利根輪太郎の競輪人間学 惨敗 GⅠ競輪の難しさ

2023年02月23日 19時56分40秒 | 未来予測研究会の掲示板

  GⅠ 高知競輪 読売新聞社杯全日本選抜競輪

初日(2月23日)

8レース

並び予想 1-9-6 8-2 4-3 7-5

レース評

犬伏が香川と山中を連れて四国独占を狙う。別線の評価は互角。一応は長島、大石の順で状態不安な杉森と松谷は割り引いた。

 

1番人気 1-9(3・4倍)

1-9=9-1の3連単で勝負する。

1-9-4 9-1-4各500円

1-9-6 9-1-6各200円

1-9-3 9-1-3各100円

結果

1-4 2,830円(9番人気)

1-4-9 9,070円(21番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 犬伏 湧也   14.2 B 早い巻返し
× 2 4 長島 大介 1/2車輪 14.1   切替え続く
3 9 香川 雄介 1車輪 13.9     離れ立直し
  4 2 椎木尾 拓哉 3/4車輪 14.1     前団切替え
5 3 杉森 輝大 1/2車輪 14.1     前団伸びず
  6 6 山中 貴雄 3/4車輪 13.9     前が離れて
7 5 松谷 秀幸 1/4車輪 13.9     最後タテ踏
8 7 大石 剣士 2車身 14.2     仕掛られず
  9 8 藤井 昭吾 大差 15.5     玉砕逃げも

 

9レース

並び予想 1-5-6 2-4-8 9-7-3

レース評

果敢に仕掛ける松井をガードしつつ和田が渾身の番手差し。南関独占を推したが、実績十分の九州勢や伸び盛りの橋本に注意。

1番人気 5-1(2・9倍)

5-1=23467 3連単で勝負

結果

2-4 3,400円(9番人気)

2-4-5 1万5,010円(34番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 山田 英明   14.7 B 1角イン捲
× 2 4 井上 昌己 1/4車輪 14.6   山田英追走
3 5 和田 健太郎 1/8車輪 14.6     松井乗直伸
  4 3 村田 雅一 1/8車輪 14.1     殿尻中突込
5 9 橋本 優己 1/2車輪 14.3     松井に捲れ
6 6 菊地 圭尚 1/2車輪 14.4     中団外出も
  7 8 山下 一輝 1/2車身 14.6     前団飲まれ
  8 7 坂口 晃輔 1/2車身 14.3     一緒捲られ
9 1 松井 宏佑 3/4車身 14.9   S 早捲出切ず

10レース

 並び予想 7-3 1-4 2-9-6 8-5

レース評

グランドスラマー新田が充実。復調した佐藤との福島本線。松浦が盛り返す。先行一番の真杉には吉沢、九州勢も不気味だ

1番人気 7-3(4・7倍)

7-3=149の3連単で勝負

結果 

2-3 5,570円(21番人気)

2-3-9 3万460円(97番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 眞杉 匠   14.2   3番手抜出
2 3 佐藤 慎太郎 1/2車輪 14.4   残し気味交
3 9 吉澤 純平 1/4車輪 14.2     位置死守続
4 7 新田 祐大 1/2車輪 14.5   SB カマシ粘ず
  5 6 武藤 龍生 1/2車身 14.1     ライン続き
× 6 1 松浦 悠士 1/2車身 14.0     被り動けず
  7 5 荒井 崇博 1車輪 14.1     絡れはぐれ
8 4 小倉 竜二 1/4車輪 14.0     松浦が全然
  9 8 山田 庸平 5車身 14.8     飛付き踏負

11レース

 並び予想 7-1 2-4 3-9-6 8-5

レース評

深谷が先頭を務める南関ラインを本線視。番手から郡司が鋭伸。深谷の逃げ残りも十分だが、逆転候補はS班の古性と平原。

 

 1番人気 9-3(4.7倍)

1-4 1-2 1-3 1-4 1-7の2車単

2-1 2-3 2-4 2-7の 2車単で勝負

結果

3-2 6,670円(19番人気)

