利根輪太郎の競輪人間学 策がない

2023年05月07日 18時10分43秒 | 未来予測研究会の掲示板

偶然、行きのバス(午後2時40分)で出会った人に、帰りのバス(午後5時)でも同席した。

「1-9を2万円買ったんだ。八百長だな」と脇本選手のレース運びを批判する。

「そう、あの走りは、納得できない」と利根輪太郎もうなずく。

愚痴でしかない、多くの競輪ファンたちの声を代弁するのだ。

競輪には絶対はないのだから、競輪ファンたちも策がないといも言えるだろう。

GⅠ 平塚競輪   日本選手権競輪

最終日(5月7日)

11レース

並び予想 1-9 5-2-6 4(単騎) 7-3-8

レース評

脇本の準決の走りを見てしまえば連覇が妥当。番手の古性は差し込めればダービー初V。別線勢は打倒・脇本へ策を講じたい。

 

輪太郎は、1-3 3-1 1-4 4-1の3連単で勝負していた。

1番人気 1-9(2・9倍)

1-9 9-1で決まったらしょうがない、と腹を括る。

だが、結果は縦目の4-3となる。

それにしても、山口 拳矢選手の快挙であった。

結果 4-3 4,640円(17番人気) 4-3-2 2万640円(69番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 4 山口 拳矢   11.6    
× 2 3 清水 裕友 1/8車輪 11.9    
3 2 佐藤 慎太郎 1/2車身 11.5      
4 8 香川 雄介 1/8車輪 11.8      
5 9 古性 優作 1/2車輪 11.0      
6 5 新山 響平 1車身 11.7      
7 1 脇本 雄太 3/4車身 11.3      
  8 6 和田 圭 4車身 11.9      
  9 7 犬伏 湧也 大差     B

戦い終わって

戦い終わって写真

 前を取ったのは脇本雄太。以下古性優作―新山響平―佐藤慎太郎―和田圭―犬伏湧也―清水裕友―山口拳矢の順で周回を重ねる。赤板前、脇本が車間空けて牽制し、犬伏が赤板過ぎに出て思い切り仕掛け、車間空けて新山が、さらに後方に脇本が続く形となった。バックでは新山が捲りに出るも、清水が番手から発進。切り替えた佐藤が中を伸びてくるも、その外を山口が突き抜けてダービー王となった。
 「レースはあの並びになった時点で犬伏君が主導権を握るのかなと。そのラインの後ろからという感じでした。もう後ろの様子はわからず、前だけを見ていました。二コーナーでは行けたと思ったのですが、清水さんが出て行ったのが見えたので、かぶる前には行こうと。意外と感触が良かったので良い所から踏めたけど、慎太郎さんにブロックもらってスリップした感じだったので。でも距離も短かったしとりあえずもう一回踏んでと。抜いた感触はあったけどビジョンを見て自分が(映像に)抜かれていたので、そこで確信した感じです。自分が特別を勝ったという衝撃が大きくて、感情が追いついていないです。(今後は)もちろん他の特別もそうですが、グランプリ確定したのでそこを目標に。次は(5月18日からの玉野)F1だけどレースを走りながら調子を維持できたら良いなと思っています」。

二着に入ったのは犬伏の番手から出た清水。悔しいレースとなった。「(犬伏が)あれだけ行ってくれたのに申し訳ない。頑張ってくれて強かったけど正直直線で一杯。パコりました。影が見えなくて最後の最後にやられた。去年の事を思えば変化もあったし緊張もした。GⅠの決勝で中四国の後輩と連係して勝ちきれずに期待に応えられなかったのは悔しいです」。

三着は切り替えて突っ込んだ佐藤。存在感を見せ付けるレースだった。「清水が強かったし、犬伏もカカってた。それに新山君も勝ちに行くレースをしたからね。脇本君を意識したうえで。想定通りの展開にはなったんですけど、弱かったですね。あのコースなら脚があったら優勝まであった。最後は脚力の問題。ぎりぎりの状態で余裕無く戦っている感じ。101%の力で戦っているので。もう時間もそんなに残されていないし、残された時間を集中していくしか。でも力を出し切れなかった悔しさじゃなく、出し切った上での悔しさなので。次のモチベーションにはなりますね」。

 


知恵は幸福をもたすことができる

2023年05月07日 11時51分22秒 | その気になる言葉

▼生命と満足の秘訣は、どんな変化があろうとも、今日こそ最良の一日にしようという勇気と信念をもって、新しい日々を始めることですー作家・パール・バック

▼もし我々年長者が、バック夫人のごとき勇気を示せば、おそらく次の世代の人々は、我が国を真の民主主義国家にする勇気を持つことでしょう―エレノア・ルーズベルト大統領夫人

▼最も大きな苦しみを乗り越えた人は最も大きな境涯を開き、最も大きな幸福を広げゆく人だ。

娘に重い知的障害があることが判明して、そこからパール・バックの苦悩の人生が始まった。

だが、歳月を経て、彼女は徐々に「悲しみとの融和の道程」を歩み出し、事実をあるがままに受け入れていく。

「これが、わたしの人生なんだ。わたしはそれを生きぬかなくてはならないのだ」と。

そして、娘の存在に深い意味を見出し、後の文学活動と平和運動の力へと変えていったのである。

「人はすべての人間として平等であること、また人はみな同じ権利を持っていることをはっきり教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でした」

