「固定観念」を壊せば・・・

2023年05月03日 09時48分20秒 | その気になる言葉

▼大切なのは、「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある。

これまでの苦難を意義あるものにするか徒労におわらせるかは、これからの問題だ、生きていこう。

▼失敗もある。自身を省みて、「がんばった」とも「執念が足りなかった」とも思う。

大切なのは、反省をどう生かしていくかだ。

▼平和・文化・教育の運動を多角的かつ広範に展開し、平和のために善の連帯を世界に広げていくのだ。

▼他人や過去と比べる必要はない。

自分と未来だけを見つめて、前進あるのみ!

▼「固定観念」を壊せば、未来が明るく見えてくるものだ。

▼病気になったとしても、どんな状態になっても、自分らしくいきられたら、それは幸せだ。

マイナスの要因を乗り越える時は、感謝の心が湧いてくるものだ。

▼真の勝利とは、<最後に勝つ>ことだ。

 


今こそドストエフスキーの読解を

2023年05月03日 09時24分51秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼青年は困難から逃げてはいけない。

▼およそ人間は、何をさしおいても一番に尊重されなければならない。

▼人間を「モノ化」し、ひいては大量死さえもたらした近代文明の宿命を見据えて、一人一人の生命に内在する宝を見る新たな人間主義を打ち立てる―これが生命哲学の本質である。

▼人類の人権、平和と幸福を願う。

▼<ロシアが悪でウクライナが善>という単純な二元論に立つ限り、平和など永遠に実現しないのは、ドストエフスキーを読めば自明ですよ。

今、政治家や知識人たちの言動から透けて見えるのは、19世紀文学への著しい無理解と無関心だ。実に心配ですー宗教学者 山折 哲雄さん

 


『戦後日本経済史』

2023年05月03日 08時52分24秒 | その気になる言葉
 
 
本書は野口先生の鋭い分析で、戦後日本が戦時経済体制の上に築かれたという、新しい歴史観を提示したものです。
日本だけなぜ、経済成長できないのか、その原因はどこにあるのか、未来に対する提言もあります。
 

内容(「BOOK」データベースより)

奇跡的な高度成長を成し遂げ、石油ショックにも対応できた日本が、1990年代以降のグローバル化とITの活用に立ち遅れているのはなぜか?それは、第2次大戦中に構築された「戦時経済体制」が、現在も強固に継続しているからだ。
「戦後は戦時と断絶された時代」という常識を否定し、「日本の戦後は戦時体制の上に築かれた」との新しい歴史観を提示する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

野口/悠紀雄
1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業。64年大蔵省入省。72年エール大学Ph.D.(経済学博士号)取得。
一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、スタンフォード大学客員教授などを経て、2005年より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。
専攻はファイナンス理論、日本経済論。主著として『財政危機の構造』(80年サントリー学芸賞)、『バブルの経済学』(93年吉野作造賞)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 

のぐちゆきおは1940年(東京)生まれ。日比谷高校を経て、東京大学工学部卒(63年23歳)。
大学院を中退し、大蔵省入省(64年)。UCLAでMaster(経済学)取得。イェール大学にてPh.D取得(72年32歳)。ってことは、「博士」じゃないんだ・・・。埼玉大学に出向し(74年)、一橋大学に移籍(78年38歳)。専攻は日本経済論、ファイナンス理論。
一橋大学教授、東京大学教授、青山学院大学大学院教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学教授を経て、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問、一橋大学名誉教授。行政法学者の野口貴公美一橋大学教授は実子。著書は山ほどある。そのうち20冊近くが、サントリー学芸賞やら何やらの賞を受賞している。はっきり言って、当代一の知識人。『「超」勉強法』で紹介されている「数学は暗記だ」を真に受けて、中流大卒の教員や塾講師がそう教えているのを見てると、マジで腹が立つ。本書は68歳の時の作品。わ、還暦過ぎてほぼ70歳・・・。

第1章 焦土からの復活
第2章 高度成長の土台を作る
第3章 高度成長
第4章 国際的地位の向上
第5章 石油ショック
第6章 バブル
第7章 バブル崩壊
第8章 金融危機
第9章 未来に向けて

あれ? 3.5章「低成長時代」がない・・・。本書は、標準的な見解、つまり「戦後の日本は、占領軍によって導入された経済民主化改革----農地改革、財閥解体、労働立法---によって出発した」とするものだが、著者の見立てによれば、「戦後の日本経済は、戦時期に確立された経済制度の上に築かれた」ことを主張する(「1940年体制」)。