3-2-9 1万3,750円(42番人気)

 

12レース

並び予想 1-4-9 5-3 2-6 7-8

1番人気 1-4(2.5倍)レース評

問答無用で◎は脇本。ゴールデンコンビ復活へ三谷が巧追。対するのは新山−守沢のSSコンビ、復調した清水、坂井に勢い。

1-4をあえて外して、1-5 1-6 1-8の2車単で勝負。

結果

1-4 250円(1番人気 )

1-4-5 4,920円(13番人気)

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

確信を胸に努力を重ねる

2023年02月23日 10時47分34秒 | 社会・文化・政治・経済

▼自分が勝利を信ぜずして勝てるほど、勝負の世界は甘くない。

▼大事なのは「信じる」ことである。

▼いかなる逆境や苦難を前進の力へ変える。

燃え上がる「忍耐」こそ、闇を希望の暁に転じていく。

▼「不退転の心」が勝利を導く。

▼人生は、永遠に苦悩との戦いである。

悩みは常にある。

要は、それに勝つか、負けるかだ。

▼確信を胸に努力を重ねると不思議と行き詰りが打開される。

▼夢の実現のために、使命に生きる姿は、周囲に送る。

▼混迷が度合を社会にあって、信念の言論貫き、正義の対話を拡大していことだ。

 

 

 


マルヨ事件

2023年02月23日 10時33分12秒 | その気になる言葉

マルヨ無線事件とは1966年(昭和41年)12月5日に福岡県福岡市下川端町(現:福岡県福岡市博多区下川端町)の電器店で発生した強盗殺人・放火事件。

川端町事件、マルヨ無線強盗殺人放火事件とも呼ばれている。

加害者の1人として逮捕された元店員は1970年(昭和45年)に強盗殺人未遂罪・強盗殺人罪・現住建造物等放火罪で有罪となって最高裁で死刑が確定したが現在も強盗殺人・放火のみ冤罪を訴えて再審請求中で、日本弁護士連合会が支援する再審事件である。

事件の概要
1966年(昭和41年)12月5日の深夜、福岡県福岡市下川端町(現:福岡市博多区下川端町)の電器店「マルヨ無線 川端店」に、元店員の男O(当時20歳)と少年(当時17歳)が強盗目的で侵入、宿直の店員2人をハンマーで殴り重傷を負わせ、現金22万円余りと腕時計2個を奪い、元店員Oが証拠隠蔽のため石油ストーブを蹴飛ばし放火して逃走。店員2人のうち1人は自力で脱出するが、もう1人は焼死体となって発見された。

事件発生から5日後の1966年12月10日に共犯の少年が出頭して福岡県警察(県警捜査一課・博多警察署)に逮捕され、死刑囚Oも事件発生から約3週間後の1966年12月27日に逮捕された。

事件現場となった電器店「マルヨ無線 川端店」は事件後に廃業し、同店があった商店街は2016年(平成28年)末時点で博多リバレインとなっている[1]。マルヨ無線は同店の他にも複数店舗を持っていたがその後倒産し消滅した。

背景
元店員Oは1946年(昭和21年)9月19日生まれ[9]・山口県宇部市出身で[10]、マルヨ無線でアルバイトしながら日本電波専門学校に通学。卒業後、マルヨ無線の正社員に採用。だが店の商品であるラジオを盗んでは質入れを繰り返していたことが会社に発覚、解雇されて警察に通報される。

身柄を警察に拘束されている間に、電気店の店長が元店員Oに無断でアパートの部屋に入り、ローンで購入したステレオを持ち去られた。

山口家裁は元店員Oを窃盗の非行事実で保護観察処分とする。その後、元店員Oは別の電気店に就職するも、また商品を盗んで質入れしていたことが発覚して窃盗罪で検挙され、中等少年院に2年間、入所していた。