「ノーベル賞は、この娘が与えてくれた」

その後、人種差別や男女格差の撤廃運動などに積極的に取り組むようになる。

▼「しなければならないことはすでに目の前にあります。チャンスがあなたを待ち受けているのです。いまこそ、女性が自分自身を考え、扉を開く時です」

「すべての活動になくてはならないのは、希望なのです!」

▼「悲しみが喜びをもたらすことはありませんが、その知恵は幸福をもたすことができるのです」逆境を勝ち越えた作家の深い言葉である。


新たな決意で新たな挑戦を始めることだ

2023年05月07日 11時51分22秒 | その気になる言葉

▼新しき時代は、新しき人材で決まる。

後継者をいかに育成するかである。

▼子どもを守るのは、家族だけではない。地域社会の大人の責務でもある。

▼子どもの声にならない声を聞き取るためには、「何としても、この子を守ってあげたい」という愛情の深さが重要である。

▼<老い>とは容姿の衰え以上に「勝負は終わってしまった、舞台はすっかり次の世代に移つた、といった気持つになっこことである―作家・アンドレ・モーロワ

▼新緑がもえ、生命が躍動する季節。

新たな決意で新たな挑戦を始めることだ。

▼自身の可能性―確信に立てば全てが軌道に乗るはず。


「命ほど大事なものはない」という理念を根底

2023年05月07日 11時51分22秒 | その気になる言葉

▼新しき時代は、新しき人材で決まる。

後継者をいかに育成するかである。

▼子どもを守るのは、家族だけではない。地域社会の大人の責務でもある。

▼子どもの声にならない声を聞き取るためには、「何としても、この子を守ってあげたい」という愛情の深さが重要である。

▼不安が渦巻く時代にあって、<希望の光源>となるのは、人と人の励しの絆である。

▼「命ほど大事なものはない」という理念を根底に据えて、一人でも多くの命を救う対策を練る。

今こそ、生活に根差した「災害文化」を育んでいかなければならない。


地球に幸福と平和の種を蒔く

2023年05月07日 10時43分01秒 | その気になる言葉

▼人々を幸福にしていく。

それが宗教的使命であろう。

▼「自分」と「他人」を切り離して考える、差別や対立の心を排していくことだ。

それは、人間が陥りやすい「自分中心」の心を乗り越えていく、不断の挑戦ともいえる。

自分と他人は互いに切り離すことができない関係であり、互いがかけがいのない存在として尊重し合うい、信頼し合うことで、使命を成し遂げていくことだ。

▼若者たちが「平和」をいかに維持し、達成していくのか、この「根本課題」を胸中深く持ちながら勉学に励み、成長していくことが期待される。

▼何のために学ぶのか、自分の使命とはなにか、目的を明確していくことだ。

▼生命尊厳の思想を基軸にして、目の前の「一人」を大切にし、どこまでも「一人」の可能性を信じ抜く。

▼あゆる差異を超えた人間の連帯を広げていく。

▼地球に幸福と平和の種を蒔くことだ。


失格でもいいじゃないか 太宰治の罪と愛

2023年05月07日 10時08分55秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
「生まれて、すいません」「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」「恥の多い生涯を送ってきました」
いくつかの盗作があり、薬物中毒者でもあり、心中事件を繰り返し、最後は妻子を残して愛人と38歳で入水心中を遂げた作家は、今なお多くの読者を惹きつけています。
三島由紀夫に毛嫌いされて、檀一雄を激怒させたが、それでも無視できない魅力を感じていました。
太宰は、ダメな人間であり、ダメな作家であったからこそ、その輝きが永続するのだと、著者は言います。
また、現代だからこそ、読まれるべき作家なのだとも。
太宰の作品が持っている、弱者に寄り添う独特な視線、未来志向とはほど遠い、退嬰的なあり方、自堕落なあり方は、私たちが弱々しく生きる自由があり、弱々しくしか生きられない私たちに寄り添う力があるのです。
弱い立場にあった(今なおある)「女」という存在を太宰はどう表現しているのかを、女言葉を使った作品の解読から読み解く「第一章 言語的異性装趣味 女生徒の見た世界」。
戦前・戦後を挟んで、人間でなかった天皇は、「人間」となりました。
第一章の議論を受けて、多くの周りの人々を喪失した経験を生き残り(サバイバー)として、生きながらえる時の罪悪感(ギルト)をどう捉えるのかという視点から、作品を読み解く「第二章 人間失格と人間宣言 太宰治と天皇」。
そして、「第三章 戦後の作家のサバイバル 太宰と三島」では、第二章の議論を受けて、二人の対照的な作家のあり方から、戦後日本における、生き方の困難への立ち向かい方を読み解いていきます。
作家太宰治の魅力を根本から問いなおす一冊です。

