監督が42歳のときの映画。監督第一作だったと思う。

ハンソン監督は本作から2013年までの監督作品は9作。26年間の間にだから寡作だ。その中には「ゆりかごを揺らす手」「激流」「L.A.コンフィデンシャル」や「8Mile」「イン・ハー・シューズ」などの佳作・名作があった。

ヒッチコックのような歌舞伎のように魅せるドラマティックなサスペンスではないが、足元からじわじわ水が浸潤してくるような、いつ落ちるかしれない吊り天井みたいな、あるいはややこしい筋書きではないのに、ダシの取り方が丁寧なために重層した味わいを感じさせるとか、ハリウッド映画のなかで彼が示す洗練は、ハリソン独特の映画作法なのだ

▼とまあ、ベタホメしたあとでちょっといいにくいが、本作はうーむ、どうだろ。

スティーブ・グッテンバーグはどうしても「ポリス・アカデミー」を連想してしまうし、エリザベス・マクガヴァンの丸々した童顔はサスペンス向きじゃないと思うのだけど。ラストが近づくにつれ映画はだんだんスリル度を増し怖くなっていくけど、ハンソン監督のスキルからすればマアそんなものでしょうが、エリザベス・マクガヴァンは堂々たる女丈夫ですよ。

冒頭の暴行シーンでもマクガヴァンのほうが男より体格がよくて、どっちが暴行しているのだか、彼女が本気で向かっていったら犯人をやっつけそうだったのよ。話を整理しながら進めるとこういうこと。建築家のテリー(スティーブ・グッテンバーグ)は大手企業の社長夫人シルビア(イザベル・ユペール)と不倫中。

パーティーの帰りテリーの部屋で密会したシルビアは窓の下で女性が襲われるのを目撃する。シルビアは窓を開けようとしたが開かない。テリーを呼ぶうち男は女性を茂みにひきずりこもうとする。

ガンガン窓を叩くシルビアに男は気づく。シルビアと犯人はまともに顔をあわせる。

やがてばらばらと住民が出てきて犯人は逃走。名乗ると不倫がばれるシルビアに代わりテリーが警察に通報した。被害者のデニス(エリザベス・マクガヴァン)やテリーの証言をもとに捜査は進められ、容疑者ヘンダースンが線上に浮かぶ。

しかしテリーが本当の目撃者でないことが裁判でばれ容疑者は釈放。逆にヘンダーソンとデニスは法廷でのシルビアの振る舞いから、実際に目撃したのはテリーではなくシルビアであることを感づく

▼テリーはヘンダーソンがシルビアを狙っていることを知り知らせようとするが間に合わず、音楽堂でシルビアはヘンダーソンに刺殺されてしまう。彼は性的魅力をふりまく女に異常な憎しみを感じる変質者だったのだ。

シルビア刺殺の現場にいたテリーは犯人の容疑をかけられ逃走する。デニスはそんなテリーの疑いを晴らそうと、自分が囮になってヘンダーソンをおびきよせ真犯人をつかまえようと提案するが…もちろん最後の捕物がヤマですが、イザベル・ユペールが殺されてスクリーンから退場すると途端につまらなくなるのだな、これが。彼女は自分の立場がこじれてくると夫にあっさり不倫を白状して元の鞘におさまり、テリーを冷たく突き放す。

ユペールは34歳。翌年クロード・シャブロル監督と組み「主婦マリーがしたこと」から「ボヴァリー夫人」「沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇」「甘い罠」ミヒャエル・ハネケ監督の「ピアニスト」「タイム・オブ・ウルフ」「愛 アムール」と映画賞を総ナメにする快進撃が続く。

本作ではどうしようもない自分勝手でご都合主義で、親切は世間向けのみせかけ、それも面倒になるとてのひらを返し、男はそんな女だとわかっているが、かえって女の気まま・わがままが魅力的にみえひきずられる、という役作りを愉しく演じている。こういう縦横無尽な女優にかかると、映画とはどんな理屈をいってもしょせん土俵にあがる役者次第じゃないかと思ってしまう