少年院で仲良くなった少年(当時15歳)に、かつて勤務していたマルヨ無線川端店の強盗計画を打ち明ける。

出所後、スピード違反の反則金7000円の金策に困り、強盗計画を実行に移すことを決意。

後の裁判で少年は元店員Oが「店に押し入り、店員を殺して、証拠隠滅に放火する」と強盗殺人計画を打ち明けていたと証言するも、元店員Oはこの証言を事実無根と否定して、あくまでも強盗計画のみと主張している。

刑事裁判
加害者2人は強盗殺人罪・現住建造物等放火罪などで[2]福岡県警に逮捕され、福岡地方検察庁から福岡地方裁判所へ起訴された[3]。

1968年(昭和43年)12月14日 - 福岡地裁は被告人・元店員Oに死刑判決を言い渡した。
福岡地裁は判決理由において犯行動機を「元勤務先・電器店に対する処遇に関する恨み・金銭欲」と事実認定したが、死刑囚Oは2016年12月に書いた文書で「確かにそのような一面もあったがなお説明不十分だ」と反論している。
1970年(昭和45年)3月20日 - 福岡高等裁判所が被告人・元店員Oの死刑判決支持・控訴棄却の判決を言い渡した。
控訴審から放火を否定。警察の取り調べで、店の出火原因が石油ストーブ転倒によるものと言われ、現場写真を見せられ、厳しく追及されて、「石油ストーブを足で蹴って放火した」と嘘の自白をしたと主張。
1970年(昭和45年)11月12日 - 最高裁判所で上告棄却の判決が言い渡され、死刑が確定した。
共犯・元少年は第一審で懲役13年を受け、控訴審で確定した。
再審請求
死刑囚・元店員Oは被害者に対する謝罪の念を表明しているが「謝罪と雪冤は相反しない」と主張した上で、本事件に関して放火を行ったとされる確定判決の事実認定を否定して再審請求を行っている。

死刑確定後の1973年(昭和48年) - 1979年(昭和54年)に福岡地裁へ4度の再審請求を行ったが、すべて棄却された。

その後、日弁連が死刑囚・元店員Oの「再審事件委員会」を設立し、1979年(昭和54年)2月に再審を支援して福岡地裁へ5度目の再審請求をした。

この再審請求の際には、事件当時に消火活動を行った消防士・現場を調べた警察官がそれぞれ、「現場の石油ストーブが人為的に倒された形跡はない」と証言したが、福岡地裁は1988年(昭和63年)10月に再審請求を棄却する決定をした。

死刑囚Oの弁護団(弁護団長:上田國廣)は、1990年(平成2年)11月に多数の証拠調べ・証人尋問[注 3]を要求したが、これらは2年以上経過した1993年(平成5年)4月時点でも認められていなかった。

前月(1993年3月)に死刑執行が再開されたことを受け、弁護団は同月22日(当時・第5次再審請求即時抗告中)に福岡高裁刑事第2部(池田憲義裁判長)へ同様の証拠調べを請求する上申書を提出した[11]。

これを受け、福岡高裁刑事第2部(池田憲義裁判長)は1994年(平成6年)4月に「同型のストーブを使用して実験検証を行う」と決定し、原審・再審請求を通じて初となるストーブの検証を行った。

その結果、検証に立ち会った福岡高裁の職員がストーブを複数回足蹴りしても、ストーブは一度も横転しなかったほか、手で強引に押し倒しても安全装置が作動し、給油タンクが外れることが判明した。

しかし、1995年(平成7年)3月28日付で福岡高裁刑事第2部(池田憲義裁判長)は、「ストーブを蹴り倒そうとしても床を滑るだけで倒れることはないと考えられるが、ストーブは手で傾けることも可能であり、弁護人らの主張する新証拠は放火の認定を覆すに足りるとは言えない」として、弁護人の即時抗告を棄却する決定を出した。

最高裁判所第三小法廷は1998年(平成10年)10月27日付で死刑囚・元店員Oの特別抗告を棄却する決定を出した。

同小法廷は「検証結果により、犯行方法の事実認定に疑いがあることが証明されたが、放火したという事実そのものに疑いを生じさせる証拠が見つからない限り、再審は開始できない」と判断した一方、「仮に犯行事実の一部に新たな証拠が見つかれば、再審理由として認められる」という新たな基準を示した。