定説に異を唱える論者として、野口はすべての資格を備えている。それを眺める外野の無能エコノミストには快哉を叫ぶほかない。外野の外野たるゆえんだ。とりあえず、著者によれば、軍需省から商工省(をへて通商産業省を通過して現・経済産業省)に数週間で看板を掛け替えて、ほぼ無傷で生き残ったらしい。
ほかにも、ほぼ無傷で生き残った、英語使いに事欠かかなかった外務省とは対象的に、文部省(現・文科省)の官僚どもは、ろくすっぽ英語が喋れなかったらしく、徹底的に換骨奪胎されたみたい。
そのせいで教科書の黒塗りまでやられたらしい。2010年代後半から4技能を叫んで教員を扇動している現下の文科省の政策転換は、過去へのルサンチマンか?(笑)  日本経団連さえ、戦時の統制会の上部組織が看板を掛け替えただけらしい。要するに、1940年代に出来上がった行政組織がそのまま生き残ったというわけだ。
高校社会科で教えられているシャウプ税制勧告やドッジラインなどの政策さえも大蔵省が黒子として演出していたと著者はいう。ドッジラインの説明で日本が「竹馬」に乗っているとすることがあるが、ドッジが「竹馬」の例を使うだろうかと著者が訝しむのには納得がいく。

しかも、アメリカ人は、日本のことをろくすっぽ知らなかった。ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』とルース・ベネディクト『菊と刀』でしか、日本を知る情報源がなかったからというのだ。ホントかね・・・。

「日本の現在の株価指数は[バブルピークの]1991年の7割程度でしかないが、アメリカの株価指数はこの期間に5倍に上昇した」(5頁)。

結論として、著者は「1940年体制」つまり現行の行政制度(官僚組織)を解体(脱構築?)すべきだと説いているとしか思えない。

これで思い出したのは、中野『国力とは何か―経済ナショナリズムの理論と政策 』の立論。野口も中野も官僚(だったの)だ。国富造成には、中野は 官僚に守られた保護主義こそが、野口は自由主義こそが、と考えていることになる。

どっちが正しいかなんて外野の僕にわかるもんか。
 
 
実質的には社会主義国家である日本の経済システムが今の時代に合わなくなっているのは疑うべきもない事実だが、そのような社会主義国家が戦時中につくられたものであることを認識させてくれる。この本を読めば「日本的経営」が別に日本の社会にもともと合うというものではなく、戦時中の1940年代の軍事国家のもとで形成されていったものであるということが理解できる。
著者の歴史観が決定論的なところはNarrative Fallacy, Hindsight Biasに陥っていると感じるが、この本の最も重要な主張を毀損するものではない。
社会主義が現代社会に合わないことにもふれられているが、この点に関してはEdgar E. Petersの"Complexity, Risk, and Financial Markets"も複雑系の視点からこのことを論じてあり、参考になる。
 
  
 当書は、著者の野口悠紀雄・早稲田大学教授が、大蔵官僚時代の体験等も重ね合わせつつ著述した戦後日本の経済の歴史であり、学術的な戦後経済史というよりも、著者の問題意識を背景としたエッセー風の読み物として目を通してもよいだろう。因みに、「戦後レジュームからの脱却」を“一枚看板”にしていた安倍晋三・前首相と、彼の尊敬する祖父・岸信介との「皮肉なめぐり合わせ」(本書)などに関しては、岸らの所為を描いた小林英夫『満州と自民党』(新潮新書)等が傍証になる。

 さて、上述の著者の問題意識(歴史認識)については、1995年に刊行された『1940年体制−さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社)で詳説されており、その中で著者は「現在の日本経済を構成する主要な要素は、戦時期に作られた」(前掲書)と仮説する。それを「1940年体制」と名付け、この著作の主題である「日本の戦後経済は、戦時中に作られた経済体制の上に築かれた」(本書)とし、「ソ連や中国よりはるかに効率のよい社会主義経済ができあがった」(同)とみる。

 具体的には、日本型労使慣行等に代表される企業統治、統制的な間接金融システム、中央官僚の思想的基盤、直接税中心の税体系、年金制度、都市・農村の土地制度などが「総力戦遂行のための1940年体制」(戦時総力戦体制)として確立され、これらが終戦(敗戦)を潜り抜け、あるいは看板を書き換え、断絶することなしに高度経済成長等で象徴される「戦後日本」の経済社会を構築し、世界でも稀にみる「平等社会」を実現した、と論断する。