窓・ベッドルームの女 - 解説・レビュー・評価 | 映画ポップコーン  

 
窓・ベッドルームの女(吹替版)木曜洋画劇場版
 
窓・ベッドルームの女(字幕版)
 
奴はまたやる!犯罪目撃モノからの濡れ衣冤罪証明プロット?
真実を言うのは簡単じゃない。あなたの言葉は私の言葉。デ・パルマほどの全力ヒッチコック愛は見られないかもしれないけど、間違いなくそういう系譜のサスペンス作品。
 
そう、タイトル通りの作品で演じるのはイザベル・ユペール。一番刺激的な夜になったわ。
証言できない不倫相手 = 上司の妻に代わって見てもない事件を証言することになるという、一風変わって新鮮な着目点の"犯罪(殺人)目撃"モノ。こういうのは基本巻き込まれ型+αで少しの興味・好奇心から発見な気もするけど、今回は結構自分からグイグイ行ってるのでは?
そんな勝手に尾行して、このメチャクチャなアイデアを思いついては実行する主人公がいいキャラしている。見るからにこういうことしでかしそうだもん、自分で首絞めていく結果に。
 
不倫や男女の泥沼と裁判の相性はいいらしい。連続殺人事件の犯人を刑務所送りにするはずが、コンタクトは初耳だった。ロマンチックかバカなのか?はたまた人として正しい行いをしようとするアツい正義感か、ただの良い格好したい自己顕示欲か?今回は慎重に動くからまだ逮捕しない。警察動かないなら自分でやるよ精神!

「一人で頑張って、私もそうするわ」私、視力はいいもの「なぜ君は僕を疑わないの?」愛?少しのぼせてただけさ。オモチャだった
勝手に関連作『ミッドナイト・クロス』『カンバーせーション盗聴』『推定無罪』

 

イザベル・ユペール出演作…というので観てみたが、ヒッチコック映画の模倣場面が散見される微妙なサスペンス(っぽい)映画。

ある男テリー(スティーヴ・グッテンバーグ)の部屋で不倫していた女性シルビア(イザベル・ユペール)は、彼の上司の妻だった。
情事のあと、外から声が聞こえたので、シルビアが窓の外を見ると、若い女性が男に襲われていた。しかし、シルビアが窓をガタンと開けた音を聞いてシルビアを見た犯人は逃げる。
その内容を聞いたテリーは「警察に言うべきだ」と主張するが、シルビアは不倫していた男の部屋にいたことを知られたくないので、テリーが代わりに警察に伝える。しかし、警察から犯人の面通しをしてもらっても、テリーは自分が犯人を見ていないので分からない。
そんな中、次の女性殺人事件が起こるのだが……という流れ。

殺された女を犯人から渡されて抱いているところを周囲の人達に見られるあたりなどは、ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』のケーリー・グラントに酷似している。

イザベル・ユペール目当てで観始めたものの、共演していたエリザベス・マクガヴァンを久しぶりに見られて良かった。彼女を初めて観たのは、映画館で『ラグタイム』だったが、やたらと存在感があった。

この映画、それなりには楽しめる(かも知れない)娯楽作 ?

 

負のスパイラルに落ち込み事態が悪化していく過程のイライラ感にストレスを感じない人は楽しめる作品。

メインが主人公の悪戦苦闘なのでしょうがないのだろうが、犯人に魅力が無く恐ろしさや嫌悪感も無いアイコンとしての存在なのが残念。
犯行の残忍さや、IQの高さを加えればもっと憎たらしくなったかも。

ラストの主人公の疑いが晴れてよかったね、って言うカタルシスは感じるのだが、犯人逮捕にまったくテンションが上がらない。

見所は超ビッチを見事に演じ乳見せ係までこなしたエリザベス。でも、もうちょっとサービスシーンがあっても良かったかな。
対してイザベルはシャワーのシルエットだけ。これはいただけない。でも可愛かったからゆるす。

突っ込み所も多々あるが、巻き込まれ型の定番で普通に楽しめる作品だろう。


余談。
突っ込みを入れるのも野暮ではあるのだが・・・・・
DNA鑑定すればいいじゃん。

 
 