死刑囚・元店員Oは特別抗告棄却決定直後(1998年10月)に第6次再審請求を起こしたが、福岡地裁で2008年(平成20年)3月に棄却決定がなされた。

福岡高裁に即時抗告したが、これも2012年(平成24年)3月29日に棄却。

死刑囚O側は最高裁に特別抗告をしたが、2013年6月に棄却された。

死刑囚Oは2013年(平成25年)7月に福岡地裁へ第7次再審請求を提起し、2021年1月時点で審理中である。

死刑囚として
死刑囚Oは死刑確定から50年以上が経過した2021年(令和3年)1月時点でも死刑を執行されず、福岡拘置所に収監されているが、死刑廃止運動団体「フォーラム90」の調査によれば[9]、Oは存命中の死刑囚としては最古参である。

死刑確定から約40年以上にわたり死刑囚Oの再審弁護人を担当している弁護士・上田國廣は、2019年(平成31年)3月に読売新聞西部本社の取材に対し、死刑執行が長期間にわたり見送られ続けている理由について、「事件当時若年だったことに加え、仮に再審請求が認められ放火が無罪となった場合、死刑回避の余地が残されていることなど、死刑執行を躊躇させる要素があるためだろう」と回答している。

死刑囚Oは獄中にて新聞記事・ラジオ放送を通じて他の死刑囚の死刑執行を把握しており、自身の福岡拘置所入所から2016年7月までに死刑囚37人の死刑執行・3人の病死・1人の自殺を見届けて、死刑執行当日の朝に別れの挨拶・握手をして見送った死刑囚もいる。

また「毎朝のように『今日は自分が死刑執行されるかもしれない』という思いを抱きながら生きているが、もし自由の身になったら三輪スクーターで日本一周巡礼の旅をしたい」と述べている。

また死刑囚Oは平日に5時間30分程度紙袋作りの自己契約作業(内職)を行っているが、手記にて「モーニング娘。

AKB48のコンサートがあるとその絵柄の材料が入荷することがあるので間接的にアイドルグループのイベントに触れる楽しみがある」と述べている。

このほか獄中生活における楽しみとして「新聞閲読で国内外の動きを知ること・読書・音楽鑑賞」を挙げており、認知症予防のため新聞に掲載された大学入試センター試験問題の解答・小説本の読書・趣味の俳句などを続けている。

 


映画 修道女

2023年02月23日 09時42分44秒 | 社会・文化・政治・経済

2月23日午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

修道院の腐敗を告発したディドロの原作を、数年にわたる紆余曲折の末にリベットが実現させた渾身の問題作。

アンナ・カリーナが見事な主演を見せ、教会からの反対運動を受けながらカンヌ映画祭でパルムドールにノミネートされた。没落貴族の娘シュザンヌは意に反して修道院に送られた。行く先々で出会う聖職者たちの腐敗を目にし、迫害の日々の中で自由への抵抗を続けるのだが……。

1966年製作/131分/フランス
原題:La religieuse

18世紀のフランスを舞台に、さまざまな不幸、困難に見舞われる修道女のストーリーです。
ドニ・ディドロの1760年発表の小説を元にしたジャック・リベットによるこの作品は、当時”カトリックに冒涜的”として公開禁止となりました。