 著者は「冷戦が終結したいま、日本はキューバと並んで、世界最後の社会主義国になっている」(同)とまで辛口を叩くのだが、この論判に対する読者の評価は微妙であろう。さらに、著者の「技術が経済制度を決める」という前提に立つとき、バブル崩壊で制度疲労気味の日本型「戦時経済体制」は、IT革命などによって変容する経済社会に適応障害を来しているかもしれない。しかし、小手先での弥縫策は難しいものの、「遺制」の全てを「市場」に捧げることも、これまた躊躇されよう。
 
 
戦後の経済学の解説。

野口さんの切り口は、いつも首尾一貫している。とにかく市場を重視し、官はなにもやるな、という考え。それが戦後の経済史を解説しながらも伝わってくる。
昔よりも官が市場に口出し過ぎと感じていたが、これを読むと、昔からそうだったのだと気づかせてもらった。
 

GHQの財閥解体などが中途半端だったため、新聞も放送局も銀行も戦前大企業が残存し、「護送船団」な80年代の日本型経営への成功要素が温存された
それと同時にインフレによって戦前の資産層・地主が解体し、誰もがJapanese Dreamで裕福になれる平等社会を志向できた

企業の不平等(≒資産の温存)と個人の平等(≒上昇インセンティブ)という2つのドライブが戦後日本経済の大成長を演出した、という切り口が分かりやすく、また同時にそれが90年代の「社員のなれのはてとしての社長」として未熟な経営者を育てた負の部分にもつながる

わかりやすく戦後経済が俯瞰できる
 
 
1940年体制論のサブテキスト
 
 
翼賛体制(著者の言う1940年体制はその部分集合)が戦後日本経済の基盤となった、という野口教授年来の主張は『1940年体制』(2010年増補版、2002年新版、1995年初版)に就くに如くはないが、同じトピックを読み切り連載で気軽に読むのも主著の理解を助ける。それにしても前の方が言われるように 

>週刊新潮の連載をまとめた本だが日本の週刊誌の水準の高さ(幅の広さ?)にも驚かされる。

さらに言えば連載の舞台である週刊新潮は経済専門誌のエコノミストでも週刊ダイヤモンドでもなく、もっぱら文春砲のライバルとして知られる週刊誌界で発行部数首位を争う一般向けの「日本の週刊誌」である点を思い、改めて編集部に敬意を表したい。
 
 

 

 

 

 
 

憲法と君たち

2023年05月03日 08時17分03秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 佐藤 功 (著), 木村 草太 (著)
 
日本国憲法がまだ「新憲法」と呼ばれていた60年前。
「憲法の生みの親」が、子どもたちに一冊の本を残していた。
憲法の原理と精神をやさしく語り掛けるように解説し、「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」と呼び掛ける本だった。
日本国憲法が誕生して70年の今、気鋭の憲法学者・木村草太首都大学東京教授の解説を付け、幻の名著を「復刻新装版」として刊行!

憲法を知りたいすべての子どもたちと、
憲法が気になるすべての大人たちへ。

著者の佐藤功(1915-2006年)は、若いころ内閣法制局参事官などとして憲法の制定に関わり、後に上智大学などで教鞭をとった憲法学の権威です。

この本で佐藤功は、憲法というものが、人間の歴史の中でどのようにして作られ、なぜ大切にしなければならないのかを、やさしく語り掛けるように書いています。
圧巻は最終章の「憲法を守るということ」です。「へりくつをつけて、実は憲法に反するような法律が作られることがある」ことを説き、国民が憲法の最後の番人にならなければいけないと訴えています。

この本が書かれた1955年は、東西の冷戦が激しさを増し、改憲を求める声が高まっていました。
時代背景は異なりますが、再び改憲が現実的になっている今、本書は改めて読まれる価値があると考えます。

巻末の解説で、木村草太氏は書いています。
「この本が書かれてから60年が経ったいま、憲法は、新たな困難にぶつかっています。
それは、憲法の大切さを訴える言葉がどこか上滑りして感じられる、という困難です。
…『憲法は大切だ』とか、『人権と民主主義を大切にしましょう』と言われたところで、何のために
そんなことを言っているのか実感を持てません。…しかし、『国家権力は二度と国民を裏切らない』と
高をくくるのは、とても危険です。…『憲法と君たち』という本を読むときには、佐藤功は何と戦うために
この本を書いたのかを想像してみてください」
 
憲法のめざす理想は「平和ということ、民主主義といことと、国民の基本的人権ということの三つなのだ」。
 

内容(「BOOK」データベースより)

改憲か護憲かで揺れていた1955年。若き憲法学者が、子どもたちに向けて一冊の本を残していた。人間の歴史の中で、憲法は何のために、どのようにして作られてきたのか。そして、なぜ大切にしなければならないのか。憲法の本質を、やさしく語り掛けるように解説。憲法制定に関わった著者が贈る子どもたちへのメッセージ。60年ぶりの名著復刻!