 
 
 
 
 

 


利根輪太郎の競輪人間学 走る格闘技(ブロック)

2023年02月14日 10時59分22秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 静岡競輪 たちあおい賞争奪戦

最終日(2月12日)

10レース

並び予想 1-5-8 4-7-3 9-2-6

 レース評

今節は一息感が否めない野原だが、持ち前の回転力を発揮して白星締め。地元の岡村がマーク。果敢な町田を利す柏野が単穴。

1番人気 1-5(6・3倍)

期待された1番選手の野原 雅也選手は捲ったものの、、7番の柏野 智典選手の強烈なブロックで失速して後退。

逃げた4番の町田 太我選手の番手に5番の岡村 潤選手がはまる展開になる。

 「7番の奴よう! あそこまで、やること必要あるのか!」

1-5の車券で勝負した、競輪ファンたちの強い口調の怒り声であった。

だが、「ありです。それが走る格闘技=競輪のゆえん」なのですね。

では、どうすべきか?

そこで、ボックス車券を一考する。

1-5(6・3倍)

1-7(11.7倍)

7-4(9.8倍)

7-1(14.2倍)

何が起こるかわからない競輪。

ラインで決まる車券には、こだわらない。

番手有利として、5-7の車券がまず浮かぶ。

1-5-7のボックス3車券(6点)

4-5-7のボックス3車券(6点)

これで、12点の車券。

それとも、1-5-4-7の24点の3連単車券。

どちらを選択するかである。

4点ボックス車券なら24通りの車券。

3連ボックス車券なら12通りの車券。

つまり、10レースはオッズの数値から勘案すると最終的には1-5ラインと7-4ラインの対決。

結果

4-5 1万1,090円(29番人気)

4-5-7 3万4,210円(103番人気)

 




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 4 町田 太我   11.7 B  
2 5 岡村 潤 1/4車輪 11.5    
× 3 7 柏野 智典 1車身1/2 11.8      
4 9 松岡 辰泰 1/2車身 11.4      
  5 8 佐藤 壮 1/2車身 11.7      
6 1 野原 雅也 1/8車輪 11.9   S  
7 3 高原 仁志 1/4車輪 11.8      
8 2 坂本 健太郎 3/4車輪 11.4      
  9 6 稲吉 悠大 大差

 

戦い終わって

戦い終わって写真

 後攻めの町田太我が赤板過ぎに仕掛けて先行態勢。後方の動きを確認して打鐘過ぎにスパート。前受けから突っ張り気味に踏み中団取った野原雅也の捲りを柏野智典がブロック。岡村潤が内に差し込み町田後位切り替えるも町田が逃げ切る。「車番通り後ろから抑えて駆けた。展開が良くわからなかった。ダイジェストを確認して柏野さんが仕事をしてくれていたんだと。徐々の戻ってきた感じはあるし手応えはあります」。
 町田に切り替え二着の岡村。「作戦は野原君に全て任せていた。町田君が楽に出て先行なのできつかった。正直、脚が一杯であのコースしか見えてなかった。抜けると思ったが」。

 

   
 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
 

学問は精神革命のためにある―福沢諭吉

2023年02月14日 09時58分57秒 | その気になる言葉

▼読書は人生を開く扉である。

▼福沢諭吉が重視したのは精神の独立であった。

「言論の自由」は、精神的独立と深く関わっている。

▼何を考え発表する自由には、内面的自由の保障も含まれている。

▼何を考えてもいいが、口に出していけないなら、考えなくなる。

閉鎖的な考えに陥り、思考停止を招く。

▼つまり、言論の自由までが保障されてはじめて、内面の自由、精神的独立も保障される。

▼福沢によれば、日本人は、内面的に考えたことがあったとしても、発表するという方法のアイディアを持たなかった。

そこで、福沢は「民心の改革」―日本国民の精神改革を志す。

すなわち、学問・知性による精神革命を志した思想家、それが福沢諭吉だった。

学問は精神革命のためにある。

▼学問によって、想像力が鍛えられ、言葉や表現を覚え、他者とのコミュニケーションを活発にする。