宗教批判としてだけではなく社会批判、ジェンダー問題として、今見直しても興味深い1本です。

修道女は美女ばかり。

「尼寺へ行け」・・・貧乏貴族の娘は嫁に行く持参金がなければ尼寺(女子修道院)へ放り込まれるしか生きる道がなかったようだ。

親や夫の後ろ盾がないと神と結婚するしかない。

日本では江戸時代あたり大名が亡くなればその妻はまさに未亡人、仏門に入るしかない。

いや、高貴な出自の若い女性も結婚相手がなければ出家しかない。

徳川家へ降嫁の和宮だって、降嫁を受け容れなければ”尼寺へ行け”というので逃げ道がなくなったというのが事実だ。

ことほど左様に、女性にも人権があると認識されたのは、長い歴史でみると、つい近年のように思う。

女性にも自我があり、その自我に従って生きる自由があるはずだ、というのがこの映画である。

ヌーヴェルヴァーグのジャック・リヴェット監督が単なるコスチューム映画を撮っているわけではないの。

およそ想像できる、映画製作時1966年の価値観で制作された18世紀の修道女のお話という感じです。

娘を結婚させる持参金がないこともさることながら、母の密通の結果の娘であるシュザンヌは父はもちろんのこと母からも疎まれていた。

家の醜聞であり世間から隠しておきたい、修道院へ入れられた理由はそれだけれど大きなもう一つの理由は彼女が美貌であったということのようだ。

その美貌と自我の強さで運命に翻弄される、それゆえ人に愛され、また憎まれる。

映画冒頭で語られるように、無理に道を切り開こうとすれば、社会からの転落、苦界へ身を沈めるか、それとも自ら命を絶つか、生きながら死ぬか、それとも自我に従うか、そういう当時としては今日的テーマの映画であると思います。

今となっては、そういう意味での新しさ感じられません。

映画製作当時は、修道院長の人格の描き方とか、蔓延する同性愛とか、物議をかもしだし問題作品となったようです。

もとは、ドゥニ・ディドロの原作を舞台劇にしたものを映画として脚色したようで、戯曲の味わいが映画からも感じられます。

二つの教会、そしてフランスの田舎の風景、そこに修道女のグレーの聖衣、そして冒頭と終盤のパニエの入ったパステルカラーのシュザンヌの衣装、映像がとても美しい。

主演はヌーヴェルヴァーグのミューズ、アンナ・カリーナ、当時26歳、『気狂いピエロ』の翌年制作、美しい、それに鬼気迫る熱演です。

ジャック・リヴェット監督というと、とにかく長尺、『美しき諍い女』は途中リタイア、という残念な思いが残ります。 本作は、リヴェット監督長編二作目ということで130分あまり、ストーリーも起伏に富んでヌーヴェルヴァーグの映画としてはわかりやすく、文学的味わいの濃厚な映画になっています。

 

・アンナ・カリーナ(シュザンヌ)
修道女

・ミシュリーヌ・プレール(モニ)
修道院長

・フランシーヌ・ベルジェ(サン・クリスティーヌ)
後任の修道院長

・リゼロッテ・プルファー(ド・シェル) 
転院先の院長

・フランシスコ・ラバル(モレル神父)

 
 
修道女」新入りの修道女を好きになり叶わぬ恋に身を焦がす修道院 ...
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修道女』ジャック・リヴェット監督(1966フランス)- その2 ...
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修道女 ジャック・リヴェット監督(1966フランス)

映画『修道女』の見どころと感想

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18世紀のパリ。貧乏貴族の三女シュザンヌは半ば売られるように修道院に送られます。
が、請願の儀式の途中で拒否するシュザンヌ。

家に戻ったものの3ヶ月の監禁下に置かれます。

そして母親に「不義の子」であると知らされ、あきらめて修道院に入ることに。

再び請願の儀式。が、なぜか儀式中の記憶が抜け落ちているシュザンヌ。それでも修道院長のモニのやさしさに救われながら日々をすごします。

しかし、そのモニが死去。
後任の若い院長サン・クリスティーヌは独善的で、モニが禁じていた肉体的苦行を復活させ、とりわけシュザンヌに対し厳しい迫害を加えてきます。

シュザンヌは自分に請願の記憶がないことから修道女であることを取り消す訴訟を起こすことに。
弁護士に手紙を書き準備を進める最中、指導的立場にある神父の計らいでシュザンヌは別の修道院に移籍することになります。