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

佐藤/功
1915年3月29日~2006年6月17日。京都市出身。東京帝国大学法学部で憲法学を学び、同学部助手。兵役で2年間にわたり中国北部を転戦した後、研究生活に復帰。
戦後は、政府の設置した憲法問題調査委員会の補助員や内閣法制局参事官として、日本国憲法の制定作業を支えた。その後、行政管理庁勤務を経て、成蹊大学、上智大学、東海大学の教授を歴任。上智大学名誉教授。文化功労者

木村/草太
1980年、横浜市生まれ。東京大学法学部卒業、同助手を経て、首都大学東京法学系教授。憲法学専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
日本国憲法の制定に実際に関わった学者の言葉には説得力があります。
権力者から国民を守るために憲法があること、つまり立憲主義を平易に説明してくれています。また、日本国憲法が"押しつけ憲法"ではないことは、本書を読めば明白です。
憲法審査会が再開されましたが、この本を読んで議員の言動を注視しましょう。それぞれの議員の知性・教養・器量が分かると思います。
例えば、神話まで持ち出す自民党議員の発言には正直驚きましたが、憲法に関する基本的な知識や常識など持ち合わせていないことは明白です。このような議員集団が憲法改正を主張していることが非常に怖いです。『憲法改正誓いの儀式』あるいは『日本会議 動画 憲法改正 人権削除』でググると、色々な動画が見れます。「国民主権、基本的人権、平和主義を削除しよう」など、民主主義国家の政治家の発言とは思えない、自民党議員のとんでも発言が多く聞けます。
安倍首相もこの場に同席していることが分かります。どういう意図で、憲法改正を目論んでいるかは明白です。しかし、自分たちが敵と見ている某共産国家の独裁者と同じという矛盾に気づかないようです。鏡に映る自分に吠える理性・知性のない狂犬と同じで、自己矛盾に気が付かないことほど恥ずかしいものはないと思いますが。
自民党憲法改正草案は、立憲主義とは真逆の論理で作られており、法学の専門家が関わって作成したものとは言えない代物です。もし、これに法学の専門家が関わっていたというのであれば、その専門家は法学の基礎を理解しているのかすら疑わしいです。
それに対し、日本国憲法を作成したGHQメンバーには法学の大学教授が多数いましたが、日本国憲法の内容から立憲主義などの法学的基礎をを理解していることは明らかで、自民党憲法改正草案を作成したメンバーよりも理論・知識がしっかりしていることが分かります。「日本国憲法を作成したGHQメンバーに専門家がいなかった」という理由で憲法改正を主張し、自民党憲法改正草案を持ち出すことは、改憲論者の自己矛盾でしかありません。改憲論者が自説の主張に筋を通すのであれば、自民党憲法改正草案を破棄し、立憲主義に基づいていると専門家が認める改憲草案を再提出すべきです。

追記;
憲法改正により、戦前回帰した場合、不幸な思いをするのは庶民であり、それは安倍政権を支持していても支持していなくても同じです。それに反して、安部内閣や日本会議の幹部たちは、決して悲しい思いをすることはないのです。太平洋戦争を起こした東条内閣が、卑怯にもそれを実践して証明しているように、戦争を起こした政治家やその家族・子供は、決して前線には行かなくていいのです。
他人の子供の命を使って軍功を上げることで、自分たちだけ特権階級になることを望んでいるのです。それが彼らが望む戦前回帰・明治憲法復古の本質です。安倍晋三記念小学校の問題は、こうなることを正に示唆しています。

特に、若い人、小さい子供を持っている人、女性には、憲法改正についてはよくよく考えて欲しいです。安倍内閣の下で憲法改正を行えば、自分自身、自分の子供、自分の恋人が徴兵され、戦地で命を落とすことになるかもしれないのです。
太平洋戦争中に勇ましいことを主張して特攻兵器や特攻攻撃を考案した者は軍神などとして特別扱いされましたが、それらの特攻攻撃で他の多くの兵士が命を落としたにも関わらず、そのような者のほとんどは終戦まで生き残っていて、中には名前を変えてまで生きていた人がいるのです。
現代でもそれは同じで、TV・ネット・本などで勇ましいことをいう反知性主義者や歴史修正主義者が多くいますが、彼らは自分自身は戦争に行かなくてもいいと思っているのです。
決して、そういう者に騙されて不幸な選択をしてはいけません。
イデオロギーとかの問題でなく、人としての良識問題として、安倍政権のもとでの憲法改正は阻止すべきです。2016年12月のFacebook世論調査が本当の国民の声です。良識ある大人の90%以上は味方ですので、怖がらず自信を持って安倍政権の憲法改正を阻止しましょう。
 