【目次より】
序 章 ふたつの失格
第一章 言語的異性装趣味 女生徒の見た世界
第二章 人間失格と人間宣言 太宰治と天皇
第三章 戦後の作家のサバイバル 太宰と三島
終 章 私的太宰治論あるいはすこし長いあとがき
ほんとうのおわりに

主要参考文献
初出一覧
 

著者について

千葉 一幹
1961年生まれ。大東文化大学教授。文芸評論家。東京大学文学部仏文科卒、同大学院比較文学比較文化修士課程修了、博士課程中退。群像新人文学賞受賞。島田謹二記念学藝賞受賞。
著書に、『賢治を探せ』『クリニック・クリティック 私批評宣言』『『銀河鉄道の夜』しあわせさがし』『宮沢賢治 すべてのさいはひをかけてねがふ』『現代文学は「震災の傷」を癒やせるか 3・11の衝撃とメランコリー』『コンテクストの読み方 コロナ時代の人文学』など、
共編著に、『名作はこのように始まる 1』(芳川泰久共編著) 『名作は隠れている』(千石英世共編)『日本文学の見取り図』(千葉一幹編著)などがある。
 
 

太宰というダメ人間が描く文学は、弱い人間に寄り添う優しさをもったものであるという作者の主張に共感を覚えた。
誰もが雄々しか生きられない、雄々しく生きているものも自分だけの力でそうなれたわけではなく多分に外部の環境によってそうなれている。
そう捉えると偶然の積み重ねで自分が強くあれただけで、自分も弱い人間だったのかもしれない。
あるいは弱い自分を受け入れることを拒んで虚勢を張って強く生きようとしているだけなのかもしれない。
太宰の文学を通して弱くいる自分を受け入れて良いと少し前向きになれる気がした。

他のレビューに作者の伝えたい内容がわからないとコメントがあったが、これだけ明快な論理で主張を理解できないのであれば著しい読解力不足では?と感じた。
 

太宰ファンの仲間におすすめしたい一冊だと思った!とにかく読んでみてほしい。
 

 

 

 

創作 現在・過去・未来 続編 23)

2023年05月07日 08時33分39秒 | 創作欄

鶴子は信越線の汽車の中で、隣り合わせた女性から声を掛けられた。

「どこまで、行くのですか?」笑顔が優しかった。

「東京です」鶴子は答えたものの、行き先は決まっていない。

相手の人は、和服姿の鶴子とは対称的で洋装であり、自分より5歳ほど年上に思われた。

「私は、宇都宮衛戌病院上山田転地療養所の看護婦でしたが、新宿戸山町の東京第一衛戍病院へ派遣されることになりました」

「そうですか、看護婦さんになるためには、どうすればいいのですか?」鶴子は興味を示した。

「私は博愛社病院で養成されました」

「そうですか」

「あなたが、看護婦になりたいのであれば、私が応援しますよ」親切な申し出であり、鶴子にとっては思わぬ助け舟であった。

「私は、牛田鶴子です」鶴子は心が開ける思いで笑顔となる

「私は山浦菊枝です。よろしくね」相手は握手を求めてきた。

とても柔らかい手の温もりであった。

汽笛が鶴子の前途を明るく告げるように鳴り渡った。

「あなた方は進歩し続けない限りは、退歩しているのです。目標を高く掲げなさい」看護学校の学生に贈ったナイチンゲールの言葉

「物事を始めるチャンスを、私は逃さない。
たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある」

進歩のない組織で持ちこたえたものはない

参考

「看護婦規則」(1915年6月30日内務省令発布,10月1日施行)は,看護婦資格を18歳以上で地方長官の免許を要すると規定した(第2条)。

取締りを意図した同規則において,資格取得は,1年以上看護の学術を修めて看護婦試験に合格するか,指定学校を卒業することが要件となった。ただし,各府県令による従来の資格を有し,現に営業している看護婦は,施行後3ヶ月以内に願い出ることによって無試験で免許を得られたから,1914年末に1万4,507人であった看護婦の数は,16年末に2万7,714人へと倍増したのである。 

日本赤十字社は、1877(明治10)年の西南戦争のさなかに設立された「博愛社」という救護団体が前身。

日本政府のジュネーブ条約(赤十字条約)加入翌年の1887(明治20)年、世界で19番目の赤十字社として正式に認められた。

日本赤十字社は、救護看護師を養成するため、明治19(1886)年に「博愛社病院(後の日本赤十字社病院、現日本赤十字社医療センター)」を設立した。

救護看護師の養成は、博愛社病院での養成開始に引き続き支部においても行なわれ、養成のための支部病院が次々と開設された。

日本赤十字社は昭和初期、入学資格を高等女学校卒業者として3年間の修業年限により救護看護師を養成していた。

しかし、日華事変の勃発以降、戦火が拡大するとともに救護看護師が次々と戦時救護に派遣され、その補充が急務となったため、養成についても戦時措置が取られた。

これまでの救護看護師の修業年限を半年短縮して2年半とする一方、太平洋戦争に突入した翌年の昭和17(1942)年には、高等小学校卒業者を入学資格として2年間の修業年限による「乙種救護看護婦」の養成も開始している(乙種に対して従来の救護看護師は「甲種看護婦」と称した)。