移り住んだ修道院は一転して明るく華やか。院長を取り囲む修道女たち。

しかしー。

なぜ神は弱き者の声をきいてくれないのか

毒親、壮絶ないじめ、セクハラ、といった不幸のオンパレードのこの話。
気の毒ではあるもののシュザンヌ自身「自分が美しいがためにこんな目に……」

転籍先の修道院の内情にピンとこない天然なところもあったりでちょっとめんどくさいところもある。

つい「あなたにも落ち度がー」と思ってしまいそう。

今にも通じるこの問題。何が救いとなるのでしょうか。

あらゆる愛想や妬みが修道院という神に仕える神聖な場に渦巻いている。

むしろ修道院だからこそ起こりうる問題にも見えます。

神はちゃんと見てくれているの? なぜ助けてくれないの? 信仰心の乏しい私はこの手の映画を見て毎度毎度、思います。

公開当初、カトリックに冒涜的と見られたこの映画。

宗教批判としてだけではなく社会そのものへの批判、抵抗として置き換えてみることもできそうです。

シュザンヌの告発によって問題は露呈したものの、お偉いさんの2世だからという理由で罰せられなかったサン・クリスティーヌ院長。窮地を救ってくれるかに見えたモレル神父がまさかのー。

世間はなぜ弱者の声を聞いてくれないのか、見て見ぬふり、助けるふりだけで、なぜ本気で助けてくれないのか、なぜ事実を隠蔽するのか。

シュザンヌのラストの行動は、自身の中途半端な信仰への罰なのか、抵抗なのか。

映画『修道女』 時代を超えた普遍的な問題を問う1本です。

 

アンナ・カリーナの迫真の演技に尽きる!こういう役も演じることが出来るのかと驚きました。一連のゴダール作品や、彼女主演の作品では断トツに好きな『ANNA』などの、コケティッシュでオシャレでキュートなイメージとは真逆の役柄。

院長先生がシュザンヌに「悪魔に取り憑かれている」と決めつけられて、何を主張しても全く理解してもらえず、議論が延々と平行線を辿って受け入れてもらえないあの絶望感は、カール・Th・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』を思い出しました。

「一人の女のために門が少しでも開けば、大勢の者が殺到し、こじ開けられる」という身勝手極まりない大義名分で、彼女の請願を敗訴に追い込むとは・・。

マヌリ弁護士などのおかげで何とか別の修道院に移ることが出来たものの、今度は院長の同性愛的抑圧の犠牲になっていく・・。

そのあと、さらに二転三転あって衝撃的なラストを迎えるわけですが、シュザンヌが決して失うことがなかった気高い「尊厳」が、重石のように心に残りました。

 

主演の俳優さんめちゃ美しい…と言うのがいちばんの感想。
長尺だけどダレずにみられたな、という感じ、良い映画だった。
面白いかと問われると面白くはないと思ったけど。個人的には。

面白くないなと思う理由が主人公シュザンヌの躁鬱感が全然理解できなくてついていけなかったのが一個めちゃくちゃ大きい。
感情ジェットコースターすぎて今主人公がどんな思いで動いているのか掴みきれずに終わってしまった。これは私の共感力のなさ故かと思う。
主人公が反発するのも縋るのもどう言う心情を持ってしているからなのか、他人に対する好意と反意の入れ替わりも激しくてまぁわからなかった。
最終的に私は「はっ!これが傾国の美女というやつか…!」と自分を納得させることにより落ち着いた。シュザンヌの才能は人を狂わせることなのだと思えば物語の波瀾万丈も納得できた。
最初の院長先生はきっと彼女のそう言う性質を見抜いていて不安を抱いていたのだろうと思う。
最後まで彼女は清廉であったんだなぁと思うと、悲しい。サドの美徳の不幸みたいだ。

ただ全ては理解はできないけど主人公が不憫であることは理解できるので、ハピエンイフストーリーとして初代院長先生に諭され敬虔な修道女へと成長するみたいな作品を希望します。
母に捨てられた主人公が母に縋るように院長先生に心を寄せていたのはすごく理解できたので。作品頭の修道院長先生と主人公だけずっとみていたかったなという個人的願望。