 

「改憲派と護憲派が激しく対立し、憲法をめぐる緊張関係が高まっていた(p.191、解説)」1955年に、憲法学の碩学が子供に向けて発したメッセージ。「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る。」というフレーズで始まり、閉じられるところからも、著者の意図ははっきりと伝わる。
 大憲章から権利章典に至るイギリス憲法史のなかで、清教徒革命は登場せず模範議会が登場するところに「へえ、そういう評価なのか」と思う。
 「(アメリカ)一三の植民地は、こうういうたいへんな困難と苦しみに打ち勝って、つまり自然やインディアンや病気などとの、はげしい戦いのなかでつくり上げられたものだったのだ(p.61)」「日本には二六〇〇年も前から、天皇という制度があった(p.102)」といった叙述を読むと、時代的制約を感じざるを得ないし、子ども向けということでどうしても説教臭さが出てしまうが、著者の憲法に関するメッセージは決して古びていない。木村草太の解説がいい。
 
 
 
日本国憲法はGHQに拠って押しつけられた物だととかく言われる。しかし実際にはGHQは最初は日本人に憲法草案を行わせた。しかしながら出来上がった草案は大日本帝国憲法と大差ない物であったため、マッカーサーはGHQで憲法草案を作成し、それを土台にして日本人の間で散々議論した結果として日本国憲法が日の目を見ることになった。だから日本国憲法は決してGHQが作成した草案の横書きを単に翻訳して縦書きにした物ではない。
日本国憲法には大日本帝国憲法には記載の無かった、基本的人権の尊重、男女平等、恒久平和の追求、交戦権の放棄など戦前の日本人には到底得られなかった権利の保持が明記されている。特に本書の中でも特記されているが交戦権の放棄は米国を含め世界の他の国には見られない素晴らしい条文を含んでいる。
現在、自民・公明・維新・こころの政党が数の力を利して、この平和憲法を改悪しようとしている。
まずは駆けつけ警護の様な交戦権の放棄を願う憲法の理念に反した法律が作られている。憲法に反する法律は本来作られないはずであるが、その理念は歪んだ論理で曲げられている。
衆院・参院で改憲発議に必要な2/3以上の議席を得ることになった。後は国民投票で過半数の賛成が得られれば日本国憲法は大日本帝国憲法の様な国民の権利を無視する憲法に戻ることになる。
昭和21年に公布された現在の日本国憲法はベビーブーマー世代の昭和22-24年生まれの世代の成長と伴に戦後の70年を生きてきた。ベビーブーマー世代に顕著に見られるのは、男女平等の考えが実質的にも学校など公の場で結実したことである。男女は教室で並んで座り、フォークダンスを通して日本人に男女平等の大切さを教えた。そのことは日本国憲法が日本国民に希求したことである。
だから我々は我々を70年間守ってくれた憲法を死守しなければならない。なぜなら憲法が我々を守ってくれたのであるから。それが本書に記された憲法は君たちを守る、君たちは憲法を守るという一文に結実している。
 
世界に誇れ憲法
 
戦争を知らない政治家たちにお薦メしたい一冊。安易に改憲を口にする前にお読み頂きたい。
 
 
日本憲法改悪への危惧
 
日本国憲法はGHQに拠って押しつけられた物だととかく言われる。しかし実際にはGHQは最初は日本人に憲法草案を行わせた。
しかしながら出来上がった草案は大日本帝国憲法と大差ない物であったため、マッカーサーはGHQで憲法草案を作成し、それを土台にして日本人の間で散々議論した結果として日本国憲法が日の目を見ることになった。
だから日本国憲法は決してGHQが作成した草案の横書きを単に翻訳して縦書きにした物ではない。
日本国憲法には大日本帝国憲法には記載の無かった、基本的人権の尊重、男女平等、恒久平和の追求、交戦権の放棄など戦前の日本人には到底得られなかった権利の保持が明記されている。
特に本書の中でも特記されているが交戦権の放棄は米国を含め世界の他の国には見られない素晴らしい条文を含んでいる。
現在、自民・公明・維新・こころの政党が数の力を利して、この平和憲法を改悪しようとしている。
まずは駆けつけ警護の様な交戦権の放棄を願う憲法の理念に反した法律が作られている。憲法に反する法律は本来作られないはずであるが、その理念は歪んだ論理で曲げられている。
衆院・参院で改憲発議に必要な2/3以上の議席を得ることになった。後は国民投票で過半数の賛成が得られれば日本国憲法は大日本帝国憲法の様な国民の権利を無視する憲法に戻ることになる。
昭和21年に公布された現在の日本国憲法はベビーブーマー世代の昭和22-24年生まれの世代の成長と伴に戦後の70年を生きてきた。ベビーブーマー世代に顕著に見られるのは、男女平等の考えが実質的にも学校など公の場で結実したことである。男女は教室で並んで座り、フォークダンスを通して日本人に男女平等の大切さを教えた。そのことは日本国憲法が日本国民に希求したことである。
だから我々は我々を70年間守ってくれた憲法を死守しなければならない。なぜなら憲法が我々を守ってくれたのであるから。それが本書に記された憲法は君たちを守る、君たちは憲法を守るという一文に結実している。
 
 
皆に読んでもらいたい

文体は昭和の香、中身は永遠の価値。この本をみんなに読んでもらいたいです。そして安倍晋三によって危険な状況にある憲法を守る人たちを増やしたい。
 
 
心から感動しました。今読みたい本です。50年前に書かれた本というよりは、昨日書かれたかのような新鮮な驚き。
「いまの日本の憲法の中で誇ってよいことはまさにここにあるのだ。基本的人権とか民主主義とかいうことはこれは今まで日本が遅れていただけのことなのだ。だけど平和だけは違う。ほかの国が日本よりもおくれているのだ。他の国が、その点では日本のまねをしなければならないことなのだ。それが今の憲法の中で一番わたしたちが、君たちが世界に向かってほこってよいことじゃないだろうか。」
 
今の日本の憲法が他の国より進んでいる?

護憲論者がよく言うことですが、
だったら、アメリカをはじめとする他の国に日本国憲法の素晴らしさを訴えていけば良い。
国家まえでデモをするのではなくて、
戦争をしている国を訪れて日本国憲法の素晴らしさを説くべきでしょう。

この本が出版されてから随分経っているのに
他国が一向にこの憲法を真似しようとしないのは何故?

冷静に考えれば、[私たちは攻撃を受けても必要最低限の反撃しかしませんよ]と明言している抑止のかけらもない憲法を他の国は真似したいとは思わないでしょう。

平和の脆さについて言及していますが、
日本国憲法のような文言があれば、
その平和は保たれるんでしょうか?

日本の平和が保たれてきたのは、
決して憲法のおかげじゃない。

平和である為には、
戦争が起こらないようにする為には
憲法にすがるのではなく、現実を直視して、
もっともっと多角的に物事を考えないとダメだと思います。

平和憲法なんかじゃ、絶対に平和は守れません。
 
 
 
 


創作 現在・過去・未来 続編 21

2023年05月03日 03時43分23秒 | 創作欄

牛田幸作は、遊郭で好んだのが、水揚げだったのだ。

「お前は、どこの生まれだ」日本酒の酌をさせながら、芸妓に聞く。

「山形です」あどけなさが残った16歳の米子は俯きかげに答えた。

突然、嫁の鶴子に去られて幸作は、後日、米子の旦那となるのだ。

「お前が鶴子をどこかに、逃がしたにちがいない。鶴子はどこにに居るんだ」いきなり幸作は妻を蹴り倒したのだ。

「私は何も知りません。実家の母が倒れたと、知らせがあり屋敷を留守にしていました」身を起こして、あくまでも白を切った。

「本当なのか?どうなんだ!」幸作は猜疑心を募らせ、起き上がろうとした妻を2、3度と蹴りつける。

そこへ母親の照子がやってきたのだ。

「幸作、また、お前は朝帰りかい。女遊びもほどほどにせよ!」照子は和服の帯に秘めた守り刀の鞘を握りしめ不肖の息子を睨み据える。

痛いところを突かれて、さすがの息子も自分居間へ退散する。

 

参考

水揚げとは、遊女の場合禿(かむろ)が新造を経て一人前のお披露目をした後初めて客と同衾することであった。

この水揚げを通して、遊女は一人前となり事実上お客をとるようになる。

芸妓の場合はそれまでの年少芸妓、見習い芸妓の立場から、一人前の芸妓になる通過儀礼的な側面が強かった。

それに続いて特定の旦那を持つ、という段階を踏むことが多かった。

水揚げに選ばれる客は、その道に熟達した通人(つうじん)の中から特に財力の豊かな者が、抱主の依頼に応じたり、その承認のもとに自薦したりしてこの任に当たるのが常であった。

上田は真田昌幸により天正 11年 (西暦 1583年 )頃始まったの上田築城の城下町として形成され、出沢川が町の北部外濠としてあった。

上田遊廓は明治 11年に許可が下り、開業は明治 15年である。

そして昭和 18年にその幕を閉じたが、この間 65年にわたって公娼制度が維持されたのである。

上田遊廓は明治11年に許可が下り、開業は明治15年である。そして昭和18年にその幕を閉じたが、この間65年にわたって公娼制度が維持されたのである。
明治政府が租税増収の方法として考えた政策が全国的な廓設置であり、上田町郊外の常盤城村新屋(新地と呼ばれた)につくられた。

廃藩置県により上田城の櫓二基が競売で遊廓に移転し金秋楼と萬豊楼として営業された。

妓楼になったのは時代の変転を象徴する事象であった。

ともあれ一般には公認の娯楽施設として歓迎され、地元の繁栄にも寄与したことは事実である。

出沢川が町の北部外濠としてあったので、その外に町が拡大することは容易ではなかった。
川向こうには西の入口の新町に向原寺が、その東方にはハ幡神社、海禅寺、呈蓮寺、大神宮、大輪寺と大きい社寺が並んでいるだけで一面水田であり畑であった。
大正9年になって新地に行く自動車道の必要からハ幡前から花園町が開け、下紺屋町にも通じ、その入口に花園鉱泉ができた。

昭和7年に従来の北国街道(西脇、鎌原、紺屋町、柳町の通り)が矢出沢川をこえて北側に新たに開通し、それが鈴蘭通りの北端で十字路となったことである(東方は川原柳に通じて従来の上州街道に代わった)。

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 大正の後期から昭和初期の日本の農村では極貧のために、娘が売られていた。

冷夏が続き、北海道・東北地方を中心に歴史的な大凶作となった。

 冷害と農業恐慌で、それまでと比べて数字が跳ね上がったという点こそが、惨状の深刻さをしめしており、 その時代の様相をあらわしている深刻な歴史的事実。

下手をすると平年作の50%を割るような年が立て続けに起こった。
米は取れず、出稼ぎに行こうにも都会は大不況の真っ只中というわけで、娘を売るしかないという状況だった。

この苦境に対して政府や政治家があまりにも無策だという強い不満が、その後の軍国主義的な政治につながっていく。
世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。
重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。

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「売り娘の四割が東北・北海道」
-農村から売られて行く者は最近、非常に多くて一年間に全国を通じて最低四万人と見られている。

そしてこのうちの六五〇〇人以上は、実に、東北六県と北海道の娘たちだとされている。

現在、東京には七〇〇六人の娼妓がいるが、その出身地を見ると、山形八七六、秋田七一〇、青森二八四、福島五一八、宮城三六三、岩手一三一、北海道三七三で、実に四割六分以上を、東北六県と北海道だけで占めている。

そしてこの数は、大正十三年(一九二四)当時と比ベて三割三分も増えている。

『哀れ! 娘六百人』-極度に疲弊困憊(こんぱい)した農山漁村では、草の根、木の皮を食し、辛うじて露命をつないでいる状態である。

悲惨なのは、長年、手塩にかけて育ててきた子女を、芸妓、酌婦、女給、仲居、甚だしきは遊女として身売りに出し、わずかな金に代えようとする者があり、その哀話も少なくない。

北海道庁の社会課が本年一月から七月までのこれら人身売買、または類似行為に関して調査集計した結果、六〇六件の多数に上り、その前借の総額は6万4478円、平均で一106円で売買されており、農山漁村が文字どおり餓死線上をさまよいいつつある」(『北海タイムス』1932・7・28)

 

『秋田県では、女子青年団連合会が娘たちの離村情況とその原因の調査によると、昭和六年(一九三一)の末現在、秋田市を除く九郡における十三歳以上二十五歳未満の女子の離村数は九四七三人。その仕事先の内訳を見ると、

▽子守女中が四二七一人(四割五分)、▽女工が二六八二(二割八分)、▽醜業婦が一三八三人(一割五分)、▽その他。醜業婦とは、戦前、主として体を売る仕事に身を沈める女性たもちを指して、官公庁などで使っていた言葉である。

 次に昭和六年の一年間における離村情況を見ると、総数が二三〇〇人で、うち、醜業婦が二〇九人となっている。つまり醜業婦でいうと一三八三人の中の二〇九人が、この年、新たに身を沈めた女性たちということになる。 なお三一八三人の醜業婦について見ると「最初から親も承知、自分もそのつもりで出たのが一〇六二人だが、女中や子守のつもりで出たのに、親はもちろん、本人も知らない間に、いつか誰かの手によって、魔の淵に突き落とされた者が一六〇人、女工のつもりだった者が一〇三人」(『大阪朝日』1932・6・15)。

「青森県で半年間に三百名-凶作激甚県である青森県下の農村は全くどん底生活で、哀話は数知れない。農村では婦女子の売買が行なわれ、これらはいずれも周旋屋の手によって魔窟に売り飛ばされている。人道上、許すべからざることなので、警察でも調査を進めているが、それによると・昭和七年(一九三二)の一月一日から六月までのその数は三〇〇人に上り、うち、芸妓、酌婦は実に二〇

〇人を超え、他は女工その他で、関東、関西、遠くは「満州」方面にまで売り飛ばされ、苦界に泣いている者のあることが分かった」 (『時事新報』青森版一九三二・七・一五)

「売り娘の四割が東北・北海道」
-農村から売られて行く者は最近、非常に多くて一年間に全国を通じて最低四万人と見られている。

そしてこのうちの六五〇〇人以上は、実に、東北六県と北海道の娘たちだとされている。

現在、東京には七〇〇六人の娼妓がいるが、その出身地を見ると、山形八七六、秋田七一〇、青森二八四、福島五一八、宮城三六三、岩手一三一、北海道三七三で、実に四割六分以上を、東北六県と北海道だけで占めている。

そしてこの数は、大正十三年(一九二四)当時と比ベて三割三分も増えている。

いかに農村が長い間苦しみ続けてきたか、この一事だけでも分かる。さらに、これを新しい内務省の調べによって、現在、以上の農村から、何人ぐらい売られて来ているかを見ると、娼妓だけでも山形二三四九人、秋田一六六四人、青森一一九三人、福島一二八九人、宮城九五三人、岩手三九七人、北海道一八九一で、1万人に近い。これに酌婦を加えたら二万四、五〇〇〇人は超えるだろう。

この中でも山形県は、数字が示しているように、最も多い。同県の〇〇村だかは、戸数七〇〇戸の貧農村で、ここからは三〇〇人の娘たちが売られて行ったといわれているー娘を売るのが罪悪感の問題ではない。

そうしなければ当面の生活が維持できないのである。前借もこれに応じて、この頃はガタ落ち。娼妓では年期明けまで最高二〇〇〇円どまり、平均の一〇五〇円、それも、ごく美人でなければならないという。

前借金の少ないのは四〇〇円ぐらいである。

酌婦はさらに低く、二五〇円が精いっぱいというところらしい。しかし、ガタ落ちしたとはいえ、酌婦から見ると、娼妓はまだ前借がきく。

 では、なぜ、前借の少ない酌婦ではなく娼妓に売らないのか。

娼妓は満十八歳にならないと許可されない。しかし、それまで待つことができない。

ところが、地方では満十六歳から酌婦になれる。

そこで、金は少ないが18歳になるのを待ちかねて、まず酌婦に売って肥料代などの借金の利払いをし、次いで十八歳になってから娼妓にして、まとまった前借で負債の整理をするということらしい。娼妓になった者の経歴を調べてみると、それがよく分かる。「親出」といって、農村から直接、遊廓に来る者は少なく、大概は酌婦としての経路を辿っている。

芸妓、娼妓、酌婦を取り扱う公認の紹介業者は、東京に210人、全国では300人がいて、昔は、地方の紹介業者と連絡をとって東京から買い出しに行くか、あるいは誘拐されて来る娘を買っていたが、この頃は、娘を売る農家が激増するとともに、地方に公認、あるいは潜りの周旋業者がたくさん出来て、農村から、わずかの前借金で集めた一〇人ぐらいをひとまとめにして、東京に売り込みに来るようになった。それも、これもみな農村の惨苦を語る一つの事実である」(『東京日日』1932・6・17)

 

下手をすると平年作の50%を割るような年が立て続けに起こった。
米は取れず、出稼ぎに行こうにも都会は大不況の真っ只中というわけで、娘を売るしかないという状況でした。 この苦境に対して政府や政治家があまりにも無策だという強い不満が、その後の軍国主義的な政治につながっていく。
世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。
重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。
「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7083人に達した」。
山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです」と書いた

昭和初期の日本の農村では極貧の為、娘が売られていた。娘を売るのは最下層で、割合としてはそれぼど高くないのは、あたりまえのことで、 冷害と農業恐慌で、それまでと比べて数字が跳ね上がったという点こそが、惨状の深刻さをしめしており、 その時代の様相をあらわしている深刻な歴史的事実です。